『見知らぬ妻へ』(浅田次郎著) 本のなかの暮らし〈9〉
「そうだな。じゃあ、一緒に行こうか」
夫の差し出した掌を握りしめて、房子は軽々と立ち上がった。
足元から花が巻き上がった。
団地のなかぞらにふわりと浮き上がったとき、房子は住み慣れた部屋を振り返って、ひとこと、「さよなら。ありがとう」と言った。
「うたかた」/『見知らぬ妻へ』(浅田次郎著・光文社文庫)所収
「孤独死」ということばを聞くようになったのは、いつごろか。さやかには憶えていないけれど、その呼び方に馴れる以前のかすかなとまどいについての憶えなら、ある。とまどいながら、「孤独死」と、何度もつぶやいた。このことばを最初に使ったひと、この呼び方を受けいれた多くの人びとは、おそらく、「孤独」と「死」を忌む存在なのだろうな、と思いながら。
「孤独死」と呼ばれるようになったそれは、あるひとがひとりで死を迎え、その死がしばらくのあいだ誰にも知れないという事態のことだ。
ひとり暮らしの老人に「孤独死」は、多いらしい。著名人のなかにも何例かあり、それとわかると大騒ぎになる。大騒ぎは、彼(か)のひとの生前の活躍に向けてのことでもあるから仕方ないとしても、その最期を「可哀想」と、「気の毒」と、呼ばわることを仕方ないとは思わない。
孤独を愛する人物、孤独が不可欠な生き方を選んでいる人物にしてみれば、ひとりで死を迎え、それがある期間、ひとに知られぬままになることなど、あってあたりまえだと、わたしには思える。
「孤独死」ばかりではない。ひきこもり。登校拒否。なんとか障碍。なんとか症候群。いろいろのマイノリティ(少数派)。似通った現象や、事態を分類し、ひとつ呼び方を定めるやり方から、わたしは始終はぐれる。分類して具合がいいのは、整理整頓の分野だけで、あとは、散らかしておけばいいのに、などとこっそり考えたりする。
どんなことも、ひとつひとつのことだもの。
それがどういうわけでそうなっているのかを、ひとつひとつ見ることもしないで分類し、刺激的な名で呼ぶのに馴れてしまうのは、困りものだ。
ああ、どこかに、ひとりきりの死の肩をもつような作品はないかなあ、と思って、さがすともなくさがした。
「浅田次郎」の短編集にめぐり逢ったときは、だから、しみじみうれしかった。
冒頭の引用は、「うたかた」という短編の結びだ。ひとりの老女が選んだ死のものがたりは、やさしくて、うつくしくて、せつない。
死も、ひとつひとつの死なのだ、と、こころから思えた。
そうは云っても、とひとは考える。
残された者たちが困らないようにしなくてはいけない。死後しばらくの、「しばらく」が三日を過ぎるのは……。死に関し、事件性を疑われるのは、よろしくない。
……そう考えるなら、考えたなりの備えをすれば、いい。
備えもできぬまま、本意とはことなるかたちで、突然、ひとりきりで迎えることになった死のことも、わたしは尊びたいけれど。
そうして、どうしてもこう思う。
ひとりきりの死も、わるくない。
夏のおわり、これをベランダで発見したときの
うれしさは……。
昨年10月にもとめたミニシクラメンが、
ことしまた、
青青と葉を茂らせたのです。
これもまた、ひとつの生だと、
思いました。
花が咲いたら、また、お知らせします。
葉っぱが、つぎからつぎへと、
生まれています。
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