異動
桜が咲く。
花は見たいけれども、そっと見たい。
そういうわけなので、
ひっそりと、ひとりで立っている桜を、みつけてある。
こちらも、ひとりで桜に、会いにいく。
夜桜を、静かに褒める。
そっと夜桜、という求めは、春という季節のもつ一面の作用から生じるものかもしれない。
春は、晴れやかで、寂しい季節だ。
卒業式もあるし、勤務地の異動もある。
わたし自身は人事異動には縁がないけれど、親しいひと、尊敬していた先生の異動によって、ふるふる、とこころの揺れることはある。「異動」は、いきなり命じられる性質のものらしく、隣人に「来週引っ越す」と告げられて、いきなり大泣きしたことも、あったなあ……。
ことしの「ふるふる」は、これから。
別れの反対側には、出会いもあるのだから、と自分を励ますような気持ちで、かしこまっている。
そういえば、先ごろ、うちのなかでも、小さな「異動」があった。
予定を書きこむ黒板が、仕事部屋から台所へと、その任務地をかえたのだ。
わたしの頭のなかには、仕事、家の仕事、おひととの関わり、というようなことに順番がない。「これ」が、「あれ」より大事、「それ」がすべてに優先する、ということがないので、1日の予定は、ただ列となって頭のなかにならぶ。
「なんとかの〆切。掃除。Y氏にお礼状。Iさんにファクス。どこそこのさし絵。買いもの。アイロンかけ。ブログ」
という予定が、順番なしに8つなら8つならんでいる。
頭のなかに置くだけでは、それを成しとげたときのよろこびが薄いし、何より、平気で1つ2つ取りこぼす質(たち)なので、洩(も)れのないよう黒板に書いておく。
黒板があるのは、とてもうれしい。
さて、つぎは何しようかなと眺めながら考えるのもうれしいし、チョークで書いた項目を小さな黒板消しで拭うのは、もっとうれしい。
だけど、この黒板、仕事部屋にあるのがいいのだろうか。
何かするたび、いちいち仕事部屋に行って確かめるというのが、どうもね……。と、考えるともなく考えつづけている……。
馴染みの桜の蕾がふくらみはじめたころ、はたと思いつき、てのひらを、もう片方の握りこぶしで打つ。
そうだ!
黒板を台所に移そう。
なんにしても、台所は、わたしの暮らしの「真ん中」なのだ。ここにあるのが、ふさわしいというもんだ。
「場所をうつさせてもらおうと思うんだけど」
と告げると、
黒板は、「異動ですか」と言い、
「ようござんす」と首を縦にふった。
そういえば、祖母の黒板も、台所の壁にかかっていたっけなあ。
買いものから帰ると、買ったものとその値段を、ちょこちょこっと書いておくようなこともあった。
台所に黒板をうつしてからというもの、家の者たちにもわたしの予定が知れるようになる。
「きょう、けっこう忙しいね。ま、休み休みね」とか。
「この『買いもの』っていうの、むずかしい買いもの? ぼく、出かけたついでにしてこようか?」とか。
また、「ピアノ練習」「ぶんどきを買う」というように、隅っこに自分の予定を書く者まであらわれる。
この春の、ちょっとした変化といえるだろう。
台所で、新しい花が咲いたような。
台所に落ちついた黒板。
カレンダーや黒板、または自分の手帖に、
ひとのお名前を書くとき、
「さん付け」で書く(誰かが見ても、見なくても)、
というのを、若かりし日、先輩におしえられました。
こういうのは、品格への道に通じるかもしれません。
***
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おじぎ。
ふ
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