あたらしい道
することが多くてこんがらかる。
胸に「解決」という漢字二文字をならべて置き唸(うな)る。
どこか遠くへゆきたいなあと、彼方(かなた)に目を向けることもある。疲れているのかなあ。気がつけば、からだが鉛のように重い。これはからだの疲れなのか、それともこころのほうの、なのか、と考えたりする。心(しん)と身(しん)のあいだに分けて入り、どっちがどうだということに、意味などないことを知りながら。労(いたわ)らなければならないときには、どっちのことも労らなければ。
ひとは時として、こういう状態に陥る。予告もなしに深い谷にはまるような塩梅で、そなえもしていなかったから、「いきなり」+「すとん」なのだ、たいてい。足を踏みはずしたあたりを見上げて、落ちた、と考えるときには、あきらめがついている。
——落ちたなあ。
谷の深さはまちまちだが、そこから上がろうとするときのきっかけは、深さに関わらず必要だ。何かにつかまらなくてはのぼれない。そうそう、ちょっと休んでからにしないと、どうにも……、ということもある。
*
朝靄(もや)がたちこめていた。
どうやらそこは山間(やまあい)の谷であるらしい。ボクは落ちて、ここにいる。あはは。
——落ちたなあ。
「何かをさがしておいでかの?」
そう云うのは、仙人のように、白く長いひげを胸のあたりまでのばした老人である。
「そのように、きょろきょろと。さがしものなら、手伝いますぞ」
「……道」
ボクはそう答えた。正しい答えだと思える。
「道。はて、どんな道をおさがしなのかな?」
「どんなって……、帰り道」
「帰り道。はて。ここには、ないのぉ」
老人は持っていた竹の筒をボクにさしだすと、からだの向きを変え、
「帰り道という道はないんじゃ。それはないけれど、道は無数にあるな。道なき道というのもあるな」
と云うと、ふふふっと笑い、歩きはじめた。
「帰り道がないって、どういうことですか?」
「わからんかのぉ。アンタがこの谷から出て、どこかへ行きつく。行きついたとき、そこまでの道のりがはじめて帰り道になるんじゃよ」
老人の姿は、靄のなかに消えた。
靄のなかに、声が滲(にじ)んだ。
「道にどんな名をつけてもかまわないが、道は、いつもあたらしいのですぞぉ」
老人に手渡された竹筒に、口を近づける。
目をつぶって、ぐっと飲む。
——苦い。
その苦さに、からだがぶるっとふるえた。が、足の裏から活力が湧いてくるのがわかる。
——よし、ゆくか。
*
先週、わたしも落ちた。
多種多様なことにからみとられて、足がもつれ、谷底へすとん。落ちてしまえばこっちのものだ。落ちたところからのぼればいいのだもの。
落ちることかなわず、ああでもないこうでもないと散らかってゆくことに比べたら、はるかにわかりやすい。
このたび、わたしにのぼる気にさせたのは、学生時代からの親友だった。久しぶりに会う約束をしたら、とつぜん「足の裏から活力が湧いて」きた。
再生。
再生などと云うと、また大げさな……と云われてしまいそう。けれど、わたしたちは日日再生をくり返す存在だと思う。そこには小振りな再生が多く含まれ、大がかりなのはたまの話。
小振りのときも大がかりのときも、自分が落ちたことに、谷にいることに、気がつくことが、まず肝要だろう。
そして。帰り道をさがそうなどとは思わないことだ。ひたすらにゆく道は、つねにあたらしい道、再生の道である。
「再生、再生……」とつぶやいていたら、
「リボーン(reborn)」ということばが浮かんできました。
「リボーン、リボーン……」とつぶやいたら、
こんどは「リボン(ribbon)……」ということばが浮かびました。
ええと。
うちにあるリボンは、これだけです。
こんなふうに持っています。
この袋に入るくらいためておこうという考えです。
リボン、こんなところでも活躍です。
朝顔、夕顔のつるを、誘導したいと目論みながら、
つぎ見たときには、もうその地点がみつからない……。
そのため、目印をつけておくんです。
このつるが、なんとか「こちら」にまいてくれるように。
このつるが、「そちら」にゆかないように。
reborn と ribbon の話でした。
おそまつさま。
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