グラデーション 〈引用ノート12〉
「その表現じゃ、彼女の心の複雑さを表したことにはならないだろうな。わかりやすくいうとこういうことだ。男を黒い石、女を白い石とするだろ。美月はグレーの石なんだ。どちらの要素も持っている。しかも五十パーセントずつだ。だけどどちらに含めることもできない元々、すべての人間は完全な黒でも白でもない。黒から白に変わるグラデーションの中のどこかだ。彼女はそのちょうど真ん中ということになる」 『片想い』(東野圭吾/文春文庫)
長女が、「はいこれ」と云って、ただ、それだけ云ってわたしの机の上に置いていった本だ。(はいこれって……)と思ったし、見れば「片想い」とあるからふと、なつかしいこころにもなった。
それに、「東野圭吾」。人気作家であるのに、一度も読んだことがない(原作の同名ドラマ「流星の絆」は、見たな)。
けれど、こういうのを、わたしは出合いだと思っている。降られるほうの出合い。降られるのでないほうの出合いは、自分がもとめてもたらされるもの。
不意に降ってきたので、一瞬もたもたっとしたけれど、だんだん降られたときのかまえになってゆく。降られたときのかまえとは、降りはじめた雨のなかに踏みだす感じだ。傘はないが濡れたっていい、というような。靴を脱いで、雨に濡れた道をゆきたい、というような(できれば、じゃぶじゃぶ)。つまり、ある意味、覚悟をもって踏みだすわけだ。
読みはじめる前に、本の袖(カヴァの折り返し)を見て、驚く。「著者紹介/東野圭吾(ひがしの・けいご)1958年生まれ」とあったからである。(同い年じゃん)と。同い年なのが、どう驚きなのかはわからないけれど、わたしは、いちいち小さく驚きながらゆく癖をもっている。驚き癖(おどろきぐせ)とでも云ったらいいのだろうか。
ただし、40歳を過ぎたあたりからは、同じ驚くのでも、ひそっと驚こうと気をつけている。
ひとが、とくにわたしより年若いひとが、何かを打ち明けてくれるようなとき、こちらがあんまり驚くと、相手に打ち明けなければよかったという気持ちにさせてしまうことがあるからだ。こちらは、驚いても、声はおろか顔にも驚きを出さず、「ふーん」というふうに受けこたえをするのがいいように思える、きょうこのごろ。「ふーん」と云うのか、「そうなの」と受けるのか、それは何でもいいけれど、「わかる」、「わかるような気がする」というニュアンスを含ませるのがいいように思える、きょうこのごろ。
そのニュアンスを醸そうとすることで、こちらにも、わかろうとする方向性が生じるから、不思議だ。
さて、『片想い』のはなし。
降られて、読んで、気がつくとすっかり浸りこんでいた。波が寄せては返すように、そうだったのか、そうだったのか、そうだったのか、そう……と、わたしの脳みそのなかを理解の波が行ったり来たりしている。
子どものころわたしは、人間には、男性と女性の2種類があると思っていた。大人になったばかりのころは、男と女って、別の「属」だか「種」にちがいないと思った。その後やっとのことで、人間、2種類じゃなさそうだぞとわかり、男性のように見えていてもじつは女性だという存在や、女性のように見えていてもじつは男性だという存在があることを胸におさめ直した。以後、あらゆる性(とくに少数派の)に偏見をもたないわたしになってきたつもりでいたのである。
ところが。『片想い』を読んで、男女の区別がそも、ある線できっぱり分かれているというわけでないことに気がつかされてしまった。ひとりの人間のなかにも、男性と女性が棲んでいる。
女ということになっているわたしのなかにも、男性の要素が存在している。……そう思って考えると、ときどき、自分をつくる性の要素が偏りを見せていたことに思い当たる。
冒頭に引用した「完全な黒でも白でもない。黒から白に変わるグラデーション」というくだりが慕わしく、午睡に落ちてゆくときのような安心感に包まれた。そうだったのか、そうだったのか、そうだったのか、そう……と。
グラデーションという思想に切りこまれて、わたしは困惑している。ああ、この世はそんなに単純じゃあないのだわ、と思っている。わたしのなかの「こっち側」と「あっち側」が双方片想いし合って、あっちは(こっちは)、こっちを(あっちを)わかってくれないとじれている。
それでも、グラデーションという在り方に、なぜだか救われた、とも思っていて、どうなっているのかしらわたしは……とあきれる。
ここまできて、どうしても書いておきたいことが出てきた。
グラデーションを生きているわたしたちには、しかし、グラデーションであってはいけない立場がある、ということ。それは、グラデーションを生きるひととしての存在を超えて、この世界を未来につなげる責任において。
自然のサイクルを回復し(これ以上、自然を壊さないというところからはじめて)、未来につなげてゆこうとする生き方をする立場だ。
昨年の12月にいただいた、ポインセチアです。
名は、紅子(べにこ)。
1年を通じて、苞(ほう/紅かったのは7月まででした)を
茂らせ、たのしませてくれました。
ところが、冬になっても一向に苞は紅くなりません。
園芸書で、夜間覆いをしてやると紅くなるということも
学びましたが、なんだか、緑のままの紅子もいいなあと思えてきて。
紅くても、緑でも、紅子は紅子だと、思えてきて。
Merry Christmas.
この天使のオーナメント(全長5.5cm)、子どものころからの
気に入りで、ツリーにぶら下げたあとも、いつも近くに行って、
眺めていました。
近年、母に頼んで、実家からもらってきました。
とても古いモノなんだそうです。
静かな、佳いクリスマスをお迎えください。
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コメント
焼海苔の の さん
おたより、うれしく。
「そのまんま 受けとめておく」
ということが第一歩なんだと思えます。ね。
受けとめておくと、ことあるたびに、
チカ、チカ、と何かが触れてくる。
そこで考えたり、わかったり(わからせてもらったり)する
ということだなあ、と。
ありがとうございます、の、さん。
ふ
投稿: | 2011年12月26日 (月) 17時30分
ふみこさん、みなさん、こんにちは
楽しいクリスマスを過ごされましたか?
この週末、娘は寒い中一輪車で走り回っていました。
上手になったのを、どうしても親に見せたかったんですって。
家族がそろって、のんびりとよいクリスマスになりました。
グラデーションのお話、私も自分の中で切り分けないで、
まずは受け止めることが大事なのかな、と思いました。
受け止めるって、なかなか難しいことなのですけど。
投稿: 焼海苔の の | 2011年12月26日 (月) 16時21分
えぞももんがさん
そうなんです、そうなんです。
何があっても、まず「人間」として生き、
ひとのことも「人間」として見る。
そこを守ってゆきたいです。
えぞももんがさんも、佳いクリスマスを。
ふ
投稿: | 2011年12月23日 (金) 10時28分
ももさん
どうもありがとうございます。
そんなふうに云っていただいて。
でも、ことばを思いが追い越してしまうことは
多多あって、そういうのもいいかなあと
思ったりします。
ことばは、ほんとうに愛しいです。
ふんちゃんより
(どうぞ、ふんちゃんと呼んでください)
投稿: | 2011年12月23日 (金) 10時23分
Koujiさん
どこまでもいっても、
理解の終点はないのだということが、
わかりかけたということかなあと思っています。
その上で。
理解したいと希う立場にいることの価値を
感じています。ひたすらに。
もう一度、理解の終点はないという地点に
もどりますが。
それは、むずかしい問題、主題であるという以上に、
「ひとりひとりちがう。そうして、それは……、よきかな」
だから、(理解の)終点がないのだと思えます。
Koujiさんが云われるように。
なんだか、気持ちがさっぱりして、
どうしても、いまのわたしの地点を書きたかったのでした。
勇気ある……と云っていただいて、
ものすごくうれしかったです。
ふ
投稿: | 2011年12月23日 (金) 10時05分
ふみこ様 おはようございます
子供はある年齢まで 男、女と言う区別でなく
「生きるもの」として 成長しているような気がします。
それが 少しずつ 少しずつ 男・女・・・そして
グラデーションという部分も できてくるのかもしれませんね。
そして 大人になると そういう区別なく 「人」して
生きていかねばならないことを考えさせられます。
(少し むずかしいこと 言ってしまいました・・・。)
ふみこさん これから クリスマス寒波が来るそうです
暖かくして、 この本当に可愛い天使のオーナメントの
表情のように 穏やかに過ごせますように。
佳いクリスマスを。
投稿: えぞももんが | 2011年12月23日 (金) 06時01分
ふみこさま
今回は…、反省の日々でした…。
前回、「じゅっぷんばたらき」を始めてくれた子どもたちのことを書きました。
あんまりうれしくって、パソコンのキーボードも、ポチポチ勢いよく…。
そしたらね…、「10分ばたらき」って書いてたんです、私。
なんかね、「じゅっぷんばたらき」という書き方と、とってもちがうなぁって。
大事なことばを、ものすごく適当に記してしまったような、
ああ、またズルッと失敗をしたな…と反省しておりました。
ふみこさんのように、ものをお書きになる方は、
一つ一つのお言葉を大事に、大事に、記しているんだよな、きっと。
なのに…、としみじみ…。とほほ…です。
東野圭吾さん…。
インターネットで自分の作品が流出していることに対して、
数名の作家さんが訴えを起こしているとテレビで見ました。
そのうちのお一人でもありました…。
ここで再び、「書く」ことをお仕事でしていらっしゃる人のことを思いました。
こんな一週間。
これからも、大事に、読まなくては。
大事に、私も記さなくては…と思いました。
私は、「書くこと」を仕事にはしていないけれど、姿勢を見習いたいな…という気持ちで…。
あ~、ごめんなさい。
それが言いたくって過ごしてきました。
なんていうか、大事なことでした…。本当に…。
言葉で記すこと。
ここで学んでいるなぁと、前にも書いていた気がしますが、再び…。
うんとね、こんなときになんですが、
「ふんちゃん」って読んでもいいですか?
ふみこさんの文章の中に出てくる小さなお友だちが「ふんちゃん」って呼ぶの、
いいなぁと思っていて、いつもそんな風に呼んでみたいなぁ、小さな友だちのように…、と図々しく思っていました。
「ふみこさん」って書くと、ちょっぴり「エラソー」感が感じられて、違和感が…。
何だか、今回は、関係のない話を書いてしまいました。
でも、書かなくては…と思って書きました。
またお邪魔させてください。
みなさま、佳いクリスマスを…。
投稿: もも | 2011年12月22日 (木) 22時18分
ふみこさま、みなさま、こんにちは。
とてもデリケートというか、むつかしい、という言い方も適切ではありませんね。
…そう、なかなかひとが触れたがらないことに、触れられましたね。
おもしろおかしく取り沙汰したり、けばけばしく装わせてセンセーショナルに語ったりはされますが。
その態度からもわかるとおり、そういうものはたいてい、ではなく明らかに間違った解釈のものばかりです。間違いもなにも、理解しようとせずに披露しようとしている態度からして間違いですしね。
ただ、ぼくはデリケートな問題でもむつかしい問題でもないとおもっています。自分なりに勉強してきて、一般のひと(セクシュアルアイデンティティがマイノリティ―と呼ばれるひともふくめ)よりは理解できているとはおもいますが、やっぱりその成り立ちなどわかりません。
でも、完全に理解することもない。とは結論づけています。
すごく簡単なことで「みんなちがって、みんないい」なんです。違って当たり前なんですよね。
そこに『別』をつけないことが大事なのではないでしょうか。
みんなグレーです。
ひととしての在り方で、白くあろうというのは大切ですね。
白くあろうとすることは、グレーな自分やひとを認識できてこそですね。
黒やグレーを認め受け入れる姿勢が、白へむかうことなのではないか、とおもいました。
勇気ある(?)一文、ありがとうございます。
投稿: Kouji | 2011年12月22日 (木) 16時02分
ぞみさん
このあいだ、出先で、
白い(正確にはクリーム色)のポインセチアに
合いました。
鉢の前で、
「うちの紅子も、あなたたちくらいの色になるといいなあ。
ここから紅くなるのは無理でも……」
とぶつぶつ。
「あのおばちゃん、ポインセチアと話してるよ」
と、小学生らしき女の子ふたりにささやかれました。
ふ
投稿: | 2011年12月22日 (木) 11時00分
ふみこさん、みなさん、こんばんは。
もうすぐクリスマスですね。
準備は整いましたか?
そうだったのか、そうだったのか・・・
人間って、黒から白に変わる
グラデーションのどこか。
白黒はっきりつけなければならない時。
白黒はっきりつけられない時。
白寄りだったり、黒寄りだったり・・・
綺麗なグラデーションで生きたいですね。
紅子ちゃん。
ふみこさんの命名、好きです。
我が家にも少しづつ取り入れてますよ。
植物に名前をつけると、本当に
「家族」だって実感沸きますね。
投稿: ぞみ | 2011年12月21日 (水) 20時44分
ゆるりんりんさん
よし、出かけよう!
冒険へと。
ふ
投稿: | 2011年12月20日 (火) 17時38分
みぃさん
わかりました。
『手紙』、読みます。
うれしいな。
それから、ほんとうにヘルペスは
危険信号。
「風邪のはな」ね。
気をつけます、蕾のうちに。
どうもありがとうございます。
ふ
投稿: | 2011年12月20日 (火) 17時37分
寧楽さん
とても似ているお互いだと思っていますが
(寧楽さんとわたし)、
きょう、ひとつ、ちがいを発見。
わたしは、もともとついているリボン、レース、飾りを、
むしりとってしまう質(たち)なんです。
子どものも自分のも、
既製服についている飾りをはずすことが多いです。
これ、グラデーションの成せることかもしれないです。
なんだか、また、自分を発見したような。
どうもありがとうございます。
ふふふ。
ふ
投稿: | 2011年12月20日 (火) 17時35分
どりすさん
お菓子のブーツ。
いいですね。
ことし、自分でつくってみようかなあ。
AKBのブーツってのも、素敵だけれど。
ふ
投稿: | 2011年12月20日 (火) 17時30分
マドレーヌさん
それそれ。
子どものころから好きだった、ということが、
輝きますね。
佳いクリスマスを。
静かな、クリスマスを。
ふ
投稿: | 2011年12月20日 (火) 17時27分
しょうさん
うれしいおたより。
どうもありがとうございます。
まだまだ何も知らないわ、ということを、
恥じないわたしたちでいましょう。ね。
そのことは、ほんとうに、輝く可能性だと
思えます。
しょうさん、
お疲れなんだと思います。
わたしから、ひとこと。
ことしも、よくがんばりました。
素敵。
ふ
投稿: | 2011年12月20日 (火) 17時26分
ふみこ様
東野圭吾さんの「手紙」と絵本「サンタのおばさん」を
読んだことがあります。
どちらも大切なことを教えてくれました。
男と女というおおざっぱな分け方に加えて
おじさん、おばさん、少年、少女、
青年に乙女、ジェントゥルマンにレディーズ・・・
全部自分の中にあるような気がします。
目の前にいる人や環境で
現れている自分が変化しているように思います。
ちなみにここへおじゃましている時のわたしは・・・
少年やなあ
ふみこさんと冒険に行きたくなります。
投稿: ゆるりんりん | 2011年12月20日 (火) 16時35分
ふみこさま みなさま
こんにちは。
東野圭吾さん 大好きです。
お時間があるようでしたら、ぜひ 『手紙』も読まれてみて下さい。
心がかき乱され それでも最後にはストンと落ち着き
いろいろな感情が湧き出でた事に こころから感謝した本でした。
おススメです。
ところで 先週のコメントでヘルペスのことを書かれておられましたね。
ふみこさん わたしも ”ヘルペスなかま”です。
いま現在 下くちびるの左側に かさぶたになったヘルペスくんが
威張り腐って出来ています。
このヘルペスくん 『風邪の花』とも言うらしいです。
花を咲かせて ”すこしお休みしなさいよ~”と教えてくれるなんて
なんだか心憎いですよね。
では ふみこさま そしてみなさま
すてきなクリスマスを!!
投稿: みぃ | 2011年12月20日 (火) 15時09分
ふみこさま
老若男女、人間愛で包む。
どうぞ穏やかで温かなクリスマスを。
紅子さん、芳醇な緑、立派です。
真っ赤なリボンをつけてさしあげてください。
投稿: 寧楽 | 2011年12月20日 (火) 14時13分
ふみこさま、みなさま、こんにちは。
グラデーションといえば、学生の頃、見た目はがっちりした男性で、
心はたおやかな女性のような友達がいました。
私のようなドンクサイ人を 見ていられないようで、何かにつけて
よく面倒を見てもらいました。
とても手先の器用な人で、クリスマスに、入れ物も中のお菓子も手作りの
ブーツをいただきました。
お菓子のブーツは、子供の頃から、何よりも嬉しいクリスマスのプレゼントでした。
クリスマスになると、必ず思い出します。
ふみこさまの天使のオーナメントを見つめていると、心穏やかになりますね。
あ! 今、今年のサンタさんが、AKBのお菓子ブーツを届けてくれました♪
ふみこさま、みなさま、心あたたかクリスマスをお迎えくださいね。
投稿: どりす | 2011年12月20日 (火) 13時06分
ふみこさん、天使のオーナメント、すてきですね。
わがやのクリスマスツリーにも、私が子どもだったころからツリーのてっぺんに輝いていた銀色の星を飾っています。
毎年、この銀色の星を飾るたびに、クリスマスのあれやこれやが走馬灯です。
ふみこさんも静かな、佳いクリスマスをお迎えくださいね。(^-^)
投稿: マドレーヌ | 2011年12月20日 (火) 10時52分
ふみこさま、みなさま
なんだか今朝はいつもより寒くかんじました。
体調が悪いのかしら・・・気をつけねば。
今回のおはなしの本流からそれてしまいますが、
『わたしは、いちいち小さく驚きながらゆく癖をもっている。
驚き癖(おどろきぐせ)とでも云ったらいいのだろうか』
というところで、その癖、いいなあと思いました。
私もその気があるのですが、それって物事に対して関心があったり、
発見があったりする、こころが動いているような感覚だと思うから。
驚かなくなっているときは、心がちょっと鈍くなっているような。。。
わたしもどんどんいろんなことに驚いて「いやあ、まだまだ何もしらないわ、あたし」と、思っていたいです。驚き癖を磨こうと思います。
今年も残りわずかですね。ずっと師走の波にのみ込まれてわたわたしていましたが、今日は意識して落ちついて仕事をしようと思っています。
天使のオーナメント、とても素敵ですね!メリークリスマス!
投稿: しょう | 2011年12月20日 (火) 10時47分