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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
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2008年10月

2008年10月28日 (火)

雪だるまエイト

 1、2、3、4、5、6、7、8、9。

 因数分解やら、微積分の話からはなれて———と言ったところで、両者と親密だった記憶もないが———ただ、数字を数字として眺めると、その表情の豊かなことに驚かされる。数というものがなかったら、生活の実務の部分も、会話も、そして文化も芸術も、自由のきかぬことになっていくことだろう。
 そうなのだ。
 数字勝(が)ちに計ろうとするのは窮屈だが、数字なしでは自由がきかぬ。

 あるとき———おそらくは、子どものうちの誰かが、九九をさらっていたときだろう———どの数字が好きか、という話題になった。
 わたしもその話題に巻きこまれ、
 ———どの数字が好きだろうか。
 と、あわてて、数字をみつめなおしたことがある。

 1、2、3、4、5、6、7、8、9。

 すると、どうやら、2が好きらしいぞ、と思えてきた。
 水鳥のように、尾がはね上がったところも、なかなかあいくるしい。考え過ぎず、ただ直感的に「2」と決めてしまったら、楽になった。
 以来、「2」を頼みに数を決めたり、ちょっと縁起をかついだり。

 子どものころから「8」が、うまく書けなかった。右上から左方向にまるみをつけて書き、右下に向かう。ここで、下のまるを安定させるのが、むずかしい。「8」の底をつくって、こんどは右上目指して一気にペンをのぼらせるのだ。いつも、なんだかやせて無愛想な「8」になる。頼りなさげに右に傾いてもいる。
 15年ほど前のことだ。
 当時「まる文字」という、まるっこい文字がはやりはじめていた。流行もあるだろうが、横書きが主流ということになってきた影響もあるのだと思う。まるく、小さめの文字が、横罫の上にくりくりとならぶ様子は、その当時もいまも縦書き中心のわたしには、はるけし眺めだった。

 あるとき、目の前で、若いひとが「8」の字を書くのを見た。
「8」のまんなかのくびれから書きはじめ、時計回りに上のまるを書く。つぎは、ふたたび時計回りに下のまるを……。つまり、まるが上下に重なった、雪だるまのような「8」。
 うちにかえって、すぐ、真似をして書いてみた。それまでわたしが書いていたやせて無愛想な「8」とは、似ても似つかぬ、円満な「8」が、紙片のなかからこちらを見上げている。
 ———雪だるまエイト。
 そんな佇まいだった。

 15年間も、雪だるまエイトを書きつづけて、ことし、昔の「8」にもどりたくなった。本来の書き順を、ということもあったが、自分の書く数字のなかで「8」だけが、いやに若作りなのが気になってきた。
 それで、右に傾いてはいるけれど、愛想もなくはないという「8」を練習。
 長年の癖というのは、簡単にはなおらないもので、現在のところ、「雪だるまエイト」4、「昔の8」6という割合で、「8」の字を書いている。 

Photo
群馬県沼田市の友人から、
「いいもの」が届きました。
なめこです。
このきちっとした荷造りに、
数字を感じました。
そこからひらめいて、このたび数字について
書いたのでした。

なめこは、
鍋やなめこ汁(味噌とすまし仕立てとに)にして
いただきました。
なめこと白菜を油で軽く炒めて、
しょうゆ味のうどん汁に加えるという
食べ方もおそわりました。

荷物の手前に見えているのは、
穴原(あなはら)きゅうり。
今年の食べ納めだそうです。
これは、
薄切りにして、うどんの薬味にしました。


Photo_2
思わず数字を連想させてくれた荷の底から、
小さな葉っぱが数枚出てきました。
これ、なんの葉っぱでしょう……。
色づきはじめた
お庭のブルーベリーの葉っぱなのですって。

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2008年10月21日 (火)

はっ。

「あおむしさんたちっ」
 朝いちばん、ベランダのキハダの小木を住処にしているあおむしを見に行く。
「きょうも、お変わりないですかぁ」

 お変わりなくないどころか。
 わたしは、そこで、思いもかけない場面に遭遇した。
 ブルーグレーのマントに黒いマスクの怪鳥が、キハダに接近。あおむしを口にくわえて、いままさに飛び立とうとするところだった。
 あああ、と駆けよる暇(いとま)もなく、怪鳥とあおむしは、隣家の屋根のむこうに消えた。キハダの枝をさがすと、昨夜、寝る前にいたはずの、もう1匹のあおむしの姿もない。
 怪鳥の正体は、シジュウカラだ。
 さいきん読んだ園芸の本に、
「都会でガーデニングを始める方も、虫退治&楽しみのひとつとして、巣箱をかけてみることをおすすめします。おすすめはシジュウカラやヤマガラなどのカラ類です」(※)
 というくだりがあり、ほおおっと感心したばかりだった。

 だけど、だけど、と頭のなかがこんがらかる。
 ええと、ええと、と考えがあふれる。
 あおむしが、シジュウカラに連れ去られる(餌として)。このことにわたしが少なからず衝撃を受けるのは、この数日、あおむしに心を寄せていたからだ。が、シジュウカラの側に立場を置き換えてみると、あおむしをみつけて、それをヒナのもとに運ぶことは、自然の摂理。シジュウカラのつがいは、ヒナのために1日に300回も餌を運ぶそうなのだから。
 子どものころから、わたしはいのちに対する感情をつくってきた。教育され、聞きかじり、影響を受けながら……。そして、あらゆるいのちを、できるかぎり大切にしたい、という感情をつくりあげた。
 一方、この数日のあいだに、わたしがあおむしに寄せた気持ちというのは、つくりあげた感情というよりは、むしろ本能的なものだ。
 わたしは、ちょっとしょんぼりする。
 あおむしを失ったからということもあるが、それだけではない。自分が作り上げてきた感情世界のなかの、矛盾に追いつめられて、だ。
 そして、朝ごはんに焼くつもりだったベーコンを、食べるのをよしたりして、いかにもとんちんかんに動揺している。

 ひととして生きながら、思えば、かなりぎりぎりの場所で、いのちを大切にしたいと希っているわたしたち。そんなわたしたちが、ときどき見えない壁に突き当たる。はっとさせられる。
 ああ、それこそが恩寵なのかもしれない。
 はっとして、立ち止まり、考える。はっとして、立ち止まり、また考える。

※『柳生真吾のガーデニングはじめの一歩』(家の光協会刊)。この本を読むと、ガーデニングへの夢がふくらみます。

 Shijukarasmall

シジュウカラの写真を
撮りたかったけれども、
敏捷な彼らをカメラでとらえるのは、
むずかしそうです。
で、絵を描きました。
いかにもへたくそですが、
ベランダの手すりにとまって、
こんなふうにこちらを見ているのです。
ちょっと、首をかしげて……。

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2008年10月14日 (火)

あおむし

 ベランダの、キハダ(※)の植わった鉢の縁にあおむしがいる。こんなところにやってきてしまって、じっとしているなんて。
 そうは思ったものの、理由もあるのだろうからと、だまって見ていることにした。
 あおむしは、鉢の尾根を歩いている。

 気をつけて見ていると、見るたびに、居場所がうつっている。少なくとも、この日、このヒトは、円周90センチほどの鉢の縁を、1周はしたのだ。
 あおむしは、何かを考えめぐらすかのように、頭部を心持上げている。

                *

 この夏、決心して、英文の翻訳の勉強をはじめた。
 どうしてそれをしようと考えたか。
 英米の漫画を読んで笑いたい、と夢見たわけでもなければ、いつかアイルランドの小さな詩の一篇を訳そう、という志をもったのでもなかった。ただ、ひとりの先輩の存在が動機だった。
 このかたの居場所は、広く語学に関する世界にあり、現在のお仕事は英語の翻訳家だ。
 もし、この方が韓国語の翻訳家であったなら、わたしはいまごろハングルと取っ組み合いをしていただろうし、もし、陶芸家であったなら、土の勉強をしていたことだろう。
 その笑顔。所作。醸している何か————そういったものを受けとめたい、できれば一部分でも受け継ぎたいと思わせるひとに、とうの昔に出会っていながら、いままで、そのためにできることをひとつもしてこなかった。それを、とうとうしようと思った。

 この方がもつ翻訳の教室に月2回通うというのは、また、通うだけでなく、その前に翻訳の宿題をするというのは、いまのわたしには、途方もないことだった。そのための時間を生み出すのに、どのくらいの努力が要るかを考えると、すぐと決心が崩れそうだった。しかし、あれこれ考えるのはやめて、ただ、いまのわたしを、自分の想いに託しきってみた。
 すると答えが、出た。
「何が何でもしてみよう」

 3回めになる、この日の宿題のむずかしさといったら、なかった。
 それは新聞記事だったから、訳すにあたって文章の風合いやら、ニュアンスに気をつかう必要はなかったが、何が何だかさっぱりわからない。
 誰が「それ」をしたというのか。
 「その気質」をもっているのが誰で、この「they」は誰たちのことなのだか……わからない。
 わたしには、隠れた関係代名詞が見つけだせないばかりか、主語と述語という基本的な文法が受けとめられないらしかった。情けなかった。結局、宿題3分の2で、ギブアップした。
 それでも。わたしは愉しくてならなかった。
 おそらく何十年ものあいだまったく使わなかった……、もしかしたら生まれてこのかた使ったことのなかった脳の部分を使っている感覚があった。そのため、頭がひりひりするようだったが、そのひりひりが心地よく、そうなると、宿題ができきれなかったことまで、愉しくなってくるのだった。

                *

 机を離れたわたしは、キハダのあおむしを見にいった。あおむしは、鉢の尾根を歩くのはやめたとみえて、キハダのまだ細い枝の上にいた。 
 ————きょうの日の半分、わたしはあおむしのようだったなあ。見霽(みはる)かす彼方をみつめて歩いていた。
 なんともいえない気持ちが、あおむしに向く。

※キハダ———ミカン科キハダ属/落葉樹/内皮を乾燥させて、生薬としてもちいる(黄柏)。 

Photo
勉強をはじめるにあたり、
自分を励ます意味でも、新しい辞書を
買いたい気持ちもありましたが……。
本棚のすみっこから、学生時代に使っていた
辞書がこちらを見下ろしているのでした。
——久しぶりだね。
——ま、また、お世話になります。
と、挨拶。
書きこみをしながら、しばらく使わせて
もらうことにします。

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2008年10月 7日 (火)

ベンジャミン卿

「アナタは、いくつなの? 若いの? それとも、うんと歳とっているの?」
 今朝早く、子すずめのこの、早口な問いかけに起こされた。
「おはよう」
 ————まずは挨拶だろう。
 いまどきは、すずめも、子どもに挨拶をおしえないのだろうか。
 おそらく誰にもだまって、巣をぬけ出しここまでやってきて、先(せん)から知りたかったことを、大急ぎで投げかけたのだろう。
 しかし、いくら急いでいても、「おはよう」は言わなければ。おしえる者がいないなら、ワタシがおしえよう。
「キミは、何か忘れてはいないかね。お、は、よ、う」
「あ。おはよう、ございます。言わなかったね、ボク」
「おお、素敵だ。なんだって? わたしがいくつか知りたいって? キミの目にはどんなふうに見えるんだ?」
「歳とったお兄さんのようにも、うんと若いおじいさんのようにも、見えるの」
「……」

 その答えは、ただしい。
 そう思ったら、ひとりでに笑いがこみ上げ、ワタシは躯をゆすってあははと声を立てていた。笑ったのは、久しぶりだ。

              *

 さて、この話のつづきは、わたしが引きつぐとして……。

 子すずめに向かって、挨拶をうながす礼節のひと・ベンジャミン卿は、ゴムノキの仲間、観葉植物である。
 フィカス・ベンジャミン。
 15年ほど前、大きく育った株の枝を、挿し木して、3つの鉢に分けた。3鉢のうちの2鉢(もとの株と、挿し木のと)は、フィカス・ベンジャミンをほしがっていたひとのもとにそれぞれもらわれていった。
 その後の安否は知れない。
 元気でいるだろうか。
 ベンジャミン卿は、小さな挿し木だった。
 だからこそ、もとの株からの生としては、経験を積んだ者のように見え、挿し木後の生としては、若者のように見えるのだろう。
 子すずめの、「歳とったお兄さんのようにも、うんと若いおじいさんのようにも、見えるの」は、それを言い当てている。
 初めて挿し木の彼に会ったとき、そのか弱き姿を見て、わたしはなぜ「卿」というしかつめらしい称号をつけたのか。か弱くはあっても、どことなく品格を身につけ、根づきはじめているその姿に、たのもしさを感じたからだった。

 近くを通るとき、水や肥料を与えるとき、「ベンジャミン卿、」と声をかける。この呼び名のおかげだろう、話しかけ方もうやうやしくなる。
「ベンジャミン卿、おはようございます」
「ベンジャミン卿、台風が明日あたりやってくるようです」
「ベンジャミン卿、お茶をご一緒しませんか?」

 あまりにも疲れ……。ひどくこんがらがり……。ちょっとさびしくなり……。途方に暮れて……。
 そんなときわたしは、くだんの子すずめのように、大急ぎで紅茶をいれてベンジャミン卿のもとに行き、坐りこむ。
「ベンジャミン卿……」と言ったきり、コトバのつづかないこともあるが、こちらがどんなでも、いつも卿は静かに、こちらに気配を向けるともなく向けて立つ。わたしには、その決して度を越さぬ佇まいが、不思議なほど慰めになる。


2

ベンジャミン卿です。
挿し木したとき、ほんとうに小さかったので、
まだ、背丈は105センチです。
しかし、いまや、葉もつやつやとうつくしく、
立派なベンジャミン卿です。

4月ー10月はベランダで過ごし、
もう半年は、家のなかで過ごします。
ベンジャミン卿が、
まもなく室内での暮らしに入ることを知ってか、
このごろ、すずめたちがよく訪ねてきます。

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