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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
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2008年11月

2008年11月25日 (火)

礎(いしずえ)

 今週、誕生日をむかえる。
 生まれてから半世紀めの、日。
 ずいぶんいっぱい生きたなあ。

 自分から自分への誕生日祝いとして、英文の翻訳の勉強の機会(「あおむし」)を贈った。
 50周年だから、奮発して……。

 はじめてみると、勉強の時間———と言っても、宿題の翻訳をするというだけだが———は、そこにもここにもあるのだった。電車のなか。ひとを待つあいだ。何かが煮えるあいだ。早朝の15分間。
 とんでもない時間に、ある1節とにらめっこしていることもある。
 それでも。
 わからないとなると、まったくわからない。どうやら、訳すことだけに気持ちが向き、そうなると、わたしは相手(英文)を組み伏せようとするようなのだ。
 組み伏せた相手などはもはや英文ではなく、鬼である。
 主語も動詞も、時制も、構文も成句も見えないほど暗い迷路のなかで、鬼に組みつくわたし。

 旅先の夫に、メールをした。

  翻訳塾の宿題(せんせいが添削してくださる)は、
  さんざんでした。
  ほんとうに、さんざん。
  だけど、めげてないよ。
  相手をまっすぐ見てないところがいけないんだなあ、と、わかったの。
  さんざんなのに、愉しいの。

 返信。

  翻訳、さんざんな方が、
  自分の長短、凹凸がよくわかっていいと思う。
  ぜひ、その調子で自分の輪郭を翻訳してください。

「自分の輪郭を翻訳する」
 そりゃいったい、何のことだ……?
 わかりそうでいまはわからない。届きそうでいまは届かない。
 けれども、わかりたいコトバ。届きたい場所。
 これを、つぎの誕生日にむかって出発するいまの、礎にしよう。
 英文一語一語と向き合うことで、わかりたいコトバを持つことで、届きたい場所をめざすことで、わたしは少しずつ変わっていくだろう。わたしの仕事、家の仕事に対する取り組み方も。そして、人とのかかわり方も。
 そういう、心持ちになっている。
 半世紀めの、いま。 

Photo

子どもの頃、中学生の頃読んだ本が、
気がつけば、こんなありさま。
なおしてもなおしても……。
貼りつけたセロファンテープが
茶色く日に焼けています。
歳月を感じます。

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2008年11月18日 (火)

「宿り」は、そこらじゅうに。

 くたびれていて、眠かった。
 けれども、ちょっとも休む間がなかった。
 考えなければならないこと、片をつけなければならないことが、目の前にどん、と積まれていた。
 ———やる、か。やってしまって、きょうは、さっさと寝るとしよう。

 自分を励まし励まし、最寄り駅まで歩く、わざと大股で。ふと見ると、数歩先のベンチに、老婦人が腰掛けていた。ひと休みといった佇まいだ。ふわりと肩にかけた濃い緑色のショールが、白い髪に映えている。ゆったりとして、いい感じ。まるで……。
 まるで、絵本のなかの風景みたいだ。
 ———わたしにも、あんなふうにベンチに腰掛けてほほえむ、そんな余裕がつくれるかな。つくりたいな。

 老婦人の前にさしかかろうとしたとき、また別の笑顔と目が合った。可憐な表情が静かに、わたしを見上げている。大股で歩いていたので、すぐには立ち止まることかなわず、わたしは、笑顔の前を、いきおいよく通過してしまった。
 そして、老婦人の前で止まった。止まるやいなや、きびすを返す。
 老婦人はその穏やかな笑顔に、かすかに怪訝なものを加え、しかし面白そうにこちらを見ていた。ちょっと恥ずかしかった。けれど、それにも増して、今し方目が合った笑顔をたしかめたかった。
 笑顔のあったそこまで戻って身をかがめ、それを拾う。

 笑顔の主は、落ち葉だった。
 虫食いだろうか、自然にできた穴ぼこが、笑った目をつくり、鼻をつくり、笑った口をつくっていたのだ。
 うれしいなあ。
 わたしは、くたびれているとか、眠いとか、文句を言っていたというのに、こんな褒美のような笑顔をもらって、なんという果報者だろうか。

「宿り」は、そこらじゅうに、ある。

 
 

Photo_2
ほら、ね。

家に連れ帰って、
写しました。

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2008年11月11日 (火)

本の「宿り」

 目の前に、本が積まれる。
 子どものランドセルのなかから、たのしい装画の本が、3冊も出てきたのだ。学校の図書室で、借りたのだそうだ。
———へえ、いいんだあ。

夫の机の上に、あたらしい本。
———なんだろう、なんだろう。

 本という存在が気になってしかたがない。
 自分の机の上にだって、読まれることを待っている本が何冊か積んである。仕事上、しぶしぶ読まなくてはならないものもあるけれど(最初はしぶしぶでも、読んでみたら、ああいい出合いだったと思わせられる本も少なくはない)、読みたい本も、わくわくっと重なっている。
 それなのに、ひとの本にまでちょっかいを出そうとするなんてね。

 気がつくと、末娘に向かって、矢継ぎ早にたずねていた。
「これ、どんなお話? また、魔法のお話なの? なぜ、これを選んだの?」 
「図書室でね、前に読んだ本をホンヤクしたひとの名前をみつけたの。このひとのホンヤクした本は、みーんなおもしろかったから、また、借りたの。魔法つかいの物語だよ。読む?」
 ほお。小学生にして、翻訳者で本を選ぶのかい、あなたは。と、おどろいたが、そういわれてみると、覚えがある。大好きな本の背表紙には、同じ翻訳者名が連なっていた。当時のわたしは、偶然だと思っていたけれど。
「大塚勇三」、「林容吉」、「山室静」、「尾崎義」、そして「井伏鱒二」。
(「村岡花子」とは、この時代のもう少し先で、出会った)。
 このお名前を見て、『小さなスプーンおばさん』、『小さい魔女』の書名が、メアリー・ポピンズ、ムーミン、ドリトル先生といった主人公たちの姿が、トーベ・ヤンソン、リンドグレーンなどといった作家の作品群が浮かぶあなたとわたしは、共通の読書の道を歩いてきたお互いだ。
 そこにわたしは、幼なじみというのと、ほとんど同じといってもいいほどの縁(えにし)を感じる。

 縁と言えば———。
 あらゆる本には、縁が宿っている。だから、本に出合うと———ひとの机の上の本、鞄のなかの本までも———神妙な気持ちになる。

 ここに何が宿っているのだろう。
 その宿りは、わたしに何をもたらすのだろう。

 もちろん、「宿り」は、本だけではない。
 思いがけない事事(ことごと)に、メッセージは、宿る。それに気づき、それを受けとめるとき、思想のとびらが静かに開く。

 さて。
 子どもが借りてきたものなのに、なかば横取りするようにして読んだ本にも、さまざまの宿りを見た。わけても、登場する内気な少女が、他人(ひと)がしたことのせいで罰を受ける場面からは、メッセージを受けとった。少女の、いつかはそれも解決するでしょう、という明るい見通しが、なんとも心地よかった。彼女の胸はあたたかく、頭は冷静なのだった。
                                  〈来週につづく〉


Photo
20世紀のもっとも偉大な発明だと思います、
貼りつけることのできる(はがすこともできる)
「付箋」。
常に持ち歩いています。
ものを読んでいるとき、
付箋を持っていないと、落ち着きません。
「ああ、ここ」
というところに、どんどん貼ります。

本や雑誌には付箋が貼れますが……。
このつづきは、次回。


 

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2008年11月 4日 (火)

空をあつめる。

 10月になると、ああ、そろそろ、と思う。
きょう、やってしまおうか。
まだ、ちょっと早いだろうか。
と、思案する。
 そのうち、どんどん空は、高くなる。雲も夏のころよりずっと身軽になって、何か言いたげに流れていく。

 とうとう10月も、最後の週になっていた。
 きょうだ、と思った。
 2階の居間網戸を全部はずして階下におろす。網戸を置き去りにして、自分だけまた階段をかけあがる。
 わたしは、おもむろに———と言っても、ひとからは、そうは見えないかもしれない。ただ、自分にしてはめずらしく、おちつこうとする気持ちがはたらいている———窓ガラスを磨く。

 空を拭っているような気持ち。
 雲と遊ぶかたち。

 これだけで、わたしは、とてつもないものを手に入れる。
 ほんとうだ。
 だって、毎年のことだ。
 毎年、毎年、決まり事のように想うのだ。こんな些細なことが、これほどのことだったとは……と。

 そうして、窓からちょっと離れて、坐る。

                 *

 居間の窓はどこも、生成りのロールカーテンがついているばかりで、つまり、レースのカーテンがない。日中は、裸のガラス越しに、空を、外を、小さなベランダを、眺めている。
 夏のあいだは、どうしても窓を開け放すことも多くなるし、その上、蚊やら虫やらが飛んでくるので、網戸をはめる。
 網戸というもののありがたみを、じゅうぶんに知りながら、わたしは、ときどき、網戸を邪魔にする。もっとまっすぐに(ストレートというんだろうか)、空を、外を、ベランダの草木の顔色を見せておくれ、とばかりに。
 それだから、10月になると。
 居間の網戸をはずして、ガラス戸だけにするというわけだ。ガラスの窓を開け放したときの、あけっぴろげな感じがたまらない。

 空が、たずねてきている。 
 やあ。

 じつは、この時期の蚊は、夏のそれとは比べものにならぬほど、しぶとい。刺されたときのかゆさにも、圧倒される。家の者たちには、秋の蚊のしぶとさなどは告げず、「もう、朝晩の気温も下がってきたことだから、そろそろ網戸をはずすよ」とだけ宣言する。
 そういうわけで、この家では、秋も相当に深まり、ほとんど、ひとが冬だと思うころまで、蚊遣りをたく。開け放した窓から招き入れておきながら、煙に巻くという仕打ちは、この季節の蚊の運命としては、無慈悲に過ぎるかもしれないにしても。

 空を眺める。
 雲と遊ぶ。
 陽光とたわむれる。

 

Photo

この絵は、
まんなかの子どもが、
小学校の低学年のころに、
描いたものです。
「あ、白いさつまいも!」と言ったら、
怒りましたねえ。
わかっていますとも、青空に浮かんだ雲です。
当時の仕事部屋の、窓のない北側の壁に
貼り、毎日毎日眺めました。

皆さんの11月のこころにも、
空を。

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