空き地
目覚めるなり、頭のなかにきょう1日の予定が整列する。きょうは、やけにぞろぞろならんでいる。1年のうち、昼間がもっとも短い冬至だというのに。
ぞろぞろをひとりひとり見て、ならび順をたしかめるというやり方もあると思うが、なんだか、それはいいや、と思った。(きょうはぞろぞろだなあ)とだけ思って、飛び起きることにする。
食卓の上に、「きょうはお弁当いりません。あ」の札が置いてあった。あ、というのは長女のしるしである。
毎日たいてい弁当を必要とするひとは、弁当を必要としない日、「きょうはお弁当いりません」を当日の朝わたしが台所に出るまでに食卓へ出しておき、たまに弁当を必要とするひとは、前の晩までに(わたしがふとんに入る前までに)「明日はお弁当たのみます」と予約するのが約束だ。
さて、きょう、こしらえるはずだった長女の弁当がいらなくなった。(これで、予定のぞろぞろがひとり消えたなあ)と思う。目の前に、空き地がひろがったような気がする。あとにつづく、ぞろぞろのなかからはがきを書く予定をひっぱりだして、食卓で、とりかかる。弁当づくりの空き地で、はがきを書く。
三女が朝ごはんを食べている、その横ではがきを書く。
「となりでこんなことしててごめんね。きょう、ぞろぞろなものだから」
「ぞろぞろって?」
と三女が云う。
「ぞろぞろっていうのはね……」
と、説明する。
「ふーん。わたしは、終業式終わったら、すぐ帰ってきて、ピアノの練習して、年賀状書いて、それから、友だちと遊ぶ。……ぞろぞろでしょ」
「ぞろぞろだねえ。がんばろうね、お互い」
と云う。
大急ぎで台所を片づけて、机に向かう。新聞のコラムのゲラ(校正刷り)を見て(1行削って)、ファクスする。原稿を書き上げ、後日それがゲラになったものを見るというのが、わたしの仕事だ。いつでも原稿を編集者にわたしたときほっとし、すべてが終わったような気になるのだが、ゲラが送られてきて、(そうだった。ゲラがあるんだった)と思う。出版社時代を含めて33年間もこういう仕事をつづけてきたというのに、毎度毎度、(そうだった。ゲラがあるんだった)と思うというのなんかは、進歩がないにもほどがある。けれど原稿を書き終えたときと、ゲラを見るときとでは、つかう神経も、向ける気持ちも、そうとう異なるともいえる。原稿のときはまだ、自分自身に属する部分が大きいが、ゲラとなると、ずいぶん自分とのあいだに距離ができている。そういうわけなので、(そうだった。ゲラがあるんだった)のときには、相手に対してどう挨拶したものか迷うこころが芽生えている。「ど、どうも」というふうに。
無事ゲラをファクスして、こんどは約束の2本の原稿にとりかかる。
きょうは午後、ことしさいごの英文翻訳塾の授業がある。うしろに出かける予定のあるときは、机に向かう気持ちが散漫になりがちな上に、きょうは11時半までに書き上がったら、ヒフ科に寄って唇にできたヘルペスの薬を出してもらおうという企てをもってしまった。時計を睨みながら、ああでもない、こうでもないと書いてゆくうち、とてもではないが、無理なことがわかってくる。(ヒフ科はあきらめよう)。
どうにかこうにか書き上げて、パソコンでびゅんと送り、急いで出かける仕度をする。仕度をしながら、翻訳の課題を印字する。印字したものを読み返し、(こりゃまた、何のこったろうか)と、われながらうまくない箇所をみつけてしまったが、(高橋茅香子せんせい、ごめんなさい)とこころで詫びて、うまくない箇所には目をつぶる。
三鷹駅に向かって歩くうち、だんだん自分が変化してゆく。目的の新宿駅では、もうおおかた学生になっている。
教室で、きょう持ってきた課題を教卓に置き、そこに重ねてある前回提出した自分の課題(レイ・ブラッドベリの本のまえがきだ)をとって、席につく。青ペンでせんせいの添削が、入っている。せんせい、ありがとうございます。せんせい、ごめんなさい。ありがとうございます、ごめんなさい、それが入り混ざった気持ち。
受けとった課題のしまい、欄外に、何か書いてある。「Season’s greetings! Chikako Takahashi」と。それと、とてもうつくしい、小さなロウソクのシールがぽっと、貼ってある。もうずいぶん長いこと、茅香子せんせいを追いかけてきたけれど、せんせいとの距離は一向に縮まらない。縮まらないばかりか、せんせいの背中は遠くなる一方のようだ。でも……、こういうことは、つまり書類の隅っこに小さくクリスマスのメッセージを記したり、ちょんとシールを貼りつけたりするようなことは、真似できる。そう思うだけで、うれしい。
授業のあと、学友たちとてくてく帰る。
帰り道が一緒の、峯岸文子さんと笠井久子さんと電車に乗りこむと、いつもは最寄り駅の国分寺まで行く久子さんが、「きょうは、吉祥寺駅で降りて、毛糸を買うの」と云う。電子辞書を入れる袋を編むのだそうだ。三鷹組の文子さんとつきあわせてもらうことにする。毛糸売り場に行くのなんか、何年ぶりだろう。果てしないように見える毛糸売り場の棚から、久子さんは、「これとこれ」と云って、まるで前もって決めていたものを受けとるような素早さで、毛糸を2玉選んでしまった。どちらも紫色が入った、白茶系のと赤系のと、混ざり毛糸。
買った毛糸を入れた袋をそっと叩きながら、「こういう色たちがそばにあるのがうれしいの」と久子さんがつぶやいた。わたしは、(そういう色たちをよろこぶ久子さんを眺めることが、うれしいの)と思う。うれしい、というより、刺激される。
久子さんと別れて、帰る途中、それぞれ家に電話した文子さんとわたしが、同じように「ほうれんそうを茹でておいてね」とたのんだのが愉快だった。夫たちが、同じように(すこしあわてて)ほうれんそうを茹でているところを、ふたりで想像する。
帰るなり冬至のかぼちゃを煮ようと腕まくりをするが、夫がかぼちゃとねぎの味噌汁をつくってくれていた。ご飯。かぼちゃとねぎの味噌汁。しゅうまい(きゃべつといっしょに蒸す)。ほうれんそうのおひたし、あさりの佃煮、の晩ごはん。
予定ぞろぞろのきょうだったけれど、ところどころに空き地のようなものがあった。予定がひとつなくなってできた空き地、予定をひとつあきらめたことでできた空き地、寄り道によってできた空き地。そのほか、シールや、毛糸や、ほうれんそうやかぼちゃや。空き地というのは、ゆとりである。与えられるのもあれば、自分でつくり出すのも、ある。
ところで。空き地で何をするか。
でんぐり返しがしたい!と思ったりする。
でんぐり返しをすると、空も雲が近くなるもの。でんぐり返しといっしょに、いろんなものが入れ替わるもの。
いちご(うちの猫/16歳)は、いつもいつも、
空き地のような時間を悠悠と生きています。
ときどき、みならいたいなあ、と思いながら
その様子を眺めます。
さて、皆さま。
これがことしさいごのブログです。
ことしも、ここへ来てくださって、
お読みくださって、
どうもありがとうございました。
佳い年をお迎えください。
あたらしい年が希望とともに明けますように。
山本ふみこ
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