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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
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2010年1月

2010年1月26日 (火)

「庄野潤三」 本のなかの暮らし〈1〉

 この間は宝塚をみせてくれて、どうもありがとうございます。お話が中国の舞台であったこと、水を使った舞台なのでたのしかった。ラストの場面にはおどろきました。
 これから寒くなりますので、お散歩のときは防寒対策をしっかりやって歩いて下さい。                                            文子

 春夫の手紙。

 宝塚みせてくれてありがとうございます。水の中でたたかう場面は、とてもすごかったです。いしょうがきれいでした。                         春夫

 フーチャンも春夫もいい手紙をくれた。

 昔、ロックフェラー財団の留学生として、妻とともにアメリカへ一年留学したとき、留学のお世話をして下さった坂西志保さん(ご冥福を祈る)に、出発前にお目にかかったとき、向うで食事に呼ばれたりしたときは、短くていいから、すぐにサンキューレターを出しなさいといわれ、留学中それを守った。
 帰国してからは坂西さんのこの教えを三人の子供に伝えて、「何かしてもらったらお礼の手紙を出しなさい」といい聞かせて、子供らはそれを守り、自らの子供にも伝えてくれたのである。                 

                  『けい子ちゃんのゆかた』 庄野潤三著(新潮文庫)

                     *

 昨年9月、作家の「庄野潤三」(しょうのじゅんぞう)が亡くなった。
 そのときの思いは、ああ、またひとつ、あの世に親しみが湧く、あの世にあこがれが募る、というものだった。
 さてしかし、この世での夢もある。それは、まとまった時間ができたら、「庄野潤三」を読みに読みたい、というもの。それがたとえ、病に臥(ふ)すという機会であっても、わたしはそのことをともかく受け入れ、この夢にかけられそうな気がする。いまのところ、病を得るほかに読書三昧(ざんまい)の日日のめぐってくることが想像できない、乏しい時間の配分能力が云わせるのではあるけれど。

 もうもう、その本の連なりには、おもしろみ、なつかしみ、そうして切なさが満ち満ちている。自分がおかしくって泣いていたのだったか、せつなくって涙したのだったか、わからなくなるというほどだ。その世界は、あまねく静かである。
 もしも、若いひとたちのなかに、まだ「庄野潤三」とめぐり逢えずにいるひとあらば、という思いがある。それならば、何としてでも伝えなければ、と。そうして、どこか引用を、と思い、迷って迷って、迷った揚げ句、ぽんと出合ったのが掲出(けいしゅつ)のくだりだ。

 庄野先生は、手紙を大事にする方だった。
 その昔、わたしが出版社に勤めていた頃、庄野先生が、編集部に宛てて避暑地からとうもろこしを送ってくださったことがある。「あなた、お礼状を書きなさい」と先輩たちから仰せつかったわたしは、たどたどしくもお礼状をしたためたのだ。ただただ、一所けん命に。
 すると、「庄野潤三」という差し出しの、わたし宛てのおはがきが届いたのだ。
「あなたの大きな文字の、気持ちのいいお手紙、うれしく受けとりました」と。つたなき礼状への、お返事だった。大感激したことは、云うまでもないが、それとともに、手紙というものの値打ちをおしえられた。
 以来、わたしも、先生のお子さん、お孫さん(フーチャンや、春夫さんほかたくさんの)同様、「お礼の手紙をだしなさい」を守ってきた(つもり)。

 日日のことに、おもしろみをみつける感性は、「庄野潤三」ならでは、だと思っている。そしていつしか、そのことは、わたしたちが暮らすこの国の風土に合ったものだと、考えるようにもなっている。




1

冷蔵庫の野菜室に入りきらなかった大根。
夜のあいだ、こうして立っててもらいました。
家の者たちは、それぞれに、
このヒト(?)と語り合ったのではないでしょうか。
こういうのも、手紙みたいなものかもしれません。


2

翌朝、大根を味噌汁の実にしました。
顔のところをこうして削りとって。
なんだか、捨てがたくて……。

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2010年1月19日 (火)

頃合い(タイミング)

 タイミングということばを耳にすると、いまでもかすかにどきっする。
 若いころは、タイミングを合わせる自信がなくて、「タイミング」と、何でもなく云ったり、すらっと書くことが、できなかった。それで、記憶の底のほうから、「時宜(じぎ。しぎとも読むようだ)」ということばを引きあげてきたり——時宜にかなう、とか、時宜を得る、という風につかう——「頃合い」というのをみつけてきて、云い換えていた。

 云い換えたって、そのことはどの道「タイミング」なのだ。
 わたしをどきっとさせるのは、このことばたちが共通してもとめてくる「判断」なのだ。

 はじまりは、子どものころ、母に叱られるような場面でしばしば云われた「タイミングがわるい子ねえ」というフレーズだ。これが、耳にこびりついた。
 しかしだんだん、タイミング——いや頃合いと書かせていただこう——頃合いを見たり、合わせたりするのに、速度とか、咄嗟の動きというものは、たいした働きはしない、と知るようになっていく。
 どうやらわたしは、ちょっと速過ぎるくらいだ。根がおっちょこちょいなものだから、判断といったようななだらかなものが下りてくる前に動いて台無しにする。つまり、見誤った頃合いを、つい追い越してしまっているのである。
 大きな声では云えないけれど、結婚や離婚やそれに類する事ごと——それほどの遍歴があるわけではないが——や仕事、家うつりなど、ありとあらゆる人生の節目を、見誤ったような気がしている。決めたことに後悔はないけれど、決め方が唐突だったり、決めてからそれをするまでの「間」をもとうとしなかったりして。
 いやあ、ほんとうに、頃合いをびゅんびゅん追い越してしまってきた。
 このことに気づいたのは四十代にさしかかったころだ。

 気がはやり、はやったままに動くとずれる。

 これがわかったときは、じつに神妙な心持ちになった。
 また、別のあるとき。
 つかもうとするとだめなんじゃないかと、ふと思った。もし、頃合いというものが降ってくるものだとしたら、わたしは落ちてくるそれを、そっと両の手で受けとめればいいということになる。
 やってきた頃合いの顔を見てから考える、判断するというので、じゅうぶん間に合うことを発見したわたしは、以前の自分から見たら、すこし愚図(ぐず)になったようだ。けれど、愚図になったおかげで、自分が決めるのにちがいないけれど、頃合いを雲の合間から落としてよこしたものに応援されているような、やすらかな心境を得たのである。

2
ことしのはじめ、
しゃもじや木杓子を、あたらしくしました。
こういうのも「頃合い」です。

左から、ご飯のしゃもじ、カレー専用の木杓子
(カレーの黄色に、存分に染まってもらっていいように、
専用です)、その他の木杓子。

古い皆さんへ
どうもありがとうございました。
長いあいだ、ご苦労さまでした。

あたらしい皆さんへ
これから、どうぞよろしくお願いします。 

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2010年1月12日 (火)

急いでは、のんびり

 元旦は、のんびり過した。
 とにかくのんびりしたかった。動作も、わざとゆっくり。
 前の晩、半分まで仕こんでおいた雑煮を火にかける。前の晩というのが、遠く昨年の話だと思えば、ちょっとした感慨におそわれる。

 鍋がひと煮立ちするのを待ちながら、昨年とことしのあいだに淵のようなものがあったとして……と、考える。昨年からことしへの渡りをしくじって、その深く黒黒とした淵に落ちたら、どうなるのか。落ちてしまったら、そこで1年過すのさ、と、話をこしらえる。
 となりにやってきた夫に、その話をする。
 ——渡りをしくじるというより、しくじらされるの。淵に落ちるのは、1年間休む必要のあるひとというわけ。
 ——落ちたいな、淵。
 と、夫は、遠くを見る目になっている。
 ——云うと思った。落ちたひとは1年、淵のそばの集落で暮らすのよ。火をおこし、草を摘み、さかなを獲って生きてくの。そんな暮らしでも、落ちたい?
 ——落ちたい、落ちたい。
 そうだろうなあ、田舎育ちの夫のことだ、いきいきとして楽しんでしまうかもしれない。わたしだって落ちてみたい。この世でのことを1年休んで、いのちをつなぐだけで精一杯という暮らしをしてみたい。
 鍋の鶏のスープのなかでにんじん、大根、ごぼう、里芋が煮えた。夫の家に伝わるのとわたしの家のとの、合体雑煮だ。ここへ、焼いた餅と茹でた小松菜を入れ、椀によそったら切りみつばと、柚子の皮を小さく削いでのせる。

 午前10時、日も高くなってきた。そろそろ、元旦の膳を。
 ——落ちなかったの、あなたも、わたしも。お屠蘇(とそ)運んでくれる?
 そう云って、淵に思いを寄せている夫を、この世の元旦に引きもどす。
 ——そうか。……あけましておめでとう。
 ——渡りを決めるのはね、時をつかさどる妖怪たちなの。年の暮れの「妖怪会議」で決まるのよ。

 元旦ののんびりは家のなかの誰も彼もに行き渡り、食卓が片づいたとき、昼を過ぎていた。恒例の高尾山への初詣には、出発がおそくなったなあ、のんびりが過ぎたかなあ。
 ——1時15分出発。
 と夫が云う。わたしよりのんびりと親しく、のんびりを理解しているひとだ、云うとおりにしよう。
 午後1時15分出発。
 3時半に高尾山の登山口に着き、ここからリフトで上る。下のほうを覗きこんだとき、朝方話した昨年とことしのあいだにある、深い淵を思った。
(昨年からことしには渡れたけれど、山頂に登り、日のあるうちに下りてこられるかしらん)。

 リフトを下りて、てくてく山頂に登ったときには、山頂には、いつもの元旦ほどにはひとがおらず、それより何より、ここで見たこともないものを見た。夕陽だ。富士山の頂きに夕陽が、沈もうとしている。

 眺めながら、ああ、と声が漏れた。

 わたしのことだ。のんびりばかりで日を埋められないだろう。けれど、のんびりした揚げ句、のんびり出かけてみれば、こんなにも思いがけない夕陽である。
 急ぎ過ぎては、はっとしてのんびりを思いだし。

 めあては、急いではのんびりというテンポか。


Photo

初日の入りです。
高尾山山頂(599m)より、富士山をのぞむ。


Photo_2

山頂での、記念撮影。
5人の影です。
山を下りるときは真っ暗。
夜景を楽しみました。
目の前に、大きな、オレンジ色のまんまるお月さんが
見えました。

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2010年1月 5日 (火)

予言者になる隙(ひま)に

 ——◯◯ちゃんのおとうさん、お嬢さんをあんなに溺愛して。○○ちゃんがおうちから独立とか、結婚となったとき、ダイジョウブかしら。そういうところをうまく乗りこえられずに、病気になったりね。

                 *

 世は予言者ばやりである。
 あっちにもこっちにも「〜すれば、〜になる」という予言があふれている。  
 しかし、「〜する」と「〜になる」のあいだを手探りで行くのが人生ではないのか。初めて行く道の上、かすかな灯りをかざし、どきどきしながら。
「〜する」と「〜なる」のあいだは、ほんとうに思いがけないことの連続だ。 
 備えても備えても、備えきれなかったということもあるかと思えば、ちっとも備えていなかったのに咄嗟の判断でなんとか切り抜けたり。思うとおりにならなかったことを、おもしろがっている自分を発見したり。
 つまらないのは、お定まりの「〜すれば、〜になる」を生きようとすることだ。「〜する」と「〜になる」のあいだの思いがけなさを味わう機会を逃すことだ。

 そも、8歳の子どもを溺愛して何がわるいものか。子どもの独立や結婚——まだ当分は訪れない。いったい、どのくらい先の予言をしているのか——の際の気持ちなど、ひとそれぞれ。そこでの経験、味わいは、そのときそこで待っているのだから。それを、病気になることまで予想してみせるなんてさ——まさか、たのしみにしているのでもあるまいが——さもしい話だ。
 そうは云っても。
 きっとわたしにもついているのではないだろうか、予言癖。
 ことしは、わたしは、おかしな予言をする隙に、「〜する」と「〜になる」のあいだを思いきり生きよう。そこに、うんと思いがけないことを、紡ごう。

                 *

新年おめでとうございます。
ことしも、どうかよろしくお願い申し上げます。
2010年のはじまり、はじまり〜。


Photo_3

アルバム整理をしていて、みつけた、
なつかしい写真です。
へんな顔をしている子どもは長女、となりの
あんちゃんみたいなのが、わたしです。

「こんな小さいうちから保育園に預けるなんて、
情緒不安定なひとになるのにちがいない」
と、まわりから予言されていたころの写真です。

もうじき25歳になる長女は、
自分の、生後4か月からの保育園生活に、
誇りをもっている、とのこと。

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