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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
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2010年2月

2010年2月23日 (火)

『東京タワー』(リリー・フランキー) 本のなかの暮らし〈2〉

   ボクは四十歳になろうかという今でも、箸の持ち方がおかしい。どう間  
  違っているのかといえば、文字で説明できないくらい、おかしい。おまけ
  に、鉛筆の持ち方もかなりおかしい。どう間違ったらそんな持ち方になる
  んだというくらいにおかしいのである。
   しかも、それぞれがおかしいことを、ボクはかなり後まで知らなかった。
  オカンがちゃんと教えなかったからである。
  「なんで子供の頃、いちいち教えんかったんね?」。ボクが聞くとオカンは
  言った。
  「食べやすい食べ方で、よか」
   とても、ざっくりしているのである。
   ところが、こういう局面では細かく、厳しい。
   小学生の頃、誰かの家でオカンと夕飯を御馳走になったことがあった。
  家に帰ってから早速、注意を受けた。
  「あんなん早く、漬物に手を付けたらいかん」
  「なんで?」
  「漬物は食べ終わる前くらいにもらいんしゃい。早いうちから漬物に手を
  出しよったら、他に食べるおかずがありませんて言いよるみたいやろが。
  失礼なんよ、それは」

   (中略)

   ある程度大きくなって、人の家に呼ばれる時は、オカンに恥をかかせな
  いようにと、ちゃんとした箸の持ち方を真似てみたりするのだが、オカン
  はあまりそういう世間体は気にしないようだった。自分が恥をかくのはい
  いが、他人に恥をかかせてはいけないという躾だった。

                   『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』
                           リリー・フランキー著(扶桑社)

 まあ、なんと長長と引用したこと。
 月に一度書くつもりの「本のなかの暮らし」で、楽をしようとしているのか? わたしは。まあ、そういうことになるだろう。前回は庄野潤三さんの、そしてこのたびはリリー・フランキーさんのお力を借りて。
 さて、『東京タワー』が売れに売れているとき、わたしはこの本に手をのばさなかった。売れに売れていることに嫉妬したからではなくて、ベストセラーの本はいつも放っておくのだ。そして読まないまま終わってしまうことも少なくない。が、この本はそうならなかった。まず『東京タワー』を映像化したものを、なぜだか3本観たのだった。2時間ドラマ、映画、連続ドラマの順で(あとからリリーさんにそれを告げたら、「舞台にもなったんだよね」とおしえられた)。
 なぜだか観たと書いたけれども、ほんとうは理由はわかっている。小説に登場する(というか、主人公だ)オカンのぬか漬けの話をうわさに聞いたからだった。オカン役の「田中裕子」が、「樹木希林」が、「倍賞美津子」が、どんな風にぬか床に手を入れるか、見たくって(じつは、ここに延延と引っぱらせていただいたくだりの「中略」としたところに、オカンが苦労し手間もかけてぬか漬けと向き合う姿が描かれている)。
 そうこうするうち、小さい講演会でリリー・フランキーさんにお目にかかることが決まり、わたしはあわてて原作を読んだ。読んだ感想は、まさかこれほどのものとは思わなかった、である。ことに自分がオカンになる前にこの本を読めたなら、どんなによかっただろう、という思いが湧いた。「自分が恥をかくのはいいが、他人に恥をかかせてはいけない」という思想は、おそらくこの本におしえられなければ、はっきりと掴(つか)むことができなかったのではあるまいか。
 とにかく。ベストセラーは放っておくという理由で、この本と出会わずじまいということにならずにすんだことは、幸いだった。ギリギリセーフだな、と思った。そして、この本の著者に、生きて動いている「ボク」に会えるなんて……と、胸はときめく。

 実際にお目にかかってみると、このときの感想がまた、まさかこれほどのものとは思わなかった、だった。講演会の2時間半あまり、リリーさんのとなりで、わたしはいわゆる下ネタを聞かされていた。ふふふ、このひとの下ネタはわるくないわ、品格があるし、何より思いやりがある。そう思いながら、そっとその横顔を盗み見ていたのである。わたしときたら、本格的なばあさんのような顔になって、口のなかで云う。
「いい男だねえ」

 この本には、「え?」「お!」「へ!?」と呻(うめ)かずにはいられないような思想が、情景がちりばめられている。                

Photo

いったい何の写真を添えようかしら、と考えていました。

朝、居間に入ったら、朝日が壁にヤカンを映しています。
あ、これだ! 「オカン」と「ヤカン」、とても似ているでしょう?

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2010年2月16日 (火)

決心

 読者の方からのお便りだった。
 白い封筒からひき出してみると、それは便箋ではなく原稿用紙に書かれてあった。
 原稿用紙に向かう相手を想像する。
 お顔は浮かばないのである。相手は初めてお便りをくださるお目にかかったこともない方だ。わたしへの便りということもあるだろうけれど、それより何より、自分の気持ちや考えをたしかめたしかめ書いたものなのだという気がして、それを開くとき神妙な心持ちになる。
 思ったとおりだった。ひと月あまり前に読んだという、わたしのエッセイをきっかけに、ご自分の来し方をふり返る内容だった。

 ところで——。
 ところで書いたものというのは、どうしてこれほど「ひと」をあらわすのだろう。そこから立ちのぼってくる気質や思想が、こちらに伝わってくる、犇犇(ひしひし)と。そうして原稿用紙には、手書きの文字がならんでいる。そのため、もうひとつ犇犇が、増す。実直な文字が、ならぶというより駆けていた。勢いをつけなければ書けないという思いが背中を押していたのだろうか。駆けてはいるが、文字はていねいに書かれている。
 お手紙には、短い返事をしたためて投函した。投函したあとも、胸のなかから去らないものがあった。それは、「いつか自分を信じることができる日まで」という結びのことばだ。

 いつか自分を信じることができる日まで。
 ということは、いまの時点で、この方は自分を信じていないことになる。そこから、ぼんやり考えつづけている。ひとは、自分を信じることができない状態のまま、生きていくことができるものだろうか、と。あるいはまた、自分を信じられずに生きていたとしたらどうなるだろうか、と。
 自分を信じないまま生きていくことほどむずかしいことはないような気がする。それは、自分をもたないまま、投げだしたまま生きることだからだ。

 その前に——。
 その前にまず、自分を信じることは、どうしても必要だ。必要という以上に、ひととして生きていく上での前提だという気がしている。
 信じるためにはどうしたらいいのか。宙に向かって目を凝らし、「信」を探そうとしてもみつかりはしない。そこいらに漂っているものではないからだ。そこで、決心ではないだろうかと思うのだ。自分を信じよう、と決心する。

 たとえば——。
 たとえば罪を犯しても、償(つぐな)いをして、自分を信じようと決心することができれば、そこからまた、ひとはやり直せるものだと、わたしは考えている。

 決心する——。
 そうだ、決心だと、思いあたる。

10215_2
今朝、2人分の弁当をこしらえながら、
こういうことも、自分への「信」を築くなあと、
思ったことです。
ひとつは持って出る弁当で、
2段のは家で食べてもらう弁当。

なかみは――
・雑穀のご飯(梅干し/かくれ海苔弁)。
・ほうれんそうと牛肉のオイスターソース炒め。
・れんこん、にんじん、厚揚げの煮もの。
・だし巻き卵
・ブロッコリ(茹/根元に味噌を塗って)。
・煮りんご。

〈お知らせ〉
1

『片づけたがり』(オレンジページ刊)誕生!

このブログから、また本が生まれました。
ブログのときの原稿に、加筆をいたしました。

ここにいらしてくださる皆さんには、
ことに、どこかで見ていただけましたら……、こんなにうれしいことはありません。
書店にも、今週末か来週ごろにはならびはじめることと思います。
どうぞ、よろしくお願いをいたします。

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2010年2月 9日 (火)

ちくちくの効能

 ちくちくやっている。
 穴のあいた靴下をただ、ちくちく。繕(つくろ)いものをしているだけなのに、こころがはずんでくる。え、どうして?

 今し方、「やらなくちゃね、そろそろ」と思いたち、繕われるのを待っているモノたちを入れておく籠をとり上げたときには、やれやれ、というような気分だったのではなかったか。針箱のふたをとり、目をしょぼしょぼさせながら針の穴に糸を通すうち、わたしというひとの全部が、繕うかまえになっていく。
 そうして、いつも同じようなことを考える。
 こんなふうに、糸と針で靴下の穴を繕い閉じるように、胸にぽっかりあいた穴やら、気力や元気をためておく袋のほつれをふさぐことができたらいいのに、と。どういうはずみか、自分を失いかけている誰かの、その魂を「自分」という正体に縫いつけることができたらいいのに、と。
 誰か、などという話し方をしているけれど、こうしてちくちくやりながら、まっさきに自分をとり戻そうとしている。とり戻せると信じているからこそ、繕いたいのだ。
 モノをできるだけ長く使おうとか、モノに愛着を加えようとか、ちくちくの果てには、そういうめあても見えている。けれども、ちくちくやっている、いまのいまは、手仕事の効能にただただ身を寄せる。

 ある日。
 玄関でしょんぼりしている背中を見た。仕事からもどった長女が、腰をおろしたまま立ち上がろうともせずに、自分の足元を見ている。ややっ、ため息。
 ——ど、どうした?
 ——これ、気に入ってたの。見て、穴あいちゃった。
 ——へ?
 しょんぼりの種、ため息のもとは、ズックにあいた穴なのだった。
 ——繕ってみる? 布なんだし、できると思わない?
 ——できる、よね。やろうやろう。

 結果は——良好である。
 ふたりで、ああでもないこうでもないと云いながら、ときに、針で指をつつきながら、繕ったのだった。なかなかうまく繕えたことも良好のうちだが、長女が繕いに開眼(かいげん)したこと、もしかしたらこのことがいちばんの良好だったかもしれぬ。繕った針目のあるズックは、「以前よりもいい感じになったし、彼女に対する思いが……その、なんというか……」と、長女はことばを探している。
 ——その、なんというか? 彼女(あなたのズックは女性なんだね)への愛着が増したんでしょ?
 ——そう、それ。愛着が……増したの。ありがとうね。云ってもらわなければ、捨てちゃってたところだった。
 ——針仕事も、楽しかったよね。ちくちくって、何かに効くと、思わなかった?
 ——思った、効いたって思ったよ。縫ったり、つくったりばかりがちくちくじゃないんだね。繕うってすごいね。モノをもう一度生まれなおさせるんだから。

Photo
これは、長女の、この型のズックの2代目です。
1代目は、2回繕って履きつぶしました。
中敷きの赤いフェルトのものは、これを履いて旅したとき、
お守りがわりにこっそり貼りつけました。
赤いフェルトに赤いペンで、
片方に「がんばれ」と、もう片方に「交通安全」と書いたんです。
 

〈お知らせ〉
きょうはひとつお知らせを。

★第7回「さぬきの食卓会議」
よみがえる活動弁士付き無声映画!
出し物は喜劇王競演「チャップリン」と「キートン」。
今回は、活動弁士佐々木亜希子さんをお迎えします。活動弁士による映画の上映の約束である生演奏もつきます。(案内人/山本ふみこ)
2010年2月24日(水)
開場:18:30/ 開演:19:00(21:30終了予定)
料金:5000円(ワンプレートディナー+ワンドリンク付き)
会場:高松丸亀町壱番街4階エアリーレストラン ルーチェ
お申しこみ:087-822-2203(ルーチェ)
* お知らせがおそくなって申し訳ありません。
* 定員になり次第締め切らせていただきます。

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2010年2月 2日 (火)

なぬかななぜん

 こつこつとか、ひとつずつというようなのが、好きだ。好き、というより、頼りにしている。そうして、年を重ねるたびに、わたしのなかで「こつこつ」、「ひとつずつ」は、その輝きを増していくようだ。
 わたしの目からは一足飛び、三段跳びのように見える他人(ひと)の上達や進歩も、そのじつ、こつこつとひとつずつの積み重ねなのかもしれず、そうだとすると、こつこつの「こつ」が、ひとつずつの「ひとつ」が、わたしのよりも幅があって大きいだけなのだろう。幅や大きさがどうあっても、移そうとする山は、いつかは移してしまえる。
 そう、山を移すとは、子どものころくり返し読んだ「愚公(ぐこう)山を移す」のものがたり(中国の古典『列子』のなかの「湯問」に収められた寓話)である。

                          *

 むかしむかし、中国河南省(かなんしょう)の北に、太行山(たいこうざん)と王屋山(おうおくざん)という高山がありました。このふたつ山のふもとの村に愚公という90歳に手の届きそうな老人が家族とともに暮らしていました。このふたつの山は、どこへ行くときにも村人たちにまわり道をさせるのでした。
 ある日愚公は、子ども孫たちに向かって「わたしとおまえたちとで山をけずって道をつくろうと思う」と話しました。妻は「小さい丘をくずすことだってできはしませんよ。だいいち、くずした土や石はどこへ運ぶんですか?」と云います。黄河(こうが)のほとりに住む賢人の誉(ほま)れが高い老人も、愚公の計画を無謀だと笑いました。
 しかし愚公は本気でした。たとえ自分に土や石を運べなくなっても、子どもや孫の代までつづければ、きっと山は移せ、地は平らになると云って、毎日箕(み=穀類をあおって殻や塵をとりのぞく、木や竹の皮で編んでつくった農具)で、少しずつ少しずつ土を運びました。
 この様子を見ていた天帝(=天の神さま)が甚(いた)く感心して力持ちの神に命じて、山のひとつを朔東(さくとう)に、もうひとつを雍南(ようなん)に移しました。

                          *

 本に描かれていた、笊(ざる)とも見える素朴なもので土を運ぶ愚公のさし絵は、目に焼きついている。ああ、これならやっていかれるかもしれない、と幼ごころに思ったものだ。
 九九もなかなかおぼえられない。逆上がりもできない。漢字の書き順をすぐ忘れる。絵を描けば彩色に失敗して画用紙を黒ずませる。こんな具合に、何をやってもだめな子どもだったわたしにとって、愚公こそは英雄(ヒーロー)、というわけで、ときどき本をひらいてさし絵を覗いた。

「一日一善」ということばもある。1日にひとつ善い行いをするという意味である。しかし、善悪というのがまたむずかしく、現代においてはますますむずかしく、よかれと思ってしたことがひとを不仕合わせにしたり、ひどい仕打ちがひとを救ったりする。だから「一善」と云われても、わたしにわかりやすいのは、自分にとっての「一善」ということになる。なんだか、手前勝手な話になってしまうけれども。
 くり返しの生活をたのしむためには、毎日ひとつだけでも、たのしみの要素をみつけ、生活向上の手がかりをつかみたいというわけだ。

 そうは云っても一日ひとつはなかなか大変。1日の自分、24時間の暮らしぶりを評価しようとすると、思うに任せぬことばかりが目の前に積まれ、がっかりする。が、わたしたち、がっかりばかりもしていられない。そこで……。

・1週間(7日間)という幅で考えること。
・ ひとりで「一善」を気負わず、ひとつ屋根の下で暮らす者、皆で手分けして善を生む(うちの場合なら、1週間に1.4善ずつ、という計算になる)。

 最近、このふたつを合わせる必要に気がついて、画策している。名づけて「七日七善(なぬかななぜん)」計画。


Photo

以前、自分自身で直しているところを
ご紹介したことがある小物干しです。
麻ひもや、たこ糸を使って直していたら、
不具合が発生しました。
これは、夫の今週の「なぬかななぜん」。


1

食器洗い乾燥機「けんちゃん」の補佐役を
みつけて、設置しました。
「けんちゃん」が働いてくれているときに、
つぎの食器洗いがしたくなったとき(わたしの就寝後など)、
手でちゃっちゃっと洗って、このカゴに置くのです。
このおかげで、朝のシンクの様子が変わりました。
これは、わたしの「なぬかななぜん」。


2

ほら、「けんちゃん」の下に、こんなふうに
納まります。
こうまでうまくいくとは思っていませんでした。
         *
今週の、このほかの「なぬかななぜん」、
長女の「スズキサン(掃除機)」の分解掃除、
夫のベランダ掃除。……いいペースです。

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