生きなおす〈引用ノート4〉
「そなたは、世の中に完全なものなど、無いと思うてくれるか、わたしは、
完全を願うたが、欠けてしまった、挫折してしもうた、
今では、三斎どのの灯籠のことを思い出すたびに、早くも、完全をきらった
その心が、見事に思われるのじゃ、
ことごとくのものが揃う、手にはいる、などという完全な幸福は、どこに
もありはしないのだ、この世は、どこか欠けている、足りないものを
恨むまいぞ、われらは欠灯籠よりも欠けていることを知っていなければならぬ、
秀高、秀継家族(※1)も無事、会わずとても、ここに生きておることを喜び
くれまするよう、くれぐれそなたも自愛してたもれ、
豪どの
秀家」
『閉ざされた海——中納言秀家夫人の生涯』(中里恒子著/講談社文芸文庫)
わたしが出版社に勤めていた時代、あらゆる原稿が、多く万年筆や鉛筆による手書きだった。ファクスというのもなかったから、原稿はいただきに、うかがう。駆けだしの仕事と云えば、だから、原稿とりである。あれくらい緊張する仕事もなかった。
生きて動いている作家——この表現は失礼にあたるかもしれないが、まさしくそれが実感だった——の前で、当時携えていた礼節という礼節をかき集めてふるまい、原稿を押しいただくのが第一の緊張。原稿をしまった鞄を抱くようにしながらの帰路が第二の緊張。入稿は先輩の手によってされたが、初校(最初の校正刷り)の「読み合わせ」(※2)が第三の緊張であった。
中里恒子さんの小説の「読み合わせ」も幾度したか知れない。「読み合わせ」は2人1組の仕事だ。原稿と、刷り上がったゲラ(校正刷り、校正紙)とにちがいがないかどうか、読んで合わせてたしかめる、校正の第一関門だ。
——たとえば、冒頭のは、こう読み合わせる。
(かぎ) そなたは (てん) よのなかに (よとなかが漢字) かんぜんな(かんぜんが漢字) ものなど (てん) ないと (ないが漢字) おもうてくれるか (てん) わたしは (わたしは仮名)(てん) かんぜんをねごうたが (てん)
このように、原稿を読んでゆく、声にだして。もうひとりは、校正紙を見ている。
(てん)ばかり、やけに多い文章だと思った。ことに、話ことばをおさめた「 」のなかに(。)はひとつも存在せず、「 」のなかは必ず(、)でおわる。初めてそれに接したとき、先輩にそっとおしえられた。
「これが、中里恒子さんの原稿のかたちなのよ。作家の、この『型』は、どんな場合もそのままに。魂が宿ってるからね。さ、じゃ、読んで」
ふと、「、」の打ち方にも格調を感じさせる「中里恒子」の小説を読みたくてたまらないような気持ちになった。こういうのは、記憶のなかにしまわれた本のならびが、ある1冊を押しだしてよこす一種運命的なものだ。
しかも、あれかこれかということもなく、『中納言秀家夫人の生涯』がさしだされた。わたしがその名でおぼえていたこの本、もとは『閉ざされた海』という書名であったらしい(現在、全集には、『閉ざされた海』で収録されている)。主人公は、宇喜多秀家とその夫人豪姫、いや、島流しになる夫と残らなければならなかった妻の、海を隔てた絆であることを鑑(かんが)みれば、たしかにもとの書名のほうがしっくりする。
ここから数行、あらすじを書かせていただくが、それを邪魔と思う読者におかれては、目をつむっていただきたくお願いする。
前田利家の四女として生まれ、太閤秀吉の養女となった豪姫は、若き武将・宇喜多秀家に嫁ぐ。戦国の世の大名一家の結婚といえば、ほとんど政略的なもので、良人(おっと)はともかく妻にはほとんど選ぶ権利などない、非人間的なものが通例であったが、ふたりには同じ城中に暮らした幼な友だちという親しみがあった。幸せに満ちた十数年ののち、関ヶ原の戦いに破れ、秀家は孤島八丈島に流され、豪姫はひとり加賀の地にうつり住む……。
冒頭の引用は、久しぶりに秀家が奥方にあてた便り——年数度の御用船で行き来する——の一部である。
ここへ出てくる「欠灯籠(かけとうろう)」とは、千利休の秘蔵の灯籠のこと。天下一とも称されたこの灯籠を、太閤秀吉と細川三斎(※3)とに所望されたとき、利休は、わざと裏面を欠いて疵ものとし、秀吉の請いを逃れたのだった。自決の前に、利休はそれを三斎に贈ったが、三斎は自庭に据えてから、さらに、わらび手、灯口を欠いたという。三斎が、完全をきらって欠いたのだ。
ものがたりのなかの、この便りのくだりは忘れていたが、まことに心情あふれる話だ。この胸にたたみなおさなければならない話でもある。
「わざと欠く」には及ばない。多くを求めるこころをおさめるだけで、めあてをどこに据えるかを見直すだけで、足りるように思う。「東日本大震災」を経験したわたしたちは、完全なるものの儚さをよく知る存在になったからだ。
いつも思うことだが、読書にはどれほど救われるだろう。このたびのはまた、ありがたさの上に十重二十重の不思議がかぶさった。戦国の世のうたかたの栄華ののち、絶望、いや終焉とも思えるところから生きなおした宇喜多秀家の姿。長い歳月を加賀に埋もれて暮らすことになった豪姫——その後宇喜多秀家夫人へ、樹正院へと変わる——のこころに揺るぎなく在りつづけた、秀家とともに生きるという一途な思い。このふたつは、この時代をたいそう勇気づけるもののように思われて。
※1 宇喜多秀高、秀継
秀家の長男と次男。父とともに島に渡る。家臣、下男、乳母のほか、加賀
前田家の配慮で、侍医・村田道珍斎を伴い、一行13人。皆、島にて生涯
をおくる。
※2 読み合わせ
データ入稿が多くなったいま、「読み合わせ」の作業がどれほど行なわれ
ているか正確にはわからないが、おそらく稀少なものとなっているはずだ。
※3 細川三斎
(細川忠興/1563−1646)戦国武将として多くの主君に仕えながら、細川
氏を生き延びさせた。文化人でもあり、千利休に師事、『細川三斎茶書』 を
残している。夫人は、明智光秀の3女玉子(細川ガラシャ)。
八丈島に流された秀家一行は、
村人をたよって、山へゆく者、浜へゆく者、
畑仕事をする者と、それぞれの好みで仕事を分担した。
秀家は、菰(こも/むしろのこと)を編むのを得意とした。
島では、持てるものは分けあうのが自然のことで、
村人は、魚でも貝でも、山のものでも、
秀家に差しいれる。
読書しているわたしのもとにも、
岡山県瀬戸内市牛窓から山のものが届いた。
わらびと、小さな筍と。
友人のこの心づくし、
「もっとも人間的な幸福」だと感じる。
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コメント
仙台のじゅんこさん
……よかった。
ゆっくり、「ひとり時間」を
たのしんで。
ひとつひとつが、
際立って見える、感じられるきょうこのごろ。
佳い1週間を。
ふ
投稿: ふ | 2011年4月25日 (月) 06時46分
ふみこ様
ようやく我が家にEXILEのアルバムがやって来ました!
レコード屋さんから「店舗再開しました!」のお電話をいただき、速攻で買いに行ってきました。
レコード屋さんが入っている長町モールは、かなり被害があり、再開していない店舗もありました。
そこでずっと待っててくれたアルバム。ようやく会えたね…と嬉しくて封を開けるのすらもったいない感じです。
嬉しくて嬉しくてたまりません(^^)
明日からの「一人時間」が楽しみです♪
投稿: 仙台のじゅんこ | 2011年4月24日 (日) 14時00分
仙台のじゅんこ さん
きょうの仙台のじゅんこ さんの
お話こそ、誰かに読んで聞かせたい!
と思いました。
とてもきれいなリズムですし。
このたびの震災を通して、
自分がこれまで口ごもっていた(口というより、
こころがブレーキをかけていたような)ことを、
もっとありがたがっていい……、
誇っていい……と思うようになりました。
ことに、職業人としての自分が
実生活のなかで口ごもること、
それは身近なひとたちへの愛しさです。
この愛しさが、わたしの大部分を支えているとも
いえるのに。
かたくなではいられない、そんな日日のなかで、
学んだひとつです。
ふ
投稿: ふ | 2011年4月24日 (日) 11時15分
ふみこさま 皆さま おはようございます!
ふみこさんの以前のお仕事の様子を読むだけで緊張してしまいました(^^;
5年生の娘に、今も眠る前に短い物語を読んでるんですが(彼女の熱望で)、今度は読み合わせ方式でやってみようかな。
娘の学校ではずっと、パンと牛乳だけの簡易給食です。「こういう時にもののありがたさを知ってもらいたい」という学校の方針で、オカズなどの持参はなし。
親の心配をよそに、子供達は明るくアッサリ受け入れています。
「ありがたい」のはもちろんだけどどうも「おもしろい」みたいです。おなかがすくことさえ(^^;
被災地で苦労している人達を思えば…その考え方は確かにありがたさを感じさせるかもしれません。だけど、ともすればやましさに発展しかねません。
それよりも「美味しい」「嬉しい」「楽しい」「面白い」をしっかり抱きしめて自分を可愛がりたいと、思うようになりました。
内装の壁にヒビが増したマンションの我が家。まるで戦友みたいで「愛しい」です(^^)
投稿: 仙台のじゅんこ | 2011年4月24日 (日) 07時54分
焼き海苔の の さん
そういうかけがえのない仕事を
させてもらい、
夢のような時間を過ごさせてもらい……。
ほんとに、おめでとう。
これからは、
読んでもらったり、
おすすめの本を読んだり、
新聞を音読したり。
あたらしい「おめでとう」の時間を、ね。
ふ
投稿: ふ | 2011年4月22日 (金) 10時28分
たろじろさん
「完全」というものが、
この世にあるとして、
それに向かっていこうとする気持ちは、
過剰な欲望を生みますね。
たろじろさんの云われるように、
好奇心と「少しだけの」欲をもって、と
いうふうにゆきたいものです。
わたしも。
ふ
投稿: ふ | 2011年4月22日 (金) 10時26分
ふみこさま
娘が小さいときから、寝る前の本の読み聞かせが習慣でした。
それは小学生になっても続いていて、いつまで続くのかなと思って
いたのですが、最近いつのまにか自分で読むようになりました。
一つの布団で一緒の絵本をめくるあの時間は、本当に素敵な
時間だった・・・と思います。
ちょっとさみしい気がする今日この頃です。
この頃、家にいても本を読む時間が増えました。
投稿: 焼海苔の の | 2011年4月22日 (金) 08時10分
ふみこさま、こんばんは。
欠けているところだらけのたろじろです。
完全だと思っていたものが、実は紙一重の危ういバランスで成り立っていたり…、
欠けているところだらけの人生が、実は愛すべき魅力に満ちていたり…、
未だに、よく分かりません。
だけど…、
完全を追い求めないのも一つの方法かなぁって最近は思います。
好奇心と少しだけの欲を持って、これからも歩いて行こうっと。
投稿: たろじろ | 2011年4月22日 (金) 01時41分
あささん
「幸福」への思い方は
それぞれだと思うのですが、
「人間的」というところで、つながりや、
共感が見えてくるような気がして。
わたしも、自分で書きながら、
「そうそう、これこれ」と思ったのでした。
うれしい……です。
ふ
投稿: ふ | 2011年4月21日 (木) 10時06分
えぞももんがさん
「、」と「。」にもっとも
書き手の個性、美意識があらわれるなあ、と。
まちがいなんかはないんですよね。
「、」「。」に気持ちを向けると、
書くものがちがってくるということでしょうか。
「緊張」というほどの気の向けように、
はっとする思いです。
もうひとつの「はっ」。
錯覚ということ。
同感です。
相当の勢いで錯覚しています、わたしは。
ふんばり時だと思います。
錯覚の払拭。
ふ
投稿: ふ | 2011年4月21日 (木) 10時04分
はつえさん
お手紙、いいですねえ。
それほどの思いのこもったお手紙、
受けとる方がうらやましい……です。
「、」は、ほんとうにおもしろく、
ときにやっかいですね。
ふ
投稿: ふ | 2011年4月21日 (木) 09時59分
ふみこさん おはようございます
今回は、小さな大発見を与えていただきました。
実はあの震災以来、「幸せ」とか「幸福」という言葉が
どうも受け止められなくなっていました。
書くことも、読むことも、したくない。
「幸せ」という言葉の前で、戸惑ってしまうのです。
でも、ふみこさんが筍やわらびを「人間的な幸福」と書いてくださって、「あー、そうか」って思い出しました。
これです、ここです。私の思う「幸せ」って。
ここを目指して歩いていこうと思います。
大事な言葉を取り戻すことができて、大変感謝しています。
なんだか訳の分からないコメントで、すいません。。。
投稿: あさ | 2011年4月21日 (木) 09時59分
CITRON さん
よかった……。
CITRON 、この本の全体に流れる空気を
味わってみていただきたいなあ、と。
そうそう、
ほんとうですね。
自分の「欠け」を数えてないで、
いまある全部を差しだして生きていきたいですね。
大事なことをおしえていただいた思いです。
ありがとうございます。
ふ
投稿: ふ | 2011年4月21日 (木) 09時58分
こぐまさん
そうですか。
こちら、というか、
わたしは「花咲か爺さん」で、知っております。
そして……。
「花咲か婆」になりたいもんだなあと、
このごろ密かに夢みています。
ふ
投稿: ふ | 2011年4月21日 (木) 09時54分
ふみこ 様
おはようございます。
「読み合わせ」の風景を読んでいて
こういう風に 本はできていたのだな・・・と、改めて感心しました。
「、」の打ち方にも格調を感じさせる・・
自分の感で 「、」や「。」を、やたら めったら 打っている
日ごろの 自分の文章に恥ずかしくなってきました。
「、」や」「。」のところで 少し 緊張します。
歩いていて 同じ方向の手と足が出ている感じです。
ふみこさん
「安全」とか「安心」に 完全な物はないことを
分かっていたはずなのに
急速に進歩してきた いろいろな技術に
「もしかしたら あるのかもしれない」と、錯覚し始めていました。
多くを求めるこころをおさめるだけで、
めあてをどこに据えるかを見直すだけで、足りるように思う。
この言葉を 書き留めました。
今週も ありがとうございます。
投稿: えぞももんが | 2011年4月21日 (木) 05時57分
ふみこさま、おはようございます。
友人に長い手紙を書いて、推敲中でした。
校正とは違う作業ですが、「「、」の打ち方」ひとつが難しいです。
友人、といっても、この手紙をきっかけに縁がつながってゆけばいいなという存在の方なので、言葉づかいも慎重に、丁寧に…緊張します。
家計簿順調とのこと、祝!
ふみこさまとご家族のみなさまにあう方法だったのだな、と思い、うれしくなりました。
投稿: はつえ | 2011年4月21日 (木) 05時19分
ふみこ様
作家の魂が宿った原稿。。
作家の方々とその玉稿に真摯に向き合ってこられた
ふみこさんの、かつての「編集者魂」の貴重な一場面を
見せていただきました。
そうして出来上がった書物を、手にしていたのだと。。
”足りないことを恨むまいぞ”
という言葉が耳に痛く響きました。
物質面だけでなく、私自身の
足りないところばかりを数えていた
気がします。
こんな欠けた私でも、それはそれで
良いのだ、と受け入れてももらえたような。
安心して、よりよく生きるための
努力を重ねていけそうです。
投稿: CITRON | 2011年4月20日 (水) 22時35分
ふみこさま。みなさま。
こんにちは。牛窓 私の家から車でしばらく行ったら行けます。たしか、
瀬戸内のエーゲ海って言われています。きれいなところです。
私も、嫁にきてから、たけのことわらびを春には食べています。
今年の春は、わらびは、まだ食べていませんが・・・。
今日、民話教室に行ってきました。花咲かじいさん のお話は東日本では
雁取りじいさん というお話で伝わっているそうです。同じお話でも
東と西で違うんだそうです。今日も楽しく勉強してきました。
では、またぁ。
投稿: こぐま | 2011年4月20日 (水) 18時16分
寧楽さん
どんな仕事にも、
見えない努力がつまっている……。
寧楽さんのそのことばに、ふと、
涙がこぼれました。
ほんとうにそうだなあ……と。
「見えない努力」に対する敬意のようなものを、
いまよりもっともつようになったら、
ひとの暮しも、
ひとの関わり方も、
世の中も変わるでしょうね。
このたびも、
どうもありがとうございました。
ふ
投稿: ふ | 2011年4月20日 (水) 10時58分
なのさん
お恥ずかしいなんてこと……。
テレビとラジオなしのお暮らし、
落ちついた佇まいだと、
感心しています。
「読む」が際立ちますね。
牛窓の海。
きっときっと、眺めたいと思います。
縁がありますように。
ふ
投稿: ふ | 2011年4月20日 (水) 10時51分
Kouji さん
提案ということもないのですが。
こういうのも、ありでしょうか……と、
こっそり、ぶつぶつ呟いていただけで。
ぶつぶつ、ぶつぶつ、
呟きつづけようか、とは
考えていますけれど。
ふ
投稿: ふ | 2011年4月20日 (水) 10時44分
どりすさん
牛窓。
わたしも行ってみたいと、
思います。
日本じゅうに、
行ってみたくて、まだ行っていない地がたくさん。
縁が紡がれて、
やっと出かけてゆけるのでしょうね。
ふ
投稿: ふ | 2011年4月20日 (水) 10時42分
ゆるりんりんさん
歴史のなかで、それをもっと
確かなこととして知っていていいはずでした。
それ、とは、
完全なるものの儚さのことですが。
このたび、
16年前の地震のときの、
(自分の)学びの薄さ、覚悟の足らなさを
思い知らされています。
ふ
投稿: ふ | 2011年4月20日 (水) 10時37分
ふみこさま
本との関わり
読む側でなく作る側としての
今のふみこさんを作ったであろう日々を垣間見たような気がして
嬉しいです。
どんな仕事にも見えない努力が詰まっていますね
戦国の世の女たちの
強さと聡明さは
自分を抑えて守るものがある信念がそうさせるのだと思っています。
筍と蕨はどんな料理に
なるのでしょう?
投稿: 寧楽 | 2011年4月19日 (火) 21時21分
ふみこ様
今の生活の支えは読書です。お恥ずかしいことにテレビともラジオとも
関係を絶って久しく。
家族が見るテレビをちょこっと横で見るくらいしか今はしておらず。
日々の読書がせめてもの楽しみです。
牛窓の海は穏やかです。日本海ほど綺麗ではないけれど。
春の海に浮かぶ島々を一度見に来てもらいたいです。
夏の海もいいけれど。春の海は何故か他の季節よりも綺麗に思えます。
投稿: なの | 2011年4月19日 (火) 20時45分
ふみこさま、みなさま、こんにちは。
「いつも思うことだが、読書にはどれほど救われるだろう。」それは、正にふみこさんのお書きになるものです。「この時代をたいそう勇気づけるもののように思われて。」
不思議といえば、倹しい生活がより切実なことになってきたことです。ふみこさんがずっと提案されてきたことが、誰のなかにも、より鮮明にかんじられるようになってきたようにかんじています。
投稿: Kouji | 2011年4月19日 (火) 14時48分
ふみこさま、みなさま
春の嵐(ふみこさま、ニノの嵐ではないですよ^^)が、桜のじゅうたんを
広げています。
この豪姫に送られたふみは、まさに今、私たちに宛てて下さったかのように
思います。
送る人への溢れる想いが、1文字1文字からうかがえて、何回もなぞってしまいました。
手紙は、良いものですね。
そして、本も有り難いものですね。
この1か月、有る時間をほとんど読書に使いました。
いろんな用事を削いで、文字を読む事にあてることで、得たり、救われたりしました。
数年前まで、毎年、夏には牛窓に出掛けていました。
穏やかな海の青と、白い建物がとてもきれいで、
ふみこさまのお友達からの贈り物から、その時の風景がぱぁっと広がりました。
「もっとも人間的な幸福」・・・かみしめています。
その牛窓への道のりを共にしていた友人は、今、
新聞の校正で、日々、眉間のしわが深くなっています。
今年あたり、牛窓行き、再開しようと、今、思いつきました。
投稿: どりす | 2011年4月19日 (火) 13時14分
ふみこ様
わたしが完全なるものの儚さを思い知ったのは
16年前の地震のときです。
深い淵から這い上がる人間を見たのも
光をみたのもあの時からです。
わたしがそれらに気がつくもっと前に、
ずっと前に
いろんな国のさまざまな場所で、
いろんな時代で、
いろんな出来事に、
いろんなやり方で
その儚さとむきあい、受け入れ、
乗り越えた人間たちの
記録、話し、言い伝えが
支えになったり、希望になっています。
この宇喜多秀家と豪のお二人のお話もそうですね。
光があります。
ご友人のわけわけして食べようというお気持ちも。
ありがとうございます。
投稿: ゆるりんりん | 2011年4月19日 (火) 12時50分