オレンジページnet
このブログは、
『オレンジページnet』の
オリジナルブログです。

『オレンジページnet』はこちら>>
 
profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
profile:山本さんの本
不便のねうち 不便のねうち
足りないくらいがおもしろい 足りないくらいがおもしろい
片づけたがり 片づけたがり
おいしい くふう たのしい くふう おいしい くふう たのしい くふう
こぎれい、こざっぱり こぎれい、こざっぱり
人づきあい学習帖 人づきあい学習帖
親がしてやれることなんて、ほんの少し 親がしてやれることなんて、ほんの少し
まないた手帖 まないた手帖
朝ごはんからはじまる 朝ごはんからはじまる
わたしの節約ノート わたしの節約ノート
おとな時間の、つくりかた おとな時間の、つくりかた
家族のさじかげん 家族のさじかげん
子どもと一緒に家のこと。 子どもと一緒に家のこと。
台所あいうえお 台所あいうえお
元気がでるふだんのごはん 元気がでるふだんのごはん
子どもと食べる毎日のごはん 子どもと食べる毎日のごはん
わたしの献立帖 わたしの献立帖
●こちらもおすすめ!
 『オレンジページ』のブログ
オレンジ進行中
オレンジページ定点観測
堤信子さんの文具びより (ときどき雑貨)
ワンツー☆スリーピース
からだの本ネット日誌
『花カレンダー』のブログ
オレンジページnet エディターズ・ボイス
オレンジページnet
『オレンジページnet』はこちら。

『オレンジページ』に関するご意見、お問い合わせはこちら。

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

2009年8月

2009年8月25日 (火)

蜩(ひぐらし)

 旅先で、いきなり降られた。

といっても、雨ではない。

 くるまのなかにいたが、外の風が見たくなり、窓をあけた。そこで降られたのだった。……蜩だ。

 夏の夕方、または夜明けに、うつくしい声でかなかな、かなかなと鳴くあれ。蝉(せみ)の仲間だそうだ。鳴き声に因んで「カナカナ」ともいい、わたしは、子どものころからその名のほうで呼んでいた。そして、「カナカナ」を好きだった。

「せつない」という感情をおしえてくれた声。降られながら、人知れず、家を思った。

 この旅には二女と出て、家へは夫と娘ふたり、猫を残してきた。家を思ってなつかしがる、せつながる、というのは、なんとも甘やかで、これこそが旅のひとつの味わいだともいえそうだ。そろそろ、土産のことを考えはじめていたところへの蜩の声に、「あ、これだ」とひらめく。帰ったら、留守番役の家人に、このことを話そう。

 かなかな、かなかな、かなかな、かなかなか。

 うれしくて、せつなくて、もひとつうれしくて、涙はなかったもののこっそりしゃくり上げている。

 

 このところの東京では、滅多に蜩の鳴くのを聴かなくなってしまった。この旅の途中で降られるまでは、どんなにその声を恋しいと思っていたかということさえ、忘れていた。木木の少なくなった証だろうか。同じ中までも蝉のほうが蜩よりも肝が太いのだろうか。

 蜩の声を聴かなくなった東京に戻り、「ただいま」と玄関をあけると、末の子どもが飛んできた。

「あのね、カナカナが、たーくさん鳴いてたよ。大合唱だよ。井の頭公園に散歩したの。そこで。お母さん、カナカナ好きでしょう」

「うん、大好き、カナカナ」

 

2

熊野への旅でした。

丸山の千枚田です。

千枚を越え、1,340枚あるそうです。

| | コメント (40)

2009年8月18日 (火)

そっと静かに、とんとんと。

 女ばかり5人で、お茶を飲んでいた。

 カプチーノひとり。紅茶ふたり。オニオングラタンスープひとり。わたしはなんとかいうピンク色のアイスティー。

 オニオングラタンスープのひとの、そのまとっていたうつくしい空色のカーディガンにスープの滴(しずく)が落ちたから、さあ大変! みんなでよってたかって、そら、早く拭きとって、とか、これでたたいてみてください、とかいう騒ぎに。携帯用のしみぬきクロスをさし出したのは、5人のなかでいちばん若いひとだった。なんと嗜(たしな)みのいいひとだろう……。 

 さて。

 空色のカーディガンから、無事にしみが抜けたあとも、しみはしばらくテーブルの上の話題になってとどまった。

 ——しみを気にせずに振る舞うから、いつもしみ。でもね、ドイツのしみぬきで、いいのがあるの。それでたいてい落ちるのよ。

 ——一同、ため息(しみを気にしないというそのひとのかわいらしい一面に。ドイツのなんとかいうしみぬきに)。

 ——赤ワイン専用のしみぬきもあるのよ。知ってる?

 ——えー、知りたい知りたい(呑助だけが、騒ぐ)。

 しみを話題に、こんなに花が咲くなんて、くくく、と笑いながら坐っていたが、ふと、思いだした。その昔、うんと昔、しみぬきに凝っていたことを、だ。

 当時わたしは、衣食住のことと学問とを等しく大事にする学校の高校二年だった。洗濯やつくろいものについて学んでいる。机の上で学ぶのではなく、学校の備品のカーテンを洗ったり、台所で使うでっかいミトンを縫ったりしながら、実践で学ぶのだ。いちばんおもしろかったのは、学校じゅう(小学校から大学までみーんな)の雑巾が集まってきて、それをごしごし洗ったこと。

 雑巾洗いだけは、中学のときから、当番でしていたのだった。洗濯ブラシと洗濯板(きざみのないもの)をつかって、ごしごし、ごしごし洗うのだ。

 そういう学校の高校二年のわたしたちが、しみぬきの勉強をしたときのことだ。なんだかわからないが、おもしろくて、虜(とりこ)になってしまった。おかしなことにこころ奪われやすいのは、あのころからはじまっていたのだわ。

 まあ、ともかく。話だけでも聞いてくださいな。

 道具は、古いがきれいに洗ったタオルと、たらいとボウル。洗濯ブラシと歯ブラシ。洗剤は、粉石けん、固型の洗濯石けん、漂白剤(塩素系のものと、酸素系のものと)、住居用洗剤、台所用洗剤に、練り歯磨き(よくあるチューブの)と消しゴムだ。とくべつな場合だけ、先生に許可をもらってシンナーを使うこともあった。

 果汁や、しょうゆ、スープの食べこぼしのようなのは、たらいに水を張った中につけながら、しみのところを水から持ちあげ、歯ブラシでとんとんとたたく。どうやら、この、歯ブラシでとんとんが、わたしのこころをつかまえたものらしい。まずは石鹸。たいていこれで落ちてしまう。布をいためぬように、そっと、とんとん。頑固なしみ、時間のたってしまったしみだけは、漂白剤を小さなボウルにとって、歯ブラシにちょんちょんとつけながらたたく。

 ボールペンは、住居用の洗剤。

 かなり深くついてしまった口紅や、油性のフェルトペンやインクのしみは、タオルを敷いた上にのせ、あの手この手でためしながらたたく。下のタオルにしみを移せたら拍手喝采。途中何度か、水のなかで小さくもみ洗いする。

 しみを相手にしているわたしって、ちょっと……、ちょっと科学者のようだなあ、と密かに思った。

 漂白剤をどぼどぼっと使って、このあたりで日頃お世話になっている菌を死なせるのは困るので、やっぱり、いまでも、ときどきとんとんと、ひとり静かに科学者になる。

Photo

ときどき、煮洗いもします。

白い木綿のものを、弱火でぐつぐつ30分間。

洗剤は、粉石けんです。

時間も、気分も、こうして煮洗いできたらいいのに、

と思いながら。

| | コメント (33)

2009年8月11日 (火)

自由

 思いこめば思いこむほど、目の前のそれは鍋だし、湯のみだし、ティーポット、それにワンピースなのだった。それぞれ、もう古くなったり、壊れたり、かたちの一部を失っているモノたち。

 わたしの元にやってきてくれたときのかたちそのままに、ずっとそれとして見ている。選んだのはこのわたしだし、惚れこんだかたちなのだから、無理もないのだが。

 ふと、ほんとうにふと、昔のひとは、モノをそんなふうに思いこんだり決めつけたりせずに見ていたのではないか、というふうな気がした。ひとつのモノを大事に使いつづけることにかけても、現代のわたしたちよりも、ずっと長く、あるときは修理の手や磨き粉のちからを借りたりして、そばに置いていたとしても。

 いざとなったら、きものなんかはさんざん、ほんとうにさんざん着つくしたあと、あっけないほどの潔さでもってほどいてしまい、ちゃんちゃんこや、座布団にしたり。ほどいた糸まで使いきるという念の入れよう。

 そうして毛糸のモノ。これもするするとほどいて編み変えてしまう。「これ、兄のセーターだったのですけれど、子どものチョッキをふたつこさえることができました」なんてことを、平然と宣(のたま)う。

 そういえば、破れたこうもり傘の布でこしらえたという巾着をいただいたこともあった、昔のひとから。 

 思うに、さんざん愛おしんで使いつづけたら、もう、しみったれた未練などは消え失せるのだろう。すっと別の道を指し示してやる。

 この道しかない!という勢いで、子どもを受験人生に追い立てたり(追い立てるのがよくないのであって、受験がわるいわけではない)、お金がすべてなんだと、幼い耳に吹きこんだり(すべてというところがよくないのであって、お金についておしえておくのがわるいわけではない)しがちな、現代の大人像とはたいそうちがって見える。

 そういうわたしだって、いつかは昔のひとになる。

 生きているなかで見たなら、もうなりかけているのかもしれない、昔のひとに。そう気がついて、あわてて割れ鍋を植木鉢にしたり。古い湯のみを食卓で使う手拭き入れにしたり。ふたを失ったティーポットを花瓶にしたり。ワンピースの裾を切ってブラウスにしたり。

 そのくらいのことでもしてみると、昔のひとのもっていた自由が見えてくるようだった。昔のひとが、みんな携(たずさ)えていたわけではなくて、モノとのつきあいを通して、もうひとつには手仕事を通して、何年もかけて手に入れた自由だ。

 自由といって、めざしたい境地といえば、そんな自由じゃあないだろうか。

Photo

友人の桜木奈央子さんが、

蜜柑をつめたこんな袋をもって、遊びにきてくれました。

彼女は、2000年からアフリカに通う若い写真家です。

この布は、マサイ――ケニアとタンザニアにまたがる部族――

の布なのですって。

赤と青の布は、アフリカの空に映えるとのことですが、

触れてみると、木綿というより毛織物に近い感じ。

マサイのひとは、昼間これを衣類としてからだに巻き、

夜休むときには毛布として用いるのだとか。

昼間は暑いけれど、夜になると冷えるため、そういう

使い方をするというわけです。

奈央子さんは、その大事な布をざくっと縫って

袋にしてくれたのでした。

Photo_2

「ざくっと縫ったので、ほどいて別のものにしてくださっても……」

という奈央子さんの提案を受けて、ランチョンマットにしてみました。

お茶は、これまた彼女からのルイボスティです。

お茶の缶も、素敵。

(ルイボスティって、肌にもいいのですって)。

そうそう、桜木奈央子さんは

写真を見てくれるひと(多くの場合日本人)にも、

被写体(多くの場合アフリカの人びと)にも、

「別の生き方の可能性」を感じてもらえたら、と

考えながら写真を撮っているそうです。

 ――別の生き方の可能性。

わたしには、励みになる、深みのあるコトバに思えます。

| | コメント (32)

2009年8月 4日 (火)

ぐわんぐわん

 香川県高松市丸亀町へ。

 これから1年間、月に1度は通うことになる町だ。持てる礼節をかき集めるようにして向かう。緊張している。

 いちばん印象にのこったのは……、リムジンバスだった。

 高松空港から行き先までの足にバスを選んで乗りこんだら、初老の運転手に声をかけられた。「大きいお荷物はありませんか」スーツケースでもあれば、バスの下部に収納してくれようということらしい。「ないです、ないです。こんなのひとつだけ」と、かばんを掲げて見せる。

 ここで、運転のお方がこう云ったのだ。

「ほかに用事があれば、云ってください。そのときにはお役に立ちますから」

 唖然とした。この親切。このもの云い。いったい、どういう国のどういう種族だろうか、と思う……。

 初っ端(しょっぱな)で、ついこころをつかまれたため、肝心なことを尋ね忘れ、途中、バスが信号待ちをしているときに立っていって、「丸亀町商店街は、どこで降りたら近いでしょうか」と尋ねる。「兵庫町で降りてください」

「兵庫町」でバスを降りるとき、運転のお方はバスのステップまで降りてきて、「これが、このあたりの地図ですから、お持ちください」とA4サイズの紙を手わたしてくれた。

「この信号を向こうに渡れば、そこがもう丸亀町商店街です。お気をつけて」

                 *

 一足(いっそく)飛びに帰路である。

 こんどは高松駅からリムジンバスに乗りこむ。

 ——もう、行きのような運転のお方には会うまいな。そういう徒(むだ)な期待は戒めておくのにかぎる。

 しかし。帰りの運転手は、行きのお方と年の頃も似ていて、かつ、親切なところまで……。

 お母さんの急ぎの買いものを待つあいだ、バス停に残されていた子どもに「1 2 分なら待てるからね」とそのひとは云い、子どもとならんで立っている。そしてお母さんが駆けてきた。

(このお母さん、バスに乗りこむなり「お待たせをして、すみませんでした」と一礼。拍手)。

 ——高松って、高松って、高松って。

 あたまがぐわんぐわんする。一種の衝撃にはちがいないけれどももちろん、心地よいぐわんぐわんだ。

 途中のバス停で、「このバス、◯◯へは行きますか?」という質問に、「行くんだけどもね、これ高速バスだから通過しちゃうんです。ごめんなさい。ここで待って『△△行き』がきたら、乗ってください。ほんと、ごめんなさいね」と応える。

 空港で料金を払うときには、先に「おつりでしょうか?」と尋ねられる。

「いえ、ちょうどありました」

「それは助かります。どうぞお気をつけて」

 高松のリムジンバスはすばらしい、という短絡的なはなしは、少ししかするつもりはない。

 けれど、わたしはこのたびの「ぐわんぐわん」のなかみを、書いておかなければ。

 ひとのふるまいは、そのひとのまわり半径10メートルほどの空気をつくる。気持ちのいいふるまいをするひとが多ければ、半径10メートル同士がかさなりあって、そこら一帯が気持ちのいい空気になる。

 反対に……、これは、割愛。

 身近な大人のふるまいの、子どもにあたえる影響も大きいが、一度きりしか会わない大人のふるまいは、ともすると、それよりもさらに影響の大きくなることが少なくはない。

 袖振り合った大人の、素敵さは子どもたちをして「早く大人になりたいなあ」と思わせるだろう。そればかりか、「大人になったら、自分もまわりに、とくに子どもにこういうふうに接するんだ!」という風に自然に考えるようになるだろう。

 だから……というわけではないけれど、やっぱりだから、日頃のふるまいを見直したい。

 そう思わせてくれた、このたびの高松発「ぐわんぐわん」。

Photo

高松港から直島にわたりました。

瀬戸内海です。

漫漫とした海を、皆さんへのお土産に。

| | コメント (44)