不便は愉し
はじまりは、ろうそくだった。
以前はたのしみのためにもとめていたろうそくだったが、東日本大震災のあとは必需品として、買うようになった。夕方になっても電気をつけずに、作業や移動には手まわし充電のライトを用い、食卓にはろうそくを置いている。
つまり、ろうそくが、常備の消耗品の仲間入りをしたわけだった。ろうそくが加わったのをきっかけに、考えたら、現在、この家の消耗品の種類と数の、いつの間にやら多くなったこと。消耗品とは、使ううちになくなってまた買うことになるモノたちのことである。
たとえば台所。
基本調味料や気に入りの乾物、缶詰類。冷蔵庫のなかにもいろいろある。食品包装用ラップフィルムやアルミ箔、袋ものも。
そのほか。洗剤類。石鹸の仲間。歯ブラシ。顔やらからだに塗るようなモノ。あらゆる紙製品。救急箱のなかみ。などなど。
そしてろうそく、だ。
質素に暮らしたいと希いながら、こんなにもたくさんのモノをつねに持とうとし、なくなったら買い足すことに躍起になっているなんて。ちょっと見直したほうがよさそうだ。それはほんとうに必要か、と、ときどき自分に問うて、しかも、買わずにすます方法はないのかという発想をともなって考えてみたくなった。
手帖をひらいて、見開き2ページをそのために確保し、〈これは、常備しなくてもいいんじゃないだろうか?〉という表題をつける。〈これは、常備しなくてもいいんじゃないだろうか?〉を探りあてる手立ては、便利に走り過ぎない決心だと思える。「便利、便利」と、何とかのひとつ覚えのようにくり返し唱えていないで、「不便は愉し、不便は愉し」と、云い換えて。
自ら不便に立ち向かってゆくということもなく、ただ手軽に手に入れることのできる便利をなんとなく受けとるということばかりしていれば、ありがたみも感じられなくなる。実際わたしは、いま、たいしたありがたみを数数の便利に対して抱いてはいない。そんなのは、神経の麻痺(まひ)ではないのか。
まずは、不便の状態を発想することだけでもしてみれば、多くの不便が愛おしく思えてくるばかりでなく、こんなことを簡便にするためにそれほどの犠牲——地球を痛めつけたり、限りある燃料を無駄づかいしたり——をはらうなどとは……という気づきにもつながる。
これまで、ぎょろりと目を剥(む)いていた、恐ろしげな「不便」が、柔和な顔になっている。長く嫌われ者でいたことで、顔つきまでもそんなふうになってしまっていたらしい。反対に、呑気なかまえでゆるゆるやってきた「便利」のほうは、立場が曖昧(あいまい)になって、困ったような媚(こ)びるような表情をつくっている。この様子を見るにつけても、大量生産の便利が気の毒にも思えてくる。きっと昔は、「不便」と「便利」のあいだにも、ある相談のようなものが成り立っていて、「アタシの『ここのところ』は、いかにも融通(ゆうずう)がきかないからさ、アンタ、なんとか知恵を出しておくんなよ」と不便がささやくと、「便利」が「あい」と答えてそっと胸を叩いてみせるようなことがあったのかもしれない。
手帖の〈これは、常備しなくてもいいんじゃないだろうか?〉は、日一日と、その項目をふやしている。思いついて記すたび、なんだか、愉快だ。
ただし、ここへはその項目を記さないでおく。こういうのは、ひとりひとりがそれぞれに考えるのがいいのだし、「不便」と「便利」のあいだで、自らああだろうかこうだろうかと揺れることも、意味あることだと思える。
これは、もとは下敷きとしてはたらいていた
末の子どもの学用品です。
中学では下敷きを使わなくなったとのこと。
いたずら描きをして、机に置いてありました。
「これ、くれる?」と頼んで、もらってきて1年が
たちました。
冷蔵庫のなかで、こんなふうに
使っています。
毎日つくっているヨーグルトの器のふたとして。
ときどき、保存容器に入れ替えるまでもなく
「ちょっとだけ保存」のときも、このふたが活躍します。
まあ、なんでもないことなのですが、
慕わしいフタなのです。
こんなのも、わたしには、立派な「便利」。
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