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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
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2011年6月

2011年6月28日 (火)

不便は愉し

 はじまりは、ろうそくだった。
 以前はたのしみのためにもとめていたろうそくだったが、東日本大震災のあとは必需品として、買うようになった。夕方になっても電気をつけずに、作業や移動には手まわし充電のライトを用い、食卓にはろうそくを置いている。
 つまり、ろうそくが、常備の消耗品の仲間入りをしたわけだった。ろうそくが加わったのをきっかけに、考えたら、現在、この家の消耗品の種類と数の、いつの間にやら多くなったこと。消耗品とは、使ううちになくなってまた買うことになるモノたちのことである。
 たとえば台所。
 基本調味料や気に入りの乾物、缶詰類。冷蔵庫のなかにもいろいろある。食品包装用ラップフィルムやアルミ箔、袋ものも。
 そのほか。洗剤類。石鹸の仲間。歯ブラシ。顔やらからだに塗るようなモノ。あらゆる紙製品。救急箱のなかみ。などなど。
 そしてろうそく、だ。
 質素に暮らしたいと希いながら、こんなにもたくさんのモノをつねに持とうとし、なくなったら買い足すことに躍起になっているなんて。ちょっと見直したほうがよさそうだ。それはほんとうに必要か、と、ときどき自分に問うて、しかも、買わずにすます方法はないのかという発想をともなって考えてみたくなった。
 手帖をひらいて、見開き2ページをそのために確保し、〈これは、常備しなくてもいいんじゃないだろうか?〉という表題をつける。〈これは、常備しなくてもいいんじゃないだろうか?〉を探りあてる手立ては、便利に走り過ぎない決心だと思える。「便利、便利」と、何とかのひとつ覚えのようにくり返し唱えていないで、「不便は愉し、不便は愉し」と、云い換えて。

 自ら不便に立ち向かってゆくということもなく、ただ手軽に手に入れることのできる便利をなんとなく受けとるということばかりしていれば、ありがたみも感じられなくなる。実際わたしは、いま、たいしたありがたみを数数の便利に対して抱いてはいない。そんなのは、神経の麻痺(まひ)ではないのか。
 まずは、不便の状態を発想することだけでもしてみれば、多くの不便が愛おしく思えてくるばかりでなく、こんなことを簡便にするためにそれほどの犠牲——地球を痛めつけたり、限りある燃料を無駄づかいしたり——をはらうなどとは……という気づきにもつながる。

 これまで、ぎょろりと目を剥(む)いていた、恐ろしげな「不便」が、柔和な顔になっている。長く嫌われ者でいたことで、顔つきまでもそんなふうになってしまっていたらしい。反対に、呑気なかまえでゆるゆるやってきた「便利」のほうは、立場が曖昧(あいまい)になって、困ったような媚(こ)びるような表情をつくっている。この様子を見るにつけても、大量生産の便利が気の毒にも思えてくる。きっと昔は、「不便」と「便利」のあいだにも、ある相談のようなものが成り立っていて、「アタシの『ここのところ』は、いかにも融通(ゆうずう)がきかないからさ、アンタ、なんとか知恵を出しておくんなよ」と不便がささやくと、「便利」が「あい」と答えてそっと胸を叩いてみせるようなことがあったのかもしれない。

 手帖の〈これは、常備しなくてもいいんじゃないだろうか?〉は、日一日と、その項目をふやしている。思いついて記すたび、なんだか、愉快だ。
 ただし、ここへはその項目を記さないでおく。こういうのは、ひとりひとりがそれぞれに考えるのがいいのだし、「不便」と「便利」のあいだで、自らああだろうかこうだろうかと揺れることも、意味あることだと思える。

Photo
これは、もとは下敷きとしてはたらいていた
末の子どもの学用品です。
中学では下敷きを使わなくなったとのこと。
いたずら描きをして、机に置いてありました。
「これ、くれる?」と頼んで、もらってきて1年が
たちました。

Photo_2
冷蔵庫のなかで、こんなふうに
使っています。
毎日つくっているヨーグルトの器のふたとして。
ときどき、保存容器に入れ替えるまでもなく
「ちょっとだけ保存」のときも、このふたが活躍します。
まあ、なんでもないことなのですが、
慕わしいフタなのです。

こんなのも、わたしには、立派な「便利」。

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2011年6月21日 (火)

こころの交流〈引用ノート6〉

 チャリング・クロス街八四番地のみな様へ

 美しいご本をご恵贈くださいまして、ありがとうございました。総金縁の書物を手もとにおくのは、私にとってこれがはじめてのことです。そして、とてもお信じになれないでしょうけれど、あの本、私の誕生日に着きましたの。
 みな様、礼儀正しくていらっしゃるので献辞をカードに書いてくださいましたけれど、なぜ見返しに書いてくださらなかったのでしょう。どなたも古本屋さん気質まる出しね。見返しに書くと本の値打ちが下がるので、おいやだったのでしょう。現在の所有者であるこの私にとっては、見返しに書いてくださったほうが、よっぽど値打ちがあるのですよ(そして、たぶん、未来の所有者にとっても。私は見返しに献辞が書かれていたり、余白に書き込みがあるのが大好き。だれかほかの人がはぐったページをめくったり、ずっと昔に亡くなった方に注意を促されてそのくだりを読んだりしていると、愛書家同士の心の交流が感じられて、とても楽しいのです)。
                               『チャリング・クロス街84番地』
                   (ヘレーン・ハンフ編著 江藤淳訳/中公文庫)※

 好きな本を尋ねられたら、『チャリング・クロス街84番地』ははずせないような気がする。まず。その昔、書籍編集者の友人から「これ、あげる」と、なんと云うこともなく手渡され、なんと云うこともなく読みはじめたときの驚きが忘れられない。本がたくさん登場する、書簡、仕事のはなし、とくれば、それだけで食指がうごくというものだ。それに、このものがたりには、正直さ、ユーモア、思いやりが満ちている。自分が正直さ、ユーモア、思いやりの3つ全部を失っているという残念過ぎる事態は滅多にはないとしても、ひとつかひとつ半くらい、どこかに置き忘れたとか、3つが少しずつ欠けた状態にあるということなら、日常的なはなしだ。この本を読むうち、正直さ、ユーモア、思いやりを、たやすくとり戻せるように感じられる。そこには錯覚も混ざっているにちがいないけれど、とり戻す勇気は分けてもらえる。
 アメリカはニューヨーク在住の、ヘレーン・ハンフ———当初自らを、小娘、貧乏作家と名のる———という女性が、絶版本を専門に扱うイギリスはロンドンの古書店マークス社に宛てて出した古書の注文書が、いつしか、例の3つの佳きものの満ちた手紙になってゆく。そうして、佳きものを受けとる資質に恵まれたフランク・ドエルはじめマークス社の一同のあいだに、書簡が行き来する。最初の手紙はヘレーン・ハンフが書いた1949年のもの、最後のは1969年、フランク・ドエルの長女シーラが書いている。
 内容をもう少しくわしく明かしたい気持ちをおさえるためにも、「ほんとうは……」と書いてしまってもかまわないだろうか。ほんとうは、ヘレーン・ハンフの手紙のニュアンスは、もう少していねいで、よそよそしいものだったと思いたい気持ちがある。そのニュアンスはもちろん、評論家であり、翻訳をいくつも手がけている江藤淳氏の洞察の結果である。それはわかっている。もう少しだけていねいで、よそよそしいは、つまるところ、わたしの好みだ。
 しかし、フランク・ドエルは、どこまでも英国的紳士である。控えめでありながら親しみをかもすのだ、書簡のなかに。お見事。

 古書が好きである。
 これは、わたしにしてはめずらしい明快な結論だ。
 古書が好きである。古書に見え隠れする前の所有者の痕跡、気配を受けとるとき、それをこころの交流と呼びたくなる。
 古書ばかりでなく、古いものを、たいてい好きだ。
 ということを、ここで宣言してみたくなっている。そうすることによって、もしかしたら、これまでたいした理由もなく「古もの」を敬遠していたひとのうちひとりかふたりくらいが、「わたしも、好きになってみようかな」と思ったり、「少なくとも、怖くはなくなった」と考えるようになるかもしれない。そうなったら、どんなにかうれしい。

※この本には、「書物を愛する人のための本」という副題がついています。
 英語で読みたい方には、『84,Charing Cross Road』(Helene Hanff/ペーパーバック)をおすすめします。
 なお、この作品は映画化されています(「チャリング・クロス街84番地」1986年/アメリカ)。出演:アン・バンクロフト、アンソニー・ホプキンスほか。

Photo_8
これは、なんでしょうか。    


Photo_9
ふたをあけました。ほら!

左から……
・アスパラガスのきんぴら
・豆腐とピータンの和えもの
・きゅうりと新玉ねぎの梅酢和え

こんな平べったいたのしい籠に入った、
甘納豆をいただきました。
甘納豆も弁当の箸休め、茶請けに活躍しましたが、
籠もまた……。
遅く帰ってご飯をひとりで食べることになるひとの、
小さなおかず入れとして使っています。
そして、こういうのが、
わたしの考える「正直さ、ユーモア、思いやり」です。
これのどこが、正直さかですって……?
それはね、
こちらの思いが正直に料理に映るところ。

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2011年6月14日 (火)

1枚ずつ、ひと針ひと針

 書いたり、本や資料を読むため机にかじりつくか。家のなかを動きまわった末、最終的に台所に落ちつくか。こういう暮らしをつづけていると、2週間に一度通っているカイロプラクティックのせんせいの、「1日のうち、ほんの少しでも外に出られるといいんですけれどね。ん」という声があたまの上から降ってくる。そうだった……、とあわてて、外に出てゆける日もなくはないけれど、ほんとう云うと、机にどのくらいかじりついていられるか、家のなかを動きまわったり台所にこもることにどれほど時間を費やせるか、が、わたしのいまの人生だ。

 ある日。
 わたしの部屋の、「けんちゃん」の上に、妙な現象が起こりはじめた。「けんちゃん」は、もとは食器洗い乾燥機として働いていたが、いまは文房具の在庫と、学校関係の(いつ必要になるかわからないが、捨ててはまずそうな)資料の保管業務に転職している。「けんちゃん」の上には、読みさしの本と、これから読む本、数冊の辞書をならべて置いている。ここを見ただけで、自分の現在の読書計画がわかるし、通りすがりに立ったまま、辞書を引くこともできるので、いまやわたしの気に入りの場所になっている。
 そこに……。ある日、1枚の真っ白い雑巾が置かれた。
(何だろう、この雑巾は)と思ったけれども、とりまぎれて確かめることを忘れた。つぎに同じ場所を見て、驚いた。1枚だった雑巾が3枚になっている。(けんちゃん、保管の仕事だけでは飽き足らなくて、雑巾を縫いはじめたのかなあ)と思いかけたけれど、いくら何でもそれは考えにくいね、と思い直す。ちょっと愉快になってきて、雑巾のことは、そっとしておくことに決めた。それに……、雑巾が置いてあるのは……、なかなかにいい光景でもあったのだ。
 雑巾は、その後も少しずつふえて、その日は結局5枚重なっておわった。翌日、午前中は5枚のままだったが、午後になると、また1枚2枚とふえはじめた。夕方、台所におさまったあとで、ある資料のなかみを確かめておきたくなって机にもどってみたところが、そこに怪しい人影があるではないか。
 いつも仲よくしているすずめの化身だった。

 というのなら、叙情的なものがたりになるところだが、何のことはない、見慣れた二女の姿だった。二女は、「けんちゃん」の上に、9枚めの雑巾をのせているところだった。

「それは、いったい何なの?」
「何って、雑巾。古タオルのひきだしに、タオルがたまっていたから縫ったの。だめだった?」
「だめなんてこと、あるわけないよ。でも、どうして……?」
「デスクワークがつづいていてさ、変化をつけるために、ひと区切りのたびに雑巾1枚縫うことにしてみたの」
「へえ」

 このひとは、現在、在宅でホームページをつくる仕事をしていて、それが、本業の洋裁よりも忙しくなってしまい、てんてこ舞いしている。ときどき、部屋から「や、こりゃ、失敗」「あー、わかんなーい」という、小さな叫びが聞こえてくる。そう云えば、ががががががという、ミシンの音も聞こえていたかもしれないなあ。
 それが、えらくうらやましくなってしまった。「それ」というのは、雑巾縫いもだけれど、何より仕事に区切りがつくたび、ミシンを踏むということがだった。
 真似しよう。
 とはいえ雑巾を縫うのは真似が過ぎるような気がして、あれこれ考えをめぐらす。そうだ、わたしは布巾を縫おう。古タオルのひきだしのなかには、商店名や品名の印刷された真新しいタオルもまざっているから、それを使って。
 そう決めたものの、自分のしていることのどのあたりが「ひと区切り」なのだか見当がつかず、なかなか布巾へと向かえない。もうもう、力ずくでひと区切りつけ、二女の部屋に行き、1枚縫わせてもらう。

 1枚縫うと、なんとも心地よい。
 調子づいて2枚めを縫おうとすると、「それは、だめなんだよね。1枚ずつじゃないとね」と二女に止められた。(ああ、1枚ずつね……)。そんな約束、したおぼえはない、と思いながらも、「1枚ずつ」には妙な説得力あって、云うとおりにする。1枚ずつ、ひと針ひと針。
 そうだ、この作業によってもたらされるものは、1枚ずつ、ひと針ひと針の心地よさなのだった。そりゃあ、文字を打ちこむのだって読むのだって、ひと文字ひと文字にはちがいないし、台所でもひと刻みひと刻み、ひと混ぜひと混ぜだ。が、ひと針ひと針のときの、少しずつだが一本道をひた走るがごとき感覚は、ほかに類を見ないもののような気がする。そうして、道は1枚ずつ長くつながってゆく。

 現在、雑巾、18枚。布巾、10枚。

Photo
けんちゃんと雑巾。

いまもまだ雑巾は積まれつづけ、
一部は、被災地にもゆきました。
友だちも、持っていきました。

雑巾の威力に、感じ入ります。

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2011年6月 7日 (火)

台所模様

 料理書を見ながら何かつくるというようなとき、以前——それも、かなり以前——は、そりゃあ真面目なものだった。真面目というよりも、それは、融通のきかない思いこみだろうかなあ。材料をそろえるのに、どれくらい苦心したかしれない。不足がちに暮らしている若い主婦の家に、どこの国のものかも知れぬめずらしい調味料を常備しているはずはなく、知識の乏しさも手伝って、聞いたこともない食材はいくらでもあった。
 けれども。つくってみたさ、食べてみたさ、食べさせてみたさは、ひと並みに、いやひと一倍もっていたから、苦心は、当然のことだったといえるだろう。
 そうした苦心が、自らを困らせるということもなくはなかった。
 苦心の末にそろえた目新しい調味料が一度の料理のあと、一向に使われることもなくいつまでも家にある事態。それから。料理書の材料の欄にある、「卵黄……6個分」というときの卵白、「トマト(タネをとって)……大1個」というときのトマトのタネ、「きゅうり(まんなかのタネのある部分はくり抜く)……3本」というときのまんなかの行きどころにも、困った。料理書には、いともあっさりそう記してあるだけだから、若かったわたしは、〈大事な、べつの、部分〉をもて余してしまうのだった。それに当時は、食材を使いきる、生かしきることに興味をもっていなかった。
 わたしはわたしで働き、食材は食材として存在し、というのが当時の台所模様だったのである。

 いまなら、こんなことで困ったりしない。
 調味料も、料理書の云いなりにもとめたりせず、代用のモノを家のなかにさがす。結局一度きりしか使わないのではないかという疑いを自らに対し、きっぱり抱けるようになったおかげで、ここ十何年、見て見ぬふりを決めこむ調味料をかかえこまずにすんでいる。
 ひとつ食材のある部分だけを用いるような場合も、残った部分に罪の意識をもたされることもなくなっている。
 卵白などは、1個分や2個分なら、卵焼きにひき受けてもらったり、焼きものの下味に混ぜこんでしまう。もっと多ければ、炒り卵白にして、サラダのトッピングや酢のものにしたり、トーストの上にのせて食べる。純白の炒り卵は、なかなかうつくしく、大人っぽい。
 トマトのタネ、きゅうりのまんなか、たらこの皮、野菜の皮やしっぽ、そんなのは、どうにだってなる。あぶれたモノたちと懇意にするのが、いまのわたしの台所模様だもの。まかせてほしい。

 ある日。
 夫の仕事部屋に、5人の仲間がやってきた。苦労の末に、やっとまとまりかけた映画の、第一回めの試写会だそうだ。映像製作のむずかしさはわたしの理解をいつも軽く飛び越して、あれよあれよという間に完成地点に着地しているという具合だ。そういうのを無理解と呼ぶのだとしても、無関心ではとてもいられない。それでわたしは、食べるものをこしらえよう……と考える。8畳ほどの、それも窓を閉めきり暗闇をつくった部屋のなか、映像を観る。その後、監督、撮影、録音、編集、その他に力を尽くした面面が意見を交わす場面で、食べるものと云ったら……、サンドウィッチ。
 家でサンドウィッチをこしらえるときは、パンの耳はつけたままにするのだけれど、この日は、なんとはなしに恰好つけてしまった。耳なしのサンドウィッチを、大皿2枚にならべる。

・蒸し鶏とセロリ(マヨネーズ)
・ゆで卵とピクルス、玉ねぎ(ピクルスの漬け汁でつくったドレッシング)
・キューカンバーサンドウィッチ(塩)
・合挽肉と玉ねぎの炒め(トマトソース)
・ママレードとクリームチーズ

 さて、時間どおりに暗闇の部屋にサンドウィッチを運んだあと、わたしのもとに3斤分のパンの耳が残った。パンの耳のような存在と気持ちを通わせ合うせるところまでして初めて、サンドウィッチづくりになるというわけだ。

 翌日の台所模様。
・キッシュ(パンの耳、卵、牛乳、サルサソース、ブロッコリ、ピッツァ用チーズ)
・シーザーサラダ(パンの耳、風変わりなレタス類、ベビーリーフ、パルメザンチーズ)

 もぐもぐ ぱっちり(※)。

※これは、わたしの造語、結びのことばです。おいしそうなのがいいなあ、と思って。


1

卵白の炒りたまごです。
なんでもないことですけれど、これを
考えついたときは、こころが晴れる思いでした。
味つけは、塩こしょう、マヨネーズ、いろいろです。
クリームチーズを塗った上にのせても……。
サラダや、酢のものにも、重宝します。

パンの耳キッシュ、シーザーサラダ(パンの耳入り)のつくり方は、
きっと、また……。
キッシュはサルサソースが、
シーザーサラダはドレッシングが決め手です。 

 

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