互い
3階のみまわりにいく。
まるで寮母のようだな、と思ったりする。ま、寮母にちがいないのかもしれないと、また思いなおして、暗がりでちょっと笑う。ふふっ。
3階の子どもたちの部屋を見てまわるのが、夜やすむ前の約束になっている。約束と云っても、自分とのだけれども。この家は、もちろん家庭ではあるし、3階のひとたちとわたしとは母娘なのだけれど、だんだん寄宿舎のようになってゆくなあ。そして、そうなってゆくことをたのしく感じている。たのしさついでに、こわもての——イギリスのものがたりに登場するような——寮母や、舎監のような佇まいでいこうかしら。
今夜は、長女がまだ帰宅していない。およそ女ぽっい要素のないその部屋に足を踏みいれ、思いついてワードローブをひらき、貸したままのセーターを取りかえす。「着るのはいいにしても、こうもかえってこないというのはさ」と文句を云い、云いながら、ベッドカヴァの上に投げだされるように置かれた板のようなものに気づく。……なんだろう、あれ。
Aへ
おかえりなさい。
湯たんぽ、わたしのところです。
取っていいよ(わたしが寝てたら、ね)。
おやすみ。
Sより
板だと思ったのは、段ボールの厚紙だったからで、そこへ文字のほかに、三日月と星、手だかつばさを羽ばたかせている3羽の鳥のような、でも耳のある生きもの、この家の誰にも似ていない愛らしい寝顔の絵が描いてある。
ああ、湯たんぽのことか。
以前にも、どこかに書いたことのあるこの家にひとつきりの湯たんぽ。あるとき、出先でみつけた「段段畑に穴ひとつ」となぞなぞで云うところのブリキの湯たんぽを、わたしはほくほくと3つもとめようとした。そのほくほくへ向かって、夫が「ひとつにしたら」と云ったのだった。寒い季節、毎晩毎晩3つの湯たんぽを仕度する手間はいかにも大変、と夫は咄嗟に考えたらしかった。わあ、湯たんぽ。とばかりにあとさき見ずに走りだそうとしていたわたしに、「ひとつにしたら」は、ブレーキをかけることとなる。
あとさきを見ない上、融通もきかないわたしは、しばし「3つないなら、1つあってもしかたがない」という考えにとらわれる。それを見越して夫は云う、もう一度。「ひとつにしたら」
その年の冬から1つの湯たんぽを使って、ことしで10年めくらいになるのではないだろうか。夫の云うとおり。わたしには、1つの湯たんぽが精一杯の仕度だった。
湯たんぽは、3人の子どものうち、その夜もっともふさわしい足もとにさしこまれることになった。仕事で帰宅がおそくなるひとの足もとへ。しょんぼりさんの足もとへ。試験ちゅうの中高生の足もとへ。卒論にとりくむ大学生のあしもとへ。といった具合に。
さて、立春から半月のあいだが、東京のもっとも寒いときのような気がする。夜ともなると、つよい冷えこみがぞろりと降りてくる。今し方みまわった3人の部屋も寒く、湯たんぽは切実な存在に思える。寒い季節のさいごのところを過している3部屋のあいだで、湯たんぽの使い方に、あたらしいとり決めができているらしかった。足もとから足もとへと、一夜のうちに湯たんぽが移動するという……。あの板のようなのは、長女にあてて末の子どもが書いた置き手紙だった。
「互い」というのは、このくらいの感覚で在るのがいいなあ、とひそかに感心す。この家が、だんだん寄宿舎のようになってゆくたのしさという感覚も、そこらあたりに生じるもののような。
こっそり、撮ってみました。
これが3階の「寮生」の、置き手紙です。
撮影がすんで、やれやれと思っていたら、
ベッドカヴァがもこもこ動くではありませんか。
なかから、このひとが出てきて、びっくりしました。
「いちご」はひとではないですけれど、猫の身で、
このうちの寮母のような存在です。
この写真は、オマケでもありますが、
寮母「いちご」の近影でもあります。
*
「うふふ日記」をまとめた4冊めの本が、できました。
親しい皆さんには、めずらしくないかもしれませんが、
本には、ちょっとあたらしいことも加えました。
手にとっていただけますれば……幸いです。
あ、書名を書き忘れました。
『足りないくらいがおもしろい』です(オレンジページ刊)。
さいごになりましたが、御礼を申し上げます。
「うふふ日記」も、このたびの本も、皆さんの
おかげで生まれたのですから。
山本ふみこ
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