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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
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2009年7月

2009年7月28日 (火)

葉月---暦日記

◆ゆかた

「きょう夕方、花火大会に出かけるから、ゆかた着せて」

 いきなり、そんなことを云われたってね……、と文句を云いかけて、そのじつ、こころが湧く。

 きもの。

 日本という国がもっていたもっともあさましくない、もっと云うなら、気概を感じさせる「衣」の領域だと思わされてもいる。いまのわたしのがさつな暮らしのなかに、かたちだけ入ってきていいものだとは思わないし、かといって、すこしも掠(かす)めないのは、哀しい。

 いまのところ、ゆかたが唯一の「掠め」なのである。

 自分で着ることはできないし、ひとを着付けることもかなわない。が、ゆかたなら、わたしにも着せてやれ、帯も結べる。それが、夏を、そっと湧かせるのだ。

 わたしにできる、ささやかなきものの仕事、夏の仕事、というわけだ。

 だいいち、幼い日にはわたしが選んでもとめておいたものを、大喜びで身につけていたはずの子どもたちの「着る」には、もう、ほとんどかかわれなくなっている。「好み」がはっきりしてきているし、先日などは、長女から「わたしが、女っぽさを踏み外したのは、ひとえにお母さんの影響よねっ。そこを、まぬがれたK(二女)は女らしくなったし、その真似をしているS(三女)はまた、小6にして女らしくなって……」と、恨み言を。

 そんなようなわけだから、末娘の「着る」からも、そろりそろりと後ずさりしつつあるような有様。おお、つまらない。

 しかしね。

 ゆかたになると、話がかわってくる……。

 ゆかたや帯をもとめるのも、小物も、わが身ひとつの算段でとりしきれる。

 ——まかせておいてよね。わるいようにはしないから。

 帯の結び方は、初めて長女にゆかたをもとめたとき、呉服屋の気のいいおばさんに着付けの過程を、ひとコマひとコマ、撮影させてもらってつくった手引きがある。もの覚えがよくない上に、忘れることにかけて人後に落ちないわたしだからと、あのときは、微に入り細にうがって撮影したのだった。

 取材をしながら、ああ、きものは「着る」というだけのこととは、少しちがう、と思った。ひとの「そのとき」に添った「表現」と、何より「心がけ」だと。

 そのときからの、ゆかた仕事なのだ。

 子どもたちは誰も彼も、出かける間際に、髪だけ自分で——末娘は、姉たちの思い入れの弾んだ調達で——工夫してこしらえ、「さあ、着せてちょうだい、早くお願い」という差し迫ったなかにあらわれる。

 こちらも急(せ)いた勢いで、しゃっと帯を結びあげる。もうもう、このときには、最後まで着崩れがしませんようにという一念にとりつかれて。

 ことしは、きょうまでのあいだに、2回ゆかたを着せている。

 そういえば、自分自身はいったいゆかたを着る日がくるのだろうかと思いつつ、気がつくと自分の「着る」よりも愉快そうな、あたらしい夏の夢をまとっていた。

 わたし好みの白地に藍ひと色のゆかたを、この夏とつぎの夏のあいだに縫ってみようという夢である。決して正装にならぬゆかただけれども、さいごには孫のおむつに縫いかえた祖母たちの想いも受け継いで、縫ってみたいものだ。

 ——お母さん、急でわるいんだけど、明日ゆかたを……。

 ——へーい。黒いのにしましょうか? それとも花模様のに? 

Photo_6

長女が生まれたとき、やえばあが染めて(紅型染め)

縫ってくれた浴衣です。

3 人がそれぞれ、くり返し着た上、四半世紀がたっているので、

色は褪せてきましたが、たからものです。

ごく小さいときには、帯は、大人の帯揚げをつかいました。

Photo_5

いざ……。

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2009年7月21日 (火)

忙中閑あり

 この家には、時間を食べる虫でも棲んでいるのかと、思いかけることがある。

 わたしの持っている124時間を、1週間7日間——時間にすると168時間だ——を、端の ほうから音をたてて、さくさくさくさく食べる虫。

 想像するだけで、恐ろしい。

「ああ、待ってー」と叫ぶ、虫に向って。 

 そこまであわてて、やっとのことで「そんなはずない」と、自分に言い聞かせる。

 ——忙中閑(ぼうちゅうかん)あり、だわ。

 諺(ことわざ)というのは、たいてい語呂がよく、なにかを決心したり、ふり払おうというとき、音をともなって働く。だからわたしは、何度か声にだして……。

 ——忙中閑あり。忙中閑あり。

 を唱える。

 唱えているうち、ふと、その意味がおぼろになっていき、急いで本棚に駆けよった。世界各国の諺も紹介されている『現代ことわざ辞典』(※)をひっぱり出す。

 そうそう、「忙中閑あり」は、どんなに忙しいときでも、わずかな閑(ひま)はあるものだ、というわけだった。

 あらま。英語の諺にも、こんなのが。

  (英)The busiest men have the most leisure.

          忙しいひとには暇がある。

 多忙なひとにかぎって余暇をみつけ、それをうまくつかっているという意味だ。

 Idle people have the least leisure.というのもみつけた。怠け者に暇なし、と訳せるだろうか。こちらは時間のつかい方が下手なことをさしている。

 忙しいことが重なるようなときには、考え過ぎないことだ。あれこれ考えると、あたまのなかに例の虫があらわれて、さくさく音をたてはじめる。

 まったく、どこから手をつけたらいいかわかりゃしない、とか。

 いちばん大事な用事はなにか(優先順位を決めようとして)、とか。

 これ、どうしてもわたしがしなくちゃいけないのか、とか。

 それは、少しは考えたほうがいいこともあろうが、とにかく深呼吸をして、気持ちを落ちつかせ、端からさくさくと……食べる。のではなく、片づけていく。

 たとえば。

 このところのわたしには、仕事(職業のほうの)の嵩が増している。一時的なことではあっても、この状態は、少なくとも3か月はつづくだろう。

 こんなとき、仕事のことばかり考えたり、先行させようとすると、ことがまずく行く。相当時間をかけて書いたものを、消すことになったりして——指先でちょん、で消える。パソコンのキーを押すだけで——すっかり行き暮れてしまうのだ。自分と家との約束の時間がやってきたなら、そのとき、どんなにこんがらかっていようとも、もう少し考えつづけたくとも、机をはなれる。はなれてしまって、食べもののことをしたり、布のことをしたり。家の者たちの世話を焼いたり。礼状をしたためたり。そこらを片づけたり、磨いたり——ただし、のべつ幕無しはいけない。きょうはこのひきだしだけ、とか、冷蔵庫のなかだけという具合に、範囲を決めて。

 いろんな種類の、小さな達成感がほしいのだろうか、わたし。自分の1日のなかにかすかなことを積んでいき、それを達成感として見たいという願望が、そうさせるのだろうか。ぜいたくが過ぎるだろうか。

 小さな達成感たちはしかし、この家のなかにいくつか役割のあるわたしの、支えかもしれないのだ。

 開いたままの『現代ことわざ辞典』の、「忙中閑あり」のとなりの項目に、目をやると、それは「急がば回れ」だった。

 これも、含蓄のある諺だ。

 急いでいるときこそ、落ちついて。

 急ぐとかえって時間がかかる。

 その意味をかざして、わたしのせっかちを嗜(たしな)める。

 このごろ、この諺を、こっそり言い換えている。このほうが、自分のせっかちをからだからひき剥がしやすいような気がして。

——急ぐときには、わざとゆっくり。

※『現代ことわざ辞典』(外山滋比古/ライオン社)

Photo_6

さて、「梅仕事」の経過報告です。
6月うちにやってきた、完熟梅(紀州産)です。
これでシロップを漬けました。

Photo_7

完成した梅シロップと、煮梅を加えて焼いた(長女が)
ケーキです。
米粉と高野豆腐(少し)を使って焼いたそうです。

Photo_8

昨年漬けた梅酒の「ウメ」で作った
2種類の煮梅です。
写真左は、実に竹串で穴をあけ、
静かにゆっくり煮含めてつくりました。
右は、水分が出きってしぼってしまった「ウメ」で。
くたくたっと煮詰めてみました。
どちらも、お茶受けにも、箸休めにもなります。

Photo_11

そして、これが、このたび役目をはたした
シロップを漬けたあとの「ウメ」です。
ジャムにします。 「忙中閑あり」をめざして。

そうそう、
ことしつくってみるはずだった「梅肉エキス」。
なんてことでしょう。
ころっと忘れました。

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2009年7月14日 (火)

そよと、風。

 ——きょうは、いい日だった。たのしかった。

 その日のおわりに、気がつくとそうつぶやいていた。云ってしまってから、はっとする。たのしいは、不謹慎だったかもしれない、と。

 しかし、ちょっと考えて、やはりたのしかった、と思った。

 ——きょうは、いい日でした。たのしかった。伯母さま、どうもありがとうございます。

 夫の母の姉さん、つまり伯母が、88歳で亡くなった。

 5人きょうだいの末っ子の母は、これでひとりになってしまった。母はさいごの10か月間、ひとり暮らしだった姉さんの介護に通いつづけた、1 日も休まず。自分で車を運転して出かけていく姿を、わたしも何度か見ている。そういう生活がどのくらいつづくだろうとは、ちっとも考えなかったなあと、あとから思い返している。

 それはわたしが呑気だからでもあるけれど、母があたりまえの顔をしていた、ということが、やはり大きい。ため息なんかはつかなかった。父も、母が介護に通う分、家のことをして「あと片づけがうまくなってしまった」などと云って笑っている。

 伯母がとつぜん逝ったという知らせを受けて、わたしは、母の顔を見なくちゃ、と思った。泣き言は云わないのに決まっているから、顔を見たかった。顔を見れば、どんなにさびしがっているか、どんなにくたびれたか、どんなふうな感慨におそわれているか、ちょっとはわかるだろうから。そう思いながら、わたしは母を、ほんとうに好きなんだなあと思い知って、かすかに驚く。思えば、これが1ばんめの「たのしかった」だったのかもしれない。

 夫婦で葬儀に参列してみると、わたしには初めての顔も少なからずあったが、窮屈なことも煙たさもなく、云い塩梅(あんばい)の居場所がある。わたしの居場所……。それは、父と母がわたしのいないところでつくってくれたものだった。

 葬儀はこじんまりとしたものだったし、型通りと云えばそういうことになる。しかし、どこかにそよぐものがあった。そよぐとは、そよそよと音をたてることをさすが、漢字で書くと「戦ぐ」となる。英語だと「tremble」。身震いしたり、戦(おのの)く感じ、気を揉むという意味もある単語だ。わたしは、そよ風の心地よさを云いたいのだけれど、なるほど、吹かせるもの意志や意図あっての風だったのかもしれない。伯母の意。伯母の風。

 その風は、わたしに居場所をつくり、その場の何かとつなげた。死は、生と生をつなぐもの、なのだろうか。

 もうひとつ、葬儀の最中におもしろいことがあった。これをおもしろいと呼ぶのは、またしても不謹慎かもしれないのだけれど、わたしにはおもしろくてならなかった。

 親戚を代表して、伯母の妹である母のつれあい、つまり父が、挨拶をしたときのこと。伯母が戦争未亡人であったこと、一人子(ひとりご)を病気で失ったことを父が、「いくつかの悲運にめぐまれて」と云った。これは、父にはめずらし云い違いであって、おそらく「いくつかの悲運にみまわれて」と云うところだったのだろう。が、この云い違いが、何故だろう、不思議なほど胸にのこった。幸運と、悲運と分けて考えるのは人間だけで——めぐまれるか、みまわれるかと分けることも、また——ほんとはどちらもただ、与えられるものなのだ。そのことが、すとんと、胸におさまった。

 伯母は、与えられた運命にもめげず、若いころしていた洋裁の勉強に、さらなる勉強をかさねて、腕に職をもったのだった。その腕は、自らの身を助けたばかりでなく、まわりを長く楽しませつづけたのである。

Photo

そよぐもの、そよぐもの、と探して、
この風景に出合いました。
ちょっと涼し気で、凛としていて。

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2009年7月 7日 (火)

あけび

 書き損じたはがきの取りかえ(手数料を支払えば、はがきにも、相等の金額の切手にも換えてくれるという、あれ)。アルバム整理。保険の見直し。

 しなくてはなあ、と思いながら、とりまぎれている。

 とりまぎれるのなんかはお茶の子だ。

 ところで、とりまぎれるとは、何に、何が混ざることだろうか。本筋に脇の話が、だろうか。脇の話に本筋が、だろうか。どちらも、わたしには同じことのように思える。どちらの筋が「正」で、どちらが「副」でも、しなくてはいけないことに変わりはない。それならばいっそ、正副は云わないほうが潔くはないか。

 そんなことを考えながら、ふと、机の横にある本棚のてっぺんに、目がいく。 

 ああ、ここにもあった。てっぺんに居場所をみつけて籠を上げてから、2年が過ぎようとしている。そのあいだ、ときどき見上げては、ため息をついていたのだ。

 ——またきっと、これを持ちたい。

 あけびの籠だ。

 当時姑だったやえばあに、銀座でこれを買ってもらった。銀座はやえばあの生まれ育った地だったから、すたすたと歩くその隣りをついて歩いて、ほうぼうでおもしろいものをたんと見た。「民芸」の世界を知ったのもそのころで、それまでついぞ知り得なかった風合いの焼きもの、染め・織りもの、木や竹の工芸品に出合ったのだった。「民芸」の流れをしかと受けとめる銀座のその店で、いきなりやえばあは、あけびの籠——手提げの籠である——を、「これがいいかな」と云ってもとめてしまった。買ってもらっておきながら、「いきなり」「もとめてしまった」もないけれど、その勢いには、それをわたしに持たせたいというつよい意志のようなものがあった。

 店の奥の、台の向こう側にいたひとの告げる数字の大きさにおどろく。

 ——こんな、木の枝か蔓(つる)みたようなもので編んだ籠が、こんなに高価なのか。

 と、思った。そのうつくしさには、じゅうぶん惹かれていたのではあるけれど。なにしろ、当時持っていたどんな鞄よりも、その値段は高かった。

 ほんとうの魅力を知ったのは、使いはじめてからだった。その実用性、そのうつくしさ。なんともいえなかった。

 あるとき、あけびの籠を手に新宿の街を歩いていたら、ばったり近所の男(ひと)と鉢合わせした。

 ——あなたでしたか。いやあ、買いもの籠、久しぶりに見ましたな。しかし、これを提げてお出かけなんですか。

 と云う。「はあ、これ提げて、出かけてきました」

 その男(ひと)は、ハンドバッグを持つべきところを買いもの籠を提げてきた風変わりな女、というふうにわたしを見たのだった。そんなことはかまわないし、おもしろいとも感じた。やえばあに、こうしたものの見方をおそわらなければ、わたしもそんな風な見方をしていたかもしれないのだもの。

 またあるときには、こんなことがあった。

 季節は秋のおわりである。セーターを着こみ、わたしはそのときもあけびの籠を提げて歩いていた。

 ——まあ、あなた。

 と声をかけられた。目を上げると、それは中年を過ぎようとするころの、上品な女(ひと)であった。

 ——この季節にも、あけびの籠は持っていいんですね。なんとなく、あれは夏だけという気がしておりましたけれど、あなたのそれ、素敵です。わたくしも、早速持つことにしましょう。

 と、ひと息に云われる。

 ——わたしは冬でも、持ちますねえ。それなりのよさを感じます。

 そういうあけびの籠なのだ。

 気がつけばこれを、25年間使ってきた。その25年のしまいの2 年、本棚のてっぺんに押しやって。わるいことをしたなあ。なぜそんなことになったかといえば、わたしが本、それも分厚い単行本を数冊入れて運んだりしたせいで、いつか、持ち手を本体につなぐあけびの蔓の一部が、切れていたのである。本を持ち歩く習性は仕方ないにしても、あけびの籠には無理をさせた。

 そうしてとうとう、やえばあにこれを買ってもらった銀座の店に出かけていく。電話で持ち手のとり換えのできることをたしかめて出たのだ。

 店にいた若いひとに事情を話すと、「お待ちを」と云って、2階に誰かを呼びに行った。若いひとにつづいて下りてきた初老のひとは、籠を見ると目を細め、

 ——おお、おお、これは秋田のものですねえ。

 と云う。「どんなものでもなおせますけれど、持ち手を換えるとなると、85百円からかかり……」と呟きながら、鼻めがねで眺めまわすうち、「お待ちください、お待ちください」とうれしそうな声になった。

 ——たしかに、持ち手を支える3本のうち1本が切れているところはあります。が、持ち手の巻きはゆるんでおりませんから、ダイジョウブ。まだ、とり換えには早うございます。もう少し使って、ほんとうに持ち手が切れてしまったり、巻きがゆるんでから、また、お持ちください、なに、どんなに古くなりましても、なおせますから。これなんかは、この店のものとしてはまだまだ若いほうの籠でございます。

 どういったものか。

 じーんとした。使い手の神経が、つくり手、扱い手の愛着にてんで届いていない恥ずかしさもあるにはあったが、あまりのことに感動してしまった。大事なひとが怪我をしたけれども、いまのところ手術も、治療さえも必要ない、と云われたようなものだった。

 それから、もう、毎日のようにこれを提げている。

1_2

あけびの籠の、全体像です。

いとおしい、です。

 

 

2

3本の蔓でつながるところが、ほらね、

2本になっているでしょう。

それで、びっくりして使わないでいたのでしたが……。

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