平安時代の赤ん坊
今朝のこと。
その日、まんなかの娘とわたしが、それぞれほど近い場所に出かけることを知って、
「お互いの用事がおわって、会えそうだったら、お茶でも飲もう」と相談。
ところが。
「(携帯電話で)メールするね」
と言いのこし、先に出かけた娘の部屋の机の上に、携帯電話を発見!
これを忘れて出たら、待ちあわせて、お茶を飲むなんて無理じゃないの……と、がっかりする。
出先での仕事が思いのほか早く片づき、以前、一度おいしい紅茶を飲んだことのある喫茶店の客になる。紅茶を1杯飲んだら、晩の買いものをして、さっさと帰ろう。
そこへ。見覚えのあるグレーとピンクの模様が近づいてきた。
見覚えがあるのも道理で、それは、朝送りだしたときに見たワンピースを着た娘だった。
「用事が早くおわったから、来てみたの。知ってる店、ここだけだったし。……携帯電話、忘れて、ごめんね」
へえ。
携帯電話で連絡をとろうとすると、電話に出そこなったり、メールの行き来がもどかしかったり、と、うまく通じ合わないことが多い。この子にも、「どうして携帯電話に出ないの? 話にならない!」と、幾度文句を言ったことだろう。
ふたり、向かい合って紅茶を飲みながら、
「携帯電話より、勘とテレパシー!」
という話をする。
こんなことがあって、ふと、わたしに携帯電話は不要か・も・し・れ・な・い、と考えるようになる。
そも、番号もアドレスも、きわめて限られたひとにしか、おしえていないのだし。通信は、自宅の電話と、いまのところ仕事上、どうしても必要になっているパソコンに集約するとして。
携帯電話をやめたら、晴れ晴れとするんじゃないかな。……という気がしている。
生まれたときは、平安時代の赤ちゃんと変わりないのに、現代人は、大人になるまでのあいだに、おぼえなければならないことがいっぱいだ。
たとえば。
テレビやDVDプレーヤーの扱い。
パソコンの扱い。
携帯電話の扱い。
その他……。
どれも、たいていは、わからずに使っている。
どうしてそれに画(え)が映るのか。どうして音が鳴るのか。どうして本1冊分の文章がぴゅっーと一気に、海外にまで飛んでいくのか。どうして線につながっていない電話が、ここかしこで使えるのか。
必要ないものまで持つことはないだろう。
少なくとも、何が必要で、何が必要でないかは、考えたい。うまく使うにはどうしたらいいかを、考えたい。……考えなければ、現実と、また、生身のひとと、向きあうことを忘れてしまいそうだ。
徒(いたずら)にすべてを使いこなそうとし、また、実際に使いこなしていい気持ちになっているあいだに、ひと同士のあいだの機微(きび)に鈍感になり、手仕事がばからしく思えてきたりするのであれば……。
いろんなことがいかに「進歩」であり、「進化」でも、わたしは、生まれたときの平安時代の赤ん坊のままでも、いい。
小物(靴下や、ハンカチーフ、ミニタオルなど)専用の
洗濯干し。これも、かなり年季が入っていまして、
もう10年はたっていますかね。
さすがにこのごろ、
洗濯ばさみが欠けたり、
本体から、くさりが取れたり。
こういうのをなおして使おうとするのなんかは、
わたしの趣味みたいなものだろうか、
と思ったりしています。
こんな作業をしながら、
「洗濯したものをどう干すか」
というようなことは、平安時代よりももっと前、
弥生時代のひとも考えていただろうなあ、と
思ったことです。












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