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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
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2010年12月

2010年12月28日 (火)

『星の牧場』(庄野英二・作)  本のなかの暮らし〈12〉

 ゆうべねるまえにリスがやってきて、モミイチの耳に顔をすりつけたり、毛布にはいっていっしょにねたのは、夢であったのかな、とふしぎな気がした。
 わきの下になにか小石のようなかたいものがあるので、とりだしてみると、あおいまだじゅくしていないかたいクルミであった。
 こんなクルミが——と、おもったひょうしに、モミイチはすぐにそのわけがわかった。きっとリスがゆうべモミイチの毛布のなかにねむらせてもらったお礼に、おいていったのだとおもった。そうおもうと、モミイチは愉快になってきた。あおいクルミをゆびさきでつまみあげてながめながら、ひとりでわらいだしてしまっていた。
                       『星の牧場』庄野英二作(理論社フォア文庫)

 目の前の小さなコルクボードに「モミイチ」と書いた紙切れが貼りつけてある。
「モ・ミ・イ・チ」
 それを見るたび、胸のなかに小さな渦が巻く。せつなさ、さびしさ、なつかしさ、たのしさが混ざりあって縦長にくるくると。つむじ風だ。とてもかすかな、やわらかい吹き上げなのだが。
「モミイチ」を貼りつけてからひと月あまり、気がつくとその4文字をじっと見ていた。

 ことし、月に一度、「本のなかの暮らし」というテーマで、本のことを書いてきた。和書にかぎることと、選書はなりゆきですることだけを決めて、ゆるゆると書いてきた。不思議だったのは、ほんとうに不思議だったのは、本が、むこうから「わたしではいけませんか?」というように静静とあらわれることだ。
 第1回めの『けい子ちゃんのゆかた』(庄野潤三)のときから、文庫が書架からせり出してきた。せり出してきた背表紙と目が合うなり、庄野潤三さんのことを書きたいと思った。12冊の本のバランスなどは、まるきり考えなかったけれども、そしていわゆる新刊はここへはやってこなかったけれども、わたしは、ことしという年を終えようとしているいま、その12作品の連なりに慕わしさを感じている。選書などと云っているものの、ほんとうは本が、昔のよすがをたよりに訪ねてきてくれたといったような塩梅だった。ただ、1月に「庄野潤三」を書いたとき、12月には「庄野英二」を書こうということだけは、決めた。「庄野英二」(1915—1993)は、「庄野潤三」(1921—2009)の兄である。きょうだいだからどうだと考えたのではないけれど、わたしにとって、ふたりの作家の読みものは、道標(みちしるべ)なのだった。

 モミイチは、『星の牧場』の主人公だ。
 戦争から記憶の一部を失って故郷の牧場帰ってきたモミイチ。彼の耳には、戦場で別れた愛馬ツキスミの蹄(ひづめ)の音が聞こえる。その馬蹄(ばてい)の音は、聞こえるはずのないものだった。
「ツキスミ ツキスミ ボクの馬だ」
 山奥での、モミイチとオーケストラを編成しているジプシーたちとの出逢いによって、このものがたりのもっともたのしくて不思議な世界観がひらけていく……。

 そのこころには、つねにかなしみがあったけれども、モミイチはいつもやさしく、愛をもっていた。
 戦地にいるあいだにも、愛を失わなかった。このものがたりを読むたび、そのことの意味が胸に迫る。モミイチのひととなりは、どこまでもうつくしいけれど、そこへ虚しさをもたらしたのは戦争である。モミイチの虚しさは、同時に戦争の虚しさだと思う。
 戦争は、やさしい青年を虚にし、多くの人格から愛を失わせる。
 どんなときにも愛を失わないことの尊さと、戦争の虚しさを、わたしたち読者は、このものがたりのなかをそぞろ歩きながら、微笑みながら、学ぶとも云える。

               *

 さて、これがことしさいごの「うふふ日記」です。
 読んでくださったことに、まず御礼を申し上げたいと思います。どうもありがとうございました。
 来年は、ここへご紹介したモミイチのように素直に——というのは、読み返すたび、自分のヒネクレが恥ずかしくなるからです——書いていきたいなあと考えさせられたりしています。「本のなかの暮らし」はこれでおわりですが、来年は「引用ノート」というのを書いてみるつもりです。
 あらゆる本、製品の説明書や商標(ラベル)、放送、はたまたふと耳にした会話を引用して、何か書けたらなあ、と。

 ともかく。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 佳い年をお迎えください。 


Photo_3

『星の牧場』には、
「ハチカイのクラリネット」(はちみつ)や、
「ジャムつくりのフルート」の話がでてきます。

ものがたりのなかに出てくる
花畑をじゅんぐりにまわってとるはちみつや、
いろいろな花屋やくだものをあつめて、
はちみつとまぜて、煮つめて作った
めずらしいジャムやマーマレード、
食べてみたいなあと思います。

毎朝、
自家製のヨーグルトに、はちみつやジャム、
くだものを混ぜて食べています。
そのとき使う匙を、最近、
こうして食卓にだすことにしました。

ところで、これって、
こういう向きのさし方がいいのでしょうか。
それとも……。


Photo_4

それとも、こうして柄を上にして
立てるのがいいのでしょうかね。

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2010年12月21日 (火)

思い出?

「あのときはたのしかったねー、ふんちゃん」
「うんうん、流星見たり、それから」
「流星? っていうか、バタがどろどろに溶けて、みんながバタまみれになったよね」
 笑いながらそう云うのは、年若いわたしの友だちで、その昔、一緒に伊豆でキャンプをしたときのことを思いだしていたのだった。かれこれ17、8年前のことだから、彼女Tちゃんは小学生、わたしは30歳代まんなかか。わたしにとって、それが初めてのキャンプ体験だった。
 テントを張ったのも、寝袋に入って眠ったのも初めてだったが、外で暮らすというのはやけにたのしいものだなあ、としみじみ思った。家でしている事ごとを外でしているだけのような気はするものの、やけに呑気に、やけに愉快に過したのだった。そんな記念すべきキャンプのいちばんの思い出を、Tちゃんは、朝ごはんのとき、バタがどろどろに溶けた場面だと云う。
(えー、それが、いちばんの思い出?)と、思う。
 夜中に起きだして、流星を見たことは……?
 Tちゃんも大活躍の、晩ごはんの肉じゃがづくりは……?
 おぼえてないのか。
(ま、いいけど)。
 ひとの記憶は、ほんとうにまちまちだ。
 ことに子どもの記憶は、大人のそれとは、思いがけないほどことなる。おぼえておいてもらいたいことなんかは、ほとんどおぼえてはおらず、しくじりや滑稽だったことをいつまでもおぼえていたりして。

 そういえばわたしだって。
 母の思い出というと、へんてこなことが真っ先に浮かんだりする。へらっと思いだすのはこんな場面だ。
 戸袋にひそんでいたクマバチに刺されたときのあわてた様子——左手の中指を刺されて腕まで腫れあがったのだから、あわてないはずないのだけれど——とか。何とどうまちがえたのだかウィスキーを生のまま飲んで、いきなりばたんと倒れたところとか。
 わたしとはちがって、つねに落ちついていて、道を踏みはずしたりしない母であるのだが。いや、だからこそ、わずかしかない失態と、そのときのめずらしい表情をこころに描きたくもあるのか。
 娘たちは、どんなふうにわたしを思いだすだろうかなあ。
 何を思いだそうと、かまわない。
 何も思いださなくても、かまわない。
 もしかしたら彼女たちは、しくじりと滑稽だらけで、いつもあわててばかりいるわたしの、めずらしくも的確な判断だの、滅多に見せない落ちつきはらった様子だのをときどき思って笑うのかもしれない。

 何を思いだそうと、かまわない。
 何も思いださなくても、かまわない。

 そう考える頭の片隅で、そのじつわたしは考えるのだ。
 くたびれはてた生活者たるわたし、へたばりかけた仕事人たるわたし。くずれ落ちたわたしがときどきたしかに存在することを知ってもらいたい、と。そうして、できることなら、すべてを打遣(うっちゃ)って、休むわたしも。
 そう、たくみに休むというのが、来年のわたしの、最重要課題だ。


Photo
ことしうちにやってきた「タジン」の置き場所。
ガス台下のひきだしです。
このところ出番が多かったタジンが、
ひさしぶりに、ここで休んでいます。

道具にも、ひとにも、休養は=「たくみに休む」は、
必要だと思います。ね。

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2010年12月14日 (火)

キミと。

(それ、どうするの……かな)
 と、思いながら盗み見ている。
 進展らしきものが見られないと、
(まさか、そのままにするんじゃないでしょう……ね)
 と、じっと睨む。

               *

 朝ごはんに、卵を割って落とし、焼く。目玉焼きだ。
「わーい」という、歓声があがる。
 目玉焼きを焼く側も、なんとなく「わーい」だ。目玉焼きという、祭りの気運が降りてくる。
 それぞれの好みのかたさに卵を焼きあげ、つるんと皿の上の野菜の上にのせる。さて、どうなるかとしばらくは見守るが、そのうちに、祭りのつぎの段取りが気になってくる。 
(それ、どうするの……)
 と思いながら盗み見る、皿を。
 ことが捗捗(はかばか)しく進まないときは、「ちょっとぉー」と、鳥が鳴く声で合図を送る。
(まさか、それ、そのままにするんじゃないでしょう……ね)
ということばをなんとか飲みこみ、じっと睨む、皿を。
 気になって気になってしかたがないのは、誰かの皿にのこった、目玉焼きのキミ。名残りの、キミだ。
 そら、そのトーストで、その皿の上の肉で、つけ合わせの野菜で、名残りのキミを拭きとるように、さらってちょうだいよ。すーっかり、きれいに。

 目の前の皿の上の、名残りのキミだの、ソースだの、汁だのが気になって、おちおちその場にいられない。そこが、いちばん大事なところでしょう……という気持ちだ。自分が、子どものころはどうだったか。そこがいちばん大事で、しかもおいしいとは、考えなかったな。だんだん、そういうわたしになっていったというわけだ。
 目玉焼きを、名残りのキミまで食べ尽くすというのは、なかなかいい関係のつくり方だと思える。
 キミと、わたし。
 互いが縮こまらず、だからといって増長もしないという関係。こういうのが、ひととの関係にも実現するといいのだけれど。

 今朝、末の子どもの皿に目玉焼きの名残りのキミが残った。うしろ髪引かれているらしいその背中に、「あとは、引き受けた」と声をかけ、そういうこともあろうかと、こっそり焼いておいた食パン半枚をとりだす。
 うひひ。ちょっと意地汚くもあろうが、かまうもんか。

 

Photo
目玉焼きは、
卓上用の、こんな小さなホットプレートで。

大きなホットプレートは持っておらず、
焼き肉やお好み焼きには、すき焼き鍋を使っています。
たこ焼き器は、ひとつ持っています。

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2010年12月 7日 (火)

ちょっとしたこと

 男気のある女(ひと)が好きだ。
 なよなよとなんかはしていなくて、しゃきっとしているが、こまやかな波動をもっている。こんな女がいたら……、ええと、眺めているだけでしあわせというものだ。
 自分もそういう女に近づくべく、ずっと努力してきました。ということだったら、話はずんずんすすんでいくのだけれど、その話はここでおしまい。わたし自身がそれにはほど遠い存在だからだ。
 けれど。
 話をここでおわらせるわけにはいかない。自分のことでは語れなくとも、他に助けをもとめることはできそうだ。そういえば……。あるある、とっておきの話が。

                         *

 その手もとが咲いていた。
 爪のひとつひとつが、紅(くれない)に染められいるのだった。その華やぎはしかし、饒舌ではなく、しんとしずまりかえっていた。
〈なんてきれい〉そう思った途端、こみ上げてくるものがあり、目の縁がくわっと熱くなる。
 きれいに染められた爪を見たくらいで、と自分でも可笑しかった。

 この夏、先輩格の友人が大怪我をした。
 それは思いがけないほどの大事(おおごと)で、そのひとは入院もして、自宅に戻ってからも、リハビリテーションに通った。困るのは、右腕の怪我だったこと。あらゆる不便を強いられることになって、思うに、彼女は、生涯で初めて仕事を一時休み、ある時期は、まったく思うにまかせぬ退屈をも経験したのではないか。
 このひとこそは、紅色の爪の主である。
 また、ここへ書いた「男気云云(うんぬん)」にもあてはまる人格で、友人ではある(つもりだ)が、いつも遥かにまぶしく眺めつづけてきた。怪我のために、その姿を眺めることができなくなってしまったときには、わたしの生活から一気におもしろみが失せた。
 けれども彼女は、前のようにはまだ動かない右腕をかばいながらもたちまち仕事に復帰し、わたしも、ときどき彼女のことを眺めるおもしろみを生活のなかにとり戻した。

 紅い花びらのような爪を見たのは、彼女が仕事に復帰してから、ちょうどひと月たったころのこと。その静かな装いに、ひたむきな所作が透けて見えた。まだ完全ではない右手で左手の爪を塗り、右手をかばうことに疲れているであろう左手で右手の爪を塗る。
 紅の爪は、装いとしたら、ちょっとしたことだ。しかし——。身のまわりのことは、そして暮らしのことは、ちょっとしたことの連なりなのだと、そのことはおしえる。
 このひとを眺めてたのしいという理由のひとつは、ちょっとしたことの連なりの、きらめく様子でもあったのだ。
 古いモノを素敵に着こなす知恵、古いモノと新しいモノの組み合わせ方、自分の好みを大事にする覚悟——バスケットシューズなんかを、かっこよく履きこなす——を、この友人から盗んだ。眠りかけていた古いモノをひっぱり出してきて、ちくちくとんとんやって起こしては、好んで使うようになったのなんかは、まさにその影響だ。

 さてわたしは、男気のある女(ひと)が好きだ。
 なよなよとなんかはしていなくて、しゃきっとしているが、こまやかな波動をもっている。こんな女がいたら……、ええと、眺めているだけでしあわせというものだ。
 そして、女のたのしみ——少女趣味と呼ばれる類のことでも——をわかるような、あるいはわかろうとするような、男が好きである。


Photo
ことし、眠りから覚めたものといえば……。
その昔「やえばあ」から北海道土産におくられた
「優佳良織(ゆうからおり)」(北海道手織つむぎ)の
バッグです。
ショルダーバッグだったことが、近年、眠りに陥らせた
原因と気づいて、肩ひもを短く縫いこみました
(また、いつか、長く戻すこともできます)。
いままた、あちらへこちらへ、
わたしに同行してくれています。

「やえばあ」(もとの、お姑さん)も、
わたしにちょっとしたことの連なりの値打ちを
おしえてくれたひとりです。  

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