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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
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2010年9月28日 (火)

『見知らぬ妻へ』(浅田次郎著)  本のなかの暮らし〈9〉


「そうだな。じゃあ、一緒に行こうか」
 夫の差し出した掌を握りしめて、房子は軽々と立ち上がった。
 足元から花が巻き上がった。
 団地のなかぞらにふわりと浮き上がったとき、房子は住み慣れた部屋を振り返って、ひとこと、「さよなら。ありがとう」と言った。
               「うたかた」/『見知らぬ妻へ』(浅田次郎著・光文社文庫)所収
 

 「孤独死」ということばを聞くようになったのは、いつごろか。さやかには憶えていないけれど、その呼び方に馴れる以前のかすかなとまどいについての憶えなら、ある。とまどいながら、「孤独死」と、何度もつぶやいた。このことばを最初に使ったひと、この呼び方を受けいれた多くの人びとは、おそらく、「孤独」と「死」を忌む存在なのだろうな、と思いながら。
「孤独死」と呼ばれるようになったそれは、あるひとがひとりで死を迎え、その死がしばらくのあいだ誰にも知れないという事態のことだ。
 ひとり暮らしの老人に「孤独死」は、多いらしい。著名人のなかにも何例かあり、それとわかると大騒ぎになる。大騒ぎは、彼(か)のひとの生前の活躍に向けてのことでもあるから仕方ないとしても、その最期を「可哀想」と、「気の毒」と、呼ばわることを仕方ないとは思わない。

 孤独を愛する人物、孤独が不可欠な生き方を選んでいる人物にしてみれば、ひとりで死を迎え、それがある期間、ひとに知られぬままになることなど、あってあたりまえだと、わたしには思える。
「孤独死」ばかりではない。ひきこもり。登校拒否。なんとか障碍。なんとか症候群。いろいろのマイノリティ(少数派)。似通った現象や、事態を分類し、ひとつ呼び方を定めるやり方から、わたしは始終はぐれる。分類して具合がいいのは、整理整頓の分野だけで、あとは、散らかしておけばいいのに、などとこっそり考えたりする。
 どんなことも、ひとつひとつのことだもの。
 それがどういうわけでそうなっているのかを、ひとつひとつ見ることもしないで分類し、刺激的な名で呼ぶのに馴れてしまうのは、困りものだ。
 ああ、どこかに、ひとりきりの死の肩をもつような作品はないかなあ、と思って、さがすともなくさがした。
「浅田次郎」の短編集にめぐり逢ったときは、だから、しみじみうれしかった。
 冒頭の引用は、「うたかた」という短編の結びだ。ひとりの老女が選んだ死のものがたりは、やさしくて、うつくしくて、せつない。
 死も、ひとつひとつの死なのだ、と、こころから思えた。

 そうは云っても、とひとは考える。
 残された者たちが困らないようにしなくてはいけない。死後しばらくの、「しばらく」が三日を過ぎるのは……。死に関し、事件性を疑われるのは、よろしくない。
 ……そう考えるなら、考えたなりの備えをすれば、いい。
 備えもできぬまま、本意とはことなるかたちで、突然、ひとりきりで迎えることになった死のことも、わたしは尊びたいけれど。
 そうして、どうしてもこう思う。

 ひとりきりの死も、わるくない。


Photo

夏のおわり、これをベランダで発見したときの
うれしさは……。
昨年10月にもとめたミニシクラメンが、
ことしまた、
青青と葉を茂らせたのです。

これもまた、ひとつの生だと、
思いました。

花が咲いたら、また、お知らせします。


Photo_2

葉っぱが、つぎからつぎへと、
生まれています。 

|

コメント

WASUREGUSAさん

おはようございます。

まず、「ごめんなさい」を。
わたし、ときどき「wasurenagusa」さん、と、
途中「na」を入れておはなししましたね。

お許しください。

もう、まちがえませんから、
つぎから小文字表記にもどしてください……。

さて。

わたしもね、生きものとして生きる以上、
「孤独」、「孤」は前提だと考えています。

投稿: ふ | 2010年10月 5日 (火) 06時02分

おはようございます。

わたしの身内ばなし うけとめていただき ありがとうございました。

それぞれのご家庭に それぞれの物語があるのだと思います。

「孤 の老い」や「孤 の死」、「孤のくらし 」というものを 
生き物として静かにうけとめたいと思います。ヘンな言い方ですが。

見えないけれどある。見えないものでもある。
土にかえる…。

おまきさんのお書き入れに つくづくと
「生き物としてありたい。」とそんなふうに思いました。

お二人の きょうこさまのやりとりが あたたかく。

ありがとうございました。このたびも。

投稿: WASUREGUSA | 2010年10月 5日 (火) 05時52分

おまきさん

とてもすっきりしました。

考えていたことのうち、
うまく言い表わすことかなわなかったところを、
書いてくださったので。

御礼申します。
(ほんと、ありがたかった……)。

そしてね、
これも云わせてください。

土にかえりたい。

佳い今週を。

投稿: ふ | 2010年10月 4日 (月) 06時43分

ふみこさま

分析、分類は、そのことを知るための入り口なのだと思いますが、そこだけで知った気になっている例が、あまりにも多い、と思います。
その先の、「ではどうなのだろうか?」を掘り下げていくと、結局、分けることは、事務処理のための手段なだけで、本質は分ける前に戻る、
つまり自分達とそんなに変わらない、見方を代えればいいだけで、元のところはたいしたことではない、ということに気がつくはずなのです。
一歩踏み込んで知っていくのは、苦しさも伴うので、知らなくてもいいと思ってしまうのかな。

わからなくても、そこにあるものなら、「あるんだな」と、まずは思いたいです。

身近な人の死を何回か経験すると、葬儀にかかわる儀式は、残された人が哀しみに落ち込んでしまわないためのものだなあと感じます。忙しくしていないと、何もやる気が起きなくなっていくだろうなあと思います。
自分の時はやらなくてもいいよと思いますが、家族とか、繋がる人がいると、一時でも哀しみから逃れられるなら、仕方ないかなあ。

一方で、ひとりで死んでしまうかもなあとも思っているので、後処理(へんな言い方ですが)も大変だろうし、なにかよく聞く象の墓場みたいなところはなかろうかと、その時にはそこに行って、土に帰るとかできないものかなあと、ぼんやり考えます。

投稿: おまき | 2010年10月 4日 (月) 02時03分

えぞももんがさん

そうですね。

「今」が積み重なっての「今」ですね。

なんて、軽く云っていますが、
このフレーズに、ぐっときています。
帖面に書きました。

こちらこそ、
今週もありがとうございました。

おじぎ。

投稿: ふ | 2010年10月 3日 (日) 06時49分

きょうこさま

「織田きょうこ」さんに、
そんな風に話される、
きょうこさんが、すごいなあ、素敵だあと、
思います。

どうもありがとうございます。

wasurenagusaさんのお母さまの、
声を殺して泣く、という場面、
沁みています。
いったい、わたしに、
こういう真似ができるようになるんだろうか、と
疑いつつ。

また。


投稿: ふ | 2010年10月 3日 (日) 06時47分

フィりフヨンカさん

生まれるときも、
死ぬときも、
たしかに「それ」を迎えるのはひとり……。

生まれるときには、産むひとがいる。
そこは、大きいです、ね。

死ぬときは……。

迎えるひと、送るひとを考える。
それを考えると、
なんと複雑で、厳粛な孤独だろうか、
と思わされます。

ともかく、いまは
「その日」まで……。


投稿: ふ | 2010年10月 3日 (日) 06時44分

ふみこさん おはようございます

こちらは すっかり 朝夕の空気が
ひんやりしてきました。

「それがどういうわけでそうなっているのかを
ひとつひとつ見ることもしないで分類し、
刺激的な名で呼ぶのに馴れてしまうのは、困りものだ。」

私も そう思います。

生きていくと いろんな状況がある。
日々、少しずつ  変わっていく
自分もそうだし 家族も変わっていく。
ある時期 みんなで過ごしても
ある時期には 一人かもしれない
いろんな過程を経ての「今」なのだから
何も 不自然ではない気がします。

「今」が積み重なっての「今」ですね。
ふみこさん 今週もありがとうございます!

投稿: えぞももんが | 2010年10月 3日 (日) 05時08分

ふみこさま、皆さま、こんばんは。

きょうこさま
どうか、恐縮なさらないでくださいませ。
私が憧れている、大好きな人の名字なのですよ。うふ♪

>みなさんの文章が見事だなあと、いつもうっとりしています。
はい、私も同感です。

ここは、ほんわか温かくて、心安らぐ場所ですね。

投稿: 織田きょうこ | 2010年10月 2日 (土) 20時57分

あとからのわたしのために、HNをかえてくださった織田きょうこさま。恐縮です。

wasurenagusaさんのコメントは、映画を見ているような、上質な短編を読んだような気持ちになりました。

みなさんの文章が見事だなあと、いつもうっとりしています。

投稿: きょうこ | 2010年10月 2日 (土) 00時41分

どこに いても、
誰といても、

死んでゆくのは、自分ひとり。

生まれてきた時と一緒だなぁと思います。

そこに、一緒に在るのは
「感謝」と「祝福」

生まれてきてくれて、ありがとう。の感謝
良い人生をありがとう。の感謝

感謝の隣には

それなら、よかった。の祝福。

「孤独も、わるくない。」 です。

投稿: フィりフヨンカ | 2010年10月 1日 (金) 21時29分

焼き海苔の の さん

子どものころから
「孤独」好きだったので、
「孤独」を邪魔にされると、
かなしくて。

朝顔も、この季節に、
ほっとしているのかもしれませんね。
夏のあいだは、張りつめていて。


投稿: ふ | 2010年10月 1日 (金) 16時15分

wasuregusaさん

こころが洗われるとは、
こういうときにつかうコトバなんだなあと、
思っております。

登場人物がみな、清清しくて。
この顔ぶれのなかに生まれた情景なんですね。
ほんとうに、驚きました。

ワイルダーの本は、
wasuregusaさんにとって、
とくべつの本というわけですね。
wasuregusaさんが、
おばあさまに読んだというところにも、
打たれました。

投稿: ふ | 2010年10月 1日 (金) 16時13分

ふみこさま

「孤独」って、マイナスなイメージがありますが、私はもう少し自分自身
孤独と仲良くなれるような、強い私になれればいいなぁと思うのです。

マイナスなイメージって、「あの人ひとりでさみしそうねぇ」って思われは
しないかという勝手なとらわれで、本当はただの決めつけなのかも。
自分も含めて・・・。

我が家のベランダでも、涼しくなったとたん、朝顔が毎日花を咲かせています。

投稿: 焼海苔の の | 2010年10月 1日 (金) 15時47分

おはようございます。

祖父母のことを思い出しました。
祖母はわたしが幼い頃に倒れ、その後祖父の看とりを得て私が小学6年のときに亡くなりました。わたしたちは離れて暮らしておりましたので、会いに行けるのは就学後は年に一度。夏休みの40日間を この祖父母の家で過ごしました。

もともとは人様の出入りの多い家であったようですが、明治生まれの頑固な祖父は、周囲からの一切の支援を断り、栄養の本を紐解き、病を学び、介護の方法を一人淡々と構築していきました。九州の田舎の 暑い暑い家にあって 床に伏せる祖母はいつも涼しげに 優しい眼差しで私たちを迎えてくれました。

こういう夏を過ごす母の気持を 胸ふさがる思いでながめながら、わたしはあの家で、土曜夕方の「大草原の小さな家」の番組を祖母と見るのを楽しみにし、平日の暮れ方は ワイルダーの本を祖母に読んで聞いてもらっていました。

母はたいへんに気丈なひとですけれど、休みの終わりにスーツケースを閉じ、タクシーで空港へ向かうときには、わたしたち子どもに気取られないように、声を殺して泣いておりました。わたしは幼い弟がそれに気づかないように、海だ山だと大げさに車窓を指さしておりました。

家族 というものを あの頃わたしは学んだのだと思っております。離れていても、近くにいても、天と地との引力のように引き合っている。ひとの生き死にもまた、引き合っている。南の家の高床の畳に魅かれた 清潔な床に伏せる祖母の姿をわたしは今も美しいものとして思い出しますし、ガンジーのような風貌だった祖父のことを畏敬をもって思い出します。

長くなりました。ひとりよがりな思い出ばなしを。お許し下さい。

投稿: wasuregusa | 2010年10月 1日 (金) 06時06分

こぐまさん

生を見守り、
死をも見守る経験というのは、
大きいでしょうね。

自分の身に置き換えると(いまは、なんとはなしに見守る側の
こころでいます)、こころもとないところがあります。
でも、自然に、歩いていけば、きっとわかることもある
と信じることにします。

何を云っているのだか。
わたしに、どれくらいの見守りができるだろうか、
という話です。


投稿: ふ | 2010年9月30日 (木) 11時47分

しょうさん

はっとしました。

生き方が死に方につながっている……。
そう、力まず云えるしょうさん、
素敵だなあと思えます。

きょうも、大事に。
という風に、でしょうね。


投稿: ふ | 2010年9月30日 (木) 11時43分

織田きょうこさん

お名前のこと、
どうもありがとうございます。

きょうこさんも、だんなさま(オット氏)も、
おしあわせだなあと、思います。
お義母さまもね。

オット氏の感謝の気持ちに支えられて
おられるんだと思いました、きょうこさん。

投稿: ふ | 2010年9月30日 (木) 11時41分

あささん

わたしも!
あささんの思いに、賛成(云い方はおかしいけれど)です。
とても……、うれしいです。

シクラメンは、白色(の花)です。
花をお目にかけられるよう、
ねがっています。

投稿: ふ | 2010年9月30日 (木) 11時35分

あつこさま

生きているひとが、
いまより、もう少しだけ「死」と
仲よくなるといいなあと、夢見ています。

朝顔、元気です。
毎朝、咲きつづけています。
今朝は2つでしたけれど、
一昨日は8つ咲きました。

まだまだ……いけるはず。

投稿: ふ | 2010年9月30日 (木) 11時32分

Koujiさん

わたしも、
じたばたしないで、与えられるままの「死」を
「へい」とか云って、受けとりたいなあと
思っています。

「へい」でも「Hi!」でもいいのですけれど。

投稿: ふ | 2010年9月30日 (木) 11時30分

寧楽さん

まあ、いいお話を。
どうもありがとうございます。

とても潔い、
わたしにはうらやましい旅立ちの
お話でした。

投稿: ふ | 2010年9月30日 (木) 11時28分

ゆるりんりんさん

そうそう、ほんとうに。

夏のあいだに枯れたと思ったものたちが、
ほんとは生きていて、
元気に葉を繁らせているのを見ると、
ああ、まだまだわたしもがんばろう……と、
励まされます。

わたしには、「ふつう」という概念が
とてもむずかしく思えて(白状)。
だけど、ゆるりんりんさんのおはなしを
読ませていただいて、
ああ、そうか、と思うところがありました。

ありのままの自分が、てくてく、
ということか、と。

投稿: ふ | 2010年9月30日 (木) 11時26分

ぽんぽんさん

佳き旅だったのですね。
おめでとうございます。

ね、おめでとうを云われるのにふさわしい
旅だったでしょう?

ほんとうにね、
毎日のくりかえしを、大事にしながら、
生きていきたいですよね。

投稿: ふ | 2010年9月30日 (木) 11時20分

マドレーヌさん

お知らせしますとも。

なんだかね、期待しないでいたもので、
力まず、さりげなく世話を焼くくらいのほうが、
ことは成るものかなあ……と思わされています。

投稿: ふ | 2010年9月30日 (木) 11時18分

ふみこさま。

うちの大きいおばあちゃんは、10年前に我が家で息をひきとりました。
1年くらい寝た切りでした。ヘルパーさんに来てもらって自宅で最期まで介護をしました。老衰だったのですが、ほんとうに枯れるように細くなり食べれなくなって
亡くなりました。でも、私、おばあちゃんは喜んでくれているんじゃないかなぁと思っています。施設には絶対に入りたくないって言ってたおばあちゃんだったので。
私も、できたらおばあちゃんみたいな最期を迎えたいなぁ・・・。と思います。
介護は大変だったけど、今はよい経験だったと思えます。でも、私の時代には無理なのかなぁ・・・。

投稿: こぐま | 2010年9月30日 (木) 09時19分

ふみこさま

おはようございます。

今年の春、父が他界しました。寂しくもありましたが、長患いでしたので、やっとだね、頑張ったね、お疲れさまでした、という気持ちでした。そう思えるくらいまで頑張ってくれた父に感謝です。たくさんのこと、言葉や姿勢、考え方を与えてくれた父でしたが、最期にも贈り物をしてくれました。

「死」について幼いときは怖くて仕方なかったですが、父をおくって、「死」に対する気持ちが薄れてきた気持ちがするからです。

死した後はもう、自己の気持ちはなく、いままでの生き方が家族や友人のなかに残るだけ。そう思うと毎日の生き方が死に方につながっているような…。

今週もありがとうございます。シクラメン、美しく咲いてくれるといいなあ。楽しみにしています。


投稿: しょう | 2010年9月30日 (木) 08時35分

ふみこさま、みなさま、こんばんは。

同じ名前の方がいらっしゃいましたので、わかりやすいように
ちょこっとHNを変えました。

半年ほど前に、たった1度、コメントを書かせて頂いただけなのに
ふみこさんが、私の名前と、母のくぎ煮の事を覚えていてくださって
とてもうれしいです。
ありがとうございます。

そうですね。
ひとりで暮らし、ひとりで死ぬことを、ご自身がよしとするならば
他者が「可哀想」とか「気の毒」などと言うのは、失礼な事なのかもしれませんね。

義父が生前、義母に
「お前は、ワシが死んだら、ひとりでなんか、やっていけない」
と言っていました。
はい、その通りだと思います。

私のオットは、母親が誰にも気づかれずに死ぬなんて
絶対にイヤなんだそうです。

義父の死後、娘(オットの姉)一家のところにいた義母ですが
今は、我が家に住んでいます。

オットは、姉のだんなさまに迷惑をかけたくなかったのでしょうね。
二人の姉達は、それぞれ子どもが独立し、夫婦で悠々自適な暮らしをされています。

うちのオットは、すご~く親きょうだい思いでしょ?

ミニシクラメン、とても勢いがあって元気そうですね。
私は、春と秋に、一年草を植えています。
そろそろ植え替えの準備をしなくては。(ワクワク)

きょうこ 改め 織田きょうこ

投稿: 織田きょうこ | 2010年9月28日 (火) 23時25分

ふみこさま、こんばんは

生も死も、もっと近くにあった方がいいよなぁ
なんて、不謹慎かもしれませんが、そんなことを思いました。

田舎に住んでいた頃は、死がもっと身近でした。
動物、昆虫、植物、季節(こちらは移り変わりか?)、そしてもちろん人間。
いろんな存在とのつながりを感じながら、それぞれとの別れも感じていました。

東京には虫も雑草も少なくて、これはこれで簡易かもしれないけれど、「死」という当たり前の営みを、とても遠くに感じてしまいます。
だからでしょうか。
孤独死という言葉に、恐れを感じてしまいます。

シクラメン、かわいらしいですね! 何色でしょう?
中学3年の冬、教室でシクラメンを育てていたのを思い出しました。


投稿: あさ | 2010年9月28日 (火) 22時15分

ふみこさま

私は今の所「孤独死」の心配もなくこれといった持病もないのですがなぜか常に頭の隅っこに「死」がいます。
親しい人が突然亡くなったりしたことや毎日のようにどなたかの事故死のニュースなどを聞くからでしょうか。
この用事は面倒くさいなぁって思っても私がもし今日にでも死んだら家族が困るなんて思って片付けたり・・・ただの心配性かもしれませんが毎晩、寝床で「とりあえず今日も皆が無事だった。ありがたい。」と思います。
どんな形で「死」が訪れるかは予想できませんが精一杯生きておけばいいんじゃないでしょうか。

うちではふみこさまの予言通りまだ朝顔が頑張ってます。
健気だなぁって毎朝水遣りがさぼれません。

投稿: あつこ | 2010年9月28日 (火) 19時24分

ふみこさま、みなさま、こんにちは。
ひとりでの死。それはもしかすると、現実化するかもしれません。死んだあとのことは、お葬式もふくめて、遺されたひとたちのことであって、旅立った本人とはかかわりのないはなしですね。「かかわりのない」というと、冷たくかんじられそうですが。
名称をつけて分類わけ、認識するうえで必要であり、ぼくはさほど抵抗をかんじませんが、ただ、名称をうつことでとりこぼすものはたしかにありますね。それが、ひとりびとり血の通った人間であることとか。なんにでも当てはまりそうです。~人だからこうとか、~教信者だからどうとか。
じぶんはじぶん。じぶんでは、じぶんを定義づけずにゆきたいです。ひとりで逝くなら逝くで、後はなんとかするでしょう、くらいの氣もちでいたいな、とおもいました。ふみこさんの今回のおはなしを読んで。
なるように、なりますね。

投稿: Kouji | 2010年9月28日 (火) 13時38分

ふみこさま

一人で逝ってしまった
母の友人。

大晦日に静かに…。

湯船に入ったままの姿で
嫁いだ娘さんが帰って、見つけられたとか。

母も私も号泣しましたが身の回りを整理し
お正月のしつらえを
整えて、旅立った人に
不謹慎だけど
私はひそかに感動
しながら見送りました。
今でも清々しい人だと
時々、思い出します。

投稿: 寧楽 | 2010年9月28日 (火) 13時28分

ふみこ様

どんな死に方が正しいかなんて
わかりませんよね。

ただ自分の場合、
普通に死んでいきたいと思っています。
で、普通に死んでいくって?
と考えたところ、
普通に暮らしていてやってくる死です。
それは
一人の時かもしれないし
病院の中かも。

残された人の負担にならないように
「あの人は本当に好きなように
 あるがままに野放しに生きてましたよねえ」
と思ってもらえるように
普通に生きています・・・なんちゃって

暑い夏の間に枯れてしまった、
と思っていた植木たちが
じわじわとちょこちょこと
よみがえっています。
嬉しい!
これが普通のいいとこですよねえ

投稿: ゆるりんりん | 2010年9月28日 (火) 11時40分

ふみこ様 皆様
こんにちは


旅から帰りました。森を散歩したり、畑で収穫した野菜でランチを作り、お外で頂いたり、絵本の美術館でのんびりしたり。

家族で沢山思い出作って来ました!

無農薬の茄子やピーマン、パプリカ、白茄子、オクラ…ザルに収穫した野菜の美しさにうっとりしました。これも大事な生ですよね?
…私は、以前から死ぬ時は海の奥深いところで、胎児みたいにまるーくなってなくなりたいと思ってました。そして最期は海の泡になりたいと。

実際は到底無理な状況だと思いますが。(現実はとても美しくないかたちになるでしょうね)

でも、なんというか…
できるなら、そんな風にひっそり一人でいくのも悪くないかなと。

ぼんやり思っていました。
今は、今日のこの日この時を出来るだけ大切に過ごすのが私の目当て、です。

今週もありがとうございます。

投稿: ぽんぽん | 2010年9月28日 (火) 10時56分

ふみこさま

わがやのベランダにも同じくらいのシクラメンが置いてあります。
去年の12月、ムスメの誕生日にいただいたものです。
「今年もいっぱい咲いてね」と話しかけていたところでした。

ふみこさんのシクラメン、花が咲いたら、お知らせくださいね。(^-^)

投稿: マドレーヌ | 2010年9月28日 (火) 10時30分

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