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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
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2010年11月

2010年11月30日 (火)

『色の手帖』 本のなかの暮らし〈11〉

朽葉(くちば)
落ち葉のような色。▷くすんだ赤みの黄。▶近世以降の「茶」に相当するもので、「赤朽葉」のほかに、黄色みの「黄朽葉」があった。

*「源氏物語」〈紫式部〉—野分「いときよらなるくちはのうすもの、いまやう色の二なく打ちたるなど、ひきちらしたまへり」(11世紀前)
*「偸盗」〈芥川龍之介〉「十七八の若侍で、これは、朽葉色の水干に黒鞘の太刀を横たへたのが」(1917)
*「埋葬」〈立原正秋〉「朽葉色の琉球紬に洗い髪の姿が私には眩しかった」 (1971)
              『色の手帖——色見本と文献例とでつづる色名ガイド』
                     (小学館/編集=尚学図書・言語研究所)

 わたしの書架には、いろいろの本がある。数は、多くない。どうしても手もとに置きたいものと、置く必要のあるもののほかは、読んだあとすぐとひとに譲ったり、古書店に運んでしまうからだ。
 小説、随筆、児童書、ヤングアダルト、歴史書、評論、料理書、図録そのほか、ほんとうにさまざま。本の、ジャンルというのだろう、これは。そうして、小説ひとつとっても、これを細かく分けてみせる方法がある。純文学とエンターテイメントという具合に。そしてエンターテイメントをまた……。
 ジャンル分けには用心している。誤解をおそれず云うなら、ジャンルは考えないようにしている。読者として考えたいのは、自分がどのように読んだか、ということに尽きると考えているからだ。もっと云えば、そのときの自分がどのように読むことができるかということになるだろう。
 その意味で、ひたすらに「読んでいくと」、驚くような場面で、作品やことばの輝きに触れることができる。子どもたちの作文や詩、商品に添えられた説明書、ひとが話す数行のならび、たより(ここへ届く皆さんからの「コメント」も)などに、それはたしかにあらわれる。
 つい、理屈をこねくりまわしてしまった。わたしのなかにある、ジャンル分け、分類を踏み越えて、ただひたすらに相手と向きあいたい思いは、時としておさえ難く、胸のなかにひろがる。あるときは、哀しみをともなって。

『色の手帖』を思いだせたことが、うれしい。
 ある色に接し、(この色は何だろうか)と思うことができ、さらに書架に手をのばしてこの本を引きだして、目の奥にのこる色に近いものをさがすということのできるときは、わたしはちょっと……澄んでいる。澄むなどと、驕(おご)った云い方かもしれないけれど、ものを見ようとする胸のここに、対象をそっと尋ねる気持ち、不思議がる気持ちがあるという意味だ。
 きょうまた、ひとつの色をこの本のなかにさがした。
 間もなく師走がやってこようというなか、いまなお咲きつづけている朝顔の花の色。朝、勿忘草色(わすれなぐさいろ)に咲くけれど、夕方には、殷紅色(あんこうしょく)に変わる。花は、寒くなるにつれ、翌日のひと日咲きつづけるようになったが、そのときには、殷紅色がもう少し赤みを増す。この色は『色の手帖』にはみつからないが、紫と紅のあいだに、たしかに在る色だ。

 この本には、色の説明とともに、その色の登場するさまざまな文献が引用されている。それがまた、なんともいえず、おもしろい。そういうわけで、これまで何度も、この本をひとに贈ってきた。
 若い日、ひとりの友人から、色覚の一部に障碍のあることを打ち明けられたことがある。「日常生活に支障はないんだけどね、ときどき、色というものは、自分が見ているのより、ずっと複雑で豊かなんだろうなあ、という気のすることがある」と、そのひとは云った。わたしは、うんと考えた末、この本を、『色の手帖』を、彼女にも贈ったのだった。


Photo

『色の手帖』です。
写真のこの本は、
20年以上も前の古いもの(昭和61年初版)。
現在は、『新版 色の手帖』が出ています。


Photo_2

きょうみつけた、
もっともうつくしい「色」は、これです。
銀杏(いちょう)。
緑黄色(りょくおうしょく)とか、
カナリヤ色とか、そういう色だろうかなあ、と
『色の手帖』を眺めながら、思うのです。

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2010年11月23日 (火)

ことしの新入り

 じき師走がやってくる。
 誰も彼も、師走と聞くとかまえが変わり、11月なんか目に入らなくなる。ことにおしまいのほうは。
 わたしは、踏んばる。11月のうちは、決して師走ッ気をださずにいたいと思っている。それなのに、世のなかはもうとっくのとうにクリスマスに衣替えし、年賀状の話、歳末なんとかの話、おせち料理の話でもちきりである。わたしの腰も、ふっと11月から浮きかける。

 浮きかけたせいなのだろう。ひょっと、ことしをふり返ってしまった。台所で。(ことしも、ずいぶんたくさんの時間、ここに立っていたなあ)と、考えている。ここにいるときは、いつも忙しかったけれど、いつもこころはやすらかだった。
 夜、火の気のない台所につっ立っていると、この場所の誰も彼もが、ことし1年間、わたしを存分に助けてくれたという感慨が湧く。
「ありがとう、皆さん」
 そう云いながら、とうとうわたしにも師走ッ気が出てきてしまったのを知る。あわてて踏んばりなおそうとするけれど、ありがとうという思いまで片づけてしまわなくてもいいだろう。
 戸棚のとびらをひらいて、なかを見わたす。皿たち。茶碗たち。椀。丼。小丼。コップ。「おやすみなさい、みんな」そう云いながら、とびらをとじる。
 ひきだしをあける。箸や匙たち。フォーク。ナイフ。いろんな小器具。小皿と蕎麦ちょくも。「また、明日の朝」ひきだしをおさめる。
 鍋の戸棚、茶器の戸棚、大皿の戸棚も。あけたり、しめたり。
 このなかに、ことしここへやってきたものが2つ(種類)ある。

 ひとつめは皿。
 長細くて、3つに分かれるともなく分かれている、白い皿だ。隣町の店でこれを見たとき、いっぺんに気に入り、5枚もとめた。モノをふやすことにためらいをもたないではなかったけれど、この皿はとくべつだった。自分の台所仕事を、この皿が「わかりやすく」してくれるような気がした。
 もうひとつは、タジン鍋——「タジン」はアラビア語で「鍋」の意。日本では、タジン鍋と呼ばれる。
 いまをときめく、へんてこなかたちの鍋である。生まれは、モロッコの砂漠地帯。砂漠で貴重な水を少量しか使わず、素材のもつ水分を、鍋のなかで効率よく対流させるという。このタジン鍋が、わたしの野菜料理に変化をつけ、レパートリーもふやしてくれそうだな、とひらめく。
 それには、置き場所をつくる必要がある。鍋を収納するガス台下のひきだしをひっぱり出すと、がらがらだ。がらがらは気に入りだけれども、ここへ新入りを招くのもわるくないだろう。そう思った。

 新入りたちは、思ったとおり、いや、それ以上にわたしを助けてくれた。そうして、食卓の上に風を吹かせた。この風は、よどみかけていたものを吹き飛ばし、くたびれた何かも払ってしまった。

 あたらしいモノを迎えいれるのには、勇気がいる。モノを減らしたいと希い、暮らしを縮ませはじめようかというわたしにとっては、高いところから飛びおりるほどの思いきりが要った。
 けれど、減らすばかりがいいわけではないのである。
 新入りをやわらかく迎えいれて使いこなそうというのは、古くなっていくモノを大事にするのとは味わいこそちがうけれども、同じ道の上のことだ。


Photo

長細くて、3つに分かれるともなく分かれている、白い皿。
これに3種類の野菜料理をのせ、
ほかに主菜、ご飯と汁、
という献立は、わたしにはわかりやすく……。
仕度しやすいのでした。
結局3枚買い足して、現在は計8枚持っています。


Photo_2

タジン鍋。
野菜たっぷりのおかずが、
短い時間でできるのです。
驚きの調理器具。

これは「オレンジページ」でもとめました(通販)。

       *

「自分の仕事」を考える3日間
というフォーラムに参加します。
2011年1月8日(土)~10日(月・祝)
奈良県立図書情報館


2日め(1/9)13:30~話します。
くわしくは、
www.library.pref.nara.jp
をご覧ください。

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2010年11月16日 (火)

変わり者たち

 膝上何センチというスカートのときは、やけにスースーした——ズボンばかり履いているから——し、肩パットの入った上着のときは、肩がいかって「鉄人28号」になったような気がした。友人たちには、アナタに必要なのは、肩パットじゃなくて胸パットよね、と云って笑われるしまつ。
 若いころの流行の話なのだ。ふり返ると、あそこらあたりからゆっくり時間をかけてはみ出してきたような気がしている。流行のことばかりではなく、わたしというひとの有りようについても、だ。そして、とうとうある日、自分のことを「変わり者」と思うことにしようっと、と決めたのだった。

「変わり者」とは、性質や言動が普通とはちがったひと。変人奇人のことである(参考/岩波・広辞苑)。ほんとうは、わたしという自分をずっと生きてきているわたしには、自分が変わり者だとは思えない。それはまあ、自分を中心に見立てての話のすすめ方であるにしても、だ。しかし、それじゃあ「普通」ってなんだ? と考えはじめると、とまらなくなる。これまた「広辞苑」のお世話になってたしかめるなら、①ひろく一般に通じること。②どこにでも見受けるようなものであること。なみ。一般。
 おお、むずかしい。なんだかやっぱり、「普通」という見方は好きになれない、というところに行きつくようだ。なぜ「普通」ということばに、神経をとがらすのか。そのくらいのことを、胸におさめきれないことが恨めしい。
 けれど、「普通」であろうとするがためにがまんしたり、自分の(あるいは、ひとの)何かを押さえつけるとしたら……、それはいやです、というのにほかならない。みんなとおんなじ、というのもなんだか落ちつかない。ひとことで云うなら、天の邪鬼ということになるわけだけれど。
 自分を「変わり者」呼ばわりすることにしたことは、よかった。初めて「変わり者よ」とそっと呼ばわってみた日から、わたしは自分の意見や好みが少数派であることに愕然としかかるときも、それを選択したのがどうやらひとりきりだと気がつくたび、(ま、変わり者だからしかたないか)と気楽に考えるようになった。友だちが少ないことも、(ま、変わり者だから……)でカタがつく。つまりわたしにとって、自分で貼りつけた「変わり者」の商標がどんなにか便利だったわけなのだ。

「変わり者」「変わり者」とくり返し書いていたら、台所のほうで大きな音がした。これを書いているきょうは土曜日で、家にいる誰かが、何かしようとしているらしい。こっそり見に行くと、長女が床に落とした鍋を拾い上げているところだった。あわてているらしい。
「何をあわてて?」と聞く。
「とつぜん、料理をしたくなったの。材料、片端から使っていい?」
 とつぜん、料理をしたくなるというとき、決まってこのひとは、こころに憂いを抱えている。このたびも、仕事でうんざりするような目に遭ったらしい。仕事というものの一面にこびりつく憂いのタネは、できるだけ早いうちにこそげてしまわないといけない。
 それを、台所にこもってひとりのびのびと、好きなように料理することでこそげ落とすことができるのを発見したことは、じつにたのもしい。
「だけど、ろくな材料はないわよ」
 あってないようなわたしの計画だけれど、食材は金曜日の夜までにだいたい使いきることにしている。「買いものに行ったらどうなの?」と云うと、それはしない、という返事。家にあるものでいろいろつくってみたいそうだ。
(買いものに出たくないということなんだろうね)と思いながら、目の前に、使えそうな材料を、全部ならべてみせる。じゃがいも3個。玉ねぎ1個。にんじん1本。長いも10cm。白菜1/8個。長ねぎの青いところ1本分。豚ひき肉150gくらい。鶏もも肉1枚。ツナ缶1個。ベーコンのかたまりマッチ箱大。玉こんにゃく10個。卵5個。干ししいたけ2枚。牛乳500cc。
 その山をうれしそうに眺めながら、娘がつぶやく。「普通って何だろうね、お母さん」
「え」
「わたしの考えや思いつきは、突飛らしいよ。『普通』にもどって、そこから出直せって。これ、しょっちゅう云われることなんだけどね」
「あのさ、自分を変わり者だと思っちゃうといいかもしれないよ。ま、とにかく。この材料で何がつくれるかね。たのしみにしてるね。ばいばい」
 わたしは少しあわて、台所に娘をのこして書斎にもどった。
(あのひとも「普通」とたたかってたんだなあ)と、驚く。うっかり、身近にもうひとり変わり者をつくりかけたけれど、よかっただろうか。 
 しかし、変わり者になってしまえば、モノとのつき合い方が見えてくるはずだ。たとえば、目の前に積まれた材料をどう料理するかなど、とても「普通」の感覚でしきれるものではない。


Photo

変わり者の料理です。
奥の左から、
・鶏のにんじんと長芋巻き
・ハンバーグ
・玉こんにゃくと茹でたまごの煮もの
手前は、
・ポテトサラダ


Photo_2

そうしてこれが、
いろいろ入ったチャウダーです。

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2010年11月 9日 (火)

つぎのこと

 眠くて眠くてたまらないことがある。

 それは時期、というもののようで、ある日がさっと束になって落ちてくる。
 それが落ちてくると、「やれまた、きた」と思い明らめて——あきらめるのではなく、はっきり認めて受け入れる——なるべくたくさん眠るように心がける。
 もともと眠るのが好きな質(たち)だ。
「眠る時間も惜しい」とばかりに、1日睡眠3、4時間で活動するひとを見ると、つい、こう思いかける。住む世界がちがうのかしらん、ちがう種類の(属の?)人間なのかしらん、と。いや、わかっている。ちょっとちがうだけだと、ほんとうはわかっている。
 ちがいはちがいとして、意固地にならずにそれぞれの生き方をすればいいのだと悟ったのは……、さて、いつだったろうか。

 眠くて眠くて……の時期は、「一度動きをとめて、つぎのことにそなえる」必要のあるときに、めぐってくる。そうわたしは、受けとめるようにしている。
 その時期には、必要最低限のことしかせずに、仕事と仕事のあいだにも眠り、眠りと眠りのあいだには用事をし、という塩梅だ。こんな風に、さもなんでもないことのように話せるようになる以前、つまり、その癖のようなのをそれと自覚する以前は、自分をなんという「なまけたがり」かと恥じていた。
 これは困ったことになった。こう「なまけたがり」で「眠りたがり」では、定職にはつけないのではないか、と思った。しかし、20歳の年から約10年、出版社の編集部に勤めた。その10年間をふり返っても、なんだかやっぱりよく眠っていた。眠さが募ると、会社の小さな個室にこもって、くーくー眠る。

 電話が鳴る。
 電話の呼びだし音ほどきらいなものもないけれど、眠っているときに聞くそれは、もう……。
 黒電話の重たい受話器を持ちあげる。
「すみません。急ぎの用件だったもので」
 わたしがここにこもっているのを唯一知っている同じ部の後輩が、切羽詰まった声でささやく。
「うん」
「ダイニッポン(インサツ)から電話で、急ぎ連絡がほしいそうです」
「わかった。ありがとね」

 家にいてひとりで仕事をするようになって数年がたったころ、ああこれは、もしかしたら「なまけたがり」ではなくて、時期ものなのかもしれないと気づいた。わたしはそう眠ってばかりはいず、仕事もして、約束の仕事は期限内に納めているからだった。だんだんに、それがわたしの「一度動きをとめて、つぎのことにそなえる」であるらしいことも、わかってきたのだった。
 ともかく。眠くて眠くて……の時期がいつ頭の上に落ちてくるかわからないから、そうなる前に、できることはしてしまおうという心づもりも生まれた。心づもりをひとところに集めて、一気に用事を片づけようという算段だ。

 だらだらとわが性癖について書かせたのは、木杓子だ。
 わたしの部屋の書架の、本と棚板のあいだでじっとしていたはずの3本が、「『一度動きをとめて、つぎのことにそなえる』時期の必要について書いてくださいよ。わたしら、じゅうぶんそれをさしてもらって、また動きだそうというんですから」と云った。
 これまた、わたしの手もとのさもなき話だけれども、だいどこの、ご飯のしゃもじ、カレー専用の木杓子(カレーの黄色に、存分に染まってもらっていいように、専用)、万能木杓子の3本をあたらしくした話をおぼえてくださっている方があるだろうか。ことしの1月のことだ(ブログへ)。
 その3本は長く、長く働いたからくたびれていた。が、わたしは、それを捨てられずに、書斎に持って入って、書架のすき間にさしこんでおいたのだった。3人は、「ここは、どこか」「こんなところが、あったんだなあ」「なあ」と、しばらくのあいだ、ささやき交わしていたが、その後すっと眠ってしまった。

 その3人が目を覚ました。
 3人は、覚めるといきなり、「以前とは、ちがう仕事をはじめることにしました」と、口口に云ったのである。
「一度動きをとめて、つぎのことにそなえる」とは、いったい何だろう。
 ひとによって、そのやり方はまちまちであるらしい。

Photo
元カレー専用の木杓子は、
夫の仕事場で働いています。

夫への頼みごとを貼りつけて、
黒板のすみっこに置いています。
頼みごとを、何度も何度も口でするのは
うるさいですし。
(けれども、ときどき夫は頼んだことを忘れます)。

黄色に塗った(アクリル絵具を使いました)のは、
「ちょっと目立つ」を期待してのことです。
ちょっと……ね。

※玄関とびらのちょうつがいの具合がおかしいので、
 点検を依頼しています。


Photo_2
元万能木杓子は、こうして……。
子どもたちの部屋のある3階への階段上、
共有の衣類と下着をしまう開き戸のなかに、
吊るしました。

3人の子どもの誰ともなく、頼みたいことを
貼りつけています。

※クスリ屋の前を通りがかるひと、ついでのあるひとに、
 買いものを頼んでいます。

もうひとつ、
元しゃもじは、
移植ごてに転身するべく、準備ちゅうです。
先のほうを「それ」にふさわしいように、
削っています。


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2010年11月 2日 (火)

時間のもてなし

 いろいろのことに区切りがついていたのだと、思われる。
「さてと、」とわたしはつぶやいて、つぎのことを探している。
 自分のすることに「だと、思われる」はおかしいと思うのだけれど、小さなめあてめがけて動きまわる身であってみれば、動きをとめて、「さてと、」とつぶやくことが、なんだか、可笑しくもうれしくもあったというわけだ。
 いろいろのことに、かすかな区切りがついていたのだと、思われた。

 そういえば……、と思いだす。
「衣更(ころもがえ)を手伝おうね」と長女と約束していたのだ。そうしてその日曜日、区切りのついたからだを運んで、「じゃ、はじめようか」という話になる。ふたりで腕をまくるが、衣類の数が少ないせいだろう、衣更は、ものの30分でおわった。
「あっけないほどだったね」
 と云うわたしに、
「ほーんと、お出ましいただくほどのことは、なかったなあ」
 と、娘も云う。
 そんなやりとりをしながらワードローブの扉を閉めようとしたとき、奥のほうに手提げの紙袋が見えた。
「なあに? あれ」
「ああ、それはねえ……、凧の糸」
 凧と云えば、2年ほど前、長女宛てに大きな凧が送られてきたことがあった。
 見たこともないほどうつくしくて、それは、ちょっと恐ろしげな和凧だった。仕事で使ったものを、「ほしい!」と手を挙げて譲りうけ、自分で荷造りをして送ったのだと云う。ある日、近くの公園——原っぱのような公園で、凧揚げや模型飛行機の大会なども開かれることがある——に、それを揚げに出かけるのを見送った。
「あれ、揚げたんだった?」
「揚げたの、揚げたの。なかなか揚げられなくてね。とうとう揚がったんだけど、馴れないふたりで操っていたものだから、下ろすときに糸を巻けなくて、こんがらかったままなの。ほらっ」
 そう云って紙袋をひろげると、そこにおさまっているのは、落ち葉がからみついたもじゃもじゃな凧の糸だ。
「あらま」
「2年も、このまんま。えへへ」
 見れば、とても丈夫ないい糸だ。糸の端をさがしてみる。あった、あった。これこそまさに糸口、などと思っている。それにしても、たいそうなこんがらかりで、ちょっとやそっとでほどけるものではなさそうだ。けれど、それをはじめた手が、もうもう、とまらぬ。
 これをするのより、もうちょっと実りのありそうないくつかの仕事を頭は考えつくのに、手は頓着(とんじゃく)しない。考えついたそのことをするなら、「したらいいでしょう」といった塩梅で、そのじつ、手本人はいっこうにとまる気配がないのだった。
「しかたない」と、まことに都合のいいことばで場をつなぎ、手につられたわたしの全身は、とうとうぺたんと床に坐こんだ。いけるところまでいくらしい。
「えー? ほどくの?」と、驚いて声を上げていた娘も、いつしかわたしのとなりに坐っている。
「あ、こっちの端もみつかった」

 糸と一緒にこんがらかり、そして少しずつほどけながら、ふたりでならんで糸を巻く。さいごのさいごのこんがらかりを解決したときの気持ちと云ったら……。
 しかし、時計を見て驚いた。午後6時半。
 3階の長女の部屋へと上がってきたのが12時半。え? すると……わたしたちは、6時間もここに坐りこんでこれをしていたというのか。
 時間の費やし方として、6時間の費やし方として、それがどうであったかなどと考えることはなかった。気持ちはそのとき、すっと晴れ上がっていた。
 わたしと娘は、その日、時間にもてなされていた。いや、時間をもてなしていたのかもしれない。


Photo

これが、ほどきながら巻きに巻いた
(6時間がかりで)凧の糸です。
芯のなかに、娘と巻きながら話したことについて、
かかった時間のことなど、記しました。
いつか、この糸を使うとき、
それを読んで、笑えるといいなあ、と思います。


Photo_2

大きな大きな和凧です。
お友だちとふたりでようよう揚げたとき、
原っぱに、拍手が湧いたそうです。

娘は、自分の部屋の壁に、
これを飾っています。

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