profile:山本ふみこ
エッセイスト。1958年北海道生まれ。つれあいひとり、娘3人、猫1匹との5人と1匹暮らし。おいしく作り食べる生活術を描いたエッセイで読者の支持を集める。最新刊は、このブログをまとめた『こぎれい、こざっぱり』。そのほかの著書に、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『子どもと一緒に家のこと。』(ポプラ社)など。
profile:山本さんの本
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2008年5月13日 (火)

平安時代の赤ん坊

 今朝のこと。
 その日、まんなかの娘とわたしが、それぞれほど近い場所に出かけることを知って、
「お互いの用事がおわって、会えそうだったら、お茶でも飲もう」と相談。
 ところが。
「(携帯電話で)メールするね」
 と言いのこし、先に出かけた娘の部屋の机の上に、携帯電話を発見!
 これを忘れて出たら、待ちあわせて、お茶を飲むなんて無理じゃないの……と、がっかりする。
 出先での仕事が思いのほか早く片づき、以前、一度おいしい紅茶を飲んだことのある喫茶店の客になる。紅茶を1杯飲んだら、晩の買いものをして、さっさと帰ろう。
 そこへ。見覚えのあるグレーとピンクの模様が近づいてきた。
 見覚えがあるのも道理で、それは、朝送りだしたときに見たワンピースを着た娘だった。
「用事が早くおわったから、来てみたの。知ってる店、ここだけだったし。……携帯電話、忘れて、ごめんね」
 へえ。
 携帯電話で連絡をとろうとすると、電話に出そこなったり、メールの行き来がもどかしかったり、と、うまく通じ合わないことが多い。この子にも、「どうして携帯電話に出ないの? 話にならない!」と、幾度文句を言ったことだろう。
 ふたり、向かい合って紅茶を飲みながら、
「携帯電話より、勘とテレパシー!」
 という話をする。

 こんなことがあって、ふと、わたしに携帯電話は不要か・も・し・れ・な・い、と考えるようになる。
 そも、番号もアドレスも、きわめて限られたひとにしか、おしえていないのだし。通信は、自宅の電話と、いまのところ仕事上、どうしても必要になっているパソコンに集約するとして。
 携帯電話をやめたら、晴れ晴れとするんじゃないかな。……という気がしている。

 生まれたときは、平安時代の赤ちゃんと変わりないのに、現代人は、大人になるまでのあいだに、おぼえなければならないことがいっぱいだ。
 たとえば。
 テレビやDVDプレーヤーの扱い。
 パソコンの扱い。
 携帯電話の扱い。
 その他……。
 どれも、たいていは、わからずに使っている。
 どうしてそれに画(え)が映るのか。どうして音が鳴るのか。どうして本1冊分の文章がぴゅっーと一気に、海外にまで飛んでいくのか。どうして線につながっていない電話が、ここかしこで使えるのか。

 必要ないものまで持つことはないだろう。
 少なくとも、何が必要で、何が必要でないかは、考えたい。うまく使うにはどうしたらいいかを、考えたい。……考えなければ、現実と、また、生身のひとと、向きあうことを忘れてしまいそうだ。
 徒(いたずら)にすべてを使いこなそうとし、また、実際に使いこなしていい気持ちになっているあいだに、ひと同士のあいだの機微(きび)に鈍感になり、手仕事がばからしく思えてきたりするのであれば……。
 いろんなことがいかに「進歩」であり、「進化」でも、わたしは、生まれたときの平安時代の赤ん坊のままでも、いい。

Photo
小物(靴下や、ハンカチーフ、ミニタオルなど)専用の
洗濯干し。これも、かなり年季が入っていまして、
もう10年はたっていますかね。
さすがにこのごろ、
洗濯ばさみが欠けたり、
本体から、くさりが取れたり。
こういうのをなおして使おうとするのなんかは、
わたしの趣味みたいなものだろうか、
と思ったりしています。
こんな作業をしながら、
「洗濯したものをどう干すか」
というようなことは、平安時代よりももっと前、
弥生時代のひとも考えていただろうなあ、と
思ったことです

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2008年5月 7日 (水)

真昼のホタル

 夫は、煙草を吸う。
 ひとから猛然と「やめさせたほうがいい」と言われることがあるが、煙草をやめろとは言えないし、そうしたほうがいい、とも考えていない。

 夫がやめたい、と言えば、協力しないでもないが。

 それでも夫は、ひと知れず、外に出て煙草を吸う。
 自分の仕事部屋から小さな庭に出て、煙草を吸っているときの背中を、なんだかわたしは、ちょっと好きなのだ。
 それがこのごろ、なぜだろう。
 わざわざ階段を上がり、2階のベランダに出て吸うようになっている。何かを見下ろしているような様子。
「何か、見えるの?」
「真昼のホタルが……」

 なんだなんだ、真昼のホタルって。
 ベランダの手すりにつかまって、下を覗く。
 あ、ホタル。

 なんという名の草かわからないけど、黄色い花がいっぱい咲いている。
 ホタルみたいに見える。
「花が開くのは日中だけで、夕方から朝にかけてつぼんでるんだ」

 そういえば、数日前、夫とのあいだに、こんなやりとりがあった。
「庭の草とり、しなくちゃね」
「もうしたよ」
 だけど庭には雑草がぴょこぴょこ生えていて、草とりをしたようには、とても見えなかった。あのときは、草とりなまけて「もうした」なんて、何さ、と思った。

 そうか、真昼に、きいろいホタルを飛ばすためだったんだなあ。

 

Photo_5

2階のベランダから見た小さな庭(ほんとは、駐車スペース。
車をもたないわたしたちにとっての、空き地)。



Photo_3

ほんとうに、ちょっとホタルみたいです。

 
 
Photo_2

この花、何だろう。
繁殖力をもつ怪獣のような草だったら……?。
何にも知らない相手。
少しは知りたい相手。



Photo_4

朝、まだ起きていない花。
午前8時くらいから、ゆっくり花が開きはじめます。
夕方は、暗くなる前に、また閉じます。
眠るんでしょうね。
雨が落ちてくる直前にも、なにかを予感するように、
閉じます。

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2008年4月30日 (水)

励ましていたはずが、励まされる……。

 皆さんにも、こんな経験、あるでしょうか。
 最近、わたしに起こったこと、ちょっと聞いていただこうかな、と思います。

             *

 ああ、もう、終わりかな、と思った。
 最近は、ずっと崖っぷちにいた。
 ここで、かなり長いあいだ踏みとどまっていた。
 つよい風でもひと吹きすれば、すぐさま、ころがり落ちてしまいそうで、かなりチカラを入れて踏ん張っていたのだった。
 わたしを踏ん張らせたものは、この数年友だちだった彼女の、魅力だと思う。
 彼女から受ける刺激が、わたしには新鮮に感じられた。いつも、少しちくちくしたが。
 しかしながら、一昨日のわたしは……、「皮を剥かれた白うさぎ」だった。剥くのも、そこにすりこまれた塩も、みんなコトバでのこと。
 わたしが、ひとには決してしないと決めていることが、あとから、あとから、降ってくる。
「これは、もう刺激という域を越えている……撤退」
 と密かにこころを決め、決めた現場から、終電で帰る。

 撤退。
 友だちだった彼女からの。
 深夜、ぼんやりしながら、駅からの道をふらありふらありと歩く。
 ひとりで、もう少しのあいだ、ぼんやりしたかった。

「あのひとのところへ」
 そう思いつくやいなや、気持ちがゆるむ。
 あ、わたし、泣いてる。
 道端の電灯が、泣き顔を照らすのなんかは、平気。この際だ、ちょっと泣こう、そう思っていた。

「あのひと」とは、こぶしの大木。
 今年の3月この項にも書かせてもらった(「春愁」)、あの、こぶしの木なのだ。
 春先、ほんの少ししか蕾をつけず、その蕾も硬いままで、ほとんど咲かなかった。わずかに花と呼べそうなそれも、薄紙を、くしゃっと小さくまるめたような花だった。

 あのときわたしは、この木に向かって、「がんばって」と声をかけた。花も咲かせないこぶしが、心配で、祈るような気持ちだった。
 それからひと月半のあいだに、幾度かこぶしを見舞ったが、この日ばかりは、見舞いどころか、すがる気持ちで訪ねた。
 弱っている者同士、より添いたかった。
「どうしてこんなに悲しいんだろう」
 と言って、泣きたかった。

 こぶしは、クログロと茂っている。

 葉っぱがクログロとして見えたのは、深夜のせいで、昼間見上げたなら、青青と見えるだろう。
 こぶしのほうは、再生を果たしていた。
 ううっと小さくしゃくり上げながら、目を見張る。木を仰ぐ。

 励ましていたはずが、励まされている……。
 なんともいえない気持ちで、家に帰る。
 来年、花を咲かせて見せてくれるかどうかということまでは、わからないにしても。
 ともに、寿命の尽きる日まで、と想う。

             *

 わたしは、いまはもう元気です。
 こぶしや、友だちや、近しいひとびとの存在のおかげで。
 こんな話を、静かに読んでくださる皆さんのおかげで。 ふ

 


Photo

ほうら、こんなに葉っぱが……。



1

「すっかり元気になりました」
とはいえない状態のはずですが、
ひとつの再生を果たしているこぶし。
……励まされます。


Photo_2

軍手が、こぶしの柵に、
こんなふうにひっかけてあったんです。
この木のお医者さんが、昼ごはんに
出かけたのじゃないでしょうか。
軍手にむかって、
「よろしくお願いします」と。

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2008年4月22日 (火)

「残す」ということ。

  

  「こんなもの、捨ててしまいなさいよ、」
  「どうして、」
  「あんたが持っているには、ふさわしくない、高いの、安いの、というこ  
  とではありませんよ、僕がいやなんだ、」
  「あなたのものでもあるまいし、」
  「……そんなことは萬萬ないけれど、もしもだね、あなたの亡いあとに、
  誰かが、この道具を見るとしよう……そうすると、あなたの持っている
  いい品まで、下る……」
   多江は、どきりとしました。

 いきなり、引用で気を引こうなどとは、我ながら、狡(こす)いことだ。
 これは、「中里恒子」著作の、『時雨の記』(文春文庫)の一節である。
 書架のなかの単行本も文庫本も、カヴァの背がいつしか擦れて、「時雨の記」という題名さえ読めないほどの有様は、この小説を好んでくり返し読んだことをあらわしている。

 恋、というと、『時雨の記』に登場する壬生と多江のあいだに通う、気を許し合いながらも、ゆるみのない浄らな慕情を連想する。

 一昨日、「中里恒子」について調べる必要があって、久しぶりに『時雨の記』をとり出す。そうなることを怖れてはいたが、やはり気がつくと、その場に坐りこみ、読みふけっているのだった。
 掲出のくだりまできて、はっとした。
 これまで幾度となく、とくに若いころには、大きくうなずきながら読んだ場面だ。ものの持ち方、選び方を、おしえられていたのである。
 しかし、いまのわたしに響くのは、壬生の台詞のなかの、「あなたの亡いあとに、」というところ。  
 いつごろの頃からだろうか。
 親しいひとたちの記憶のほかは、自分の持ちものをできるだけ残したくない、と考えるようになっている。

 わたしの、母方の祖父母も、ほとんどものを残さなかった。およそ値打ちのあるもの、祖母の着物や装身具、祖父の鎌倉彫りの作品——これらは、わたしがものごころついたときには、すでにたくさんはなかった。
 母によると、「差し上げてしまうのよ、どんどん」とのことだった。
(どんどん……)

 あれは、祖父母が亡くなって、数か月が過ぎたころのことだ。
 とうとう、ふたりの終の栖(すみか)を手放すことが決まる。
 わたしは、祖父母の家に忍びこむつもりで、でかけて行った。
 忍びこむなどとは、こそ泥のようだが、わたしにとっても拠所だった家が、手の届かぬものになる前に、ただ、もう一度だけ、という気持ちだった。それで、とつ然、訪ねたのだった。行ってみたら、顔見知りの大工のおじさんがいた。
 玄関の引き戸に。台所の壁に。カナリアの小屋のあった板の間に。ごはんを食べた居間のあたりに。そして、祖母の着物をはおってひとり遊んだ奥座敷に。
 ——触れる。
 ——「さよなら」と「ありがとう」を言う、こっそり。
 台所の棚の隅に、新聞紙にくるまれたものをみつける。そっと開くと、祖父母が好んで使っていた、切り子のコップがふたつ出てきた。
(これ、もらっていいかな、わたしが)
 誰にも黙って、コップをふたつ、持ち帰る。

 わたしには、祖父母と共に過した時間の記憶だけで、じゅうぶんだけど、このコップがあることは、うれしい。
 このコップで酌み交わしながら、大事なひとたちに祖父母の話を聞いてもらう。
 このコップを眺めるうち、考えるようになっていく。
 残すものは、こういうものを少しだけ、と。

    

Photo
祖父母愛用の、切り子のコップです。

Photo_2
切り子といっても、ざっくりしていて、
それが洒落ているように、わたしには見えます。

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2008年4月15日 (火)

「豪速球はやめてね」の巻

「ね、松坂大輔投手の球の早さを体験してみない?」

3年くらい前、友だち夫妻と、バッティングセンターに行ったときのこと。
 友だち「夫」が、かるい調子で言ったのだ。
 だから、わたしもかるく答える。
「してみる、してみる」

 飛んでくるボールの早さを目一杯早い目盛りに合わせると、それが、松坂投手の投げる球の早さ(時速150km)になるのだそうだ。
 これが、速い。
 目にもとまらぬ、ということばがあるが、あんまり速くて、ボールなんかなかったことになるほどだった。
 へぼ打者のわたしは、空振りに次ぐ空振りである

「もう一歩前に出て振ってごらんよ」

 友だち「夫」は元高校球児で、強豪早稲田実業高校を破って、あと1勝すれば甲子園、というところまで勝ち進んだ、「時のキャプテン」。言うこと、聞いてみようじゃないの。
 それで、1歩前進。
 ボールが飛んできた。
 グキッ。
 にぶい音。
 バットを握る右手親指にボールが当たったのだ。痛い、というより、親指の芯がじぃぃぃぃぃぃぃぃぃんとする。
 素人のおばちゃん打者が、松坂投手の豪速球に手を出そうとすることが、まちがいだったみたいだ。
 それから10日あまりは、親指が腫れて、右手がつかいものにならなかった。まわりの誰もが、まったく同情してくれなかったことは、言うまでもない。

 以来、ボールやバットから、ちと遠ざかることになったが、さきごろ、ボールとの再会をはたす。
「久しぶりだね」
「無沙汰は、互い」
 このボールは、深夜、夫とわたしの寝室に投げこまれる。
「寝ているところにボールが投げこまれるなんて話、聞いたことないぞ」
 と夫は、ぐずぐず言っている。
「聞いたことのない話でもなんでも、うちには投げ込まれるのよ」

 どういうことかって?
 よくぞ聞いてくだされた。
 社会人になった長女は週日のほとんど、また、アルバイトに励む次女も、週のうち2回は、うんと帰宅がおそくなる。終電になることも少なくない。自分で決めた仕事なのだし、そこはそれ、「がんばりなさいよ」という話だが、心配なことにはかわりない。
 帰ってくるまでは、まんじりともできない。
 というのはうそで、早いときは九時、おそくも十時にはふとんに入って、ちょっと本を読んだかと思うと、たちまち眠ってしまうというのが、わたしだ。心配でもなんでも眠ってしまい、夜半過ぎ、はっと目がさめる。
「あの子たち、帰ってきてるかしら」
 そうして、眠い目をこすり、半分寝ているからだをひきずって、子どもらの部屋のある3階まで行き、そっとそれぞれの部屋をうかがう。すでに寝息をたてているのをたしかめて、やっと安心するというわけなのだ。
 3階までのぼっていくあいだに、心身ともに目覚めてしまう。ここで起きてしまうのは、いかにも早すぎるし、ふたたび眠るのには手間がかかる。なんとも中途半端なことである。夜半過ぎの困惑……だ。
 そこで思いついたのが、ボールだった。
 帰りが深夜になるときには、寝室——猫の「いちご」が出入りするので、扉は軽くしめてあるだけ——の、アタシが寝ているあたりに、ボールを投げてちょうだい。そうすれば、ふとめざめたとき、起き上がらずにアナタたちの帰宅をたしかめられるからね。ボールにイニシャルを書いておいたからね、ちゃんと投げてね。

 投げる力がつよ過ぎて、ボールの勢いに目覚めさせられたり。顔に当たって「ぎょっ」としたり。
 しかし、いまでは、投げるほうも投げられるほうも慣れて、具合がいい。夜中、自分がかけている茶色の掛け布団カヴァの上に、黄色いのと黄緑のと、2つのボールがころがっているのを見ると、心からほっとする。

 サインは、「豪速球はやめてね」である。

Photo
このボールが、わたしの安心のしるし。


Photo_2
こうして、やすむ前に、寝室の扉のノブにかけておきます。

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2008年4月 8日 (火)

「ごはん、食べにおいでね」の箸

 「家族水入らず」というコトバがあるが、わたしの気持ちのなかには、それが、ない。ないことはないのかもしれないが、そういうことは言わずに暮らしたいと思って、言わずに暮らしてきた。

 昨日も深夜、末の子が寝ぼけ眼で、わたしの枕元にやってきて、
「追いだされたから、泊めて」と言う。
 どうやら、長女が、終電に乗りそこねた友だち2人を連れて帰ってきて、蒲団が足りなくなり、ひとりを末の子のベッドに寝かせたものらしい。やれやれである。
 しかし、ほんとうは、こういう展開をわるくないな、と考えている。  
 あの家に行けば、寝床くらいはみつけられる、と思ってもらえるのが、うれしいのだ。

 姉さんたちが勝手に泊まっていくのなんかは、もう慣れっこだが、もっと小さいひとが、親御さんの仕事の都合で、何日かつづけて泊まるようなときには、こちらもちょっと身構える。身構えるといっても、身構えていることを気取られないように身構えるという程度のことだが。
 ふだん通り騒がしくしていれば、まあ寂しい思いをさせてしまう心配もなかろうが、こういうとき、わたしは自分とふたつの約束をしている。
 ひとつめは、小さいお客さん(仮にハッパチャン)の名前をいちばん最初に呼ぶこと。
「ハッパチャーン、ごはんですよー」という具合。
 この家に暮らしているひとを呼ぶのは、そのあとだ。
 もうひとつは、ハッパチャンのお箸を用意すること。
「これ、ハッパチャンのお箸だから、おぼえてね」と、箸を紹介する。こうしておくと、ハッパチャンは、お膳立てを手伝ってくれるときにも、
「これが、ふんちゃん(わたしだ)ので、これが上のお姉さんので、これが、わたしの」という風に、みんなと同じ感覚で食卓につける。んじゃないかな。
 ときどき、お泊まりの小さいひとが帰ってしまったあと、末の子どもと目を合わせ、「なんか、久しぶり」「うん、久しぶり」と言い合って、ぎゅっと抱きあうことがある。
 だけどね……。
 何もかもを、あとまわしにされたこの家の子どもが、ひがんだり、ふくれることは、一度もなかった。もっとも、わたしにしたところで、ほかのことで、子どもがしょんぼりしているときにはわかってやりたいと思うが、この種の文句には、耳を貸さないつもりでやってきた。

 うちに「自分の箸」を持つひとがふえたので、紙で小袋をつくり、お名前を書いて、専用のひきだしにしまっている。
 このひきだしをあけるたび、自分たちが、一緒に愉しくごはんを食べる仲間をもっていることがひと目でわかる。
 ありがたいなあ、としみじみ思う。

「また、ごはん、食べにおいでね」

Photo
「ごはん、食べにおいでよ」の箸の一部です。

Photo_2
こういう、「袋貼り」みたいな内職が大好きです。
型紙と名前つけのシールを、箸と同じひきだしに
しまっています。
これさえあれば、同じ長さ、幅の袋がつくれるって
もんです。

Photo_3
箸のほかに、茶碗もそれぞれに用意できるといいんですが、
そこまでは、なかなかね……。
ときには、家の者たちが、ごはんを食べに来てくれたひとに
合わせ、みんなでそろいの茶碗を使うことがあります。
これが、その茶碗です。
(ふたも付いてます)。

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2008年4月 1日 (火)

「たれ幕屋」でございます。

 近しいひとにうれしいことが訪れると、すぐ「お祝い、お祝い」という気持ちになる。世知辛いこの世にあって、そうたびたび訪れるわけではないよろこびごとを、きっちり祝っておかなくては、という思いもある。

 季節の行事や、家の者たちや友だちの誕生日、就職のほか、「逆上がり記念」とか「一輪車記念」、「おじいちゃん、おばあちゃん、いらっしゃい」という祝いもある。
 自分の分だけでなく、身近なよろこびごとをかき集めるかのような勢いで、祝おうとしている。おっつけ、うちの食卓で祝うことになるのだから、たいしたことではないが、ひとの慶事のお相伴にあずかるときのうれしさは、格別なものがある。

「今週末、リョウヘイの壮行会やるから」
 と発表する。
「今晩、アイバチャンのお誕生日会します。7時までには帰ってきてください」
 と貼り紙をする。
 そういうとき、手の空いている者たちが、「じゃ、つくっちゃいますか」と言いながら食卓に集まってくる。
 紙、鉛筆、色鉛筆(DERMATOGRAPH)をとり出して、食卓にならべる。
 誰かが、紙1枚ずつに、「遼」「平」「、」「板」「前」「修」「業」「が」「ん」「ば」「れ」「!」と鉛筆で下書きをする。
 誰かが、それをなぞりながら、マジックインクで太字に仕上げていく。
 そうして文字とバックの色塗りがはじまる。
 これをするあいだ、「何て書こう?」と相談するほか、ほとんど打ち合わせもなく、作業はどんどんすすむ。この作業風景、すごく好きだ。
 お祝い=たれ幕つくり。いつの頃からこうしてきたかは忘れたが、誰かのお祝いをする、というとき、掃除や料理にとりかかる前に、家の者たちはいきなり「たれ幕屋」になる。
 これができてしまえば、お祝いの会の準備の半分はできたようなものだ。
「遼平、板前修業がんばれ!」
「アイバチャン お誕生日おめでとう」
 これさえできていれば、料理なんかはふだん食べているものに、飾り気と面白みを少し加えればいい、という気持ちになる。

 さて、きょうは長女23歳の誕生日。
 3月30日という、年度のどん詰まりに生まれたので、本人はどこかで苦労をしたかもしれないが、芯のあるいい女になった。と、思う。
 娘ではありながら、姉さんみたいでもあり、友だちでもあるひとが、すぐ近くで育ったことを、しみじみありがたく想いながら、「たれ幕屋」になる。このたびは、末娘とふたりの「たれ幕屋」。

 みんなで食卓を囲む。
 たれ幕の前で、記念写真を撮る。
 ——そういうのが、わたしが考える、祝い。 


Photo
こんな感じに、がしがし色を塗ります。
DERMATOGRAPHは、
大好きな文房具のひとつです。


2
「たれ幕」といっても、小さな看板(?)の連なり……。
こういう仕事だけは、みんな、すごく早いです。
がーっとはじめて、ばーっと描いて、すっと終わる感じ。
どの仕事(勉強)も、そうだといいんですが。

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2008年3月25日 (火)

異動

 桜が咲く。
 花は見たいけれども、そっと見たい。
 そういうわけなので、
 ひっそりと、ひとりで立っている桜を、みつけてある。
 こちらも、ひとりで桜に、会いにいく。
 夜桜を、静かに褒める。

 そっと夜桜、という求めは、春という季節のもつ一面の作用から生じるものかもしれない。
春は、晴れやかで、寂しい季節だ。
 卒業式もあるし、勤務地の異動もある。
 わたし自身は人事異動には縁がないけれど、親しいひと、尊敬していた先生の異動によって、ふるふる、とこころの揺れることはある。「異動」は、いきなり命じられる性質のものらしく、隣人に「来週引っ越す」と告げられて、いきなり大泣きしたことも、あったなあ……。
 ことしの「ふるふる」は、これから。
 別れの反対側には、出会いもあるのだから、と自分を励ますような気持ちで、かしこまっている。

 そういえば、先ごろ、うちのなかでも、小さな「異動」があった。
 予定を書きこむ黒板が、仕事部屋から台所へと、その任務地をかえたのだ。
 わたしの頭のなかには、仕事、家の仕事、おひととの関わり、というようなことに順番がない。「これ」が、「あれ」より大事、「それ」がすべてに優先する、ということがないので、1日の予定は、ただ列となって頭のなかにならぶ。
「なんとかの〆切。掃除。Y氏にお礼状。Iさんにファクス。どこそこのさし絵。買いもの。アイロンかけ。ブログ」
 という予定が、順番なしに8つなら8つならんでいる。
 頭のなかに置くだけでは、それを成しとげたときのよろこびが薄いし、何より、平気で1つ2つ取りこぼす質(たち)なので、洩(も)れのないよう黒板に書いておく。

 黒板があるのは、とてもうれしい。
 さて、つぎは何しようかなと眺めながら考えるのもうれしいし、チョークで書いた項目を小さな黒板消しで拭うのは、もっとうれしい。
 だけど、この黒板、仕事部屋にあるのがいいのだろうか。 
 何かするたび、いちいち仕事部屋に行って確かめるというのが、どうもね……。と、考えるともなく考えつづけている……。
 馴染みの桜の蕾がふくらみはじめたころ、はたと思いつき、てのひらを、もう片方の握りこぶしで打つ。
 そうだ!
 黒板を台所に移そう。
 なんにしても、台所は、わたしの暮らしの「真ん中」なのだ。ここにあるのが、ふさわしいというもんだ。
 「場所をうつさせてもらおうと思うんだけど」
 と告げると、
 黒板は、「異動ですか」と言い、
 「ようござんす」と首を縦にふった。
 そういえば、祖母の黒板も、台所の壁にかかっていたっけなあ。
 買いものから帰ると、買ったものとその値段を、ちょこちょこっと書いておくようなこともあった。

 台所に黒板をうつしてからというもの、家の者たちにもわたしの予定が知れるようになる。
「きょう、けっこう忙しいね。ま、休み休みね」とか。
「この『買いもの』っていうの、むずかしい買いもの? ぼく、出かけたついでにしてこようか?」とか。
 また、「ピアノ練習」「ぶんどきを買う」というように、隅っこに自分の予定を書く者まであらわれる。
 この春の、ちょっとした変化といえるだろう。
 台所で、新しい花が咲いたような。

Photo
台所に落ちついた黒板。
カレンダーや黒板、または自分の手帖に、
ひとのお名前を書くとき、
「さん付け」で書く(誰かが見ても、見なくても)、
というのを、若かりし日、先輩におしえられました。
こういうのは、品格への道に通じるかもしれません。

         ***        

さて、皆さん。
このブログから生まれた本『こぎれい、こざっぱり』
(オレンジページ刊)が、きょうあたりから書店に
ならびます。
いちばん見ていただきたい皆さんに、お願いしたいと思います。
『こぎれい、こざっぱり』、ぜひ、お手にとってくださいまし。
おじぎ。

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2008年3月21日 (金)

カフェカーテンを洗いました。

 家のなかのそこここに、微光があふれる。
 春の陽射しがつくる、光の影のコントラスト。

 冬のあいだ、気がつかなかった小さな澱(よど)み、かすかな汚れが、気になる。いやあ、ここ、こんなことになってたのか、と。 
 たとえば台所の西側の窓のカフェカーテン。
 なんだか薄汚れて、いる。
 それで、まあ、洗おうということになるわけだけれど、こういう働きは、わたしのなかでは家の仕事の「+α」と位置づけられる。
 毎日の仕事をこなした上(掃除だって怠けるくせに、えらそうに言えた義理でもないのだが)の、さらなる「+α」。
 これは、達成感をよぶ。
 だからといって、「+α」を一時(いちどき)にいくつもこなさないように、気をつけている。
 1日1個の「+α」、1日に1つの小さな達成感。
 カフェカーテンを洗って、陽に干して、アイロンをかけたら……、想像以上にさっぱりした。
 気が晴れるようだ。

 次ぐ日。
 この日の「+α」は———。
 カフェカーテンの下で、楽器をくわえて立っている陶製のおじさんの足をなおす。
 何年か前、友だちの引っ越しを手伝ったときに、片方の足のくるぶしから下を失ったこのおじさんと会う。
 ひとりで立つことがむずかしくなったおじさんを「預かってて」と言われて、うちに連れ帰り、そのままになった。
 おじさんは、この2年あまり、うちの台所の窓辺で暮らしている。
 その足を、やっとなおす。
 紙粘土で、義足をつくってはめこんだ。あ、いい具合。もっと早くに義足をつくるのだった……。

 足がなおったのだから、おじさんは友だちの家に帰るのかな。
 さびしいなあ。
 足、なおさなければよかったかな。 

1
洗濯しました。
さっぱりしたあ。


Photo_4
右足の先っぽ、わたしが紙粘土でつくった
義足をつけています。
色も塗ろうと思うには思うけれど、
もしかしたら、このままかもしれない……。


 さて皆さん。
 このブログの一部を収めた本ができました。
『こぎれい、こざっぱり』というのが、本のなまえです。
 皆さんのおかげで、ゆったりと楽しんで書いてきたものが、いきなりまとまったようで、驚きました。驚きつつ、感謝しています。
 どうか、どこかでみつけたら、お手にとってみてください。
 そしてこれからも、ブログをよろしくお願い申し上げます。
                      
                                                                           山本ふみこ


 
3
これが、本の表紙です。
この顔にピンときたら……(?)
あれ? 

「住」のこと、「衣」のこと、「モノ」のこと、
「時間」のこと、「食」のこと、という5章から
成っています。



Photo
表紙ととびらの写真は、写真家の安部まゆみさんの撮影です。
あの日。
編集者の沼田かおるさんと3人で、笑ったり、
おおいにしゃべった、楽しかったあの日。
こんな写真が撮れていました……。
この本。
微笑みと笑い声のなかで生まれた、不思議な本です。

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2008年3月18日 (火)

春愁

 友人のアサコサンからの、知らせ。
 「昨年まで、あんなに元気だったのに。
 気力も、ありません。
 あそこまで立派に生きてきたのに」

 ことばが、ない。
 アサコサンは、ひたひたと終わりの足音がするようだ、と言う。
 大きな大きなこぶしの木の話だ。
 この木は、アサコサンの家と、わたしの家のちょうどまんなかあたりにある。 
「わたし、この木が大好きなの」と紹介されてからは、注意して眺めてきたので、ことしの蕾の少ないことには気づいていた。
 しかし、長いあいだ、このこぶしをずっと見守ってきた彼女には、その変化の深刻さがわかるらしかった。
「あそこまで立派に生きてきたのに。人が枯らしました」と。

 翌日、こぶしのもとに急ぐ。
「励ましに、行こうよ」
 と末の子どもを誘って。
 つい先日訪れたときより、精気がうすくなっているのだった。
 わずかについていた蕾は、これから咲く、という風にはとても見えない。ただ、蕾のかたちをしたものが、枝の先についているみたいだ……。
 ふたりで手をつなぎ、木のまわりをこっそりぐるぐる、踊る。「がんばって」などと口の先で言うだけでは、間にあわない気がして。
 来られる日は、できるだけここへ来ることにしよう。
 決めた。

 小さく、可憐な花(それも、無数に)。
 やわらかい葉。
 張りめぐらされた繊細な枝枝。
 象みたいに、堂堂とした幹。
 見えないだけで、土のなかでたしかにのびている、根。

 ひとや鳥や虫や、そうして風も、日光も、その存在のすべてで受けとめてきた1本のこぶしの容体にさえ気づかない、わたし。もしかしたら、あなたも? 
 どうするのがこぶしのためになるのかは、わからないが、しばらくこちらからも、見守らせてもらおう。なんとかよみがえってくれますように、と、祈りながら。


Photo
こぶし。
ほかのこぶしは、もう咲いているのに、
この木の蕾は、かたく閉じたままです。


Photo_2
このまま、咲かないまま、
蕾は落ちてしまうかもしれません。
蕾をつけるので、精一杯だったのかもしれません。


Photo_3
根の方から、梢にむかって見上げると、
何か言いたそうな気配が伝わります。
何も気づかずに前を行きすぎた日日をふり返り、
「許してね」と言うのが、やっとでした。

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