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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
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2011年9月

2011年9月27日 (火)

尺取り虫

「栗があるのは、うれしいです」
 と絢(あや)ちゃんがぽつりと云う。

 絢ちゃんは、夫のいとこの長女である。わたしたちからは「従姪(じゅうてつ)」にあたる。呼び方なんかはどうでもよいのだけれど、知ってみるとおもしろくもある。
 絢ちゃんの家は、栗農家だ。お父さんの井上賢(まさる)さん(このひとが夫の母方のいとこ)も、お母さんの一恵さんも、絢ちゃんのお兄さんで長男の圭介さん(わたしたちの従甥:じゅうせい)も、現在、それぞれに栗の仕事とはべつの職業をもっているから兼業栗農家。もともとここは賢さんの奥さんの一恵さんのご先祖が代代守ってきた栗林であり、一恵さんのご両親の代までは栗仕事だけでじゅうぶんやってゆけたそうだ。一恵さんと結婚した賢さんを見込んで家督を譲ったご両親は、じつに見る目があるなあと思える。びっくりするくらい気持ちのいい家族だ。いまは、それぞれに職業をもちながら(絢さんは大学生)、栗を守っている。

 一度、栗の季節に栗拾いをしてみたいと思っていた。それがかなった。埼玉県の中心部、東松山の丘陵地帯に、賢さん一家の家と栗林はある。
 夫と、二女と三女と4人で勇んで出かけてきたのに、途中で雨に降られ、こういう天候のなかでも栗拾いはできるのだろうかと心配になる。傘をさして栗を拾う姿を想像するが、雨には、すこしの間でも休んでいてもらえないだろうか。ところが、到着するなり、雨が上がって雲間から日の光が射してきた。ありがたい。天気のことも心配だし、何より早く栗が見たくて、「一服してください」と云う一恵さんの好意を辞退して、早速栗林にむかう。わたしたちは、長袖長ズボン、長靴(気に入りの、日本野鳥の会の長靴だ)、帽子に軍手という出立ち。それではまだ足りない、「蚊がすごいんだ」と賢さんは云い、ひとりひとり蚊取り線香を携帯するようにと、蚊取り線香入れにひもを通したものを手渡してくれる。それを腰に巻く。
 栗林のなかは薄暗く、地面には栗のいががたくさん落ちている。ああ、そうか、落ちたものを拾うんだな、とそこで気づく。すでに栗拾いの時期も終盤を迎えているので、空っぽの、つまりなかの実をとり出したいがが、木の根元に山となっている。実を拾ったあと、そうしていがを根元にあつめるのが仕事の作法のひとつらしい。
 賢さんが、落ちているいがを足でこうして、と、手本を示してくれる。足でいがをはさんで踏み分けるようにすると、いがが割れてなかの栗が見える。栗の実を火ばさみ(わたしたちは、銘銘火ばさみを手にしている)で、取りだし、かごに入れてゆく。考えていたより栗のいがは頑丈で、手を使っての作業ができないというわけだった。「栗を拾っていて、背中にいがが落ちてきて、つき刺さっていたこともある」と賢さんは云う。
 つい手で栗をとり出したくなるのを我慢して、火ばさみを握りしめる。
 はじめは夢中で、開けるいがを片端から足で開いて、なかの実をとり出していたのが、だんだん、いい栗とそうでもないもの、まだ若いうちに落ちてしまって(前の週には台風もあったので)熟していないものの見分けがつくようになってきた。かすかにだが。いがに厚みがあって、足で踏み分けると、すっと割れるようなのがいい栗のようだ。うつむいて地面の上の栗のいがばかり追っているので、気がつくと、自分がどこにいるのかわからなくなっている。たのしくてたのしくて、仕方がない。もとより、同じことをくり返すような作業が好きなのだ。好きな上に、栗がかごに入り、それがだんだんふえてゆく。
 正午を過ぎたので、栗を拾い拾い、賢さんの家へともどる。

 一恵さんと、一恵さんのお母さんの栗ご飯、手打ちうどん、モロヘイヤのごま和え、春菊のおひたし、きのこの炊き合わせ、それにおはぎをごちそうになる。そういえばお彼岸だった。どれも、おいしい。わたしが自分の本のなかに、ときどき料理のはなしを書くのを知っている一恵さんは、「食べていただくのが、ちょっと怖かった」と云うけれど、それはわたしが食べたりつくったりが好きなだけでたいして腕が立つわけではないことを知らないからだ。腕はないが、このようなもてなしのこころはわかるつもり。

 ご飯のあと、わたしたちが拾った栗を長男の圭介さんと、絢ちゃんが選別してくれる。圭介さんはこの春から大学の職員になっているが、就職のとき、履歴書に特技、栗の選別、と書いたそうだ。何のことだかわからない試験官に、栗の選別について一から語ったという。
 庭先の、作業小屋の台の上に大判のタオルをひろげ、そこに栗をあける。タオルで栗を拭きながら、いいもの、B級(B級と云っても、栗ご飯などにはなる)、腐ったり虫食いで食べられないものの3つに分けてゆく。圭介さんの選別がいちばんきびしく、厳密であることから、頼りにされている。
 眺めているわたしの目から、それがどうして食べられないもののほうにゆくのか、わからないというような具合だ。選別の作業を手伝っているとき、絢ちゃんのつぶやきを聞いたのだった。
「栗があるのは、うれしいです」というつぶやき。「栗があるのは、うれしいです。栗を食べてもらうことで、つながりがつくれるのが、いちばんうれしいかな」と。
 昨日も、大学から帰ってから(絢ちゃんは片道2時間半かけて大学に通っている)、ひとりで、栗拾いをしたそうだ。こちらが聞いて驚くようなことを、こともなげにしてしまい、こともなげに語る。生きる力ということばが浮かぶ。しかも、自然な生きる力。

 集落のなかをひとまわり散歩する。
 黄金色に実って頭(こうべ)をたれている稲が、刈られる日を待っている。ごま、小豆、枝豆の畑。空には、うろこ雲がひろがっている。地平線のあたりまで。ふと足もとを見ると、茶色に赤い線の入った尺取り虫が1匹、となりでせっせと尺を計っている。
 きょう、この尺取り虫と自分とのあいだが縮まったような気がした。

Photo
栗拾う。

Photo_2

足でこうして、いがを割ります。


Photo_3
栗の選別。
ひとつひとつ、です。


Photo_4
その日、栗を拾っていたら、
一恵さんが麦茶の入ったポットを持ってきてくれました。
それと、それぞれに紙コップを。

二女とわたしはこれを持ち帰って、
机に飾っています。
なんていいんでしょうと、思って。
夫の紙コップには、
「ほんとうはビールがいいと思うのですけれど」
と書いてあったとか。

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2011年9月20日 (火)

自分が知っている、自分

 「そやな。それに、あんたって、自分が思ってるんとは全然違うしな」
 田村さんはそう言いながら、けたけた笑った。
 「どういう意味ですか?」
 「あんた、自分のこと繊細やとか、気が弱いとか言うとるけど、えらい率直やし、適当にわがままやし、ほんま気楽な人やで」
 「何ですか、それ」
 私は顔をしかめた。
 「ほめてるんやで。あんたみたいな人は、長生きするわ」
 そうなのだろうか。自分ではそんなことわからない。だけど、確かに今は長生きできそうな気がする。もっともっと生きていけそうな気がする。 
 ここで過ごしたのはたった一ヶ月足らずの時間だけど、その間に自分の中の何かが溶けて、違う何かが息づいたように感じる。   映画「天国はまだ遠く」より(※)
 

 書斎に夫が入ってきて、真っ黒い本をくっとつき出すようにする。「これ。できました」と云う。受けとった本のカヴァには、『ミニシアター巡礼』と書いてある。夫がこの数年、旅しながら書きためたミニシアター探訪記が、とうとうできたということらしかった。
「おめでとう。ほんとうによかった。よかった」
 さいごの「よかった」は、自分に。
 本を書くのが本業であるわたしから見て、こんなに時間をかけて大丈夫なのかとはらはらさせられ通しの数年だった。大月書店の西浩孝さんという編集者は、とても若いが優秀で、そしてそして並外れて我慢強いと思う。ありがとう、西さん。わたしは脇から眺めていただけだったが、はらはらしたから「よかったね」と自分にも云うのである。
 この本の帯に、大きな字で「人間には“あの暗闇”が必要なんだよ」とある。わわっ、と声が洩れる。“あの暗闇”とは、映画館の(この本では、ミニシアターの)闇のことだが、“闇なし自室上映のひとり観客”をつづけている(1年に100本観る)わたしが、わわっとなるのも無理はない。おもに“あの暗闇”のなかで観てもらう映像をつくるのが本業の夫に対してうしろめたさを抱きながら、きょうも午前中「劔岳 点の記」を観たところだ。

“闇なし自室上映のひとり観客”のいいのは、気に入った作品を何度も何度もくり返し観ることができるところだ。先に劇中の台詞を引用させてもらった「しあわせのかおり」(向き合うもの)も、DVDを購入して、何度も何度も観た。DVDを観るのは、なんと仕事ちゅうである。たしか、「原稿を書くとき、たいてい右方で映画を上映している。読むとき音は困るけれど、書く(描く)ときには、あったほうがいい」と書いたと思う。あれは、わたしにはちょっとした告白だった。
 告白から数日後、テレビをつけたら、ミュージシャンでアーティストの槇原敬之さんが話をしていた。槙原さんは鳥のようなヘアスタイルをしていて、鳥好きのわたしは、うれしくなる。頭のてっぺんのほうをしゅっと立てているヘアスタイルで、槙原さん本人は、べつに鳥などイメージしていないだろうが。よく似合っている。そういうきっかけで観はじめたのだったが、お話がまたおもしろい。そうして……。
 音楽(歌詞かもしれない)をつくっているとき、テレビとかDVDをかけているという話になる。驚く。聞き手のアナウンサーも、「お仕事の妨げにはならないのですか?」と訊いている。「いえ、なんだか、このへんでひとやものが動いていたり、音が鳴っていたりするのがいいんですね」と槙原さん。わたしは、鳥につづいてすっかりうれしくなった。自分が告白したことを、わるくないんじゃない? 僕もそうです、と云ってもらいでもしたかのような気持ちだ。

「天国はまだ遠く」も好きでたまらない映画だ(原作は「瀬尾まいこ」)。DVDがすり減るのではないかと思うほど、観ている。溌剌(はつらつ)としたひとが観ても、元気を失いかけたひとが観ても、等しく「いいなあ」と思えるはずだけれど、元気を失いかけたひとにより効果がある映画である。
 主演の「徳井義実」と「加藤ローサ」がいい。「加藤ローサ」という俳優がいいというのは知っていたが、「徳井義実」がこれほどの存在感をもっているとは。彼は、「チュートリアル」で「福田充徳」とコンビを組むお笑い芸人である。表向きを超えたひとの存在の奥深さだなあ、と感心しないではいられない。
「加藤ローサ」演じる女性が死に場所をもとめて、山間(やまあい)の集落にやってきたところからものがたりは、はじまる。胸に迫るのは、人格に問題をもっているわけでもない、かわいらしい若い女(ひと)が、心身ともに疲れきってしまい、そんな状態から一刻も早く解放されたいと思いこんでしまうところ。ひとは、たいしたことではなさそうなことに悩んで、「困難」という名の坂道を「深刻」という名の谷底に向かってころがり落ちてゆくものなのだ、とあらためておしえられた。
 けれどまた、何かの拍子にすっくと立ち上がって、べつの方向へと歩きだすことができるのも、ひとというものなのだな。

 引用したふたりのやりとりが、こころに染みる。
 ああ、自分が知っている、自分というのも大事だが、自分が知らない、自分というのも在るのだという認識も大事だなあと思う。その認識の上であらゆる人間関係が深まり、それはまた、ひとに対して何ができるかということの道しるべにもなる。

※ 『天国はまだ遠く』(瀬尾まいこ/新潮社)がある。掲出のくだりは、ここから引用しました。

Photo
「天国はまだ遠く」には、
「いいなあ……」と思えるものがたくさん出てきます。
そのなかに、讃美歌があります。
讃美歌をうたう、讃美歌を口ずさむ……。
いいなあ、素敵だなあと思います。

朝の礼拝から1日がはじまる、という学校に14年間も
通ったわたしも、讃美歌をとても好きです。
わたしの讃美歌には、母が当時凝っていた革細工で
つくってくれたカヴァがかかっています。

Photo_2
若いころ、初めてカラオケに誘われて行ったとき、
讃美歌がうたえたらいいなあ、と思ったものです。

  
 

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2011年9月13日 (火)

たたむ

 タオルケットというのは、すごい。
 タオルの超大型というのだけでもすごいが、掛け布団よりも自由で。タオルケットは、ときに邪魔にされることがあろうとも、ともかく安心をくれる。端をつかんでいるだけで。お腹のあたりにまるまっているだけで。邪魔にされることなんか、何でもないです、というような健気さがある。
 夏のはじめ、そろそろ羽根布団からタオルケットに換えようかというときは、思わずときめく。うちは、羽根布団とタオルケットのあいだの掛けものを持たないから、ときめきの度合いもふくらむ。
 ときめいて、「そろそろタオルケットに……」と云いかけるたび、2、3回は「まだ早い」と決めつけられる。とくに3人の娘たちに、だ。「お母さんは、いつもちょっと早すぎるからね」と云うのである。「結局、寒くてぶるぶる震えて、タオルケットにくるまるのでも足りなくて、ベッドカヴァにも助けてもらうことになって……」
 ——はいはい、そうですか。
 けれど、くるまると云えば、夏のあいだにだって1枚のタオルケットにくるまる寝姿を何度か見ることになる。近年、熱帯夜の日数がふえたそうだが、熱帯夜ばかりがつづくわけではなく、たまには涼しい夜はある。涼しい夜につづく明け方には、くっと気温が下がる。そんなときには、朝、3体のミイラが見られる。頭からすっぽりタオルケットにくるまる子どもたちの寝姿だ。これが見たくて、子どもたちが寝ている3階にそろっと駆けあがることがある。
 ミイラは、無条件に愛らしい。
 ミイラのままでいるという日があってもいいように思うけれど、ミイラはたちまち起きだしてきて、それぞれ忙しそうな様子をして、文句を云ったりする。「まったく、どうしてこんなに暑いんだろう」なんかと。ミイラの愛らしさは、いったいどこへいってしまうのだろう。おそらくタオルケットのほうにくっついているのだろう。

 この夏のことである。
 目覚めていちばん、自分が使ったタオルケットをたたむところからはじめることを思いついた。目覚めたら起きてしまおうと考えているわたしは、決心がにぶらぬうちにとばかりに、眠気を払ってびゅんと台所へ駆けだす。寝床をかえりみることもせずに、びゅんと。
 びゅん、はいいのだが、わたしがたたまずにおくタオルケットはといえば、たいてい夫が布団を上げるときにたたんでくれる(子どもたちはそれぞれベッドだが、夫とわたしは布団を敷いている)。そのことで文句を云われたこともないし、してもらって恐縮するというほど慎ましくないわたしだ。けれど、ある日ふと、タオルケットは自分でたたもうなあと思った。びゅん、は、そのつぎのことにしよう、と。
 ふと、わたしは何を考えたか。
 それは、起き上がってこの場を去ったわたしは、ふたたびここへもどることはないかもしれないという考えだった。あとでしようという「あとで」がくるとはかぎらない、とわたしにおしえたのは、ことしの大地震かもしれない。
 ふたたびもどることはないかもしれない、などと書けば、いかにも儚(はかな)い。そしてわたしは、たしかに儚さも感じているのだけれど、それだけではなく、せめてそこにあるたためるものはたたみながら、つぎにすすみたいと考えているのだ。

 タオルケットは大きいから、たたもうとすると、立ち上がって両手をいっぱいにひろげないといけない。端と端を合わせて、もひとつ端と端を合わせて、たたむ。何分もかかるわけではないが、あっという間というわけではなく、たたみながらちょっとしたことを考える。無事に起きられたありがたさとか。今朝のみそ汁の実についてとか。ぬか漬けにする野菜の顔ぶれはあれとこれ、とか。
 ——きょうは、英文翻訳の勉強に行く日だな。
 というようなことも思う。
 たたんだタオルケットは、そこに置いてゆく。

 何かをよして、引き払うときにも、「たたむ」という云い方をする。わたしは、すこうし、その「たたむ」にもこころを寄せているのかもしれない。人生のおわりが見えている、という話ではない。そうではないけれど、ここから担担と歩いてゆけばそこへ着くという思いはある。そんなふうに思えるのも、日日まあまあおだやかに暮らせているおかげだ。
 たたみながら、担担と暮らしてゆきたい。

Photo_5
木綿のケット。
わたしの持ちものには、めずらしい柄ものです。
これを選んだときの気持ちは、よくおぼえています。
もう18年くらいも前のことになります。
当時のわたしは、いろいろの心配事を抱えていました。
そんななか、タオルケットをあたらしく買うことになったのです。

「ふみこちゃん、悩みや心配事があるときには、
こんな敷布(シーツ)を使うといいわよ。いい夢が見られる。……
がんばって」
というやさしい声がよみがえりました。
学生時代、心配事をもったわたしに、友人のお母上が
きれいな花畑のような柄のシーツをプレゼントしてくださったのです。
たしか、イギリスのものだったと思います。
夜、花畑のなかで眠るたび、自分のことを応援してくれるひとが
いるんだなという気持ちに包まれました。

ふと、そのときのことを思いだして、
わたしは、こんなタオルケットを選んだらしいのです。

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2011年9月 6日 (火)

なあんだ

 ふと、家のなかを見まわし、あれ、と思う。
「あれ、」のあとで、やっと、自分がすこうしくたびれているのではないか、体調をくずしかけているのではないかということに、気づく。
① 食卓の上に、新聞が出しっぱなしになっている。
② 台所に、空のガラスポットが置いてある。
③ 居間の壁に洗濯用のタオルハンガーが立てかけてある。
④ テレビのリモコンが床に投げ出してある。

 これらをそれぞれの居場所におさめるのに、たいした苦労はない。
① 1日のおわりの新聞。食卓から10歩先にあるわたしの部屋に片づける。
② ガラスポット。ここに半分ほど湯を注ぎ、茶葉の袋を入れて10分ほどおく。
それを冷蔵庫へ。
③ タオルハンガー。わたしの部屋のワードローブ内のS字フックに吊るす。
④ テレビのリモコン。テレビ横の窓枠(大陸棚のようになっている)に置く。

 こういうことをできずに「あれ、」と思うときは、要注意だ。こうして不調に気づいてしまうと、突如大げさになる。もう二度と、不調でない自分にはもどらないような心細さが全身を包む。さようなら、元気だったわたし。こんにちは、不調なわたし。どうかよろしくね。
 まったくどういう話の展開を期待しているのだか、わたしはずんずん、不調の坂道をころがり落ちてゆく。まわりにあらわれた、些細な「片づけられなさ」を見てやっと気づいたくらいの状態だというのに。

 さて、不調は不調、くたびれは、くたびれなのである。
 が、そんなもの、ときどきまわってくる当番のようなものだと知っている。
 だから、かすかに、不調のつづくことを恐れながらも、ほんとうはそう遠くない日に当番の終わることは知っていて、当番のあいだは最低限のことをしてゆく覚悟をする。
 ①のこと、②のこと、③、④のことなどは、どうということもない。誰かがかわってしてくれることもあるし、そうでなくても、そのくらいのことは、目をつぶれる。不調の日のなかで、いちばん、自分を悲しませ、自信を失わせるもの、焦りのようなものを生じさせるものは、べつにあった。その正体が何であるかに気づいたのは、つい最近のことだった。

 便りをするのが好きだ。
 こちらが元気で、しゃんとしているときには、時間がなかろうと、忙しかろうと、すぐと便りをしてしまう。
 便りと云っても、たいていははがきだ。美術館めぐりのときに集めた絵はがきを選びに選んで使うこともあるけれど、できるだけ、官製はがきに絵を描き、私製絵はがきをつくることにしている。そうするのが好きだからだし、文字の足らなさ、絵のほうの足らなさをお互いに補いあう便りになると考えているからでもある。
 好きらしいことには気がついていたけれど、自分がこれほど便りを書くことが好きだとは思わなかった。それをすることで安心を得ていることも。
 気がついたのは、最近の不調のときに、自分がやけにしょんぼりし、苛立っているので、「仕事のことなら心配ないんじゃないの? 約束のは仕上がっているし、書き下ろしのほうの原稿は少しなら待ってもらえるんじゃないかな。いまは最低限のことをして、からだを休めたほうがいいよ」と、自分に云って聞かせてみた。すると、わたしはこう云うのである。「仕事のことは、あんまり心配していないのよ。なんとか、急ぎのと、ぎりぎりのはやったし。だけどだけど……」
 だけど、だけど……のあとは、「しなければならないのにできずにいること」があるというのに、ちがいなかった。仕事ではなくて、家の仕事でもない「しなければならないのにできずにいること」とは、何か。
 すると、ここ数日、1枚もはがきを書かずにいたことに気がついた。あのひとへのお礼。かのひとへの返信。書きたいと思いながらも、どうしても書けない。それをする気力を失っているのである。

 つぎの日。思いきって、はがき書きからはじめた。
 すると、どうだろう。不調がとっとこ逃げていった。
 ——なあんだ、しなければならないって、アナタ、はがきが書きたかったんじゃないの。


Photo

皆さんにもはがきを書くつもりで、
何か絵を描こうと思ったら……。
迷わず、フラミンゴが浮かびました。
(鳥の好きでない方、ごめんなさい)。

小中学時代、
わたしの通った学校では、
動物園に行って動物のスケッチをする美術の授業が
ありました。
フラミンゴが1本足で立つ様子がめずらしかったのと、
色もきれいなところが気に入って、
いつも、フラミンゴのところへ行って「ひとりで」
スケッチしました。
好きな動物は、ほかにもたくさんありますが、
動物園でのなじみと云えば、何と云ってもフラミンゴです。
ひとりでフラミンゴ舍の前に佇んでいる感じは、
いまもなつかしくて。


Photo_2

こういうものをお目にかけるのは、
気が引けるのですが……。
パレットは、ここ数年、一度も洗ったことがありません。
こんな状態のまま、年中、机の横の棚に置いてあります
(ぱちんと、二つ折りにして)。

はがきの絵は、描きためません。
相手のことを思って、ふと浮かんだものを描きます。
至福のときと、云えるかもしれません。

それにしても汚いパレットですね。
中学のときから使っています。

        *

先月、新刊『まないた手帖』(毎日新聞社)ができました。
すでに、読んでくださっている皆さん、どうもありがとうございます。
この本は、毎日新聞に毎週火曜日連載の「山本さんちの台所」を
収録した2冊めの本です。
どこかでお手にとっていただけましたら……。
よろしくお願い申し上げます。          山本ふみこ

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