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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
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2011年12月

2011年12月27日 (火)

空き地

 目覚めるなり、頭のなかにきょう1日の予定が整列する。きょうは、やけにぞろぞろならんでいる。1年のうち、昼間がもっとも短い冬至だというのに。
 ぞろぞろをひとりひとり見て、ならび順をたしかめるというやり方もあると思うが、なんだか、それはいいや、と思った。(きょうはぞろぞろだなあ)とだけ思って、飛び起きることにする。

 食卓の上に、「きょうはお弁当いりません。あ」の札が置いてあった。あ、というのは長女のしるしである。
 毎日たいてい弁当を必要とするひとは、弁当を必要としない日、「きょうはお弁当いりません」を当日の朝わたしが台所に出るまでに食卓へ出しておき、たまに弁当を必要とするひとは、前の晩までに(わたしがふとんに入る前までに)「明日はお弁当たのみます」と予約するのが約束だ。
 さて、きょう、こしらえるはずだった長女の弁当がいらなくなった。(これで、予定のぞろぞろがひとり消えたなあ)と思う。目の前に、空き地がひろがったような気がする。あとにつづく、ぞろぞろのなかからはがきを書く予定をひっぱりだして、食卓で、とりかかる。弁当づくりの空き地で、はがきを書く。
 三女が朝ごはんを食べている、その横ではがきを書く。
「となりでこんなことしててごめんね。きょう、ぞろぞろなものだから」
「ぞろぞろって?」
 と三女が云う。
「ぞろぞろっていうのはね……」
 と、説明する。
「ふーん。わたしは、終業式終わったら、すぐ帰ってきて、ピアノの練習して、年賀状書いて、それから、友だちと遊ぶ。……ぞろぞろでしょ」
「ぞろぞろだねえ。がんばろうね、お互い」
 と云う。
 大急ぎで台所を片づけて、机に向かう。新聞のコラムのゲラ(校正刷り)を見て(1行削って)、ファクスする。原稿を書き上げ、後日それがゲラになったものを見るというのが、わたしの仕事だ。いつでも原稿を編集者にわたしたときほっとし、すべてが終わったような気になるのだが、ゲラが送られてきて、(そうだった。ゲラがあるんだった)と思う。出版社時代を含めて33年間もこういう仕事をつづけてきたというのに、毎度毎度、(そうだった。ゲラがあるんだった)と思うというのなんかは、進歩がないにもほどがある。けれど原稿を書き終えたときと、ゲラを見るときとでは、つかう神経も、向ける気持ちも、そうとう異なるともいえる。原稿のときはまだ、自分自身に属する部分が大きいが、ゲラとなると、ずいぶん自分とのあいだに距離ができている。そういうわけなので、(そうだった。ゲラがあるんだった)のときには、相手に対してどう挨拶したものか迷うこころが芽生えている。「ど、どうも」というふうに。
 無事ゲラをファクスして、こんどは約束の2本の原稿にとりかかる。
 きょうは午後、ことしさいごの英文翻訳塾の授業がある。うしろに出かける予定のあるときは、机に向かう気持ちが散漫になりがちな上に、きょうは11時半までに書き上がったら、ヒフ科に寄って唇にできたヘルペスの薬を出してもらおうという企てをもってしまった。時計を睨みながら、ああでもない、こうでもないと書いてゆくうち、とてもではないが、無理なことがわかってくる。(ヒフ科はあきらめよう)。
 どうにかこうにか書き上げて、パソコンでびゅんと送り、急いで出かける仕度をする。仕度をしながら、翻訳の課題を印字する。印字したものを読み返し、(こりゃまた、何のこったろうか)と、われながらうまくない箇所をみつけてしまったが、(高橋茅香子せんせい、ごめんなさい)とこころで詫びて、うまくない箇所には目をつぶる。
 三鷹駅に向かって歩くうち、だんだん自分が変化してゆく。目的の新宿駅では、もうおおかた学生になっている。

 教室で、きょう持ってきた課題を教卓に置き、そこに重ねてある前回提出した自分の課題(レイ・ブラッドベリの本のまえがきだ)をとって、席につく。青ペンでせんせいの添削が、入っている。せんせい、ありがとうございます。せんせい、ごめんなさい。ありがとうございます、ごめんなさい、それが入り混ざった気持ち。
 受けとった課題のしまい、欄外に、何か書いてある。「Season’s greetings!  Chikako Takahashi」と。それと、とてもうつくしい、小さなロウソクのシールがぽっと、貼ってある。もうずいぶん長いこと、茅香子せんせいを追いかけてきたけれど、せんせいとの距離は一向に縮まらない。縮まらないばかりか、せんせいの背中は遠くなる一方のようだ。でも……、こういうことは、つまり書類の隅っこに小さくクリスマスのメッセージを記したり、ちょんとシールを貼りつけたりするようなことは、真似できる。そう思うだけで、うれしい。
 授業のあと、学友たちとてくてく帰る。
 帰り道が一緒の、峯岸文子さんと笠井久子さんと電車に乗りこむと、いつもは最寄り駅の国分寺まで行く久子さんが、「きょうは、吉祥寺駅で降りて、毛糸を買うの」と云う。電子辞書を入れる袋を編むのだそうだ。三鷹組の文子さんとつきあわせてもらうことにする。毛糸売り場に行くのなんか、何年ぶりだろう。果てしないように見える毛糸売り場の棚から、久子さんは、「これとこれ」と云って、まるで前もって決めていたものを受けとるような素早さで、毛糸を2玉選んでしまった。どちらも紫色が入った、白茶系のと赤系のと、混ざり毛糸。
 買った毛糸を入れた袋をそっと叩きながら、「こういう色たちがそばにあるのがうれしいの」と久子さんがつぶやいた。わたしは、(そういう色たちをよろこぶ久子さんを眺めることが、うれしいの)と思う。うれしい、というより、刺激される。
 久子さんと別れて、帰る途中、それぞれ家に電話した文子さんとわたしが、同じように「ほうれんそうを茹でておいてね」とたのんだのが愉快だった。夫たちが、同じように(すこしあわてて)ほうれんそうを茹でているところを、ふたりで想像する。
 帰るなり冬至のかぼちゃを煮ようと腕まくりをするが、夫がかぼちゃとねぎの味噌汁をつくってくれていた。ご飯。かぼちゃとねぎの味噌汁。しゅうまい(きゃべつといっしょに蒸す)。ほうれんそうのおひたし、あさりの佃煮、の晩ごはん。

 予定ぞろぞろのきょうだったけれど、ところどころに空き地のようなものがあった。予定がひとつなくなってできた空き地、予定をひとつあきらめたことでできた空き地、寄り道によってできた空き地。そのほか、シールや、毛糸や、ほうれんそうやかぼちゃや。空き地というのは、ゆとりである。与えられるのもあれば、自分でつくり出すのも、ある。
 ところで。空き地で何をするか。  
 でんぐり返しがしたい!と思ったりする。
 でんぐり返しをすると、空も雲が近くなるもの。でんぐり返しといっしょに、いろんなものが入れ替わるもの。


Photo

いちご(うちの猫/16歳)は、いつもいつも、
空き地のような時間を悠悠と生きています。
ときどき、みならいたいなあ、と思いながら
その様子を眺めます。

さて、皆さま。
これがことしさいごのブログです。
ことしも、ここへ来てくださって、
お読みくださって、
どうもありがとうございました。

佳い年をお迎えください。
あたらしい年が希望とともに明けますように。
                  山本ふみこ

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2011年12月20日 (火)

グラデーション 〈引用ノート12〉

「その表現じゃ、彼女の心の複雑さを表したことにはならないだろうな。わかりやすくいうとこういうことだ。男を黒い石、女を白い石とするだろ。美月はグレーの石なんだ。どちらの要素も持っている。しかも五十パーセントずつだ。だけどどちらに含めることもできない元々、すべての人間は完全な黒でも白でもない。黒から白に変わるグラデーションの中のどこかだ。彼女はそのちょうど真ん中ということになる」     『片想い』(東野圭吾/文春文庫)

 長女が、「はいこれ」と云って、ただ、それだけ云ってわたしの机の上に置いていった本だ。(はいこれって……)と思ったし、見れば「片想い」とあるからふと、なつかしいこころにもなった。
 それに、「東野圭吾」。人気作家であるのに、一度も読んだことがない(原作の同名ドラマ「流星の絆」は、見たな)。
 けれど、こういうのを、わたしは出合いだと思っている。降られるほうの出合い。降られるのでないほうの出合いは、自分がもとめてもたらされるもの。
 不意に降ってきたので、一瞬もたもたっとしたけれど、だんだん降られたときのかまえになってゆく。降られたときのかまえとは、降りはじめた雨のなかに踏みだす感じだ。傘はないが濡れたっていい、というような。靴を脱いで、雨に濡れた道をゆきたい、というような(できれば、じゃぶじゃぶ)。つまり、ある意味、覚悟をもって踏みだすわけだ。
 読みはじめる前に、本の袖(カヴァの折り返し)を見て、驚く。「著者紹介/東野圭吾(ひがしの・けいご)1958年生まれ」とあったからである。(同い年じゃん)と。同い年なのが、どう驚きなのかはわからないけれど、わたしは、いちいち小さく驚きながらゆく癖をもっている。驚き癖(おどろきぐせ)とでも云ったらいいのだろうか。
 ただし、40歳を過ぎたあたりからは、同じ驚くのでも、ひそっと驚こうと気をつけている。
 ひとが、とくにわたしより年若いひとが、何かを打ち明けてくれるようなとき、こちらがあんまり驚くと、相手に打ち明けなければよかったという気持ちにさせてしまうことがあるからだ。こちらは、驚いても、声はおろか顔にも驚きを出さず、「ふーん」というふうに受けこたえをするのがいいように思える、きょうこのごろ。「ふーん」と云うのか、「そうなの」と受けるのか、それは何でもいいけれど、「わかる」、「わかるような気がする」というニュアンスを含ませるのがいいように思える、きょうこのごろ。
 そのニュアンスを醸そうとすることで、こちらにも、わかろうとする方向性が生じるから、不思議だ。

 さて、『片想い』のはなし。
 降られて、読んで、気がつくとすっかり浸りこんでいた。波が寄せては返すように、そうだったのか、そうだったのか、そうだったのか、そう……と、わたしの脳みそのなかを理解の波が行ったり来たりしている。
 子どものころわたしは、人間には、男性と女性の2種類があると思っていた。大人になったばかりのころは、男と女って、別の「属」だか「種」にちがいないと思った。その後やっとのことで、人間、2種類じゃなさそうだぞとわかり、男性のように見えていてもじつは女性だという存在や、女性のように見えていてもじつは男性だという存在があることを胸におさめ直した。以後、あらゆる性(とくに少数派の)に偏見をもたないわたしになってきたつもりでいたのである。
 ところが。『片想い』を読んで、男女の区別がそも、ある線できっぱり分かれているというわけでないことに気がつかされてしまった。ひとりの人間のなかにも、男性と女性が棲んでいる。
 女ということになっているわたしのなかにも、男性の要素が存在している。……そう思って考えると、ときどき、自分をつくる性の要素が偏りを見せていたことに思い当たる。
 冒頭に引用した「完全な黒でも白でもない。黒から白に変わるグラデーション」というくだりが慕わしく、午睡に落ちてゆくときのような安心感に包まれた。そうだったのか、そうだったのか、そうだったのか、そう……と。

 グラデーションという思想に切りこまれて、わたしは困惑している。ああ、この世はそんなに単純じゃあないのだわ、と思っている。わたしのなかの「こっち側」と「あっち側」が双方片想いし合って、あっちは(こっちは)、こっちを(あっちを)わかってくれないとじれている。
 それでも、グラデーションという在り方に、なぜだか救われた、とも思っていて、どうなっているのかしらわたしは……とあきれる。
 ここまできて、どうしても書いておきたいことが出てきた。
 グラデーションを生きているわたしたちには、しかし、グラデーションであってはいけない立場がある、ということ。それは、グラデーションを生きるひととしての存在を超えて、この世界を未来につなげる責任において。
 自然のサイクルを回復し(これ以上、自然を壊さないというところからはじめて)、未来につなげてゆこうとする生き方をする立場だ。

1_2
昨年の12月にいただいた、ポインセチアです。
名は、紅子(べにこ)。
1年を通じて、苞(ほう/紅かったのは7月まででした)を
茂らせ、たのしませてくれました。
ところが、冬になっても一向に苞は紅くなりません。
園芸書で、夜間覆いをしてやると紅くなるということも
学びましたが、なんだか、緑のままの紅子もいいなあと思えてきて。
紅くても、緑でも、紅子は紅子だと、思えてきて。

Photo
Merry Christmas.
この天使のオーナメント(全長5.5cm)、子どものころからの
気に入りで、ツリーにぶら下げたあとも、いつも近くに行って、
眺めていました。
近年、母に頼んで、実家からもらってきました。
とても古いモノなんだそうです。

静かな、佳いクリスマスをお迎えください。

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2011年12月13日 (火)

手のはなし

 手のきれいなひとが好きだ。
 きれいと云っても、つるつるぴかぴかの意味ではない。ええと、なんだろう……。所作のきれいなこと(それはたしかに大事だ)。
 それに、よく働く手であること(それはもっと大事だと思える)。

 手のきれいなのは、文字通りの「きれい」ではない、とたしかにわたしは考えている。
 けれど、のび切った爪を指につけている手や、何年も手入れをしていないくたびれた手は、いくら所作がきれいで、働き者であっても、「きれい」の範疇に加えるわけにはいかない。
 そう発表した上で、おそるおそる白状するけれど、のびた爪にぎょっとしたり、自分の手ががさがさなのに気がついて急いでポケットにつっこんで隠したり。それが、最近のわたしである。
 きれいな手が好きなわたしの手が、きれいでないのは……。わたしが、使い放題使うだけ使って、「ありがとう」も云わず、クリームもすりこんでやらない暴君だからだ。暴君。……よく云った。

 これはいけないと思い、ハンドクリームをつけようとした。友人がプレゼントしてくれた、ものすごく効き目があって、いい香りのする(チェリーブロッサムだった)ハンドクリームのフタをとって、指ですくいとろうとした。
 が、「待てよ」と思う。わたしはじきに台所に入り、料理をする身だ。それなのに、手にこれをすりこんだらどうなるだろう。まず、石けんでごしごし手を洗う。ハンドクリームを洗い流すのはもったいないし、それに、洗ったあと、塗ったものと、その香りが調理に障るのではないだろうか。それは困る。
 だから就寝前にすりこめばいいというわけなのに、つい仕損なう。まことにまことに、感謝知らず(自分の手への)だ。
 そういえば、以前、「柚子のタネを焼酎につけたものを手にすりこめばいいですよ」とか、「わたしは料理に使うオリーブオイルを手に塗っています」とおしえてもらったことがある。そんなありがたい助言を忘れて、ことしもまたもや暴君になっているなんて。がさがさの手で、過ごしているなんて。

 一昨日は台所で働きながらオリーブオイルをすりこみ、昨日はごま油を塗った。なかなかいい具合で、しわしわよれよれがさがさの手が、女っぷりを上げている。……ような気がする。きょうは、一昨日、柚子のタネを小さな空き瓶に入れ、焼酎を注いだもの(※)をすりこもうと思う。

 ありがとう、手よ。

※柚子のタネのハンドオイル、ほんとうはひと月ほどおくと、有効成分が出てくるそうです。でも、そんなことにかまわず、どんどん使っています。タネは洗わず、そのまま小瓶に入れています。

Photo
友人が、プレゼントしてくれたへちまです。
夏のあいだ、グリーンカーテンとしても活躍し、
たくさんの「実」をつけてたのしませてくれたそうです。
わたしは、これで(てのひらに収まる大きさにカットして)
食器を洗うことにしました。

へちまも、
ハンドオイル(柚子のタネ+焼酎、オリーブオイル、ごま油などの)も、
台所を変えてくれています。
……うれしい。

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2011年12月 6日 (火)

魔法

 わたしは、ひとつだけ魔法をつかえる。
 どんなふうな魔法かを記しておかないと、読むひとによっては恐ろしい魔女の仕事を想像するかもしれない。
 ひきはじめの風邪をなおす魔法である。
 30年ほど前のある年の暮れ、わたしは出版社の編集室にいた。ただでさえせわしない雑誌の編集作業に年末進行が加わったてんやわんやのさなか、どこからか風邪をもらってしまった。背中がぞくぞくする。……困った。
 そのときだ。当時机をならべて仕事をしていたKさんが、「どれどれ」と立ち上がった。Kさんとは母娘ほども年齢がちがっていたが、親しい友だち同士でもあった。寒気が襲ってきたのを、わたし自身が気がつくより早く気がついてくれたようだった。
 Kさんはわたしの背中にまわり、右の肩甲骨のあたりをさする。何かをさがすようにしばらくさすっていたが、「いくよ」と云って、親指で背中の一点をぐーっと押した。痛いと云うこともできるし、いい気持ちだと云うこともできる、が、何より効いているという実感がからだ全体にひろがった。Kさんは、云う。「ここは風邪のツボなのよ。この一点がみつかると、指がぐーっと入りこむの。ほら、わたしの指のつけ根まで入ってる。効くよー」
 これが効いたのである。わたしの寒気はたちまち消え去って、これからどっぷり風邪に浸りこもうとしていたからだが、しゃんとした。驚く腕前である。
「魔法みたい」とKさんに云う。
 Kさんは「仕事、仕事。初校の読み合わせしちゃおうか」と云う。

 これが、わたしに魔法が伝授されたときのはなしである。
 以来、どのくらい、あのとき伝授された魔法をつかったことだろう。
 家の者たちにはもちろん、出かけた先でも、たびたびこの魔法をつかった。子どもの通う保育園、美容院、バスのなか(となり合わせた老婦人が「寒気がする」と打ち明けた)、道の上(宅急便配達のおじさんが風邪ひきだった)など、いろいろの場所で魔法使いになったなあ。Kさんが、親指でぐーっと背中を押しながら云ったあたたかみに満ちた合(あい)の手を真似るのを忘れずに。
「効くよー」

 魔法魔法と云っているが、ほんとうは魔法でないことは、承知している。けれど、暮らしにくいところの少なくはないいまの世、そんなことのひとつも云ってみたくなる。そしてそれは、「風邪、お大事に」と声をかけるかわりにすることだから、魔法と云っても許してもらえるような気がして。
 わたしの魔法にかかってくれた人びとは、みんなからだが楽になったと、云ってくれる。「風邪がなおったような気がする」とまで云ってくれるひともある。それほどのことでなかったかもしれなくても、魔法使いとしたらうれしい。互いのあいだに、「風邪、なおしてほしい」という思いと、「ありがとう」という思いが通いあうのがこの魔法のいいところ。
 さて。その魔法、ささやかに伝授させていただこう。
 風邪をひきかけたそのひとの背中にまわり、右の肩甲骨の上部をさぐると、そのツボはみつかる。親指の腹で押して、指がぐーっとなかに入りこんだなら、まさにそれがそのツボである。ここがみつけられたら、魔法は半分かけられたも同じ。あとは気を入れて指を押しこみ、「効くよー」とやさしい声で云うだけでいい。
 ところで。
 この魔法には、おもしろい一面がある。
 それは、自分にはかけられない、というものだ。


Photo

3年休んで、ことし1月、味噌づくりを
復活させました。
わたし自身が仕込んだのにちがいないのですが、
こうして完成してみると、不思議で不思議で、
魔法のようだと思うのです。
わたしたちの暮らしのなかには、
魔法のようなことがいっぱいありますね。

        *

「家の仕事に憩いあり」という名の小さな読者の会を、
11月30日(水)東京都豊島区の自由学園・明日館にて開きました。
36人の皆さんと、たのしいひとときをもちました。
(抽選のため、参加していただけなかったかたができたこと、お許しく
ださい)。
親しい気持ちになって、わたしのはなしは雑談に終始しましたけれど、
共通の問題や、暮らしのなかにあるおもしろみを確かめ合うことが
できたと思っています。どうもありがとうございました。

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