持たない生活② おなじみ
……あち。
夜だというのに、気温はいっこうに下がらず、熱気は居座ったままだ。
暑さのなかでも、茹だるそうな、というのは、こういうことを云うんだとわかった。扇風機がやけになって、唸り声をたてて首を振っている。そこにいる誰もが、部屋のなかの熱気をかき混ぜているだけだと考えていたけれど、それを口にする者はなかった。賢明だ。
また、そこにいる誰もが、これはもう、エアコンを入れたらいいのじゃないかと、考えてもいたはずだった。
ところが。
夜のページは、いきなりめくれた。
つぎのページは、大粒の雨が数滴屋根を打つ音ではじまった。つづいて、いきなりの風だ。それも突風。網戸の目をおしわけて吹きこんできた。
ガラガラ、ガシャーン。
これは、西の窓から吹きこんだ突風が、鍋ラックの上からやかんを落とした音。やかんは落ちて、体内にたくわえていた水を床に撒きちらした。なぜやかんが?
突風は突風としても、やかんは半ば意志をもって落ちたように見えた。床にころがったやかんと、ふたと、こぼれた水、それをみつめたまま、しばらくじっとしている。
「ダイジョウブ?」
誰かが、やかんに向かって云った。
「ドシタノ?」
と、別の声が云う。これも、やかんに向かって。
ほんとだ、わたしもそれが云いたかった、ドシタノ? と。やかんは、それには答えず、床の上で口を一文字に結んでいる。云いたいことはなくはないが、口にはしないと決めた、という佇まいか。
「ドシタノ?」と、もう一度、ニュアンスを変えて、訊く。——そっと。
やっとのことで、やかんを抱きおこし、ふたを……。あ、ふたについたつまみのまわりの部分が割れて、散らばっている。
「ケガ、シテルジャナイ」
やかんをかかえて、ごしごし磨く。磨くの、久しぶりだ。いろんなことのしわ寄せが、こんな、なじみの道具にいくのは、わたしのどこかがねじれている証だ。
ふたのつまみは、突起部分が無事だったから、事なきを得た。
夜、床に入ってからも、やかんのことを考えていた。
やかんが家にやってきて、何年たつのだろう。
20年くらいだろうか。
台所用品として、やかんはどうしたって必要だと考えたからもとめ、しかし、もとめたときには、これほど長くともに暮らし、ともに働くことになるとは思わずにいた。歳月というものの、無我夢中の側面を見る思いだ。その側面に寄り添って、こちらもまた、知らずと無我夢中だったわけだが。
これからモノをそろえていこう、選ぼうという若いひとたちに、この歳月の無我夢中を、つまりあっという間の時の経過を、伝えておいたほうがいいだろうなあ、などと考えているうち、いつしかまどろむ。
まどろむ道の途中で、はっと、思いついたのである。
数日前、やかんの見える食堂兼居間の椅子の上で、わたしは道具のカタログをめくっていた。そうして、なかに鍋としても使えるやかんというのをみつけて、「へえええええ」という、意味ありげな声をだしたのだった。とはいえ、「へえええええ」には、たいした意味があるわけではなかった。ただ「へえええええ」だったのだが。
(アレ、キカレタナア)と思う。
気づかぬうちに、薄情な仕打ちをしたものだ。いや、気づかないのが、そも、薄情のはじまりといえるだろう。
やかんは、わたしに捨てられる、と考えたかもしれない。
こちらは、捨てたりなんかするもんですか、と思っている。
しかし、道具、ことになじみの道具が、こちらの心変わりを疑いたくなるような日常の些細(ささい)な変化について反省するうち、やっと眠りにつくことができた。
朝起きたら、「『アナタ』ノホカニ、ヤカンヲカンガエタコトナドナイ」と、やかんに、はっきり告げよう。
こんな薄汚い、ボロ靴をお目にかけること、
ごめんなさい。
これは、
長女が小学校に上がるときにもとめた、
わたしの学校用の上履きです。
保護者会、面談、いろいろの会、PTAの用事の際、
学校で履いてきました。
19年使い、まだ現役です。
これも、
こんなに長く使うことになるとは想像もしなかった、モノ。
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