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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
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2009年6月

2009年6月30日 (火)

文月 ———暦日記

一期一会

好きな男がいた。

 男のほうでもわたしを好いてくれ、わたしたちは、ともに生きる約束をしたのだった。これまで仕事ばかりしていたわたしは、ひとと話したり、散歩したりするのがたのしくてたまらない。

 このあたりいちばんの働き者、という評判だったから男も、わたしと出会うまで、仕事のほかを知らずに生きてきたのだろう。ふたりで見ること、ふたりで食べること、ふたりで話しながら、あるときはふたりして押し黙って歩きまわることは、こんなにもたのしいものなのか……。そういう、お互いだった。

 わたしも男も、いつしか仕事のことを忘れたようになっていく。心配した父からは、再三、仕事をするようにと忠告を受けた。

「はい、明日からきっと」

 と答えながら、やはり仕事をはじめる気にはならなかったのだ。そしてついには父が、というより運命が、ふたりを引き離してしまった。会えるのは、年に一度だけという達し。1 年に、1度だけ……。

                

                  *

 

 子どもだったわたしは、七夕のものがたりを、こんなふうに———つい、現在(いま)のわたしの脚色も加えてしまったが———わが身に置き換えた。わたしは、織姫(おりひめ)、こと座のベガ(※)である。織姫になって、哀しんだのだ。七夕伝説は、幼ごころに重くのしかかった。

 これほど気の合う伴侶と、年に1度しか会えないなんて、そんなのは別れに等しいというふうに思えた。1年間というのも、幼いわたしには途方もなく長い長い日日だった。

 夫婦が離ればなれに暮らす。

 そうやって何年も絆を結んで生きている夫婦を知ってもいるし、夫婦のあり方などそれぞれだとも考えている。1年に1度会うだけの夫婦だって、あっておかしくはないだろう。そも悠久の宇宙空間にてきらめく星星のことだ、たとえ1年に1度会うだけだとしても、ひとの世のつながりよりもはるかに長く、いや永遠につながっているともいえるのだし。

 長ずるにおよんで、七夕のものがたりから「一期一会」を連想するようになっていた。

 そうして「一期一会」は、日本に根ざした、もっともうつくしい思想だなあ、と思うまでになった。

 長くつづくとか、いつも一緒とか。ものごととの出合い、ひととの出会いは、そこだけにあるのではないと思いたい。たとえ一度きりのことでも、忘れないでいることもある。人知れず胸のうちに深く根ざすこともあって、それはふとしたときに胸からぽっと浮かぶのだ。浮かんで、胸の主を支えたり、思い深くしたり。そうでなくとも、なつかしさで彩ったり。

 このごろわたしは、遠い日のことを探したり、遠いひとを探さなくなっている。「一期一会」の原のなか、丈高い草の根元にじっとしゃがんで、なつかしんだり、思い返したいような気持ちで。

こと座の一等星が、ベガである。ベガは、はくちょう座とわし座のそれぞれの一等星とともに、「夏の大三角形」と呼ばれる。なお、七夕伝説は、中国の起こり、とのこと。

〈ジャージャー素麺(そうめん)〉

材料(4人分)

 素麺(ゆでる)……………………………………………………4人分

 肉味噌あん

  豚ひき肉…………………………………………………………200g

  長ねぎ(みじん切り)…………………………………………1/3

  しょうが、にんにく(みじん切り)…………………………各1

  豆板醤(辛いので、好みで減らしたり、なくしても)…小さじ2

  昆布をつけた水………………………………………………3カップ

  酒、砂糖……………………………………………………各大さじ1

  味噌、しょうゆ……………………………………各大さじ21/2

  片栗粉(倍の水で溶いて使う)……………………大さじ11/2

  サラダ油………………………………………………………大さじ2

  ごま油…………………………………………………………小さじ1

 きゅうり(せん切り)………………………………………………2

つくり方

鍋にサラダ油を熱し、弱火で長ねぎ、しょうが、にんにくを炒める。

豚ひき肉を加えてさらに炒め、豆板醤を加える。昆布をつけた水と酒、砂糖、味噌、しょうゆを加えて、弱火で20分ほど煮こむ(途中でアクをとる)。

水とき片栗粉でとろみをつけ、ごま油をふる。

器にゆでた素麺をもりつけ、きゅうりをのせ、そのとなりに肉味噌あんをかける。

七夕に素麺を食べるというのは、平安時代にはじまっています。宮中での儀式のひとつで、素麺を食べて無病息災をねがったそうです。素麺を、「天の川」に見立てているのでしょうか。このたびは、ちょっと目先をかえて、ジャージャー素麺をこしらえてみました。

★ジャージャー麺は、冷たい麺に熱い肉味噌あんをかけますが、素麺の場合は、

肉味噌あんを冷やしてかけても、おいしいような。

Photo

7月には、「夏の土用」がめぐってきます。

土用は、立春、立夏、立秋、立冬の前、

それぞれ18日間のことをさします。

立夏前が春の土用。

立秋前が夏の土用。

立冬前が秋の土用。

立春前が冬の土用。

「土用」と言えばたいてい夏の土用のことを言い、

この日には「う」のつくものを食べるのがならわし。

世間では鰻、鰻、と大騒ぎですが、

「う」のつくものなら、なんでも。

うどん、牛の肉、うに、うるめいわし、ういろう、

梅干し……。

そうそう、やっと梅干しを漬けました。

ことしは、小梅です。

写真は漬けた翌日の様子。

水があがってくるのの、早いこと。

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2009年6月23日 (火)

押しつけがましいのは……。

 ———あ、また言ってる、わたし。

 口の先だけ真似たって、追いつかないことは重重(じゅうじゅう)承知しているけれど、それだからこそ、という思いもある。

 その台詞———

「押しつけがましいのは、いけないのですけれど……」

 あのひとは、20 年来のあこがれの女(ひと)。何かをすすめてくださるとき、決まって「押しつけがましいのは、いけないのですけれど……」と、前置きをする。

 あのひとに対しては常に、些細なこと、どちらでもかまわないようなこと、もう、何でもいいからおしえてください、という気持ちを抱いているというのに。

 むしろ、どんどん押しつけてもらいたいくらいだ。

 けれど。

 何度も言われたり、(お手紙やメールで)読んでいるうちに、なんだか奥の深い台詞だと、気づきはじめている。「押しつけがましいのは、いけないのですけれど……」を足がかりにして、自分の胸の堅くかたまったところにスコップを入れ、さくさく耕すことができるような心持ちになっている。

 ことのはじめに「押しつけがましいのは……」というコトバを受けとると、何も考えずに、ずんずん先へ進もうとしている迂闊なわたしの歩みが止まる。立ち止まるわたしは、相手が何かを律しているらしい様子を遠巻きにして、自分自身も己を律するようなのだ、あわてて。

 渡されたものを、無意識に受けとってはいけない、と。しっかり手をさしだして受けとり、それをふさわしい場所にしまいます(記憶の保存)、と誓いもする。

 性分だからと思っていた「早呑みこみ」、うんざりしながらあきらめ、あきらめながらうんざりしてきた、数十年越しの「早合点」が、なおりかけている。「押しつけがましいのは、いけないのですけれど……」が楔(くさび)のように打ちこまれたおかげで。

 さて。

 ひとによくしてあげたい、と思うことがある。これを贈ろう、とか、こんなふうに言ってあげたいな、とか。こんなことしてあげちゃおう、とか。

 そんな気持ちに突き動かされ実行したとしよう。そこまでは、実行したわたしの側の領域だから、ひとりで悦に入ったとしてもなんら問題は、ない。

 ところが、だ。ここから先、じわりじわりと相手に向かって、期待のこころが寄せていくことがありはしないか。

「せっかく贈りものをしたのに、受けとったという知らせもない」

「とっておきのひとことを言ったのに、思ったほど喜んでもらえなかった」

「時間を捻出して、してあげたことだったんだけどな。わかってくれてないみたい」

 とね。———好意が、押しつけがましさに変わる瞬間だ。

 せっかくも、とっておきも、捻出も、自分の勝手なんである、ほんとうのところ。そうしたかったから、しただけのこと。

 このごろ、それをしたら、したことを忘れてしまうくらいがちょうどいい。という気が、している。

 ———こんなことができて、しあわせだったなあ。

 それで、おしまい。

 きょうはこれから、あのひとが「押しつけがましいのは、いけないのですけれど……」と前置きをしておしえてくだすった展覧会———わたしの家から徒歩15分の美術館に、あのひとの好きな絵がやってきている、と———に出かけるつもり。1度観てすっかりうれしくなり、きょう行けたら、2度めということになる。

 手渡されるとそのことが、すっかりわたしのことになるところが……、何と言ったらいいのか、そう、自由なんだ。

Photo

この長靴、14cm。
昨年の10月、初めての赤ちゃんが生まれたお母さんから、
ひとついただいたんです。
赤ちゃんにと長靴を買っておいたのはいいけれど、
このサイズ、履く機会がなかったんだそうで。
あんまりかわいいので、ペン立てに。
つま先には、紙をまるめてつめてあります。

皆さん、どうか、やさしい雨の日日を。

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2009年6月16日 (火)

こだわり道(みち)

「これが、わたしのこだわりです」
 というようなことがさかんに言われるようになったのは、いつ頃のことだろうか。それまで「こだわる」は「拘泥(こうでい)」、すなわち些細なことにとらわれて融通がきかないことを意味していた。つまり、あまり芳(かんば)しくない状態をさすコトバだったはず。
「そんなことに、いつまでもこだわっていないで……」
 という具合に、嗜(たしな)めたり嗜められたりするときに活躍していたのではなかったろうか。
 それが、ふとした気運にのって「こだわり」と名詞化もして、いい評価として使われるようになった。

 しかし「こだわり」は、やはりどこか融通がきかない。ゆずり合う感じ、やりくりする算段に欠けるところがある。
 このコトバが褒められ者となったあたりから、「恥」の痛点があいまいになった。恥ずかしくないという領土が、ぐぐっと広がったように思う。   
 このくらいならこだわっても障りはなかろう、という判断でこだわったとしても、以前のこの国の通念としては、そういうことはもっと密やかなものであったはずなのだ。
 平気で「こだわり」なんてことを言ったり、「そこが、あなたのこだわりなんですね」などと言いあったりしているうちに、わたしもだんだん恥知らずになったような。

「こだわる」を越え、それが「かたくな」に変容していくのが怖い。がじがじにかたまったものは、時としてひともびくつかせるが、たぶん、自分をいちばん縛(しば)るのである。
 こだわりきれない気力、体力になったとき、すっとこだわるのをよしてしまえればいいけれど、そうできない自分を責めるのであったなら、哀しい。
 そこで思いだすのは、父方の祖母のことだ。祖母は、20歳にあと数か月というときに長男である父を生んでいるから、祖母としては若かったし、何よりとてもとてもうつくしいひとだった。旅立ってから10年以上たつのだし、祖母、というのをよして、みよさん、と呼んでもかまわないだろうかしら。
 みよさんは着物をきりりとゆるく———この表現は矛盾するようだけれども、着物に関しては成り立つように思う。ゆるく見せていて、中心が決まっていると言ったらいいのか。きりっとしていながらゆるやかなところがあり、それが流れをつくっている、と言うのがいいのか———着こなしている姿が自慢で、ねだってねだって運動会に来てもらったりした。
 しかし、後年ひとり暮らしになったころから、みよさんは着物の暮らしをあっさりと手ばなしたのだ。着物にこだわるのはよそう、という覚悟だったのだと思う。みよさんの洋装は、着物のようにはその姿に映らなかったし、わたしから見ると口惜しいばかりだった。
 ———おばあちゃま、やっぱり着物のほうがよくはない?
 と言うわたしたちに向かって、みよさんは静かに笑うばかりだった。

 あのころは、そうは思えなかったが、着物をよしてしまったみよさんの気持ちが、このごろまぶしく思い返される。あの世にかえってみよさんに会ったら、そのときの決意のようなものを、聞いてみたいと思う。まあ、聞いたところで、みよさんのことだ。そうね、と言って笑うだけだろうけれど。

「こだわり」にもいいところはあるが、こだわるなら静かにこだわりたい。ことに個人的なこだわりを楯にひとり立ちはだかるようなことは、慎みたい。
 そうして。それもまた変わることがあるやもしれない、というくらいの……そう、嗜(たしな)みをもちたい。

Photo
浴室、洗面所で使うタオルは「白」と
決めています。
白いタオルが好きなんです。
ただ、それだけ。
(こだわりじゃ、ありません——笑)

       *

白いタオルがふさわしくない用途のために
これのとなりのふた付きのカゴのなかには、
色もの、柄ものタオルが収まってます。

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2009年6月 9日 (火)

選択

 「役にたたないもの、
  美しいと思わないものを
  家に置いてはならない」

        ウィリアム・モリス 

 この春、東京都美術館で開催の「生活と芸術———アーツ&クラフツ展」(ウイリアム・モリスから民芸まで)を観た。会場の入口に掲げられていたのが、この冒頭のコトバだ。
 思わず、そのコトバの前に立ちすくむ。
 動けなかった。
 2度ばかり口のなかで、掲げられたこの一節をくり返し、やっとのことで右脚を前に出す。

                  *

 会場に入ると、まず、モリスのデザインした壁紙(初期の壁紙)が目を引く。それはとても美しく、見るものを惹きつけてやまない。
 格子垣(トレリス)。果実またはざくろ。ひなぎく。多くの色版が用いられたモリスの壁紙は、暮らしの夢を掻きたてるようだ、まったくのところ。
 しかし……。
 この型紙が、たとえばわたしの家の居間の壁を飾るとしたらどうだろうか。いま置いてある道具、調度とは調和しないだろう。どんなにモリスのパターン・デザインのなかで暮らしてみたいと願っても、いまあるものを全部とりかえなければ、それは実現しない。
 いや、実現はするだろうが、とてもではないが納得できる結果にはならないと思う。そのちぐはぐな有様には、ウィリアム・モリスも顔をしかめることだろう。

 わたしたちは、常に、ある制約のなかに生きている。その制約のなかでもっとも幅を利かせるのが、選択である。自分が思想と好みとを織り交ぜた末の選び。
 はなしを家や意匠に絞るなら、そこには好みの問題が浮上する。この「好み」は、わたしたちが考える以上に選択を占領し、ときには、厳しくも責任をもてと迫るのだ。やれやれ。
 なにか———道具や調度———を選ぶたびに、問うてもくる。

 ———その「好き」を、貫ける?
 ———いま、「好き」と言って選ぼうとしているそれは、これまでの「好き」を
損なわない? 裏切らない?

 と。
 想像のなかでウィリアム・モリスの壁紙をあきらめたわたしは、生意気にもモリスの有名なコトバに、胸のなかでこうつけ加えた。

 「役にたたないもの、
  美しいと思わないもの、
  そして選ばなかったものを
  家に置いてはならない」

 何を選ぶか。
 最初の選び、つぎの選び、またそのつぎの選びを調和させつづけていくことは、一大事業だ。苦心も要るし、がまんも要る。
 ———ああ(嘆息)。
 帰り道、わたしはそうして、迷った揚げ句、もうひとつつけ加えることとした。 
 とっておきの5文字。

「できるだけ」


Have nothing in your houses
that you do not know to be useful,
or believe to be beautiful.

          The Beauty of Life,William Morris,1880


Photo
そのときもとめた、ポストカードです。
左は、壁紙見本/「果実」あるいは「石榴」1866年頃
右は、内装用ファブリック/「ローデン」1884年
ウィリアム・モリス
(ヴィクトリア&アルバート美術館)

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2009年6月 2日 (火)

水無月 --- 暦日記

◆ 衣更(ころもがえ)

 4月に1日でも、うんとあたたかい日がめぐれば、もうもう、たまらない気持ちになる。衣更、衣更、衣更、と、耳のなかで鐘が鳴る。
 4月といえば、東京でもおそい雪の降ることもあるし、肌寒い日だってある。そんなことは承知しているのだ、ものごころついてから幾度も幾度もその季節を経験してきている。
 にもかかわらず、こういうときには、せっかちを抑えられない。
 ほかのことではだいぶ、待ったり、時間をかけたりできるようになったが。たぶん、季節のうつろいが、うれしくてうれしくてたまらないからだ。こころがつぎの季節へと、はずむ。
 そうして、4月と5月に、叱られる。
 ことしも……。
 ———どうして、性懲りもなく、こんな時期にどんどん、どんどん上着やセーターしまっちゃうの?
 これは、長女。
 ————布団はよしてね。梅雨寒(つゆざむ)ってのもあるんだから。
 と、二女。
 ———お母さん、まだ、春が来たばかりなんだからね。
 ちぇっ(失礼!)、末の子までもが。

 6月に「衣更」というのは、いかにも遅いような気がする。
 でも、待って待って、待って、やっと制服が薄手のものになったり、半袖になるんだな。それもまた、つぎの季節の想い方では、あろう。
 ことしも、4 月のおわりに衣更をすませてしまったわたしだが、家の拵(こしら)えを、夏のものにするとしよう。食器棚の前の列にガラス器をならべたり。コースターやランチョンマットをかえたり。
 あ、そうだ。玄関の敷物も、かろやかな、あれに。

◆ 田植え

初めて田んぼに足を入れたのは、30歳をいくつも過ぎた頃だった。
 こんな感じだろうと考えていたのより、ずっと、ぬるっとして、土は重かった。こういう感触を知っていて、それを声高らかに謳ったりせずに生きているひとには、まったくかなわないや、と思った。
 かなうとかかなわないとか、何の話かと自分をごまかしたかったが、胸に芽生えたこの気持ちは、どうにも、ごまかしようがなかった。
 農家に嫁(か)してからずっと、田畑を仕事場としてきた義母(はは)に、こう言ったおぼえがある。
 ———お母さんは、ずっと、この感触を知ってたんだね。

 ———まあ、そうね。
 そう言って、義母(はは)は、ほんとうは、畑仕事はしなくていいという約束で嫁に来たんだが……という、話をはじめた。何度聞いてもいい話なのだ。
 そのものがたりには、ちょっとしたプロローグがある。
 ははが、見合いの前に隠れて義父(ちち)を見に行き、一目惚れした場面だ。それをこっそりわたしに告げたのは、夫だ。「どうやら、そうだったらしいんだ」と、笑う。
 へええ、と胸を打たれる。
 きれいな洋服、洒落たものが大好きなははは、ほんとうに自分が畑仕事をするなどとは、考えてもみなかったらしいが、そこは、ほら、恋のちからだ。結婚後まもなくちちのほうは会社勤めをするようになり、結局、農業は、ははの天下になっていく。
 会社を退職し、家業にもどってきたちちは、田畑ではははに頭が上がらない。

 わたしは農家の嫁であるのにもかかわらず、ちっとも、田畑の仕事を手伝わない。田んぼに足をつっこんで、ぬるっとしている、すごい! なんて言っている場合ではないのだが。
 けれど、米ができるまでの、ひととおりではないことは少しわかる。米がわたしたちにとって、どれほど大事であるかは、よくよくわかる。
 田植えの日。
 すごく大事な日だ。東京から作業の無事を祈っているだけなんだけれども。

◆ 梅の仕事

 6月は、自分の両の手のうち、ほんの少しでも空けておこう、と決めている。梅の仕事があるからだ。
 梅干し。梅シロップ。梅酒。そしてことしは、梅肉エキスをつくる予定。
 梅シロップ育ちの子どものうち、2人までもが梅酒に転向。そのため、いまは、シロップより梅酒をたくさんつくるようになっている。

              *

※ことしは、初めて黄色く熟した梅の実で、シロップとジャムをつくってみようと考えています。「熟しすぎた梅、どうしますか?」とたびたび聞かれるようになったからです。ご一緒に試してみるとしましょう。
 その報告は、ブログでいたしますね。梅肉エキスのこととともに。


Photo
夏は、もう、こればかり履きたがります。
ペディキュアは、夏のくつした。
若い友だちが、「黄色いネイルカラー、おすすめです」と
プレゼントしてくれたので、ためしてみました。
(塗り方、下手だなあ……。はみだしてる)。


Reebok
1年通して、靴の定番は、これ。
いろんな色を持っています。
夏も、履きます。

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