礎(いしずえ)
今週、誕生日をむかえる。
生まれてから半世紀めの、日。
ずいぶんいっぱい生きたなあ。
自分から自分への誕生日祝いとして、英文の翻訳の勉強の機会(「あおむし」)を贈った。
50周年だから、奮発して……。
はじめてみると、勉強の時間———と言っても、宿題の翻訳をするというだけだが———は、そこにもここにもあるのだった。電車のなか。ひとを待つあいだ。何かが煮えるあいだ。早朝の15分間。
とんでもない時間に、ある1節とにらめっこしていることもある。
それでも。
わからないとなると、まったくわからない。どうやら、訳すことだけに気持ちが向き、そうなると、わたしは相手(英文)を組み伏せようとするようなのだ。
組み伏せた相手などはもはや英文ではなく、鬼である。
主語も動詞も、時制も、構文も成句も見えないほど暗い迷路のなかで、鬼に組みつくわたし。
旅先の夫に、メールをした。
翻訳塾の宿題(せんせいが添削してくださる)は、
さんざんでした。
ほんとうに、さんざん。
だけど、めげてないよ。
相手をまっすぐ見てないところがいけないんだなあ、と、わかったの。
さんざんなのに、愉しいの。
返信。
翻訳、さんざんな方が、
自分の長短、凹凸がよくわかっていいと思う。
ぜひ、その調子で自分の輪郭を翻訳してください。
「自分の輪郭を翻訳する」
そりゃいったい、何のことだ……?
わかりそうでいまはわからない。届きそうでいまは届かない。
けれども、わかりたいコトバ。届きたい場所。
これを、つぎの誕生日にむかって出発するいまの、礎にしよう。
英文一語一語と向き合うことで、わかりたいコトバを持つことで、届きたい場所をめざすことで、わたしは少しずつ変わっていくだろう。わたしの仕事、家の仕事に対する取り組み方も。そして、人とのかかわり方も。
そういう、心持ちになっている。
半世紀めの、いま。
子どもの頃、中学生の頃読んだ本が、
気がつけば、こんなありさま。
なおしてもなおしても……。
貼りつけたセロファンテープが
茶色く日に焼けています。
歳月を感じます。
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