弥生 ——暦日記
◆ ひな祭り
「忙(せわ)しい」というのと、「忙(せわ)しない」というのと。
前者は「そうだ」と言っていて、後者は「そうではない」と言っているのに、意味はどちらも「事が多くて暇がない」「おちつかない」。辞典にあたれば、「忙しない=忙しい」とある。
そういうわけなので、忙しなく、忙しい状態に陥るときいつも、そうなんだかそうでないんだか……、と思うのだ。手前勝手に、「忙しい」ほうはこころをなくす、と、「忙しない」ほうはこころをなくしてはならぬ、というふうに解釈している。「忙」の「立心偏(りっしんべん)」はこころという字、つくりは、無にする、うしなうという意味の「亡」である。
どんなに忙しく、いかに忙しなくとも、こころはなくしてはならない、と戒める。
節分を終えた翌日、さて、と腕まくりをしてひな人形を飾る。ここらあたりが、1年のなかでもっとも忙しなく、忙しいところだろうか。
それでも、かじかむ指先に春をあつめる心持ちだ。
指先はふるい立つが、胸のほうは少しちがっていて、幾分怖がっているような。1年間眠っていただいていた人形に会うのが、怖いのだ。
納めた茶箱の奥の奥で、人形たちは耳をこらして、いいや全身をそばだてていて、何もかもを承知しているような気がする。だいいちおでまし願えば、すぐと前の年、しまったときの自分のこころの有り様(よう)がわかる。ひと目で。そのふくらみを保つため、ぼんぼりのなかに入れるはずの綿を入れ損なっている……。樟脳を忘れている……。そんな事ごとに気づくたび、自分の昨年のぼんやりや忙しなさが、おひな様の皆さんに、どんなふうに障っただろうかと思っただけで、人形の目をまっすぐとは見られなくなる。
「すみませんでした」
いつもこんな調子だ。
すみませんのこころで、ひな人形を飾ったその日は、晩ごはんを小皿によそってお出しする。ごちそうではなく、いつものうちのごはんを、だ。飾っているあいだ、ときどき供す。ひとの世に出ておいでのあいだ、ひとの世のごはんを召し上がっていただけば、なんとはなしに……、ええと、なんとはなしに申しわけなさが減る。
しまい方の落ち度もそうだけれども、飾ってあるひな人形の前で、ばたばたと騒騒しいことに対する申しわけなさもある。ごはんくらい供しなければ、とても追いつくものではない。
3日にはちらし寿司と潮汁(うしおじる)をこしらえる。
しまうのは3日が過ぎたその週末までに、というつもりでいる。早くしまわないと、娘の婚期がおくれる、と考えているからでは、ない。まるきりちがう。結婚はしたければするがいいし、しないとなればしないでもいい、と思っている。すべては、その生き方のままにどうぞ、である。
ひな祭りのあとには、また、めぐってくるものがある。春の彼岸(「春分の日」を中日にした7日間)や、卒業など。つぎの気配を招くためにも、前のことは遅れをとらずにお見送りを。
ひな人形をしまう日には、蕎麦を供する。
「末長いおつきあいを」というねがいをこめて。
「ややっ、蕎麦がない」と気づいた末に、うどんを供したことがある。
おひな様方のため息が聞こえるようだったが、知らん顔で、ため息もろともさっさとしまわせていただいた。
「すみません」と、こころでは詫びながら。
〈はまぐりの潮汁〉
材料(4人分)
はまぐり(塩水に3時間つけておく)…………………………8個
昆布をつけておいた水………………………………………6カップ
酒………………………………………………………………大さじ2
塩…………………………………………………………………少し
しょうゆ…………………………………………………………数滴
みつば、または小ねぎ…………………………………………適宜
つくり方
① 塩水からとり出したはまぐりは、よく洗い、昆布につけた水とともに火にかける。
② 煮立ったら昆布をとり出す。
③ はまぐりの口が開いたところで、酒を加え、味見をする。
④ 塩で味をととのえ、しょうゆをたらす。
⑤ 椀によそい、みつばや小ねぎ(小口切り)をのせる。
※ すぐ出来上がりますし、貝は何度も火がとおるとかたくなるので、食べる間
際につくります。
※ 潮汁、船場汁は、さかなや貝からでるだしの力だけをたのみに、ほかのだしをとらずにつくります。が、はまぐりの場合は、そうたくさんは入りませんから、このたびは「昆布をつけておいた水」を使いました。昆布はちょっぴり、3〜5cmくらいでいいと思います。
※ はまぐりが手に入らなかったら、しじみのおすましがおすすめ。しじみは真水で砂を吐かせます。ほかのつくり方は、はまぐりの潮汁と同じです。
おひなさまのごはん。
豆皿や、杯(さかずき)にちょっとずつ、
こんなのを。
いま、うちには、
娘3人がそれぞれに持っている、小さなひな人形と、
彼女たちが幼い日につくったひな人形が、
あちらこちらに飾ってあります。
わたしは、実家からこの豆雛を持ってきました。
内裏様の全長が、3,3cmという大きさ。
初めてお会いしたときから、内裏様の
お顔はなかったのでした。
「ねずみが齧ったのかしら」
と、祖母がこの人形を見るたび、
つぶやいたものです。
お顔のない人形をお目にかけるのは……、
と思いましたが、愛着深き古くて小さな
ひな人形です。
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