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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
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2010年4月

2010年4月27日 (火)

『行きつ戻りつ』(乃南アサ著)  本のなかの暮らし〈4〉

 ―人生なんてね、石段をゆっくり登り続けるようなものなのよ。最後まで登ってみなきゃ何が待ってるか分からないし、見えてくる景色だって変わるに決まってるんだから。
 どきりとした。彼女は思わず立ち止まって自分の周りを見回した。静寂だけが辺りを包んでいる。今は、波の音も聞こえなかった。
 あれは、いつのことだったろう。息苦しささえ覚えながら、彼女は目まぐるしく考えを巡らせた。小言や説教は、しょっちゅうだった。だが確かに以前、一度だけそんなことを言われた記憶がある。
 ―いつでしたっけ? ねえ、お義母(かあ)様。
                      『行きつ戻りつ』(乃南アサ著・新潮文庫)

 旅が好きだ。
 「たび」と聞くだけで、はずむ。
 いわゆる旅の、多いほうではないのだけれど……。
 そも、旅というものの定義はどうなっているのか。
 広辞苑にあたってみると、「住む土地を離れて、一時ほかの土地に行くこと。旅行。古くは必ずしも遠い土地に行くことに限らず、住居を離れることをすべて『たび』と言った」とあった。
 なるほど、「住む土地を離れて」か……、と得心する。
 それでわたしたちは、休暇を利用して旅行、以前から行ってみたかった旅館に泊まる、というのこそを旅だと考える。そういうのも旅にはちがいないけれど、そういうのでない旅もある。
 そういうのでないほうの旅をしていることに、ひとはときどき気づかずに、つまり、出たことも帰ったこともわからないままでいることがある。
 「ああ、あれは旅だった」と、あとで気づいて、旅の日日を思い返したりする。「住む土地を離れて」ではなく、「常の自分を離れて」ということか。

 『行きつ戻りつ』は、「乃南アサ」の旅のものがたり集である。
 そこにはかぐわしい旅の風景がひろがっていて、それだけで、わたしなどは、じゅうぶん旅をさせてもらえるのだけれど、描かれているのは人生行路の、ある側面ともいえる。
 秋田・男鹿(おが)。熊本・天草。北海道・斜里(しゃり)町。大阪・富田林(とんだばやし)。新潟・佐渡。山梨・上九一色(かみくいしき)村。岡山・備前。福島・三春。山口・柳井(やない)。福井・越前町。三重・熊野。高知・高知市。
 12の旅先を著者は選んで、事情を抱えた妻たちを旅立たせている。「乃南アサ」が自ら12の旅をしている証拠に、まこと風景が真に迫っている。風景が真に迫るなどとは、作品に対してかぶせることばとしては並に過ぎるが、迫るのだから仕方ない。
 登場人物が抱える事情が、旅先の風景のなかで風景に変わり、迫ってくるというわけだ。事情を抱えず生きているひとなど、この世にいはしない。「わたしは抱えていない」と云いきるひとがあったなら、「そこのところが、あなたの事情です」と伝えなければなるまい。そうして『行きつ戻りつ』の12のものがたりはたしかに、それぞれの胸に迫るのだ。
 このものがたり集を読んで、サスペンス(あるいはミステリー)において文学世界を切り拓いてきた著者にめずらしい作品、と思った方もあるかもしれない。純文学やらエンターテイメント(?)やらという分類に対して懐疑的なわたしは、各方面の都合がこしらえている分類などは蹴飛ばして、「乃南アサ」の人物の観察の深さと、それを描く筆力について、くどくど語りたくなってしまう。
 読み手の「場」と「こころのありよう」によって、受けとるものの、味わうものの異なり具合といったら、もう。

 冒頭の引用は、「姑の写真」という最初のものがたり、姑と嫁の秋田県男鹿への旅のくだりだ。前に2度読んだとき、素通りしたものかもしれないけれど、このたびははっとして足を止めた。ひとは、いつでもひとと向きあうことができる、願いさえすれば、とおしえられたような気がして、救われたのである。

 

Photo

「旅」というと、旅支度です。
「旅支度」というと、うちの者たちは、まず
「布のふくろ/かばん」のひきだしから、ふくろもの、
大風呂敷を出してきます。

ふくろものは下着入れや、
風呂に行くときのかばんになります。
その他の衣類は大風呂敷(90×90cmの大きさに縫ってある)
に包みます。

     *

〈お知らせ〉
つづいて、ひとつお知らせを。

★第8回「さぬきの食卓会議」
ゲスト・乃南アサさん
「自分の取り扱い説明書を書くとしたら……」
(案内人/山本ふみこ)
2010年5月13日(木)
開場:18:30/ 開演:19:00(21:30終了予定)
料金:5000円(ワンプレートディナー+ワンドリンク付き)
会場:高松丸亀町壱番街4階エアリーレストラン ルーチェ
お申しこみ:087-822-2203(ルーチェ)
* 現在の〈さぬきの食卓会議〉シリーズは今回でひと区切り。
またカタチを変え、「まち」と「ひと」をつなぐイベントとして再開する予定です。
* 定員になり次第締め切らせていただきます。

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2010年4月20日 (火)

なんだ、こりゃ

 風景だったのだ、と思った。
 友人のことなのだが、ひとに「風景」をあてはめるのがふさわしいかどうかと迷いながら、それを伝えてみたのだった。

   わたしにとって、アナタとコウタクンは、大事な風景でした。風景なん
  て、と思わないでくださいね。
   それは……、
   そこにあるのがあたりまえで、
   ときどきどうしても眺めたくなり、
   好き、ということなわけですから。

   大事な風景が、なくなるわけではないけれど遠くなってしまうことは、
  かなり困ることです。目の前に、ぽっかり穴があいて。

                 *

 この春に転勤で群馬県に越していったひととわたしは、子ども同士が保育園、小学校と同級だったというつながり。保育園と学校で顔を合わすというだけのお互いだったが、そのことが「かけがえない」と思えるお互いでもあった。
 息子のコウタクンがまた、じつにおもしろく——わたしはこっそり「ハカセ」と呼んでいた——学校での発言や行動の端端(はしばし)を娘から、いつもたのしく聞いた。ハカセは読書家だったが、そういうところにも感心していたのだった。
 そんなとき、用事ができた。
 それは、ことし3月に卒業した小学校の残務で、その連絡をひき受けたわたしは、卒業のあと転居したひとたち4人のあたらしい住所に郵便をだすことになった。4人のなかにはハカセの名前もあって、ああ、手紙が書ける、とはずんだ。
 先方からは、すぐと「連絡受けとりました」という返事が届き、そこには、数行の近況——ハカセが、ジャージにヘルメットという出で立ちで自転車通学しているとあった——が添えられていた。ファクスだった。「送信テストのため、ファクスで送らせていただきます」と記されている。
 わたしは再度はずんで、「受信もテストしてください」と、こちらの近況——娘はぶかぶかの制服姿で、てくてく通学と——をファクスで送信。
 翌日、こんどはパソコンにメールが届く。このメールに対する、わたしの返信が、掲出の「風景」の一文だ。

 この春、もっともさびしかった事柄が静かにすくすく変化していくことに、驚く。わたしは、思わず「なんだ、こりゃ」と呟いた。この、思いがけなくもやさしい展開に、しみじみすることすら忘れ、はずんだこころで「なんだ、こりゃ」だったわけである。


Photo

コートをクリーニングに出そうと思って
ポケットのなかを確かめたら、
こんなものが出てきました。

「なんだ、こりゃ」です、まったくのところ。


Photo_2

広げてアイロンをかけたら、こうなりました。
末の子どもが、小学校の科学遊びクラブで、
玉ねぎの皮でしぼり染めをした、ということです。

コートのポケットから出てきた思いがけないモノは、
わたしを驚かせ、いろんなことをおしえてくれました。

さて、このしぼり染め、何にしましょう……。 

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2010年4月13日 (火)

なりゆき

 その朝は4時前に目が覚めた。
 ゆとりのあるはじまりになるな、とうれしかった。目の前にするべきことが積まれており、よし、と自分を励まし、起きあがる。
 ところが、どうも躓(つまず)くのである。

 猫の朝ごはんを仕度するとき、足元の水をひっくり返す。
 冷蔵庫のなかで、豆乳が容器からこぼれだしている。
 パソコンに複雑な用件、それも急いで返答する必要のあるメールが届いている。
 前の日に、誰かがどこからか持ち帰ったらしい花束が———大花束だった———とりあえずバケツに入れてある。

 ゆとりだと計った分の時間が、水浸しの床を拭き、豆乳だらけになった冷蔵庫内を掃除し、頭を掻き掻きメールの返事を書き、花を3つの花器にいけることで消えてしまった。そういうわけで、日課の朝風呂をと浴室に向かったとき、時すでに6時。やれやれ、ちょっと急がないと。

 浴室に一歩足を踏みいれて、驚く。
 室内が、光であふれている。
 その光は、西側の窓からやわらかく静かにすべりこんできた。
 朝日である。
 湯船にからだを沈めながら、畏れ入る。
 こうして光のなかにあることが、自分にはふさわしくないように思えて、なぜか頼りない心持ちになる。なにしろ朝からあわただしく動きまわって、ここへやってきたときも、やれやれなどと呟いていたわたしだ。
 それでも、光のなかでじっとしている。
 数分後、光は他(ほか)へうつっていき、浴室は少し薄暗い、いつもの朝の佇まいにもどっていた。
 ふとアンデルセンの『絵のない絵本』を思いだす。貧しい若者の部屋を、夜ごと月が覗きこんで、その晩かあるいは前の晩に見たことをあれこれ話していくものがたりだ。雨や雲にはばまれて、月は、毎晩訪ねてこられるわけではなく、訪ねてきても、わずかな時間しか部屋にはいられない。けれどもそのものがたりには、ありとあらゆるものごとの本質が含まれている。
 わたしにも朝日(太陽)が何かを語りかけていったようだ。

「ここへわたしは、ほんの2分か3分ほどしか光を運んではこられないのです。やってこられる時間も毎日ことなります。……よく会えましたね。驚くほどいくつものことが重なって、会えたんですねえ」

 すべては「なりゆき」なのだった。
 この日目を覚ました時間も、躓きと思えた事ごとも、「なりゆき」。
 そういえば以前、「なりゆき」ということばを好きだった。ただし、密かに好きでいた。
「なりゆき」が好きなどと云えば、受け身が過ぎると、とくに仕事の仲間たちにあきれられてしまいそうで。けれども、「なりゆき」が、思いがけないものを生みだすところを、幾度も幾度もこの目で見てきたのだ。「なりゆき」を好きだったし、信じてもいた。
 いつしか忙し癖のついてしまったせいだろう、忘れていた。

「なりゆき」の不思議。
「なりゆき」のおもしろさ。

 それを朝日は告げ、思いださせてくれた。

 
Photo

「なりゆき」のお話をしたあとで、
こんどは「あとさき」の話を。

写真は砥石です。
昨年の暮れに浅草の刃物店でみつけてもとめました。
小学校のPTAの卒業委員の仕事も忙しくなってきた時期で、
これを、その役目の、自分への「褒美」としようと思ったのです。
このたび、やっとこれをおろしました。
褒美を先にもとめておくなどとは、話が「あとさき」になるにも
程があるでしょうか……。

            *

セラミック中砥
(205×75×25mm)Bester♯1200
2,800円也。
 

 
 

 

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2010年4月 6日 (火)

忘却に

 ——あのころのこと、もう思いだしたくない。
 と、その女(ひと)は云う。
 ——……。
 ——あのとき、わたしはどうかしていて、それで……。
 ——……。
 思いだしたくないというのなら、その話、「あのころのこと」はしないでおこう、というのがわたしの考えだった。そも、わたしは「あのころのこと」がどんなことだったのかを、知らない。
 だから相づちも打たなかった。

 いつのころからか、ひとは記憶を崇拝するようになった。
 ものごとをおぼえこみ(記銘)、記憶として保存し、そうしてそれを呼びだす(想起)ことに躍起になる。ごたごたと記憶ひしめく頭を首の上にのせて、そこからいい具合に記憶を引きだせたなら、拍手喝采。
 もちろん、記憶がわるいわけではないけれど、忘れることをまるで尊ばなくなったのは、困りものだ。
「おぼえている」と云えば感心されるが、「忘れた」と打ち明ければ軽蔑される。「おぼえている」と「忘れた」には同等の値打ちがあるのではないかなあ。わたしは、このごろ、ますますそう考えるようになっている。
 部屋の片づけとちがって、これとこれは「おぼえておく籠」に、そしてそれらは「忘れる籠」に、と、明らかな分類のできにくいのが記憶というものだ。
 忘れたと思っていたことが、時を経て、何かの拍子で思いだされる。
「あら」
 そういうことも少なくはない。「あら」と思って向き合った記憶を、なつかしく眺めるか。「いやあねえ、こんなこと思いだしたりして、わたしったら」と肩をすくめるか。どちらになるか、自分で決めておけぬ範囲もある。
 しかし、このことはきっとおぼえていようという決心、これはここで忘れてしまおうという決心の必要な場面というのがありはしないか。

 ——あのころのこと、もう思いだしたくない。
 と、その女(ひと)は云う。
 ——……。
 ——あのとき、わたしはどうかしていて、それで……。
 ——……。忘れたい、の?
 ——そう、忘れたい。忘れたいんだ、わたし。
 ——わたしに話してから忘れることにする? それとも、話さずに忘れることにする?
 そのひとは、目を伏せて考えている。
 しばらくそうしていたが、いきなり頭を上げて首を左右に振った。
 ——話さない。話さないで忘れる。
 ——そうか。それじゃ、忘却に乾杯。
 ——乾杯。

Photo
「忘却」と云えば……。
先頃、こんなことがありました。
長女の誕生日の日、
当人が仕事で帰りがおそくなるということだったのです。
そういうことなら、お祝いは、また今度ね、と。

そしてわたしは、誕生日のことを、
すっかり、きっぱり忘れたのでした。
ところが、どうしためぐり合わせか、
早く帰宅できることになったから、さあ、大変。
その日のおかずを、なんとはなしに豪儀にもりつけて……。

・赤魚の粕漬け(焼)
・ほうれんそうのサラダ(ベーコン)
・塩鮭(焼)
・きんぴらごぼう
・きゃべつの味噌蒸し
・ほうれんそうのごま和え
・山うどのきんぴら


Photo_2

すっかり忘れたりしてはいけなかったなあ、と
反省しました。
同時に「誕生日ケーキ」を思ったのです。
長女の好物の卵焼きを、こんな風に。
(25は、年齢です。四半世紀も共に歩いてきたわけです)。

Photo_3

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