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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
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2012年5月 1日 (火)

オレンジページnetよりお知らせ

5月1日よりブログが移転しました。

【引越し先】「山本ふみこさんのうふふ日記」>>>
http://plaza.rakuten.co.jp/opfumikoy

ブックマーク等されているかたは、変更をお願いいたします。
どうぞよろしくお願いいたします。

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2012年4月24日 (火)

台所小景

 台所に興味がある。
 食べものが生まれる場所だから……でもあるけれど、ひとが、ものを考える場所だからでもある。
 そこで働くひとは、手もとを見ながら(そして、たまにふとそこから目を逸らしながら)、考える。その日あったことも考えるし、ずーっと前にあったことも考える。まだ起こらないことについて思いめぐらしたり、起こりっこないようなことを想像したりもする。
 考えがこんがらかると、妙においしくないものができ上がったりして、困惑する。おいしくならなかった理由を、つくった本人は、わかる。
 あのとき浮かんだ妄想が、過分な辛みを加えさせたな、とか。辛い記憶が、混ぜこむべきでない材料を混ぜこませたな、とわかるのである。そうとうにいい線いっていた食べもののさいごのさいごに、あとから「入れなければよかった」と後悔するようなものを投げこんだときなどは、もう、二度といらないことは考えないことにしよう、料理に集中しようと誓う。
 また、いらないことを考えることを知っていながら、ちかっと誓う。

 今朝、わたしは5時に台所で働いていた。
 日曜日の、静かな朝だった。昼過ぎから雨になるとラジオは告げていたけれど、雨になるのは夕刻だろうという気がした。台所の窓から見える空が、そう思わせた。
 日曜日の早い時刻から何をしていたかというと、ソフトテニスの試合に出かける三女の弁当づくりだ。とにかく鶏のから揚げの好きなひとなので、朝の早(はよ)からじゅうっと揚げものをしている。静かな朝の揚げものは、楽器を奏でるように愉快だ。最初に1分半ほど揚げて引き上げる。5分くらいおいて、また1分揚げる。
 映画「南極料理人」(*)を観ていて(大好きな映画である)、「堺雅人」(大好きな俳優である)演ずる南極観測隊員・西村淳(調理担当)が、鶏のから揚げは二度揚げしなくてはいけないと一度ならず云うのを聞いてからの、二度揚げ。二度も揚げたら、油っぽさが増すように思えたのだけれどさにあらず。途中数分置くあいだになかまで火が通るらしく、さいごに1分揚げるときはからりといい色になってくれるというわけだった。

 おむすび3個。
 鶏のから揚げ、レモン添え。
 にら入りの卵焼き。
 茹でたブロッコリとカリフラワー(軸に白味噌を塗る)。
 焼きそら豆。
 にんじんグラッセ(花型)。
 りんごうさぎ。

 今朝も考えた。何を?
 自分が、説明的過ぎるということ。
 世のなか、誤解が前提になっていると思うあまり、あらかじめくどくどと説明してしまう。そうすることによって、経験の味わいが損なわれる。へんてこりんな予告篇でも見せられるようなことになって、実際にその場に立ったひとを興ざめさせてしまうのだ。ひとを興ざめさせたことで、自分も興ざめする。
 あとから、それもずーっとあとから、ああ、あのときの「あれ」はそういうことだったのかもしれないなあと心づくというくらいで、いい。
 そんなことを、りんごの皮をうさぎの耳のようにうすくそぎ切りし、ちょっと持ち上げながら考えていた。

 ——ひととひとのあいだに、ことばはそうたくさん要らないのかもしれないなあ。誤解されたって、かまわないじゃない。いつか、どこかで、それがも解けるもよし。解けないままも、まあまあよし。

*「南極料理人」2009年公開(日本)
 監督・脚本 沖田修一
 原作『面白南極料理人』(西村淳)
 南極観測隊員・西村淳は、南極大陸のドームふじ観測拠点の調理担当。
 越冬する隊員8人分の食事を用意するのが仕事だった。

Photo_2
台所の窓辺の小景です。
三葉とクレソンの、根っこの水栽培。
となりの小さいビーカー(ティーバッグの容器)には、
ドレッシングやたれの残りを入れています。
すぐ使いきってしまえるように。

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2012年4月17日 (火)

宿題をしたくない

 期日が迫っている。
 いつもと毛色の異なる仕事ということもあって、とまどっている。その上それは山のように積まれ……、うんざりしかかっている。そんなことを云うのは(思うのも)不謹慎だと知りながら、どうにもならない。こういうときは、ともかく自分を机の前にひっぱってゆき(ときにはずるずるひきずってゆき)、なんとかその気にさせる。
 ——何にしたって、これをしてしまわなくては、先にすすまないし、気が晴れないでしょう。
 と、説得にかかる。
 ——わかってるってば。やります、やりますよ、すぐにね。

 わかってるってば、ときっぱり云いながら、わたしは自分の目を盗み、書斎から出て居間兼食堂のほうにふらふらとゆく。
 ここで、食器棚のガラスに布の覆いをすることを思いつき、いさんでとりかかる。背の高い食器棚の上段に、以前は茶道具やグラス類を納めていたのだったが、これではいけないと考えるようになった。東日本大震災の直後のことである。割れものである茶道具やグラス類は食器棚の下方にしまい、上段には、ひとりでに扉があいてなかのものが飛びだしても困らないものを納めるようにした。
 そうしてみると、ガラス扉越しに見えるなかのものの様子が、芳(かんば)しくない。茶道具やグラス類のときには陳列窓のようだったのだが……。
 そういえば、そのむかし、祖父母の家の茶箪笥のガラス扉(の内側)に和紙が貼ってあった……。
 ——とりあえず、和紙を貼っておこう。
 と思い、全紙(和紙の、漉いたままの大きさ)を縦半分に切り、四隅に糊をつけて貼った。間にあわせにしたことではあったけれど、わるくない光景だった。何より、こうしようと思いついてはじめた作業が、連なってゆくのがうれしく、作業の選択がまちがっていなかったような心持ちになるのだった。
 和紙を貼りつけてから、1年と少し。そろそろ間にあわせでない状態にしたいものだ。ここ数か月、そんな思いを募らせていた。布をしまっておくひきだしをあけると、誂(あつら)えむきの布がみつかった。
 ——なぜ、この布に気がつかなかったのだろう。
 と思う。
 同じ胸のなかで、横から声がする。
 ——しなければならない仕事があるいま、こんなときに、気がつかなくてもよさそうなものだ。
 と。そんな声は訊かなかったことにして、わたしは、またしても作業の選択がまちがっていないばかりか、応援されているような心持ちになって、つき進む。
 実際にガラス扉に布を当ててみると、明るくてなかなかいい。

 ガラス扉の内側に黄色い布を貼りつけ、少しはなれた場所から眺める。腕組みをして、悦に入っているのである。
 ——模様替えは、なんてたのしい……。
 と、しみじみする。
——しなけらばならない仕事があるいま、こんなときに、これまで幾度ももったことのある感想をしみじみつぶやかなくてもよさそうなものだ。
 またしても、横あいからことばが入る。……やれやれ。
 わたしはしかし、ガラス扉の模様替えにすっかり気をよくして、模様替えをつづけたくなっている。いや、すでに腕が背の低いチェストを持ち上げている。そうして1時間あまり脇目もふらずに立ち働いてみると、居間兼食堂に、あらたなる空間が生まれているではないか。模様替えが、首尾よくいったというわけだった。

 突如思いついたことをひとりで実行にうつしたとなれば、家の者たちの驚く顔が見たくなる。誰か帰ってこないだろうか。そわそわしながら待っている(とうとう書斎へは行かずに)。
 あ、二女が帰ってきて云ったことには——。
「模様替え? さてはお母さん、きょう、宿題をしたくない子どもみたいになったな。そうでしょう」
「……う」

Photo
模様替え、模様替え、と思いながら
(思おうとしながら)していたその作業の動機が
「宿題をしたくない」だということ、うすうす気づいていました。
開きなおるわけではないのですが、
そんな抜き差しならぬ状況をも、
気分をも救ってくれるというわけです、家のしごとは。
しかも、ほんのちょっとした模様替え、かすかな変化が、
たいそう大きな作用をします。ね。

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2012年4月10日 (火)

やってきた

「持って帰ってね、これ」
 と云いながら、友人が卓の下に目を落とした。
 白い花が見えた。紙袋に、白い花束が入っている。
「わたしに?」
 昨夜、スペインのバル(※1)を模した店で、たのしいひとときを過ごしたときのこと。

 深夜、紙袋をさげて家に帰り、なかを見ると、花束だと思ったのは鉢植えだった。
 花には名札がついていて、「フランネルフラワー フェアリーホワイト」とある。
 ——どうして花を……?
 と考える。友人は、……彼女は、いつも、おいしいもの、めずらしい食べものをプレゼントしてくれる。花をくれたのは、はじめてだ。
「いらっしゃい」
 これは、花への挨拶。
 草丈は30cmほどで、葉も花も細かい毛で覆われている。
「はじめまして」
 これも、挨拶のつづき。

 今朝、居間に入ったわたしを白い花が、30cmのからだをそっとゆらして迎えてくれた。風もないのにゆれるはずはないのだけれど、そう見えた。微笑んでいるように。
 名前? 忘れた。なんとかフラワー。ええと、フランネルフラワーだ。
「おはよう」
 大袈裟かもしれないけれど、花がやってきてからかすかな重荷を感じていた。相手は植物で、しかも鉢植えときている。昨夜、布団にくるまりながらも、ずっと花のことを考えていたような気がする。重荷と云っても、気の塞ぐような負担ではなく、この花とうまくやっていいきたいが、という前向きなものだった。なにせ、命ある相手との出合いだもの。
 花に、重荷にとまどうわたしの気持ちを見せたくなかった。それで、昨夜うちにやってきたときの状態のまま(紙袋から出して、包みは解いた)、居間に置き去りにしてしまった。
 けれども。朝になって「おはよう」を云うときには、不安は消えていた。フランネルフラワーの育て方を調べて、安定したふさわしい環境を与えることができそうだという自信も生まれていた。
「おはよう。まず鉢を換えるね」
 とフラに告げてから(名もフラと決めた)、素焼きの9号鉢(※2)と培養土と赤玉土を運びこむ。居間のテラスで植え替えをする。プラスティックの鉢から素焼きの鉢に換えただけで存在感が増す。
 植え替えの作業をしている最中(さなか)、不思議な感覚が湧いてきた。不思議だが、はっきりとした感覚。「起こることにはすべて、わけがある」という……。
 この花がうちにやってきてくれたことにも、わけがある、という気がした。
 わたしのなかに生じたそんな感覚を、フラはおそらくわかっているだろう。生きもののなかで、見えないだけでたしかにそこにあるものをわからないのは、ひとだけだもの。
 か細い存在のフラでも、昨夜薄暗い店のなかで出合ったときからこちらをじっと観察して、わたしがかすかに感じていた重荷も、この家の様子も、わかっていたと思う。そしていまの気持ちも。
「よくやってきてくれたね」

※ 1 バル
軽食屋、喫茶店、はたまたバーでもある……バル。スペインのバルは、彼の地の食文化を物語っていると思えます。
※ 2植木鉢の号数
植木鉢の直径3cmが1号です。というわけで、9号鉢は直径27cm(3×9cm)の植木鉢。


Photo
フランネルフラワー
(セリ科/オーストラリア原産)
葉、茎、花が細かい毛で覆われています。
この手触りがネル(フランネル)に似ていることから
フランネルフラワーという名になったのではないでしょうか。
花は、春先から秋まで咲くようですが、
湿気と霜には要注意とのこと。
まずは夏をうまく越したいものです。

花びらのように見えるのはガクで、
なかの「まんまる」が花ですって。

「起こることにはすべて、わけがある」
ということを思いださせてくれたありがたい花。
大事にしたいと思います。

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2012年4月 3日 (火)

好きなもん

 方言が好きだ。
 ときどき、東北弁、関西弁を真似してみたりもする。厳密に云えば、東北弁、関西弁には、もっとこまかく、地域別の方言があることはわかっている。が、そこが「真似」のかなしさで、そちら方面、そのあたりの……というつかみ方しかできない。
 さきごろ最終回を迎えた、NHK朝の連続テレビ小説「カーネーション」にも、ことば、方言への憧れをかきたてられた。あれは、わたしが認識できる関西方面のことばのなかの岸和田弁だった。
「カーネーション」を観ながら、ああ、こんな話ことばを、すらすら云えるようになれたなら、と考えていた。個性あふれる方言は、それを話す者の思想と行動を自由にするように思えて。
 そんな書き方をすると、まるで自分が方言を持たず共通語を話し、公用語と呼ばれることばをあやつっているかのようだけれど、それはちがう。わたし個人は、おそらく北海道弁のニュアンス混じりの東京弁をはなしているのではないだろうか。ごく幼いころに東京に移り住んだとはいえわたしは道産子であるのだし、北海道縁(父は苫小牧生まれの札幌育ち。母は函館育ち)の両親のもとで育ったからである。ただ、個性には欠ける。「こちらでは、こんなふうに云うんですか」と云われることは一切ない。「おもしろいアクセント!」とおもしろがってもらう機会も、ない。
 特徴があり、発音の抑揚(イントネーション)に個性があらわれる言語というのはたのしいものだなあ、それこそ「お国ことば」だなあ、と思える。

 ところで。
 わたしは、ここで方言、お国ことばについて書こうとしているのではなかった。「好きなもん」の話をしようとしているのだった。
「好きなもん」と題をつけてみて、ああ、これも関西方面の云い方だなあと気がつく。東京弁ならば、「好きなもの」と書くところだ。そんなところから、つい話が脱線した。
「好きなもん」という……題名。
 こんなふうに、はじめから題名を決められることばかりではない。題名なしで書きはじめて途中でつけたり、書き終えたあとで題名を変えざるを得ない事態に追いこまれていたりすることが少なくない。が、きょうは、なぜだか、はじめに、とんと題名が置かれたのだった。
 ときどき開いている小さな読書会の折りのアンケートや、新聞社や出版社を通していただくお手紙に、きょう、お返事をしたい思いで書きはじめている。
 こうしたお手紙に多いのは、「子育てと仕事の両立について」、「時間のつかい方」、「元気の源」という質問だ。それらについては、追追、どのようにこんがらかり、うまくゆかなさとつきあってきたかを書いてお返ししようと思う。けれどきょうは、いただくあらゆる種類のお手紙に、まるで約束のようにあらわれている、ある文言について書きたい。
「毎日をていねいに暮らされている山本さん」というのが、それである。
 わたしのどこらあたりが、ていねいに見えるだろう。それはわからないけれど、ていねいと結びあわせての評価が多いのに驚くばかりだ。

 おたより、どうもありがとうございます。
 お手紙のなかに書いてくださった「ていねい」について、わたしが感じていることを、少し書かせていただいてもかまわないでしょうか。
「ていねい」というのは、注意深く、こころが行き届いていることです。手厚い、礼儀正しい、という意味もあります。
 さて、そうなると、そんな「ていねい」とわたしとのあいだに、いったい関連があるでしょうか。
 なるほど過去どこかに「ていねいに暮らしたい」というようなことを書いたかもしれませんし、「なるべくていねいに」という表現を選んだこともあったかもしれません。が、わたしは、「ていねい」を目標に暮らしたことはないのです。そんなことより(という云い方を、「ていねい」には許してもらわなければなりません)、めざすは「おもしろい」だと思えます。
 そうです、わたしの好きなもんは断然……、おもしろいです。
 おもしろいと思えることをさがし出してはそれにとり組み、どうしてもとり組まねばならない事柄については、そこにおもしろみをみつけて。そんなふうに、「おもしろい」を大事な座標として、これからも暮らしてゆきたいと考えています。    
                                 山本ふみこより

Photo
この写真、何でしょうか?

10×3cmの板きれです。
答えは、弁当のしきり。
ご飯とおかずを区切る役目をするあれです。
3つのわっぱの弁当箱のうち、1つのしきりが
見えなくなりました。
どうということもないモノのようでありながら、
なくなってみると、困ります。
夫が見かねて、板きれでつくってくれました。

わたしにすれば……、
こういうしごとは、おもしろくてていねいだと思えます。
ありがとうさん。

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2012年3月27日 (火)

その週のはなし

 終わるときは、いきなり終わるのだろうなあと、考えるともなく考えている。
 みずからの命の終わりも、もしかしたらこの世界(地球)の終わりも、どちらもいきなりやってきそうである。
 どちらの終わりも、わたしは恐れたくない。

 けれど。この世界の終わりに向かっては、いま、抵抗はしないといけないと考えている。なぜといって、それを終わらせるのは、わたしたち人間の仕業にちがいないからである。そこを反省したり、あらためたりすることなしに「終わりを恐れたくない」などと云うのは、身勝手が過ぎる。
 抵抗して抵抗して、反省してあらため、もうひとつ反省してあらため、という末にやはり終わりがきてしまったら、仕方がない。謹んで終わりを迎えよう。

 みずからの命の終わりも、もしかしたらこの世界の終わりも、どちらもいきなりやってきそうだ、と書いたけれど。もし、予告されたらどうするか。
 たとえば、「あと1週間で終わります」と予告される。
 1週間を長いと考えるか、短いと考えるかは、ひとそれぞれだ。わたしは、自分が、案外たっぷりあるなと考えるだろうと予想している。
 どんなふうに予告されようと、予告された当初はあわてるにちがいない。何をしておくべきかを考えて。やがて、わたしは、あわてた自分を笑うのだ。あわてる必要はないと、そう云って笑うのだ。
 いつもどおりに過ごせばいい。
 仕事もしよう。月刊のと、単行本の仕事……は、もうしなくてもいいだろう。
 問題は週刊の仕事だ。新聞の連載の原稿は、2週間前に渡してあるはずだから、安心。が、待てよ。さいごのコラムに、これまでの感謝を記したほうがよさそうだ。原稿を、差し替えてもらおう。
「愛読ありがとうございました」と書くだけではつまらない。これまで、書くには書いたが、遠慮しいしい書いてきた類(たぐい)のことを、おおっぴらに発表して締めよう。そうなれば、挿絵もあたらしく描かないといけない。いつもは速達郵便で挿絵を送っているのだが、この際、電車に乗って、東京竹橋の毎日新聞社まで届けに行こう。長く担当してもらった編集局の小川節子さん(記者生活30余年の彼女のことだ、きっと社に出ているだろう)に会って、ふたりで昼食に、パレスサイドのレストランのフランス料理を奮発しようか。「本日入荷・海の幸網焼きオリジナルタルタルソース」。よし、これにしよう。子どもの時分から30歳前半まで唯一苦手だったのに、ある日を境に好きになったタルタルソースを食べておくのも、わるくない。なぜ好みが変わったかというと、自分でタルタルソースをつくる羽目に陥り、つくってみたら、やけにおいしかったのだった。
「節子さん、長い間ありがとうございました。じゃ、ばいばい」と、手を振って別れる。
 ブログもあたらしく書いて、火曜日(ブログ「うふふ日記」は、毎週火曜日が更新日)を待たずに更新してもらう。そうして、いつもどおり、ときどきあけてみてはおたより(コメント)に返事を書く。たくさんコメントがくるといいなあ。これまで読むのにとどめてコメントを書かずにきたひとも書いてくださったら、わたしは忙しくもたのしく返事をする。
「地球はなくなってしまうけれど、こんどまたべつの星で会いましょう」なんかと書くのである。愉快。

 家のこと。仕事が片づけたあと、のんびりとりかかろう。
 ごはんもいつも通り。洗濯も掃除も。
 寝る前の読書。そうだなあ、「庄野潤三」を読むだろうかなあ。
 忘れるところだった。英文翻訳の課題をしなければ。これも、できるだけていねいに訳して、せんせいに見ていただく。高橋茅香子せんせいは、築地の仕事場におられるだろうか、それともご自宅におられるだろうか。どちらにしても、これはパソコンでお送りしよう。せんせいは添削してくださり、「いつの日にか、じっくり英文と向きあえるといいですね」 きっとそう書いてくださる。

 こうして、いつも通りの1週間が、いつもと同じ速度で、つまりあっという間のようでもあり、それなりに充実もしていたようでもあり、というふうにおわり、とうとうさいごのごはんだ。
 わたしは、これについて、この20年あまり、考えを変えないできた。
 鶏とセロリのサンドウィッチとスコッチウィスキー。
 これをさっとつくって、さくっと食べる。


Photo

「その週のはなし」の原稿を書き、
鶏とセロリのサンドウィッチをつくったら、
どんどん「その気」になってきました。
さいご、さいごと思っているのです。

でも、考えたら、今週は今年度の最終週ですね。
佳い1週間にしましょう。

         *

〈鶏とセロリのサンドウィッチ〉
鶏(蒸して細切り)とセロリ(せん切り)を合わせて、
酢(少し)をふりかける。
ここに塩こしょうして、マヨネーズで和える。
パンに、バタ(またはマーガリン)を薄くぬり、
好みの辛子をぬる。
鶏とセロリを和えてつくった「なかみ」をはさむ。
※パンの耳はつけたままでいいでしょうね。
 さいごの日なのですから。

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2012年3月19日 (月)

力学

 台所で昨年から使ってきた布巾。
 タオルを縫って(正確には、二女に縫ってもらって)布巾にしたものだ。長いあいだにいつしかたまった、旅先の宿でもらったものやら、おまけでもらったものやら、宿の屋号や商品名、はたまた会社名の入ったタオルだ。
 タオル地というのは、布巾として使うのに向いていることがわかって、得意な気持ちだった。が、目の前の布巾、いまや煮染めた雑巾のようになっている。
 だからといって、すぐとり替えてしまうわけにもゆかず、この半年近く、雑巾みたいな布巾を使ってきた。途中で何度か煮洗いをして、相手(布巾である)の溜飲(りゅういん)を下げ、こちらのもやもやをおさめてきたのだったが。 
 とうとう、そのときがきた。

 わたしは、家のしごとに便利を持ちこみ過ぎるのはよそう、と考えている。つまり、便利過ぎをおそれてきたのだった。 
 そのこころは、今世紀に入って嫌われ者になってゆく一方の不便の肩をもちたいというもの。昔ながらの技術を取得したいという夢。
 不便のなかにこそ手しごとの可能性や工夫のおもしろみがかくれている。そうして便利過ぎは、古きよき手しごとを遠ざけてしまう。だから、楽することばかりに夢中になってはいけないと、みずからを戒め戒め暮らしてきた。
 が、最近。
 じつは、ちょっと楽をしようと考えるようになっている。東日本大震災のあとに芽生えた考え方だった。
 楽をして余ったエネルギーをべつのことにつかおうという考え方である。わたしのたよりないエネルギーでも役立つ先をみつけて、そこへ向けたい、と。

 もしかしたら、それは「力学」ではないだろうか。
「力学」。わたしにとって、口にしたり、書くことすら憚(はばか)られることばだ。
 いや、その昔、縁の結ばれる機会はあった。……わたしは古い教室の窓からの斜めなす光のなか、「力学」とか、「なんとかエネルギー」(運動エネルギー、位置エネルギーなどだろうか)について学んでいる。物理学の授業である。かすかに触れあったものの、うまくゆかなかった。まず、相手との共通の話題をさがさなかったのがいけなかった。相手のほうも、わたしと親しくしようというそぶりもを見せなかった。
 ところが。年齢を重ねるうち、「物理」氏と共通の話題をみつけることなど、そうむずかしくないことを知るようになる。
 氏も、そして主婦であるわたしもひとしく、ことをはじめるときにはひらめきから出発する同類であることに気がついたからである。ずっと同じ道を行けるわけではないし、あちらは途中から込みいった数式をあやつったりしはじめるのだが。それでも、とっつきが同じだということがわかっただけで、苦手意識が吹っ飛んでしまった。空の彼方に。吹っ飛ぶときにも、力学的エネルギーが働いていたものと思われる。……たぶん。

 そろそろ、「台所で昨年から使ってきた布巾」へと、はなしをもどさないといけない。

 雑巾のようになってしまった布巾。
 ちょっと楽をしようという考え方。
 楽をして余ったエネルギーをべつのことにつかおうという計画。

 この3つが合わさって、ひとつの変化が起こる。「物理」氏には笑われるかもしれないけれど、これをわたしは力学だと思う。3つが合わさり、あたらしい力を生もうとしている。
 さ、わたしにうまく証明できるだろうか。もったいをつけているけれど、はなしは簡単。
 茶色のフェイスタオルをもとめてきて半分に切り、切ったところを縫って(正確には、二女に縫ってもらって)布巾にしたのだった。片面がパイル素材(精紡交撚糸)、片面がガーゼ素材の、吸水性はあるがかさばらないタオルを選んだ。
 考えたすえ、茶色(茶は、台所に入ってきていいことにしている色でもある)に決めた。これだと、汚れが目立たず、煮洗いの手間も、いっそ漂白してしまおうかというこころの揺れも、解消する。何より、布巾が雑巾のようになってゆくのを見る辛さから解放される。
 うれしや。このことで余ったエネルギーを、さて、どこへつかうかが課題である。

Photo
これで、楽をしようというわけです。
うれしや、茶色の布巾。


Photo_2
台所の手ふきも、同じものを使うことにしました。

それから。
浴室のタオルも、これまでずっと「白」を使ってきたのでしたが、
古くなったのを機に、このたび、
ベージュのタオル(写真のタオルと同じ素材の、色ちがい)にしました。
これで、また楽ができます。

            *

3月14日(水)自由学園の「明日館」において、
2回めの読者の会をひらきました。
不思議なほど、あたたかい会でした。
いらしてくださった皆さん、どうもありがとうございました。

参加してくださった方の書いてくださったアンケートのなかに
「明日地球が終わるとしたら、最後に何を食べるか」という
問いをみつけました。
近いうちに「うふふ日記」のなかでお答えしようと思います。
皆さんも、どうぞこの問いについて考えてみてください。

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2012年3月13日 (火)

あ、つながった。

 すごいなあ、すごいなあと思っている。
 こういうものに向かって、「すごい」と云うだけなんて、語彙(ごい)のないこと。けれど、ほかに……。そうだ、凄いと書いたらどうだろうか。こんなにやさしくきれいなものに「凄い」はないか。

 友人が、「母の手しごと……」と云って手渡してくれたものだ。
 刺し子の布巾である。赤い糸のと、藤色の糸のと2枚もらった。卓をはさんでともに飲もう、食べようという場面でのことだったから、すぐと鞄にしまい、それきり忘れた。
 思いだしたのは、夜半すぎ、家にもどったときだ。鞄からとり出し、矯(た)めつ眇(すが)めつ見れば見るほど、うつくしい。うつくしいが、それだけでなく、つよさのようなものもあらわれていて、圧倒される。
 友人のお母上は、たしか80歳をいくつか超えているはず。
 ふと、布巾の針目から、「使ってくださいな」という声が立った。酔っているせいかもしれなかったけれど、たしかに聞いてしまった。
 翌日、ほんとは飾っておきたいようなその布巾を、わたしは台所の電気オーブンの上にひろげた。洗い上げた食器類を拭いたあと、もうひととき干しておく広場にしようと考えたのだった。
 菜箸、しゃもじ、木杓子、椀、わっぱの弁当箱の休憩地である。この上で休みながら、さっぱりと乾いてもらおうという算段。

 お目にかかったことのない友人の母上が、わたしの台所で働いてくださっている。翌朝の台所には、そのことを思わせるのにじゅうぶんな空気が漂っていた。
「おはようございます」
 と、挨拶する。
「陽子さん(友人の名である)がここへ、お連れくださったのです。よろしくお願いいたします」
 刺し子の布巾は、「ごていねいに……」とおっとりと云ったあと、何年もここにこうしているかのような佇まいで、いる。
「陽子のところへは、子猫がやってきましたねえ」
 と、布巾が語る。
「ええ、ええ。先住の猫さんが逝ってしまって、しばらくは猫なしで暮らすつもりと云われていたのでしたが。そんなことにはならないような気がしていたのです」
 と、云う。
「生きる力が増すだろうね」
「ほんとうに」

 ひとと、こんなかたちでつながる。
 最近まで、それを知らないでいた。こころの宿ったものを通じて、つながることを確信したのは、東日本大震災のあとからだ。

Photo
気持ちのいい刺し子でしょう?
なんというやさしい針目かと、眺めるたび
わくわくします。
こういう手しごと、おぼえたいなあと思います。
そうして、知らない家の台所で働きたいです。
……夢。


Photo_2
休憩地です。

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2012年3月 6日 (火)

「忘れない人」

 ものがたりのなかにいるようだ。
 シルバーグレーのモーニングコートを身にまとい、10メートルほど離れた場所に立っている青年は、まるで、ものがたりに出てくる王子さまのようではないか。そして、そのとなりに佇むひとの可憐さと云ったら。
 先刻から、こっそり自分の手の甲や耳たぶをつねってみている。こういうときには頬をつねるものと知ってはいるけれど、たとえ夢のなかかもしれないにしても、目の前で結婚式が挙げられようとしているのだ。頬をつねるような仕草は、慎まなければならないだろう。

 ものがたりのなかにいる気分はそのままだが、これは夢ではない。つねった手の甲は赤くなっているし、耳たぶもまたひりひりする。
 モーニングコートの青年は、王子ではなく、わたしの友人の巧望(たくみ)くんだ。
 巧望くんは、長女の小中学校の同級生である。巧望くん10歳、わたし36歳のころから互いを、「巧望」、「ふんちゃん」と呼びあってきた。家族ぐるみで親しくしてもらった。
 いや、親しい、という云い方では足りない。3人の子どもたちはもちろん、夫とわたしも、巧望の家庭(巧望には、妹、弟、妹がある。4人きょうだいの長男)には少なからず影響を受けている。両親の方針で、つねに(つねに、である)体裁などより大事なことをまっすぐ大事にする6人家族に、自分たちの姿を写してあるときは恥じ入り、平生(へいぜい)励まされてきたのだった。
 昨年の終わり近く、巧望と婚約者の優理子さんが結婚式と披露宴の招待状を持ってきてくれたとき、叫び声を上げそうになった。辛いことをたくさん見聞きし、重苦しいものばかりを胸にあつめた1年(2011年)のおわりに、透きとおった光の幕が下りてきたかのようだった。「おめでとう」と云うはずのところ、「ありがとう」の5文字しか口にのぼってこなかった。
「ありがとう、ありがとう」と。

 すばらしい結婚式(と披露宴)だった。
 ともに列席した長女とふたりで、長きにわたって巧望と友情を紡ぎつづけてこられたこと、その両親ときょうだいたち(親戚も)を近く眺めつづけてこられたことのなみなみならなさを、ありがたく再確認す。
 新郎新婦が、自分たちの門出を祝ってもらおうというよりも前に、これまでの感謝をあらわす姿勢を貫いていたことにも驚き、打たれている。そういえば、ことしの巧望の年賀状に、「たのしい式になるよう準備に勤しんでいます」と書いてあったなあ。たのしい式とは何だろうかと思っていたのだったが……、このことだったのかと、思わず、目の裏が熱くなる。

 この縁(えにし)、自然につながって、なんとなくつづいてきたように考えていた。が、ほんとうはちがうのではないか。呼びあうものはあったにせよ、友情が途切れずつづいてきたのは、年若き友人の守護のおかげだったのではないか。
 この魂に触れてくるものについて、無頓着であってはならないと思わされている。わたしはときどき、ひとという……、自分という……存在に恐怖して、自ら無頓着の境地に逃げこむことがある。触れてくるものが慈愛に満ちている場合も、反対にときとしてこちらを損なう場合にも、そこを学びきれと、またしても励まされている。


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「忘れない人」というアルバムをつくって持っています。
友人のところに生まれた赤ちゃん、結婚式の写真、
発表会やリサイタルほかの舞台写真などなどをおさめます。
先達ては、
指輪(大叔母の形見)のリメイクをおねがいした作家の仕事場の写真も、
おさめました。
このアルバムに題名をつけるとき、
「忘れられない人」と書き入れましたが、
ふと……「忘れない人」にしようと思いなおしました。
「忘れない」ことを誓いたいなあ、と思って。


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巧望の結婚式、
長女とふたり、きもので出席しました。
仕度を母に手伝ってもらって。
きものを着たのは、15年ぶりのことです。
きものが、よろこんでくれたような気がしました。

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2012年2月28日 (火)

あたまと尻尾

 目には見えないはずのものが、見えるような気のすることがある。
 と云っても、わたしに超能力があるわけではない。見えないものは見えないものとして、不思議なものは不思議なものとして、ただ、感じるだけだ。

 ごく最近もこんなことがあった。
 見えないもののあたまと、尻尾が追いかけっこをしている。わたしは、追いかけっこを眺めるところに位置しているのだが、それは……、そうだ、あれに似ている。虎たちの様子を、やしの木のかげに隠れて、「いったい、どういうことに なるのかしらと おもいながら、そっと のぞいてみている」さんぼに似ている。
『ちびくろ・さんぼ』の主人公のさんぼである。

                     *

 おかあさんのまんぼがつくってくれた赤いきれいな上着と青いずぼん、おとうさんのじゃんぼが買ってくれた緑色の傘と、底が真っ赤で内側も真っ赤な紫色の靴を、4頭の虎にとられてしまったさんぼです。泣きながら歩いていると、「ぐる・る・る」という恐ろしい声が聞こえてきました。
 それはなんと、4頭の虎が「おれが、いちばん立派な虎だ」と云って、けんかをしている声でした。しまいに虎たちは、けんかのきっかけになった、さんぼからとり上げた上着、ずぼん、傘、靴をほうり出して、自分のとなりの虎のしっぽに食いついて、ぐるぐるかけまわりました。すると、木のまわりに虎の輪ができました。
 そのすきにさんぼは、虎たちがほうりだした上着とずぼんを身につけ、靴を履き、傘をさして帰りました。
 あんまりぐるぐる、ぐるぐるまわっているうちに、とうとう虎たちは溶けてバタになってしまいました。そこへ、さんぼのおとうさんが大きなつぼを持って通りかかります。バタをつぼにいっぱい入れて、うちに帰りました。
 おかあさんはバタを使って、おいしい「ほっとけーき」(※)を山のようにつくってくれました。

                     *

 わたしに見えた(ような気のする)、見えないはずのものとは、時間のあたまと尻尾だった。時間の尻尾が、自らのあたまを追いかけている。それをこっそり見ているわたしは、むなしさとおかしみの混ざる気持ちを抱いている。
 ふと、忙しさから逃れたくて、ぐる・る・る・る・る・る・る・る・る・る・ると、自分の時間に追いかけっこをさせてしまったなあと、思ったら、むなしさとおかしみが同時に湧き上がってきたものらしい。
 ——むなしさやおかしみなんかより、バタのほうがよかったなあ。

 半年ほど前のことだ。
 朝の家事の時間にゆとりをもたせるため、洗濯を夜のうちにすることを思いついた。長年、洗濯は朝してきたのだったけれど。朝にしようと、夜にしようと、洗濯には変わりがないし、その変化も決して大きいものではない。それなのに、なんだかものすごいことを思いついたような気持ちになるのだった。これこそが家のしごとの特質だと、わたしには思える。そして、些細なことを掻き抱きながらすすんでゆくのは、一種の醍醐味とも云える。
 そのことはうまくいった。
 とくに初めは快調だった。
 ところがそのうち、洗濯かご(洗濯したいモノを入れておくかご)に衣類がたまっているのを見ると、朝であってもつい、洗濯したくなってきた。ことに夜、洗濯をすませたあとに帰宅した者たちが大物の洗濯ものを出したときなど、そんなことになるのだった。
 おかしなことに、いつしか、夜の家事の時間にゆとりをもたせたくなってくる。朝の家事の時間にゆとりをもたせるためにはじめた、夜の洗濯だというのに。このあたりで、時間の追いかけっこがはじまったのだ。時間の尻尾が自らのあたまを追いかけている……? いや、時間の頭が尻尾を……? 何にしても、ぐる・る・る・る・る・る・る・る・る・る・ると、やっている。
 忙しさから逃れたい気持ちが、あたらしい忙しさを生むというわけだった。
 ほんとうは、朝生まれたゆとりのなかで、「ほっとけーき」を焼いて、みんなでたーくさん食べたりするはずだったのに。

※ 「ほっとけーき」
ものがたりのさいごに、おとうさん、おかあさん、さんぼの3人が「ほっとけーき」をたくさん食べる場面が出てくる。さて、それぞれが食べた枚数は?
(答えはキャプションのおしまいに)。


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洗濯と云えば、先週初めてこういうものを洗いました。
三女が、中学の授業で使わせていただいた柔道着です。
干しているときも、たたむときも、どきどきしました。
柔道着、小さくたたんで帯でしばり、その帯を肩にかけて
(かついで)運ぶのですね。
そのことにも、どきどきしました。

          *

「ほっとけーき」の答えです。
おかあさんのまんぼ、27。
おとうさんのじゃんぼ、55。
ちびくろ・さんぼ、169。

※お知らせ
2012年6月1日 13:00 - 15:00
新宿の朝日カルチャーセンターにて、
「エッセイを書いてみよう」という講座(1回)の講師を
つとめることになりました。
ご興味のある方は、朝日カルチャーセンター
(03-3344-1945)に
お問い合わせください。

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