オレンジページnet
このブログは、
『オレンジページnet』の
オリジナルブログです。

『オレンジページnet』はこちら>>
 
profile:山本ふみこ
エッセイスト。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
profile:山本さんの本
おいしい くふう たのしい くふう おいしい くふう たのしい くふう
こぎれい、こざっぱり こぎれい、こざっぱり
人づきあい学習帖 人づきあい学習帖
親がしてやれることなんて、ほんの少し 親がしてやれることなんて、ほんの少し
おとな時間の、つくりかた おとな時間の、つくりかた
家族のさじかげん 家族のさじかげん
子どもと一緒に家のこと。 子どもと一緒に家のこと。
台所あいうえお 台所あいうえお
元気がでるふだんのごはん 元気がでるふだんのごはん
子どもと食べる毎日のごはん 子どもと食べる毎日のごはん
わたしの献立帖 わたしの献立帖
ココログ
あなたもココログをはじめてみませんか?
無料start
ココセレブ
●こちらもおすすめ!
 『オレンジページ』のブログ
オレンジ進行中
雑誌「オレンジページ」の編集長・杉森の日常をほぼリアルタイムで公開中!
渡辺葉 普段着のニューヨーク
エッセイストの渡辺葉さんが語る「ニューヨークの、ふつうの人々の、ごくふつうの暮らし」。
からだの本ネット日誌
オレンジページムック『からだの本』編集部がお送りする「元気になる! きれいになる!」ブログです。
はなのしごと
自分で育てた花をアレンジする。市村美佳子さんの「はなのしごと」。
『オレンジページnet』はこちら。

『オレンジページ』に関するご意見、お問い合わせはこちら。

2009年6月30日 (火)

文月 ———暦日記

一期一会

好きな男がいた。

 男のほうでもわたしを好いてくれ、わたしたちは、ともに生きる約束をしたのだった。これまで仕事ばかりしていたわたしは、ひとと話したり、散歩したりするのがたのしくてたまらない。

 このあたりいちばんの働き者、という評判だったから男も、わたしと出会うまで、仕事のほかを知らずに生きてきたのだろう。ふたりで見ること、ふたりで食べること、ふたりで話しながら、あるときはふたりして押し黙って歩きまわることは、こんなにもたのしいものなのか……。そういう、お互いだった。

 わたしも男も、いつしか仕事のことを忘れたようになっていく。心配した父からは、再三、仕事をするようにと忠告を受けた。

「はい、明日からきっと」

 と答えながら、やはり仕事をはじめる気にはならなかったのだ。そしてついには父が、というより運命が、ふたりを引き離してしまった。会えるのは、年に一度だけという達し。1 年に、1度だけ……。

                

                  *

 

 子どもだったわたしは、七夕のものがたりを、こんなふうに———つい、現在(いま)のわたしの脚色も加えてしまったが———わが身に置き換えた。わたしは、織姫(おりひめ)、こと座のベガ(※)である。織姫になって、哀しんだのだ。七夕伝説は、幼ごころに重くのしかかった。

 これほど気の合う伴侶と、年に1度しか会えないなんて、そんなのは別れに等しいというふうに思えた。1年間というのも、幼いわたしには途方もなく長い長い日日だった。

 夫婦が離ればなれに暮らす。

 そうやって何年も絆を結んで生きている夫婦を知ってもいるし、夫婦のあり方などそれぞれだとも考えている。1年に1度会うだけの夫婦だって、あっておかしくはないだろう。そも悠久の宇宙空間にてきらめく星星のことだ、たとえ1年に1度会うだけだとしても、ひとの世のつながりよりもはるかに長く、いや永遠につながっているともいえるのだし。

 長ずるにおよんで、七夕のものがたりから「一期一会」を連想するようになっていた。

 そうして「一期一会」は、日本に根ざした、もっともうつくしい思想だなあ、と思うまでになった。

 長くつづくとか、いつも一緒とか。ものごととの出合い、ひととの出会いは、そこだけにあるのではないと思いたい。たとえ一度きりのことでも、忘れないでいることもある。人知れず胸のうちに深く根ざすこともあって、それはふとしたときに胸からぽっと浮かぶのだ。浮かんで、胸の主を支えたり、思い深くしたり。そうでなくとも、なつかしさで彩ったり。

 このごろわたしは、遠い日のことを探したり、遠いひとを探さなくなっている。「一期一会」の原のなか、丈高い草の根元にじっとしゃがんで、なつかしんだり、思い返したいような気持ちで。

こと座の一等星が、ベガである。ベガは、はくちょう座とわし座のそれぞれの一等星とともに、「夏の大三角形」と呼ばれる。なお、七夕伝説は、中国の起こり、とのこと。

〈ジャージャー素麺(そうめん)〉

材料(4人分)

 素麺(ゆでる)……………………………………………………4人分

 肉味噌あん

  豚ひき肉…………………………………………………………200g

  長ねぎ(みじん切り)…………………………………………1/3

  しょうが、にんにく(みじん切り)…………………………各1

  豆板醤(辛いので、好みで減らしたり、なくしても)…小さじ2

  昆布をつけた水………………………………………………3カップ

  酒、砂糖……………………………………………………各大さじ1

  味噌、しょうゆ……………………………………各大さじ21/2

  片栗粉(倍の水で溶いて使う)……………………大さじ11/2

  サラダ油………………………………………………………大さじ2

  ごま油…………………………………………………………小さじ1

 きゅうり(せん切り)………………………………………………2

つくり方

鍋にサラダ油を熱し、弱火で長ねぎ、しょうが、にんにくを炒める。

豚ひき肉を加えてさらに炒め、豆板醤を加える。昆布をつけた水と酒、砂糖、味噌、しょうゆを加えて、弱火で20分ほど煮こむ(途中でアクをとる)。

水とき片栗粉でとろみをつけ、ごま油をふる。

器にゆでた素麺をもりつけ、きゅうりをのせ、そのとなりに肉味噌あんをかける。

七夕に素麺を食べるというのは、平安時代にはじまっています。宮中での儀式のひとつで、素麺を食べて無病息災をねがったそうです。素麺を、「天の川」に見立てているのでしょうか。このたびは、ちょっと目先をかえて、ジャージャー素麺をこしらえてみました。

★ジャージャー麺は、冷たい麺に熱い肉味噌あんをかけますが、素麺の場合は、

肉味噌あんを冷やしてかけても、おいしいような。

Photo

7月には、「夏の土用」がめぐってきます。

土用は、立春、立夏、立秋、立冬の前、

それぞれ18日間のことをさします。

立夏前が春の土用。

立秋前が夏の土用。

立冬前が秋の土用。

立春前が冬の土用。

「土用」と言えばたいてい夏の土用のことを言い、

この日には「う」のつくものを食べるのがならわし。

世間では鰻、鰻、と大騒ぎですが、

「う」のつくものなら、なんでも。

うどん、牛の肉、うに、うるめいわし、ういろう、

梅干し……。

そうそう、やっと梅干しを漬けました。

ことしは、小梅です。

写真は漬けた翌日の様子。

水があがってくるのの、早いこと。

| | コメント (28)

2009年6月23日 (火)

押しつけがましいのは……。

 ———あ、また言ってる、わたし。

 口の先だけ真似たって、追いつかないことは重重(じゅうじゅう)承知しているけれど、それだからこそ、という思いもある。

 その台詞———

「押しつけがましいのは、いけないのですけれど……」

 あのひとは、20 年来のあこがれの女(ひと)。何かをすすめてくださるとき、決まって「押しつけがましいのは、いけないのですけれど……」と、前置きをする。

 あのひとに対しては常に、些細なこと、どちらでもかまわないようなこと、もう、何でもいいからおしえてください、という気持ちを抱いているというのに。

 むしろ、どんどん押しつけてもらいたいくらいだ。

 けれど。

 何度も言われたり、(お手紙やメールで)読んでいるうちに、なんだか奥の深い台詞だと、気づきはじめている。「押しつけがましいのは、いけないのですけれど……」を足がかりにして、自分の胸の堅くかたまったところにスコップを入れ、さくさく耕すことができるような心持ちになっている。

 ことのはじめに「押しつけがましいのは……」というコトバを受けとると、何も考えずに、ずんずん先へ進もうとしている迂闊なわたしの歩みが止まる。立ち止まるわたしは、相手が何かを律しているらしい様子を遠巻きにして、自分自身も己を律するようなのだ、あわてて。

 渡されたものを、無意識に受けとってはいけない、と。しっかり手をさしだして受けとり、それをふさわしい場所にしまいます(記憶の保存)、と誓いもする。

 性分だからと思っていた「早呑みこみ」、うんざりしながらあきらめ、あきらめながらうんざりしてきた、数十年越しの「早合点」が、なおりかけている。「押しつけがましいのは、いけないのですけれど……」が楔(くさび)のように打ちこまれたおかげで。

 さて。

 ひとによくしてあげたい、と思うことがある。これを贈ろう、とか、こんなふうに言ってあげたいな、とか。こんなことしてあげちゃおう、とか。

 そんな気持ちに突き動かされ実行したとしよう。そこまでは、実行したわたしの側の領域だから、ひとりで悦に入ったとしてもなんら問題は、ない。

 ところが、だ。ここから先、じわりじわりと相手に向かって、期待のこころが寄せていくことがありはしないか。

「せっかく贈りものをしたのに、受けとったという知らせもない」

「とっておきのひとことを言ったのに、思ったほど喜んでもらえなかった」

「時間を捻出して、してあげたことだったんだけどな。わかってくれてないみたい」

 とね。———好意が、押しつけがましさに変わる瞬間だ。

 せっかくも、とっておきも、捻出も、自分の勝手なんである、ほんとうのところ。そうしたかったから、しただけのこと。

 このごろ、それをしたら、したことを忘れてしまうくらいがちょうどいい。という気が、している。

 ———こんなことができて、しあわせだったなあ。

 それで、おしまい。

 きょうはこれから、あのひとが「押しつけがましいのは、いけないのですけれど……」と前置きをしておしえてくだすった展覧会———わたしの家から徒歩15分の美術館に、あのひとの好きな絵がやってきている、と———に出かけるつもり。1度観てすっかりうれしくなり、きょう行けたら、2度めということになる。

 手渡されるとそのことが、すっかりわたしのことになるところが……、何と言ったらいいのか、そう、自由なんだ。

Photo

この長靴、14cm。
昨年の10月、初めての赤ちゃんが生まれたお母さんから、
ひとついただいたんです。
赤ちゃんにと長靴を買っておいたのはいいけれど、
このサイズ、履く機会がなかったんだそうで。
あんまりかわいいので、ペン立てに。
つま先には、紙をまるめてつめてあります。

皆さん、どうか、やさしい雨の日日を。

| | コメント (36)

2009年6月16日 (火)

こだわり道(みち)

「これが、わたしのこだわりです」
 というようなことがさかんに言われるようになったのは、いつ頃のことだろうか。それまで「こだわる」は「拘泥(こうでい)」、すなわち些細なことにとらわれて融通がきかないことを意味していた。つまり、あまり芳(かんば)しくない状態をさすコトバだったはず。
「そんなことに、いつまでもこだわっていないで……」
 という具合に、嗜(たしな)めたり嗜められたりするときに活躍していたのではなかったろうか。
 それが、ふとした気運にのって「こだわり」と名詞化もして、いい評価として使われるようになった。

 しかし「こだわり」は、やはりどこか融通がきかない。ゆずり合う感じ、やりくりする算段に欠けるところがある。
 このコトバが褒められ者となったあたりから、「恥」の痛点があいまいになった。恥ずかしくないという領土が、ぐぐっと広がったように思う。   
 このくらいならこだわっても障りはなかろう、という判断でこだわったとしても、以前のこの国の通念としては、そういうことはもっと密やかなものであったはずなのだ。
 平気で「こだわり」なんてことを言ったり、「そこが、あなたのこだわりなんですね」などと言いあったりしているうちに、わたしもだんだん恥知らずになったような。

「こだわる」を越え、それが「かたくな」に変容していくのが怖い。がじがじにかたまったものは、時としてひともびくつかせるが、たぶん、自分をいちばん縛(しば)るのである。
 こだわりきれない気力、体力になったとき、すっとこだわるのをよしてしまえればいいけれど、そうできない自分を責めるのであったなら、哀しい。
 そこで思いだすのは、父方の祖母のことだ。祖母は、20歳にあと数か月というときに長男である父を生んでいるから、祖母としては若かったし、何よりとてもとてもうつくしいひとだった。旅立ってから10年以上たつのだし、祖母、というのをよして、みよさん、と呼んでもかまわないだろうかしら。
 みよさんは着物をきりりとゆるく———この表現は矛盾するようだけれども、着物に関しては成り立つように思う。ゆるく見せていて、中心が決まっていると言ったらいいのか。きりっとしていながらゆるやかなところがあり、それが流れをつくっている、と言うのがいいのか———着こなしている姿が自慢で、ねだってねだって運動会に来てもらったりした。
 しかし、後年ひとり暮らしになったころから、みよさんは着物の暮らしをあっさりと手ばなしたのだ。着物にこだわるのはよそう、という覚悟だったのだと思う。みよさんの洋装は、着物のようにはその姿に映らなかったし、わたしから見ると口惜しいばかりだった。
 ———おばあちゃま、やっぱり着物のほうがよくはない?
 と言うわたしたちに向かって、みよさんは静かに笑うばかりだった。

 あのころは、そうは思えなかったが、着物をよしてしまったみよさんの気持ちが、このごろまぶしく思い返される。あの世にかえってみよさんに会ったら、そのときの決意のようなものを、聞いてみたいと思う。まあ、聞いたところで、みよさんのことだ。そうね、と言って笑うだけだろうけれど。

「こだわり」にもいいところはあるが、こだわるなら静かにこだわりたい。ことに個人的なこだわりを楯にひとり立ちはだかるようなことは、慎みたい。
 そうして。それもまた変わることがあるやもしれない、というくらいの……そう、嗜(たしな)みをもちたい。

Photo
浴室、洗面所で使うタオルは「白」と
決めています。
白いタオルが好きなんです。
ただ、それだけ。
(こだわりじゃ、ありません——笑)

       *

白いタオルがふさわしくない用途のために
これのとなりのふた付きのカゴのなかには、
色もの、柄ものタオルが収まってます。

| | コメント (40)

2009年6月 9日 (火)

選択

 「役にたたないもの、
  美しいと思わないものを
  家に置いてはならない」

        ウィリアム・モリス 

 この春、東京都美術館で開催の「生活と芸術———アーツ&クラフツ展」(ウイリアム・モリスから民芸まで)を観た。会場の入口に掲げられていたのが、この冒頭のコトバだ。
 思わず、そのコトバの前に立ちすくむ。
 動けなかった。
 2度ばかり口のなかで、掲げられたこの一節をくり返し、やっとのことで右脚を前に出す。

                  *

 会場に入ると、まず、モリスのデザインした壁紙(初期の壁紙)が目を引く。それはとても美しく、見るものを惹きつけてやまない。
 格子垣(トレリス)。果実またはざくろ。ひなぎく。多くの色版が用いられたモリスの壁紙は、暮らしの夢を掻きたてるようだ、まったくのところ。
 しかし……。
 この型紙が、たとえばわたしの家の居間の壁を飾るとしたらどうだろうか。いま置いてある道具、調度とは調和しないだろう。どんなにモリスのパターン・デザインのなかで暮らしてみたいと願っても、いまあるものを全部とりかえなければ、それは実現しない。
 いや、実現はするだろうが、とてもではないが納得できる結果にはならないと思う。そのちぐはぐな有様には、ウィリアム・モリスも顔をしかめることだろう。

 わたしたちは、常に、ある制約のなかに生きている。その制約のなかでもっとも幅を利かせるのが、選択である。自分が思想と好みとを織り交ぜた末の選び。
 はなしを家や意匠に絞るなら、そこには好みの問題が浮上する。この「好み」は、わたしたちが考える以上に選択を占領し、ときには、厳しくも責任をもてと迫るのだ。やれやれ。
 なにか———道具や調度———を選ぶたびに、問うてもくる。

 ———その「好き」を、貫ける?
 ———いま、「好き」と言って選ぼうとしているそれは、これまでの「好き」を
損なわない? 裏切らない?

 と。
 想像のなかでウィリアム・モリスの壁紙をあきらめたわたしは、生意気にもモリスの有名なコトバに、胸のなかでこうつけ加えた。

 「役にたたないもの、
  美しいと思わないもの、
  そして選ばなかったものを
  家に置いてはならない」

 何を選ぶか。
 最初の選び、つぎの選び、またそのつぎの選びを調和させつづけていくことは、一大事業だ。苦心も要るし、がまんも要る。
 ———ああ(嘆息)。
 帰り道、わたしはそうして、迷った揚げ句、もうひとつつけ加えることとした。 
 とっておきの5文字。

「できるだけ」


Have nothing in your houses
that you do not know to be useful,
or believe to be beautiful.

          The Beauty of Life,William Morris,1880


Photo
そのときもとめた、ポストカードです。
左は、壁紙見本/「果実」あるいは「石榴」1866年頃
右は、内装用ファブリック/「ローデン」1884年
ウィリアム・モリス
(ヴィクトリア&アルバート美術館)

| | コメント (34)

2009年6月 2日 (火)

水無月 --- 暦日記

◆ 衣更(ころもがえ)

 4月に1日でも、うんとあたたかい日がめぐれば、もうもう、たまらない気持ちになる。衣更、衣更、衣更、と、耳のなかで鐘が鳴る。
 4月といえば、東京でもおそい雪の降ることもあるし、肌寒い日だってある。そんなことは承知しているのだ、ものごころついてから幾度も幾度もその季節を経験してきている。
 にもかかわらず、こういうときには、せっかちを抑えられない。
 ほかのことではだいぶ、待ったり、時間をかけたりできるようになったが。たぶん、季節のうつろいが、うれしくてうれしくてたまらないからだ。こころがつぎの季節へと、はずむ。
 そうして、4月と5月に、叱られる。
 ことしも……。
 ———どうして、性懲りもなく、こんな時期にどんどん、どんどん上着やセーターしまっちゃうの?
 これは、長女。
 ————布団はよしてね。梅雨寒(つゆざむ)ってのもあるんだから。
 と、二女。
 ———お母さん、まだ、春が来たばかりなんだからね。
 ちぇっ(失礼!)、末の子までもが。

 6月に「衣更」というのは、いかにも遅いような気がする。
 でも、待って待って、待って、やっと制服が薄手のものになったり、半袖になるんだな。それもまた、つぎの季節の想い方では、あろう。
 ことしも、4 月のおわりに衣更をすませてしまったわたしだが、家の拵(こしら)えを、夏のものにするとしよう。食器棚の前の列にガラス器をならべたり。コースターやランチョンマットをかえたり。
 あ、そうだ。玄関の敷物も、かろやかな、あれに。

◆ 田植え

初めて田んぼに足を入れたのは、30歳をいくつも過ぎた頃だった。
 こんな感じだろうと考えていたのより、ずっと、ぬるっとして、土は重かった。こういう感触を知っていて、それを声高らかに謳ったりせずに生きているひとには、まったくかなわないや、と思った。
 かなうとかかなわないとか、何の話かと自分をごまかしたかったが、胸に芽生えたこの気持ちは、どうにも、ごまかしようがなかった。
 農家に嫁(か)してからずっと、田畑を仕事場としてきた義母(はは)に、こう言ったおぼえがある。
 ———お母さんは、ずっと、この感触を知ってたんだね。

 ———まあ、そうね。
 そう言って、義母(はは)は、ほんとうは、畑仕事はしなくていいという約束で嫁に来たんだが……という、話をはじめた。何度聞いてもいい話なのだ。
 そのものがたりには、ちょっとしたプロローグがある。
 ははが、見合いの前に隠れて義父(ちち)を見に行き、一目惚れした場面だ。それをこっそりわたしに告げたのは、夫だ。「どうやら、そうだったらしいんだ」と、笑う。
 へええ、と胸を打たれる。
 きれいな洋服、洒落たものが大好きなははは、ほんとうに自分が畑仕事をするなどとは、考えてもみなかったらしいが、そこは、ほら、恋のちからだ。結婚後まもなくちちのほうは会社勤めをするようになり、結局、農業は、ははの天下になっていく。
 会社を退職し、家業にもどってきたちちは、田畑ではははに頭が上がらない。

 わたしは農家の嫁であるのにもかかわらず、ちっとも、田畑の仕事を手伝わない。田んぼに足をつっこんで、ぬるっとしている、すごい! なんて言っている場合ではないのだが。
 けれど、米ができるまでの、ひととおりではないことは少しわかる。米がわたしたちにとって、どれほど大事であるかは、よくよくわかる。
 田植えの日。
 すごく大事な日だ。東京から作業の無事を祈っているだけなんだけれども。

◆ 梅の仕事

 6月は、自分の両の手のうち、ほんの少しでも空けておこう、と決めている。梅の仕事があるからだ。
 梅干し。梅シロップ。梅酒。そしてことしは、梅肉エキスをつくる予定。
 梅シロップ育ちの子どものうち、2人までもが梅酒に転向。そのため、いまは、シロップより梅酒をたくさんつくるようになっている。

              *

※ことしは、初めて黄色く熟した梅の実で、シロップとジャムをつくってみようと考えています。「熟しすぎた梅、どうしますか?」とたびたび聞かれるようになったからです。ご一緒に試してみるとしましょう。
 その報告は、ブログでいたしますね。梅肉エキスのこととともに。


Photo
夏は、もう、こればかり履きたがります。
ペディキュアは、夏のくつした。
若い友だちが、「黄色いネイルカラー、おすすめです」と
プレゼントしてくれたので、ためしてみました。
(塗り方、下手だなあ……。はみだしてる)。


Reebok
1年通して、靴の定番は、これ。
いろんな色を持っています。
夏も、履きます。

| | コメント (40)

2009年5月26日 (火)

ちゅんちゅん

 子どもの頃には、動物も虫もそうは好きでなかった。草や木は、それよりは近しく、なんというか、手に馴染んだ存在だった。草を摘み、木にもよく登ったから。それでも、好きか嫌いかと、分類してみることはなかった。

 それがどうだろう。
 いまは、動物や虫や、植物が慕わしくってたまらない。
 ひとつには、13年前にわたしたちのもとにやってきてくれた猫——うちに暮らしている黒猫のいちごのことだ——のおかげで、動物に対する目がひらかれた。それまで、猫という存在は知らないのに等しかった。どこでまるくなっていても、歩きまわっていても、たとえすれちがっても、目に入らなかったものらしい。ああいうのを「猫」というのだと、知っているだけだった。
 いちごは、わたしに動物の存在を伝えてくれたばかりでなく、わたしに、自分も動物のうちの一種類だということを、いつのまにか得心させた。
 そうなってみると、わたしには案外、動物にも虫にも、あまり苦手はないことがわかった。へびやトカゲ、蜘蛛なんかは、むしろ好きらしかった。出合い頭に気持ちを奪われて、じっと観察していることに気づき、ああ、好きなんだなとわかった。子どもの頃にはおそろしかった毛虫やイモムシも、年年平気になっていく。
 年年平気に、というのは、わたしが年年、毛虫やイモムシといった方面に傾いているからかもしれない。東京の都下の住宅街に住んでいても、耳や目が、ひとのほかの生きものの気配をもとめている。
 すずめの声を、ちゅんちゅんとうるさく鳴く声を、もとめている。
 庭木や植木鉢にやってくる虫を、もとめている。
 葉のみどりを。土を。それにまみれて汚れる自分の手足を。

 このところのちゅんちゅんは、ますます盛んになっている。それは、春先に生まれたのが若すずめになって、やってくるようになったからだ。大人よりも、怖いもの知らずで、見方によってはずうずうしくふるまっている。ひとのことなど、そうは怖れていない、といった様子なのである。
 毛虫やイモムシは音をたてないので、わたしには、いまのところ、ちゅんちゅんが、その方面への傾きを思わせる合図になっている。
 今朝もちゅんちゅんの合図は、夜明けとともに聞こえていた。
 ——わたしは、どこまで動物、植物、虫たちを好きになるだろうなあ。
「ちゅんちゅん」
 ——ますます、ひととしては生きにくい種類のひとになってしまうかなあ。
「ちゅんちゅん」

Photo
植えつけ1 週間たった、
左からセージ、イタリアンパセリ、ローズマリーです。
ささやかな、キッチンガーデン……。


Photo_2
使い方が荒くて、ホーローの鍋をだめにしました。
底(内側の)にキズをつけ、そこから錆が……。
この春、鍋から植木鉢に転職(ごめんね)。
しそとイタリアンパセリが、元気です。
鉢穴がないので、水をやり過ぎないように気をつけています。


Photo_3
こちらは、左がバジル、右がしそです。
むこうに、すすめが見えます。


Photo_4
ちゅんちゅんがきましたっ。

ここは、えさ場でもあります。
すずめさんたちが集まり過ぎると
いけないんで、内緒ね。

| | コメント (37)

2009年5月19日 (火)

夕陽とそら豆

 急ぎ足になっていた。
 一刻もはやく家にたどり着いて、晩ごはんの仕度をはじめたい、と思った。わたしはいつも、こうだ。夕方になると、そわそわする。
 ———ごはんをつくらなくちゃ。
 ———ごはんをつくらなくちゃ。
 これは、癖、思い癖のようなもの。
 この日も、だから急ぎ足で、家にずいぶん近づいた道へとまがった。いきなり、目が眩(くら)む。
 ———あ。
 光があふれていた。
 ふだんは、わりあい人通りの多い道なのに、どうしたことか、わたしのほかには人っ子ひとり、猫の子1匹見当たらない。ただ光だけがあふれて、5メートル先が見通せないほどだ。
 道を、曲がったところで、どこかちがう星に切り替わったか。
 ———まさかね。
 思い癖も忘れ、急ぎ足も忘れ、今し方思いついた原稿のネタも忘れ。晩ごはんの献立の心づもりも、忘れた。ゆるゆると歩きながら、自分も光に染まって、異星人になってしまったような……。
 ———なんてね。
 光を超えて発光するそれは、夕陽だ。

 家に帰ると、こんどはそら豆がたくさんわたしを待っていた。なんて、きれいなさやだろうか。ほら、また、思いだした。
 昔ばなしだ。そら豆と、わらと、炭が、そろって「お伊勢参り」に出かけるという話。

        *
  
  川にたどり着きました。
  けれども川には、橋がありません。
  わらが言いました。
  「わたしが橋になりましょう。そら豆さん、渡ってください」

        *

 ええと、このあとどうなるのだったかな。先に渡りたがった炭が駆けだしたのはいいが、途中、自分の熱(熾き火だったのかな)がわらに燃えうつり、炭とわらが川に、ぼちゃんと……というのだったかな。

        * 

  見ていたそら豆は、笑いました。
  あははははははは。笑って笑って、とうとうそら豆のお腹ははじけてしま
  いました。
  そこへ通りがかった……、

        *

 あれ、通りがかったの、誰だっただろう。
 とにかく。糸と針を持ったひとが通りがかり……、

        *

  そら豆のお腹を黒い糸で縫ってくれました。
  そら豆に黒い筋ができたのは、そのときからです。

        *

 なんだか、ちょっと怖い物語だ。子どものころも、「そこで笑っちゃうの? そんな場面で?」と思った。お腹がはじけるというのも恐ろしかった。恐ろしくて、しばらく大きな口を開いて笑えなかったような。
 だけど、そら豆は好きだ。どんな過去があったって、そら豆はそら豆だもの。
 短い期間だけの、あなたのわたし。そう幾度も食べられない。食べられないこともないだろうが、大事に少しだけ、という気持ちがどうしても湧く。

 出先での仕事に、思いのほか時間がかかり、急ぎ足で帰ってきたその日、わたしを慰めてくれた夕陽とそら豆。お疲れさん、と? いや、ちがう。ただただ包まれた。
 ひとの慰め、労りもありがたいが、夕陽とそら豆は無言だ。コトバもなく、包むなんてね。

Photo
そら豆。
わたしは、豆だけ茹でるのと、莢(さや)ごと焼くのと、
半半くらい。
こうして見ると、そら豆って、ほんとうにきれいですね。
豆もいいけど、莢もいい、立派です。


Photo_4
そら豆の莢からの連想をひとつ……。
   
娘の本棚の下に、
こんな包みが置いてありました。
仕事先で拝借した資料なので、ふた月預かるのだそうです。
この身なりは……。


Photo_3
こういうものを包むのは、紙がいいです。
そうして、なかみを鉛筆で、書いておく。

家のなかのそこにも、ここにも、
塩化ビニールで包んだものを置いておくと、
あずましくありません。
そら豆みたいに、感じのいい莢を、と思うんです。

| | コメント (52)

2009年5月12日 (火)

泣きたい

 手仕事———くつ下の穴の繕(つくろ)いどっさりと、雑巾縫いどっさり———をしようと、ひとり、居間の床の上に坐りこむ。ぺたんと。
 ———あ、テレビ、観よ。
 なにしろ早寝だから、夜のテレビ番組を実時間で観ることがない。午後9時からのだって、10時からのだって、わたしにとっては深夜番組だ。観たいなあと思う番組(そうは、ないけど)は録画しておく。

 さてこの日、わたしはドラマが観たかった。これは、かなりめずらしいことで、どうやら、こころがふくらんでいたものらしい。胸のこのあたりにふくらみがないと、ドラマに描かれた哀しみや、しんどさや、はらはらどきどき、感情の昂(たかぶ)りが収まらない。そういうのは、現実だけでたくさん。と、思うからか。そうでもあるまいが。
 端的に言うなら、この日、余裕があったということだ。時間にも、こころにも。
 仕事部屋の、DVDの隠し棚をあける。ふふふっ。
 すーっと、指がひとりでに細ーいDVDの背をたどりはじめる。すーっが、ぴたりとひとつところで止まるのを待つ。
 こうして選んだドラマは、数年前に放送された学園ものだった。保存してあることさえ、忘れていた。これを選んだかあ、わたしの指は。ちょっとした感慨が押しよせ、しばし、そのなかに浸る。
 ———これを選んだかあ……。

 針をもつ手が止まっている。
 ものがたりに、台詞に、ひきこまれているらしい。はっとして針をもち直しても、また止まる。
「ほらほら手がお留守になってるわよ。テレビ観ながら手仕事なんて、だめ! だめ!」などとたしなめるひとはいないのに、はっとする。
 ちょっとはなれたテーブルの、ひとの気配にふと気づく。
 つれあいが、坐って、テレビを観ているのだった。
「お帰りなさい。気がつかなかった」
 年明けからずーっと忙しくて、このひとのゆっくりしているところを、長いこと見ていない。それが、椅子の背にもたれてテレビを観ているのだ。
 ———仕事、ひと区切りついたんだな。
 そう思って、まじまじと顔を見る。
 え、なに? 頬をつたうそれは、何? え?
「泣いてんの? ちょっと。どうして?」

 聞けば、今し方、1本の映像作品を仕上げてスタジオから帰ってきたのだそうだ。このたびの仕事がまずまず無事に終わって、「気を、ゆるめたかったんだ」と言う。
「帰ってきてみたら、あなたがドラマに熱中しているからさ。ぼくも観るともなく観てたわけ。そしたら、ゆるんだ。……泣きたかったのかもしれないな」
 わかるなあ、泣きたかった気持ち。
 ゆるめたかった気持ちも。
 ついつい目をやったドラマの助けもあったのだろう、なみだが、するすると、流れていく。
 なみだを流すのは、浄化作用だ。

「どんどん泣きなさいよ、ほら」
 そう言って、近くにあった、じきに雑巾になろうというタオルを手渡す。 

 

Photo
涙を流しているつれあいに、
「じきに雑巾になろうというタオル」を
渡したりしちゃあ、いけないんでした。
うちには、ハンカチーフだって、タオルハンカチだって、
あるんです。
1階と2階のあいだの階段のおどり場に、
そのひきだしは、あります。
ここに暮らす全員共有のひきだしです。
上から、
・ハンドタオル
・タオルハンカチ
・ハンカチーフとバンダナ
・ポケットティッシュと、そのカヴァ
・風呂敷、袱紗(ふくさ)、金封袱紗
       *
出がけにみんなここを通るので、この場所に。
降りた先が、玄関です。


Photo_2
これは、タオルハンカチのひきだしです。
         *
つれあいは、ハンドタオルとハンカチーフ
(またはバンダナ)2枚1組で持っていきます。
ご心配なく、
花模様じゃないものも、あります。

| | コメント (40)

2009年5月 5日 (火)

片づけられない子どもだった……。 〈3〉

 いよいよ子どもたちの話。
 3人とも、わたしが子どものころ片づけられなかったのよりは、いくらかずつは片づけられるようだ。そうは言っても、比べる片づけられなさが相当なものだったから、たいしたものではない。
 わたしの子ども時代とのいちばんのちがいは、片づいているときがあること(それぞれの自室)、片づいた状態が好きなことだろう。
「あー、部屋、片づけなくちゃ。なんか、運気が下がりそうな散らかり具合だあっ」
 と、叫んだり。
「はいはいはいはい。いま、片づけますっ」
 と、自分自身にむかってつぶやいたり。
 そういう独り言を聞くにつけても、ちょっと感心する。そういうこと、「アタシはぜんぜん、思わなかったなあ」という感心。
 とはいえ、いまはなんとか片づけられるひとに変身したわたしとしては、言いたいことがないわけでは、ない。助言というか。

・ 脱いだ服をかける。
・ ごみを捨てる。

 子どもの片づけなんか、それで、じゅうぶんだと、わたしは思う。
 うちの3人のうち、上の2人はもう大人だし、それなりに荷物がふえている
———本やCD、衣類、仕事や勉強関連のものなど———し、ということで助言の項目を少し加えるとしても、あと2つだ。

・ すべてのものに置き場所を決める。
・ 使ったら、置き場所にもどす。

 モノの持ち方、持つ数について。それは自分の好きなように決めてよ、と考えている。あまり持たないという持ち方も、適度に持つというのも、いっぱい持つというのも、それぞれの生き方、暮らし方だから、口は出せない。どんなふうな持ち方をするようになるのか、興味はあるが。

 わたしは子ども時代、家とは片づいてすっきりとしたものだと思いこんでいた。自分自身は片づけられない子どもだったのにもかかわらず。片づけている母の姿、置き場所の決まったモノたちを見ていたことが、すっきりとした空間のなかで過していたことが、そう思いこませたわけだ。
 3人の子どもたちも、きっとわたしのしまい方、持ち方を見ているだろうなと思う。見ていてわたしと同じように暮らすとは考えていないけれども、わたしの暮らしをひとつの型紙として、頭の片隅にひろげる日もめぐってくることだろう。たぶん。
 片づけに対する「伝授」は、そこに尽きている。

「伝授」したところで、口うるさく片づけを促(うなが)したところで、子どもが自分の「片づけ力」を、この家にいるあいだに発揮することはないだろうと思う。それはおそらく、この家から巣立ち、自分の家をもつときに初めて遺憾なく発揮され、自分の暮らしが実現する。
 わたしがそうだったもの。 


1
子どもたちの部屋は3階にあります。
紙のごみ箱、プラスチック類のごみ箱、
再生できる紙類
(ざつがみ)を入れる袋はそれぞれ、
共通のものを
使用(置き場所は、廊下および、廊下の棚のなか)。
というわけなので、自室での手もとのごみ箱として、
紙の箱を使っています。

紙の箱用紙は——
折り込み広告(金曜日の朝刊に入る自動車とマンションの
広告が、厚手で丈夫!)はじめ、四角い紙ならなんでも
いいのです。
ただし正方形でないほうがいいです、こんがらかるし、
かたちが決まりません。長方形の紙で折ることです。

★ 紙の箱の折り方
2
① 紙を半分に折ります。
  そうしてまた、もう半分に折ります。
  もとの大きさの1/4になるわけです。
  半分に折ったところにもどり、
     写真のように、紙の「まんなか」に
  指を入れて開きながら折ります。


 
3

② 同じように裏の面を折ります。
  両面それぞれ片方の端を、
  もう片方の端に合わせて折ります。
  こうすると、両面ともちがう面があらわれるわけです。
  写真のように、片面ずつ、端を中心線に合わせて折ります。

 

4
③ 下1/3の、四角い部分を折り上げます(両面とも)。


5

④ このままでもかまわないのですが、
  ③で折り上げた部分のまんなかにはさみを入れ、 
  箱の側面にできた三角部分に折り込むと、
  おさまりがよくなります。


6
⑤ ほら、こんなふうに。
  羽根を折り込むと、写真手前のようになり、
  そのままだと、向こう側のようになるわけです。
          *
  箱の姿には開かずに、
  とがった頭を底辺まで折り下げ、四角いかたちにして
  溜めておきます。
          *
  ちなみに、わたしの机まわりのごみ箱も、これ、です。
  食卓にも、出先にもこれがあると重宝します。

| | コメント (30)

2009年4月28日 (火)

皐月(さつき)―― 暦日記

◆ 八十八夜

 立春から数えて「八十八日め」にあたる日、これが八十八夜だ。ことしは5月2 日。春から夏にうつりかわる節目、夏の準備をはじめる日という意味もある。
 気候も安定して、霜の心配もなくなるから、茶摘みや苗代(なわしろ)のもみまきができる、という目安の日でもある。
 しかしその一方で、「八十八夜の忘れ霜」、「さつき寒」ということばもあるそうだ。急に気温が下がることだってないとは限らない、まだまだ油断はできない、という戒めも含む節目。

  夏も近づく八十八夜 〜♪

 というこの歌が、茶摘みと八十八夜とを、ぎゅっと結びつけたともいえそうだけれども、年に一度こんな日を、お茶に思いを寄せ感謝する日にしたい。こころからそう想う。
 どれほど、日日お茶によって和ませてもらい、ことを区切って———うまくいかなさや、失敗や、疲弊(ひへい)感から———もらってきたかを想いたい、と。
 だけど、どうすれば、お茶を労(ねぎら)い、感謝をあらわせるのか。
 ———お茶にお茶を……、いれてあげる?

◆ 端午の節句

 正月。七草。鏡開き。節分。ひな祭り。そうして新学期の準備。
 年が明けるや、引きも切らずに……。やっとひと息つけそうだ。

 ひと息つけそうだ、などと呑気なことが言えるのも、うちに男の子がいないからだ。端午の節句ばかりは、ちょっと呑気にかまえている。
 鯉のぼりを上げたこともない。
 ———鯉のぼりかあ。
 などと、わざとのんびりつぶやき、つぶやき、端午の節句へのあこがれを募(つの)らせている。よその家の庭や、マンションのベランダに鯉のぼりをみつけるたび、こころのなかで叫ぶ。
 ———おーい、君。いい男になっておくれ〜。
 ———好きなように生きていいんだよぉ〜。
 大きなお世話である、まったくのところ。
 けれども、ほら。
 いい男っていうのがどういうものかと、好きなように生きるというのがどういうことかと考えながら生きていくのはいいでしょう? 勉強のことでもなく、学校(幼稚園、保育園)生活のことでもなく、習い事やスポーツのことでもなく、ひとの軸のことをさ、言ってあげたくって。

 さて。
 とはいえ、わたしたちも、5月5日に、たのしみにしていることがふたつある。
 ひとつは菖蒲湯。
 菖蒲の葉には、ほんとうに浄められる。これを忘れると、あわてる。ある年、菖蒲の葉をもとめ忘れて、当日の夕方、あちらの店、こちらの店でさがすもすでに売り切れ、手にすることができなかったことがある。にらを手にして、しょんぼりつぶやく。
 ———これじゃ、だめ、だ、よ、ね。

 もうひとつは、ちまき。
 これは、元は男の子だったつれあいに供する気持ちでこしらえる。辛党だから、笹の葉のなかみは中華おこわだ。この中華ちまきを食卓にならべておくと、
 ———おつ、うれし。
 と、おじさんの目が、一瞬、男の子のものになる。

〈中華ちまき〉 
材料( もち米3合分)
 もち米……………………………………………………………3カップ
 豚うす切り肉(細切り)…………………………………………150g
 干しえび(みじん切り)…………………………………………適宜
 茹でたけのこ(細かくきざむ)…………………………………100g
 れんこん(うすい半月切りを、さらに細くきざむ)…………100g
 干ししいたけ(もどして細かくきざむ。もどし汁も使う)…4枚
 長ねぎ(小口切り)………………………………………………1本
 サラダ油………………………………………………………大さじ3
 調味料(A)
  酒……………………………………………………………大さじ2
     みりん………………………………………………………大さじ1
     しょうゆ……………………………………………………大さじ3
    塩……………………………………………………………小さじ1
   紹興酒、五香粉(ともに、あれば)…………それぞれ、少しずつ 
 笹の葉(アルミ箔でも、竹の皮でも)…………………………適宜

準備   
・もち米を洗ってカップ1杯の水につけておく(2時間はつけたい)。
・干ししいたけを水でもどしておく(2時間はつけたい)。
・笹の葉を水につけておく(ひと晩つけておく)。

つくり方
① フライパンにサラダ油を熱し、豚肉を入れて炒める。つづいて、ねぎ以外の具を入れて炒める。
② しいたけのもどし汁と、調味料(A)を加えて、さっと煮る。
③さいごに紹興酒と五香粉と長ねぎを加えて、煮る。
④全体が煮えたら火を止め、さましてざるに上げる。煮汁はボウルに受ける。
⑤準備しておいたもち米を鍋に入れ、ボウルに受けておいた煮汁を加えて、水加減する(いつものご飯と同じか、やや少なめの水加減)。
⑥鍋を中火にかけ、煮立ったら素早く具を入れて、弱火で12〜13分炊き上げる。
⑦これを、笹の葉で包む。このたびばかりは、ちまきを意識して、なるべく細長く包む。笹に場合は60〜70gのご飯を包む。

※ いろいろなつくり方があると思いますが、わたしは、これ一辺倒です。先輩編集者からおそわってから、25年間ずっと。冷凍にも向きます。朝、これを冷凍庫からとり出すと、昼までには、自然解凍されています。

1
中華ちまき用に、笹の葉を常備しています。
いい香り、いい手触り。
200枚2,000円ちょっと+送料というくらいで、
もとめることができます。


2
中華おこわが炊きあがりました。
簡単に、おいしく炊けます。


3
中華おこわを、笹の葉で包みました。
おこわ、1個60〜70gくらいです。
葉の先を、葉を縦にさいたものをひもにして、しばります。
おむすびを包む竹の皮を細めに切って包んでもいいのです。

| | コメント (27)