ちゅんちゅん
子どもの頃には、動物も虫もそうは好きでなかった。草や木は、それよりは近しく、なんというか、手に馴染んだ存在だった。草を摘み、木にもよく登ったから。それでも、好きか嫌いかと、分類してみることはなかった。
それがどうだろう。
いまは、動物や虫や、植物が慕わしくってたまらない。
ひとつには、13年前にわたしたちのもとにやってきてくれた猫——うちに暮らしている黒猫のいちごのことだ——のおかげで、動物に対する目がひらかれた。それまで、猫という存在は知らないのに等しかった。どこでまるくなっていても、歩きまわっていても、たとえすれちがっても、目に入らなかったものらしい。ああいうのを「猫」というのだと、知っているだけだった。
いちごは、わたしに動物の存在を伝えてくれたばかりでなく、わたしに、自分も動物のうちの一種類だということを、いつのまにか得心させた。
そうなってみると、わたしには案外、動物にも虫にも、あまり苦手はないことがわかった。へびやトカゲ、蜘蛛なんかは、むしろ好きらしかった。出合い頭に気持ちを奪われて、じっと観察していることに気づき、ああ、好きなんだなとわかった。子どもの頃にはおそろしかった毛虫やイモムシも、年年平気になっていく。
年年平気に、というのは、わたしが年年、毛虫やイモムシといった方面に傾いているからかもしれない。東京の都下の住宅街に住んでいても、耳や目が、ひとのほかの生きものの気配をもとめている。
すずめの声を、ちゅんちゅんとうるさく鳴く声を、もとめている。
庭木や植木鉢にやってくる虫を、もとめている。
葉のみどりを。土を。それにまみれて汚れる自分の手足を。
このところのちゅんちゅんは、ますます盛んになっている。それは、春先に生まれたのが若すずめになって、やってくるようになったからだ。大人よりも、怖いもの知らずで、見方によってはずうずうしくふるまっている。ひとのことなど、そうは怖れていない、といった様子なのである。
毛虫やイモムシは音をたてないので、わたしには、いまのところ、ちゅんちゅんが、その方面への傾きを思わせる合図になっている。
今朝もちゅんちゅんの合図は、夜明けとともに聞こえていた。
——わたしは、どこまで動物、植物、虫たちを好きになるだろうなあ。
「ちゅんちゅん」
——ますます、ひととしては生きにくい種類のひとになってしまうかなあ。
「ちゅんちゅん」
植えつけ1 週間たった、
左からセージ、イタリアンパセリ、ローズマリーです。
ささやかな、キッチンガーデン……。
使い方が荒くて、ホーローの鍋をだめにしました。
底(内側の)にキズをつけ、そこから錆が……。
この春、鍋から植木鉢に転職(ごめんね)。
しそとイタリアンパセリが、元気です。
鉢穴がないので、水をやり過ぎないように気をつけています。
こちらは、左がバジル、右がしそです。
むこうに、すすめが見えます。
ちゅんちゅんがきましたっ。
ここは、えさ場でもあります。
すずめさんたちが集まり過ぎると
いけないんで、内緒ね。
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