『東京タワー』(リリー・フランキー) 本のなかの暮らし〈2〉
ボクは四十歳になろうかという今でも、箸の持ち方がおかしい。どう間
違っているのかといえば、文字で説明できないくらい、おかしい。おまけ
に、鉛筆の持ち方もかなりおかしい。どう間違ったらそんな持ち方になる
んだというくらいにおかしいのである。
しかも、それぞれがおかしいことを、ボクはかなり後まで知らなかった。
オカンがちゃんと教えなかったからである。
「なんで子供の頃、いちいち教えんかったんね?」。ボクが聞くとオカンは
言った。
「食べやすい食べ方で、よか」
とても、ざっくりしているのである。
ところが、こういう局面では細かく、厳しい。
小学生の頃、誰かの家でオカンと夕飯を御馳走になったことがあった。
家に帰ってから早速、注意を受けた。
「あんなん早く、漬物に手を付けたらいかん」
「なんで?」
「漬物は食べ終わる前くらいにもらいんしゃい。早いうちから漬物に手を
出しよったら、他に食べるおかずがありませんて言いよるみたいやろが。
失礼なんよ、それは」
(中略)
ある程度大きくなって、人の家に呼ばれる時は、オカンに恥をかかせな
いようにと、ちゃんとした箸の持ち方を真似てみたりするのだが、オカン
はあまりそういう世間体は気にしないようだった。自分が恥をかくのはい
いが、他人に恥をかかせてはいけないという躾だった。
『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』
リリー・フランキー著(扶桑社)
まあ、なんと長長と引用したこと。
月に一度書くつもりの「本のなかの暮らし」で、楽をしようとしているのか? わたしは。まあ、そういうことになるだろう。前回は庄野潤三さんの、そしてこのたびはリリー・フランキーさんのお力を借りて。
さて、『東京タワー』が売れに売れているとき、わたしはこの本に手をのばさなかった。売れに売れていることに嫉妬したからではなくて、ベストセラーの本はいつも放っておくのだ。そして読まないまま終わってしまうことも少なくない。が、この本はそうならなかった。まず『東京タワー』を映像化したものを、なぜだか3本観たのだった。2時間ドラマ、映画、連続ドラマの順で(あとからリリーさんにそれを告げたら、「舞台にもなったんだよね」とおしえられた)。
なぜだか観たと書いたけれども、ほんとうは理由はわかっている。小説に登場する(というか、主人公だ)オカンのぬか漬けの話をうわさに聞いたからだった。オカン役の「田中裕子」が、「樹木希林」が、「倍賞美津子」が、どんな風にぬか床に手を入れるか、見たくって(じつは、ここに延延と引っぱらせていただいたくだりの「中略」としたところに、オカンが苦労し手間もかけてぬか漬けと向き合う姿が描かれている)。
そうこうするうち、小さい講演会でリリー・フランキーさんにお目にかかることが決まり、わたしはあわてて原作を読んだ。読んだ感想は、まさかこれほどのものとは思わなかった、である。ことに自分がオカンになる前にこの本を読めたなら、どんなによかっただろう、という思いが湧いた。「自分が恥をかくのはいいが、他人に恥をかかせてはいけない」という思想は、おそらくこの本におしえられなければ、はっきりと掴(つか)むことができなかったのではあるまいか。
とにかく。ベストセラーは放っておくという理由で、この本と出会わずじまいということにならずにすんだことは、幸いだった。ギリギリセーフだな、と思った。そして、この本の著者に、生きて動いている「ボク」に会えるなんて……と、胸はときめく。
実際にお目にかかってみると、このときの感想がまた、まさかこれほどのものとは思わなかった、だった。講演会の2時間半あまり、リリーさんのとなりで、わたしはいわゆる下ネタを聞かされていた。ふふふ、このひとの下ネタはわるくないわ、品格があるし、何より思いやりがある。そう思いながら、そっとその横顔を盗み見ていたのである。わたしときたら、本格的なばあさんのような顔になって、口のなかで云う。
「いい男だねえ」
この本には、「え?」「お!」「へ!?」と呻(うめ)かずにはいられないような思想が、情景がちりばめられている。
いったい何の写真を添えようかしら、と考えていました。
朝、居間に入ったら、朝日が壁にヤカンを映しています。
あ、これだ! 「オカン」と「ヤカン」、とても似ているでしょう?
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