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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
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2011年2月

2011年2月22日 (火)

互い

 3階のみまわりにいく。
 まるで寮母のようだな、と思ったりする。ま、寮母にちがいないのかもしれないと、また思いなおして、暗がりでちょっと笑う。ふふっ。

 3階の子どもたちの部屋を見てまわるのが、夜やすむ前の約束になっている。約束と云っても、自分とのだけれども。この家は、もちろん家庭ではあるし、3階のひとたちとわたしとは母娘なのだけれど、だんだん寄宿舎のようになってゆくなあ。そして、そうなってゆくことをたのしく感じている。たのしさついでに、こわもての——イギリスのものがたりに登場するような——寮母や、舎監のような佇まいでいこうかしら。
 今夜は、長女がまだ帰宅していない。およそ女ぽっい要素のないその部屋に足を踏みいれ、思いついてワードローブをひらき、貸したままのセーターを取りかえす。「着るのはいいにしても、こうもかえってこないというのはさ」と文句を云い、云いながら、ベッドカヴァの上に投げだされるように置かれた板のようなものに気づく。……なんだろう、あれ。

  Aへ
  おかえりなさい。
  湯たんぽ、わたしのところです。
  取っていいよ(わたしが寝てたら、ね)。
  おやすみ。
                 Sより

 板だと思ったのは、段ボールの厚紙だったからで、そこへ文字のほかに、三日月と星、手だかつばさを羽ばたかせている3羽の鳥のような、でも耳のある生きもの、この家の誰にも似ていない愛らしい寝顔の絵が描いてある。
 ああ、湯たんぽのことか。
 以前にも、どこかに書いたことのあるこの家にひとつきりの湯たんぽ。あるとき、出先でみつけた「段段畑に穴ひとつ」となぞなぞで云うところのブリキの湯たんぽを、わたしはほくほくと3つもとめようとした。そのほくほくへ向かって、夫が「ひとつにしたら」と云ったのだった。寒い季節、毎晩毎晩3つの湯たんぽを仕度する手間はいかにも大変、と夫は咄嗟に考えたらしかった。わあ、湯たんぽ。とばかりにあとさき見ずに走りだそうとしていたわたしに、「ひとつにしたら」は、ブレーキをかけることとなる。
 あとさきを見ない上、融通もきかないわたしは、しばし「3つないなら、1つあってもしかたがない」という考えにとらわれる。それを見越して夫は云う、もう一度。「ひとつにしたら」
 その年の冬から1つの湯たんぽを使って、ことしで10年めくらいになるのではないだろうか。夫の云うとおり。わたしには、1つの湯たんぽが精一杯の仕度だった。
 湯たんぽは、3人の子どものうち、その夜もっともふさわしい足もとにさしこまれることになった。仕事で帰宅がおそくなるひとの足もとへ。しょんぼりさんの足もとへ。試験ちゅうの中高生の足もとへ。卒論にとりくむ大学生のあしもとへ。といった具合に。
 さて、立春から半月のあいだが、東京のもっとも寒いときのような気がする。夜ともなると、つよい冷えこみがぞろりと降りてくる。今し方みまわった3人の部屋も寒く、湯たんぽは切実な存在に思える。寒い季節のさいごのところを過している3部屋のあいだで、湯たんぽの使い方に、あたらしいとり決めができているらしかった。足もとから足もとへと、一夜のうちに湯たんぽが移動するという……。あの板のようなのは、長女にあてて末の子どもが書いた置き手紙だった。

「互い」というのは、このくらいの感覚で在るのがいいなあ、とひそかに感心す。この家が、だんだん寄宿舎のようになってゆくたのしさという感覚も、そこらあたりに生じるもののような。


Photo_10

こっそり、撮ってみました。
これが3階の「寮生」の、置き手紙です。


Photo_11

撮影がすんで、やれやれと思っていたら、
ベッドカヴァがもこもこ動くではありませんか。
なかから、このひとが出てきて、びっくりしました。
「いちご」はひとではないですけれど、猫の身で、
このうちの寮母のような存在です。

この写真は、オマケでもありますが、
寮母「いちご」の近影でもあります。

             *

「うふふ日記」をまとめた4冊めの本が、できました。
親しい皆さんには、めずらしくないかもしれませんが、
本には、ちょっとあたらしいことも加えました。
手にとっていただけますれば……幸いです。
あ、書名を書き忘れました。
『足りないくらいがおもしろい』です(オレンジページ刊)。

さいごになりましたが、御礼を申し上げます。
「うふふ日記」も、このたびの本も、皆さんの
おかげで生まれたのですから。

山本ふみこ

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2011年2月15日 (火)

目立たんところ 〈引用ノート2〉

 わたしはおつゆをつくるとき、利尻の最高のおこぶを煮やさず、つけだしにする。そうすると、おだしがおこぶくそうならないからである。そして、そのあと、おこぶは塩こぶにするように刻んで、赤はらのように乾いたちりめんじゃこといっしょに、佃煮にする。赤はらというのは、おなかに赤い子を持ったおじゃこで、これも高級品。
 だし殻のおこぶをいただくために、赤はらを買い、お酒もみりんも使うて、たく。それはひとつも惜しいことはのうて、それを当たり前としている。
「へえー、おこぶのだし殻まで食べますのんか」
 京都を知らないお人は、なにを食べさされるかわからんと思い、いやいやと手を振らはる。けれど、これは最高のおこぶやからできるので、安もんのだしこぶにしたらなんぼとろ火でたいても、硬うて食べられない。これはぜいたくである。
          『しまつとぜいたくの間』(大村しげ著/佼成出版社)
                    ——「目立たんところのぜいたく」より

 先週ぜいたくの話を書いたあと、頭のなかがこんがらかって弱っていた。
 従来考えられていたぜいたくが、わたしのなかでだんだんにちがったものへとずれていったあたりから、こんがらかりがはじまっていたらしい。ずれはじめのそこで、それを「ぜいたく」と呼ぶのをやめ、別の名前をつけてやればよかったのかもしれない。
 某出版社の編集者が以前、「この本に出てくるぜいたくや節約は、山本さんが考えているのと、似ているような気がします」と云ってすすめてくれた本のことを思いだした。そのころ、節約をテーマに本を書くことになっていたので、ヒントになれば、とその本を運んできてくれたらしかった。
 けれど、実際、書きはじめようというとき、ひとさまの本は読めないものだ。ヒントという風がそよぐ本となれば、なおさらだ。
 自分のなかに生まれそうになってまた消え、消えたかと思うとふとあらわれたりというひらめきを、もとめながらひとりきりで歩いていくしかないからで、わたしは、その本を、「INGの箱」(『片づけたがり』P43参照)の底のほうにしまったきり、忘れてしまった。
 その本のことを、1年以上たったいまごろになって、思いだしたのだった。
 読みはじめてみるととまらず、一気に読んでしまった。大村しげさんの京ことばに誘われて、こちらの口のそばまで京都のことばがのぼってきそうな気配である。
 そして、ぜいたくということで、すっかりこんがらかっていたわたしの頭のなかの整理もついている。どこへ自分の価値を置くかだな、と思いあたる。
 同じ随筆(「目立たんところのぜいたく」)のなかに、大村さんが、大事に長いこと着た羽織を上っ張りにしようかと思案する話が出てくる。はじめは、無地の着物だった。色が焼けてきたので染め替えてしばらく着て、また染め替えて羽織にした。これもおこぶの話とおんなじで、もともと一越(ひとこし)の上物を買ったからできたことだという。
 一越って何だ?と思って、辞書をひいたら、「一越縮緬(ちりめん)」の略だとわかった。一越縮緬がまたわからないから、また辞書をひく。どうやら、緯糸(ぬきいと/織りものの横糸)をより多く織りこんであるものらしい。そのため、一越はふつうの縮緬より皺(しぼ)が、細かい。

 目立たんところということは、ひとがどう見るかなんてことはないのに等しいのかもしれない。自分とモノとの命の共有。さあ、さあ、さあ、さあ、どこまでともにゆけるだろうかという……。
 つまり節約していたつもりが結果としてそれがぜいたくだった、ということも少なからずあるというわけだ。頭のなかで、考えをこねくりまわしていると、いかによき本に出合ったとしても、またこんがらかりそうだ。きょうはこのあたりで失礼して、わたしもだしこぶで佃煮をこしらえてくるとしよう。
 こしらえてみて、もう少しいいおこぶを買ってもいいかなあと考えるのなんかは、じつにぜいたくな話ではないだろうか。


Photo

先週の手ぬぐいにつづいて、
「わたしのぜいたくⅡ」ということになるか、と。
書斎の机で、仕事をはじめるときに1本香を焚きます。
これは白檀の線香(「いかるが」/鳩居堂)なのですが、
甘みのないところ気に入って、長いこと愛用しています。

Photo_2
香類は、机のすぐ左側のひきだしに入れています。
このひきだしに手をのばすたび、云い知れぬ気持ちに
なります。
それが、ぜいたくなときめきでもあり、
仕事に向かう覚悟でもあるように思えます。

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2011年2月 8日 (火)

ぜいたく

 白いシャツブラウスが好きだ。
 それに気づくのには、ちょっと手間が要った。ある日——わたしは22歳だった——ひとから「白ばかり着ないで、花柄なんかも着てみたら、どう?」と云われた。白いシャツブラウスを好きだと自覚する前だったから、「そんなもんかなあ」と思った。そしてまた、云われただけだったら聞き流したかもしれないけれど、花柄をすすめてくれたのは職場の先輩で、先輩は親切にも大振りの花が咲きみだれる模様のブラウスをわたしに贈ってくれたのだった。
 それは、上等のブラウスだった。
 先輩の好意を受けるという畏れおおさ、上等を贈られたという責任感から、わたしはときどき、ええと週に一度くらいはそれを着て会社に行った。そのたび、先輩はちょっと笑った。かっこいい大人の女性だったから、「それ、いいじゃない?」とか、「着てくれてるんだ」なんてことは、面と向かって云わなかったが、かすかに、とてもかすかに目を弓形に曲げるのだ。
 自分が白いシャツブラウスを好きだと気がついたのは、そのころ。花柄のブラウスをプレゼントしてくれた先輩を尊敬していたし、その目が弓形にやさしく曲がるのを見るのはうれしかった。が、花柄がからだに貼りついている日はなんだか落ちつかなく、その気分はわたしに白いシャツブラウスを恋しがらせた。
「それ」に気づくのは、「それ」を失ったとき、「それ」から逸れたときなのだなあ。……と知った。

 白いシャツブラウスみたようなことは、その後もしばしば起きた。自分の好みに、半世紀以上も生きてきたいまもまだ、あたらしく気づかされることもあるのだから、すごい。
 一度気づくと、つまり、白いシャツブラウスが好きだとわかると、安心してその道を行ける。職場の先輩から花柄のブラウスを贈られた若い日、わたしは40歳になったら、毎日きものを着て暮らそう、と思っていた。ところが実際40歳になってみると、きものを着るというのとはほど遠いわたしだった。きものを着る生活、というのも、どこかで拾ったイメージだったのだと思う。
 わたしには白いシャツブラウスがあった。白いシャツブラウスとデニムは、40歳のわたしを、相当に勇気づけた。
 それからまた10年以上が過ぎたいまは、もうきものを着るイメージは持っていない。そのかわり(?)いつまでも、白いシャツブラウスとデニムという道を安心して歩ける自分でありたいと希ってはいる。

 自分にはぜいたく志向はないつもりだけれども、白いシャツブラウスが好きだと考えたりするのは、ある種とてもぜいたくなのかもしれない。そうして、約(つま)しさとぜいたくというのは、背中あわせなのではないか。
 約しさのなかに、ぽっと浮かび上がるたのしみ、好みのことを、ぜいたくと呼びたいなあなどと、わたしはこっそり考えている。


Photo
これも、わたしのぜいたくだなあと思います。
手ぬぐい。
ことしの干支のうさぎと、自転車のを
あたらしくもとめました。


Photo_2
ぜいたくといえば、
手ぬぐいの衣更(ころもがえ)をすることも、です。
台所の棚のいちばん上の段に、こうして、
季節外の手ぬぐいをしまっています。


Photo_3
お雛さまの柄の手ぬぐい。

こんな風に、壁に貼りつけても、
おもしろいかなあ、と。

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2011年2月 1日 (火)

驚くべきこと

 つい先日のことだ。
 書棚の隅にある黒い背表紙と目が合った。
 そこには、ただ「ふ」と書いてある。
 おもに、いただいた書状やカードのようなものを入れておく、箱型のファイルだ。そういえば、しばらくなかを見ていない。
 20数年前にこの箱を用意して、なかに書状をためてきた。かなり厳選してためてきたつもりだったが、ふたを持ちあげてみたら、なかにはぎっしり紙の仲間が詰まっている。とつぜん、なかみに対する興味が、湧く。

 書斎の床にぺたんと坐り、なかみを出してはならべていく。
 かつて親しくしていた仕事仲間からの誕生日カードや、いまは亡きひとからの手紙など、月日のうつろいが目の前に迫ってくる。なんと、なつかしいことだろうか。
 少し前のわたしなら、この場面で、なつかしさよりも先に心寂(うらさび)しさを感じたことだろう。かつて親しくて、いまつきあいがなくなった相手。当時はこの世のひとだったが、いまは亡い相手。そういう存在をかなたに透かしながら、さびしさよりも、この世で出会うことができた縁(えにし)を思っている。なつかしいとは、縁の重みだ。
 そんなことを考える一方で、手は、ひとりでに仕分けのようなことをしている。トランプを配るときのように、目の前にいくつかの山ができていく。
 山のとなりに、1通のお手紙がぱらりと、頼りなく残った。墨痕あざやかな差出人のお名前をじっと見る。(……ええと、ええと)。額に指をあててみても、天井近くを睨んでみても、あたまを抱えてみても、その名の主の姿も浮かばなければ、出会った場面も思いだせない。この箱にしまったのだから、わたしにとって大事な、うれしい便りだったことはまちがいない。それなのに……。
 まったく驚くべきことだった。
 驚くべきはわたしの記憶力の乏しさなのか、それとも、跡形もなく消えてしまったそのひととの縁なのか。
 そっと封筒から便箋をひきだしてみると、そこには「あなたは感性のするどい方とお見受けしました。するどさ故に生きにくい面もあるでしょうけれど、どうかよく生きてくださいますように」というようなことが書かれていた。
 当時はもっていたのかもしれないするどいほどの感性に関しては、まったくどこへ置き忘れたものかという気にさせられるけれども、そういうものをもっていると評価を受けた事実と、なにより「よく生きろ」という励ましを、あらためて受けとろう。憶えていることのかなわなかった不思議なひとからの便りを、こうして胸におさめなおす。

 さて。
 縁の重みをたしかめながら、多くの書状を束にして処分する。このこともまた、いまのわたしには心寂しくもはかなくもないのである。モノをよすがとせずとも、わたしのなかに存在は刻まれ、そのこころは映っている。


Photo_2

記憶というものの不確かさを思うにつけても、
モノは、手放さないかぎり残るのだと、
おしえられました。

ことしのはじめ、柚子の皮を干しました。
たくさんの柚子を、なんとか使いきりたいと、
そして、できるなら香りを残したいとねがって。
それも、常温で保存したいと思いました。

・柚子を半分に切って、なかみをくりぬく
(これは、酢のものの酢として使うほか、
 さらしの袋につめて何度か分の柚子湯に)。
・柚子の皮をせん切りにする。
・ざるにひろげて、天日干しにする。

からからに干し過ぎたかもしれませんが、
水にもどして使うこともできるでしょう。
うれしいことには、香りがそのままなのです。

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