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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあい、娘3人、黒猫との、5人と1匹暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。
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生活

2012年4月24日 (火)

台所小景

 台所に興味がある。
 食べものが生まれる場所だから……でもあるけれど、ひとが、ものを考える場所だからでもある。
 そこで働くひとは、手もとを見ながら(そして、たまにふとそこから目を逸らしながら)、考える。その日あったことも考えるし、ずーっと前にあったことも考える。まだ起こらないことについて思いめぐらしたり、起こりっこないようなことを想像したりもする。
 考えがこんがらかると、妙においしくないものができ上がったりして、困惑する。おいしくならなかった理由を、つくった本人は、わかる。
 あのとき浮かんだ妄想が、過分な辛みを加えさせたな、とか。辛い記憶が、混ぜこむべきでない材料を混ぜこませたな、とわかるのである。そうとうにいい線いっていた食べもののさいごのさいごに、あとから「入れなければよかった」と後悔するようなものを投げこんだときなどは、もう、二度といらないことは考えないことにしよう、料理に集中しようと誓う。
 また、いらないことを考えることを知っていながら、ちかっと誓う。

 今朝、わたしは5時に台所で働いていた。
 日曜日の、静かな朝だった。昼過ぎから雨になるとラジオは告げていたけれど、雨になるのは夕刻だろうという気がした。台所の窓から見える空が、そう思わせた。
 日曜日の早い時刻から何をしていたかというと、ソフトテニスの試合に出かける三女の弁当づくりだ。とにかく鶏のから揚げの好きなひとなので、朝の早(はよ)からじゅうっと揚げものをしている。静かな朝の揚げものは、楽器を奏でるように愉快だ。最初に1分半ほど揚げて引き上げる。5分くらいおいて、また1分揚げる。
 映画「南極料理人」(*)を観ていて(大好きな映画である)、「堺雅人」(大好きな俳優である)演ずる南極観測隊員・西村淳(調理担当)が、鶏のから揚げは二度揚げしなくてはいけないと一度ならず云うのを聞いてからの、二度揚げ。二度も揚げたら、油っぽさが増すように思えたのだけれどさにあらず。途中数分置くあいだになかまで火が通るらしく、さいごに1分揚げるときはからりといい色になってくれるというわけだった。

 おむすび3個。
 鶏のから揚げ、レモン添え。
 にら入りの卵焼き。
 茹でたブロッコリとカリフラワー(軸に白味噌を塗る)。
 焼きそら豆。
 にんじんグラッセ(花型)。
 りんごうさぎ。

 今朝も考えた。何を?
 自分が、説明的過ぎるということ。
 世のなか、誤解が前提になっていると思うあまり、あらかじめくどくどと説明してしまう。そうすることによって、経験の味わいが損なわれる。へんてこりんな予告篇でも見せられるようなことになって、実際にその場に立ったひとを興ざめさせてしまうのだ。ひとを興ざめさせたことで、自分も興ざめする。
 あとから、それもずーっとあとから、ああ、あのときの「あれ」はそういうことだったのかもしれないなあと心づくというくらいで、いい。
 そんなことを、りんごの皮をうさぎの耳のようにうすくそぎ切りし、ちょっと持ち上げながら考えていた。

 ——ひととひとのあいだに、ことばはそうたくさん要らないのかもしれないなあ。誤解されたって、かまわないじゃない。いつか、どこかで、それがも解けるもよし。解けないままも、まあまあよし。

*「南極料理人」2009年公開(日本)
 監督・脚本 沖田修一
 原作『面白南極料理人』(西村淳)
 南極観測隊員・西村淳は、南極大陸のドームふじ観測拠点の調理担当。
 越冬する隊員8人分の食事を用意するのが仕事だった。

Photo_2
台所の窓辺の小景です。
三葉とクレソンの、根っこの水栽培。
となりの小さいビーカー(ティーバッグの容器)には、
ドレッシングやたれの残りを入れています。
すぐ使いきってしまえるように。

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2012年4月17日 (火)

宿題をしたくない

 期日が迫っている。
 いつもと毛色の異なる仕事ということもあって、とまどっている。その上それは山のように積まれ……、うんざりしかかっている。そんなことを云うのは(思うのも)不謹慎だと知りながら、どうにもならない。こういうときは、ともかく自分を机の前にひっぱってゆき(ときにはずるずるひきずってゆき)、なんとかその気にさせる。
 ——何にしたって、これをしてしまわなくては、先にすすまないし、気が晴れないでしょう。
 と、説得にかかる。
 ——わかってるってば。やります、やりますよ、すぐにね。

 わかってるってば、ときっぱり云いながら、わたしは自分の目を盗み、書斎から出て居間兼食堂のほうにふらふらとゆく。
 ここで、食器棚のガラスに布の覆いをすることを思いつき、いさんでとりかかる。背の高い食器棚の上段に、以前は茶道具やグラス類を納めていたのだったが、これではいけないと考えるようになった。東日本大震災の直後のことである。割れものである茶道具やグラス類は食器棚の下方にしまい、上段には、ひとりでに扉があいてなかのものが飛びだしても困らないものを納めるようにした。
 そうしてみると、ガラス扉越しに見えるなかのものの様子が、芳(かんば)しくない。茶道具やグラス類のときには陳列窓のようだったのだが……。
 そういえば、そのむかし、祖父母の家の茶箪笥のガラス扉(の内側)に和紙が貼ってあった……。
 ——とりあえず、和紙を貼っておこう。
 と思い、全紙(和紙の、漉いたままの大きさ)を縦半分に切り、四隅に糊をつけて貼った。間にあわせにしたことではあったけれど、わるくない光景だった。何より、こうしようと思いついてはじめた作業が、連なってゆくのがうれしく、作業の選択がまちがっていなかったような心持ちになるのだった。
 和紙を貼りつけてから、1年と少し。そろそろ間にあわせでない状態にしたいものだ。ここ数か月、そんな思いを募らせていた。布をしまっておくひきだしをあけると、誂(あつら)えむきの布がみつかった。
 ——なぜ、この布に気がつかなかったのだろう。
 と思う。
 同じ胸のなかで、横から声がする。
 ——しなければならない仕事があるいま、こんなときに、気がつかなくてもよさそうなものだ。
 と。そんな声は訊かなかったことにして、わたしは、またしても作業の選択がまちがっていないばかりか、応援されているような心持ちになって、つき進む。
 実際にガラス扉に布を当ててみると、明るくてなかなかいい。

 ガラス扉の内側に黄色い布を貼りつけ、少しはなれた場所から眺める。腕組みをして、悦に入っているのである。
 ——模様替えは、なんてたのしい……。
 と、しみじみする。
——しなけらばならない仕事があるいま、こんなときに、これまで幾度ももったことのある感想をしみじみつぶやかなくてもよさそうなものだ。
 またしても、横あいからことばが入る。……やれやれ。
 わたしはしかし、ガラス扉の模様替えにすっかり気をよくして、模様替えをつづけたくなっている。いや、すでに腕が背の低いチェストを持ち上げている。そうして1時間あまり脇目もふらずに立ち働いてみると、居間兼食堂に、あらたなる空間が生まれているではないか。模様替えが、首尾よくいったというわけだった。

 突如思いついたことをひとりで実行にうつしたとなれば、家の者たちの驚く顔が見たくなる。誰か帰ってこないだろうか。そわそわしながら待っている(とうとう書斎へは行かずに)。
 あ、二女が帰ってきて云ったことには——。
「模様替え? さてはお母さん、きょう、宿題をしたくない子どもみたいになったな。そうでしょう」
「……う」

Photo
模様替え、模様替え、と思いながら
(思おうとしながら)していたその作業の動機が
「宿題をしたくない」だということ、うすうす気づいていました。
開きなおるわけではないのですが、
そんな抜き差しならぬ状況をも、
気分をも救ってくれるというわけです、家のしごとは。
しかも、ほんのちょっとした模様替え、かすかな変化が、
たいそう大きな作用をします。ね。

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2012年4月10日 (火)

やってきた

「持って帰ってね、これ」
 と云いながら、友人が卓の下に目を落とした。
 白い花が見えた。紙袋に、白い花束が入っている。
「わたしに?」
 昨夜、スペインのバル(※1)を模した店で、たのしいひとときを過ごしたときのこと。

 深夜、紙袋をさげて家に帰り、なかを見ると、花束だと思ったのは鉢植えだった。
 花には名札がついていて、「フランネルフラワー フェアリーホワイト」とある。
 ——どうして花を……?
 と考える。友人は、……彼女は、いつも、おいしいもの、めずらしい食べものをプレゼントしてくれる。花をくれたのは、はじめてだ。
「いらっしゃい」
 これは、花への挨拶。
 草丈は30cmほどで、葉も花も細かい毛で覆われている。
「はじめまして」
 これも、挨拶のつづき。

 今朝、居間に入ったわたしを白い花が、30cmのからだをそっとゆらして迎えてくれた。風もないのにゆれるはずはないのだけれど、そう見えた。微笑んでいるように。
 名前? 忘れた。なんとかフラワー。ええと、フランネルフラワーだ。
「おはよう」
 大袈裟かもしれないけれど、花がやってきてからかすかな重荷を感じていた。相手は植物で、しかも鉢植えときている。昨夜、布団にくるまりながらも、ずっと花のことを考えていたような気がする。重荷と云っても、気の塞ぐような負担ではなく、この花とうまくやっていいきたいが、という前向きなものだった。なにせ、命ある相手との出合いだもの。
 花に、重荷にとまどうわたしの気持ちを見せたくなかった。それで、昨夜うちにやってきたときの状態のまま(紙袋から出して、包みは解いた)、居間に置き去りにしてしまった。
 けれども。朝になって「おはよう」を云うときには、不安は消えていた。フランネルフラワーの育て方を調べて、安定したふさわしい環境を与えることができそうだという自信も生まれていた。
「おはよう。まず鉢を換えるね」
 とフラに告げてから(名もフラと決めた)、素焼きの9号鉢(※2)と培養土と赤玉土を運びこむ。居間のテラスで植え替えをする。プラスティックの鉢から素焼きの鉢に換えただけで存在感が増す。
 植え替えの作業をしている最中(さなか)、不思議な感覚が湧いてきた。不思議だが、はっきりとした感覚。「起こることにはすべて、わけがある」という……。
 この花がうちにやってきてくれたことにも、わけがある、という気がした。
 わたしのなかに生じたそんな感覚を、フラはおそらくわかっているだろう。生きもののなかで、見えないだけでたしかにそこにあるものをわからないのは、ひとだけだもの。
 か細い存在のフラでも、昨夜薄暗い店のなかで出合ったときからこちらをじっと観察して、わたしがかすかに感じていた重荷も、この家の様子も、わかっていたと思う。そしていまの気持ちも。
「よくやってきてくれたね」

※ 1 バル
軽食屋、喫茶店、はたまたバーでもある……バル。スペインのバルは、彼の地の食文化を物語っていると思えます。
※ 2植木鉢の号数
植木鉢の直径3cmが1号です。というわけで、9号鉢は直径27cm(3×9cm)の植木鉢。


Photo
フランネルフラワー
(セリ科/オーストラリア原産)
葉、茎、花が細かい毛で覆われています。
この手触りがネル(フランネル)に似ていることから
フランネルフラワーという名になったのではないでしょうか。
花は、春先から秋まで咲くようですが、
湿気と霜には要注意とのこと。
まずは夏をうまく越したいものです。

花びらのように見えるのはガクで、
なかの「まんまる」が花ですって。

「起こることにはすべて、わけがある」
ということを思いださせてくれたありがたい花。
大事にしたいと思います。

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2012年4月 3日 (火)

好きなもん

 方言が好きだ。
 ときどき、東北弁、関西弁を真似してみたりもする。厳密に云えば、東北弁、関西弁には、もっとこまかく、地域別の方言があることはわかっている。が、そこが「真似」のかなしさで、そちら方面、そのあたりの……というつかみ方しかできない。
 さきごろ最終回を迎えた、NHK朝の連続テレビ小説「カーネーション」にも、ことば、方言への憧れをかきたてられた。あれは、わたしが認識できる関西方面のことばのなかの岸和田弁だった。
「カーネーション」を観ながら、ああ、こんな話ことばを、すらすら云えるようになれたなら、と考えていた。個性あふれる方言は、それを話す者の思想と行動を自由にするように思えて。
 そんな書き方をすると、まるで自分が方言を持たず共通語を話し、公用語と呼ばれることばをあやつっているかのようだけれど、それはちがう。わたし個人は、おそらく北海道弁のニュアンス混じりの東京弁をはなしているのではないだろうか。ごく幼いころに東京に移り住んだとはいえわたしは道産子であるのだし、北海道縁(父は苫小牧生まれの札幌育ち。母は函館育ち)の両親のもとで育ったからである。ただ、個性には欠ける。「こちらでは、こんなふうに云うんですか」と云われることは一切ない。「おもしろいアクセント!」とおもしろがってもらう機会も、ない。
 特徴があり、発音の抑揚(イントネーション)に個性があらわれる言語というのはたのしいものだなあ、それこそ「お国ことば」だなあ、と思える。

 ところで。
 わたしは、ここで方言、お国ことばについて書こうとしているのではなかった。「好きなもん」の話をしようとしているのだった。
「好きなもん」と題をつけてみて、ああ、これも関西方面の云い方だなあと気がつく。東京弁ならば、「好きなもの」と書くところだ。そんなところから、つい話が脱線した。
「好きなもん」という……題名。
 こんなふうに、はじめから題名を決められることばかりではない。題名なしで書きはじめて途中でつけたり、書き終えたあとで題名を変えざるを得ない事態に追いこまれていたりすることが少なくない。が、きょうは、なぜだか、はじめに、とんと題名が置かれたのだった。
 ときどき開いている小さな読書会の折りのアンケートや、新聞社や出版社を通していただくお手紙に、きょう、お返事をしたい思いで書きはじめている。
 こうしたお手紙に多いのは、「子育てと仕事の両立について」、「時間のつかい方」、「元気の源」という質問だ。それらについては、追追、どのようにこんがらかり、うまくゆかなさとつきあってきたかを書いてお返ししようと思う。けれどきょうは、いただくあらゆる種類のお手紙に、まるで約束のようにあらわれている、ある文言について書きたい。
「毎日をていねいに暮らされている山本さん」というのが、それである。
 わたしのどこらあたりが、ていねいに見えるだろう。それはわからないけれど、ていねいと結びあわせての評価が多いのに驚くばかりだ。

 おたより、どうもありがとうございます。
 お手紙のなかに書いてくださった「ていねい」について、わたしが感じていることを、少し書かせていただいてもかまわないでしょうか。
「ていねい」というのは、注意深く、こころが行き届いていることです。手厚い、礼儀正しい、という意味もあります。
 さて、そうなると、そんな「ていねい」とわたしとのあいだに、いったい関連があるでしょうか。
 なるほど過去どこかに「ていねいに暮らしたい」というようなことを書いたかもしれませんし、「なるべくていねいに」という表現を選んだこともあったかもしれません。が、わたしは、「ていねい」を目標に暮らしたことはないのです。そんなことより(という云い方を、「ていねい」には許してもらわなければなりません)、めざすは「おもしろい」だと思えます。
 そうです、わたしの好きなもんは断然……、おもしろいです。
 おもしろいと思えることをさがし出してはそれにとり組み、どうしてもとり組まねばならない事柄については、そこにおもしろみをみつけて。そんなふうに、「おもしろい」を大事な座標として、これからも暮らしてゆきたいと考えています。    
                                 山本ふみこより

Photo
この写真、何でしょうか?

10×3cmの板きれです。
答えは、弁当のしきり。
ご飯とおかずを区切る役目をするあれです。
3つのわっぱの弁当箱のうち、1つのしきりが
見えなくなりました。
どうということもないモノのようでありながら、
なくなってみると、困ります。
夫が見かねて、板きれでつくってくれました。

わたしにすれば……、
こういうしごとは、おもしろくてていねいだと思えます。
ありがとうさん。

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2012年3月27日 (火)

その週のはなし

 終わるときは、いきなり終わるのだろうなあと、考えるともなく考えている。
 みずからの命の終わりも、もしかしたらこの世界(地球)の終わりも、どちらもいきなりやってきそうである。
 どちらの終わりも、わたしは恐れたくない。

 けれど。この世界の終わりに向かっては、いま、抵抗はしないといけないと考えている。なぜといって、それを終わらせるのは、わたしたち人間の仕業にちがいないからである。そこを反省したり、あらためたりすることなしに「終わりを恐れたくない」などと云うのは、身勝手が過ぎる。
 抵抗して抵抗して、反省してあらため、もうひとつ反省してあらため、という末にやはり終わりがきてしまったら、仕方がない。謹んで終わりを迎えよう。

 みずからの命の終わりも、もしかしたらこの世界の終わりも、どちらもいきなりやってきそうだ、と書いたけれど。もし、予告されたらどうするか。
 たとえば、「あと1週間で終わります」と予告される。
 1週間を長いと考えるか、短いと考えるかは、ひとそれぞれだ。わたしは、自分が、案外たっぷりあるなと考えるだろうと予想している。
 どんなふうに予告されようと、予告された当初はあわてるにちがいない。何をしておくべきかを考えて。やがて、わたしは、あわてた自分を笑うのだ。あわてる必要はないと、そう云って笑うのだ。
 いつもどおりに過ごせばいい。
 仕事もしよう。月刊のと、単行本の仕事……は、もうしなくてもいいだろう。
 問題は週刊の仕事だ。新聞の連載の原稿は、2週間前に渡してあるはずだから、安心。が、待てよ。さいごのコラムに、これまでの感謝を記したほうがよさそうだ。原稿を、差し替えてもらおう。
「愛読ありがとうございました」と書くだけではつまらない。これまで、書くには書いたが、遠慮しいしい書いてきた類(たぐい)のことを、おおっぴらに発表して締めよう。そうなれば、挿絵もあたらしく描かないといけない。いつもは速達郵便で挿絵を送っているのだが、この際、電車に乗って、東京竹橋の毎日新聞社まで届けに行こう。長く担当してもらった編集局の小川節子さん(記者生活30余年の彼女のことだ、きっと社に出ているだろう)に会って、ふたりで昼食に、パレスサイドのレストランのフランス料理を奮発しようか。「本日入荷・海の幸網焼きオリジナルタルタルソース」。よし、これにしよう。子どもの時分から30歳前半まで唯一苦手だったのに、ある日を境に好きになったタルタルソースを食べておくのも、わるくない。なぜ好みが変わったかというと、自分でタルタルソースをつくる羽目に陥り、つくってみたら、やけにおいしかったのだった。
「節子さん、長い間ありがとうございました。じゃ、ばいばい」と、手を振って別れる。
 ブログもあたらしく書いて、火曜日(ブログ「うふふ日記」は、毎週火曜日が更新日)を待たずに更新してもらう。そうして、いつもどおり、ときどきあけてみてはおたより(コメント)に返事を書く。たくさんコメントがくるといいなあ。これまで読むのにとどめてコメントを書かずにきたひとも書いてくださったら、わたしは忙しくもたのしく返事をする。
「地球はなくなってしまうけれど、こんどまたべつの星で会いましょう」なんかと書くのである。愉快。

 家のこと。仕事が片づけたあと、のんびりとりかかろう。
 ごはんもいつも通り。洗濯も掃除も。
 寝る前の読書。そうだなあ、「庄野潤三」を読むだろうかなあ。
 忘れるところだった。英文翻訳の課題をしなければ。これも、できるだけていねいに訳して、せんせいに見ていただく。高橋茅香子せんせいは、築地の仕事場におられるだろうか、それともご自宅におられるだろうか。どちらにしても、これはパソコンでお送りしよう。せんせいは添削してくださり、「いつの日にか、じっくり英文と向きあえるといいですね」 きっとそう書いてくださる。

 こうして、いつも通りの1週間が、いつもと同じ速度で、つまりあっという間のようでもあり、それなりに充実もしていたようでもあり、というふうにおわり、とうとうさいごのごはんだ。
 わたしは、これについて、この20年あまり、考えを変えないできた。
 鶏とセロリのサンドウィッチとスコッチウィスキー。
 これをさっとつくって、さくっと食べる。


Photo

「その週のはなし」の原稿を書き、
鶏とセロリのサンドウィッチをつくったら、
どんどん「その気」になってきました。
さいご、さいごと思っているのです。

でも、考えたら、今週は今年度の最終週ですね。
佳い1週間にしましょう。

         *

〈鶏とセロリのサンドウィッチ〉
鶏(蒸して細切り)とセロリ(せん切り)を合わせて、
酢(少し)をふりかける。
ここに塩こしょうして、マヨネーズで和える。
パンに、バタ(またはマーガリン)を薄くぬり、
好みの辛子をぬる。
鶏とセロリを和えてつくった「なかみ」をはさむ。
※パンの耳はつけたままでいいでしょうね。
 さいごの日なのですから。

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2012年3月19日 (月)

力学

 台所で昨年から使ってきた布巾。
 タオルを縫って(正確には、二女に縫ってもらって)布巾にしたものだ。長いあいだにいつしかたまった、旅先の宿でもらったものやら、おまけでもらったものやら、宿の屋号や商品名、はたまた会社名の入ったタオルだ。
 タオル地というのは、布巾として使うのに向いていることがわかって、得意な気持ちだった。が、目の前の布巾、いまや煮染めた雑巾のようになっている。
 だからといって、すぐとり替えてしまうわけにもゆかず、この半年近く、雑巾みたいな布巾を使ってきた。途中で何度か煮洗いをして、相手(布巾である)の溜飲(りゅういん)を下げ、こちらのもやもやをおさめてきたのだったが。 
 とうとう、そのときがきた。

 わたしは、家のしごとに便利を持ちこみ過ぎるのはよそう、と考えている。つまり、便利過ぎをおそれてきたのだった。 
 そのこころは、今世紀に入って嫌われ者になってゆく一方の不便の肩をもちたいというもの。昔ながらの技術を取得したいという夢。
 不便のなかにこそ手しごとの可能性や工夫のおもしろみがかくれている。そうして便利過ぎは、古きよき手しごとを遠ざけてしまう。だから、楽することばかりに夢中になってはいけないと、みずからを戒め戒め暮らしてきた。
 が、最近。
 じつは、ちょっと楽をしようと考えるようになっている。東日本大震災のあとに芽生えた考え方だった。
 楽をして余ったエネルギーをべつのことにつかおうという考え方である。わたしのたよりないエネルギーでも役立つ先をみつけて、そこへ向けたい、と。

 もしかしたら、それは「力学」ではないだろうか。
「力学」。わたしにとって、口にしたり、書くことすら憚(はばか)られることばだ。
 いや、その昔、縁の結ばれる機会はあった。……わたしは古い教室の窓からの斜めなす光のなか、「力学」とか、「なんとかエネルギー」(運動エネルギー、位置エネルギーなどだろうか)について学んでいる。物理学の授業である。かすかに触れあったものの、うまくゆかなかった。まず、相手との共通の話題をさがさなかったのがいけなかった。相手のほうも、わたしと親しくしようというそぶりもを見せなかった。
 ところが。年齢を重ねるうち、「物理」氏と共通の話題をみつけることなど、そうむずかしくないことを知るようになる。
 氏も、そして主婦であるわたしもひとしく、ことをはじめるときにはひらめきから出発する同類であることに気がついたからである。ずっと同じ道を行けるわけではないし、あちらは途中から込みいった数式をあやつったりしはじめるのだが。それでも、とっつきが同じだということがわかっただけで、苦手意識が吹っ飛んでしまった。空の彼方に。吹っ飛ぶときにも、力学的エネルギーが働いていたものと思われる。……たぶん。

 そろそろ、「台所で昨年から使ってきた布巾」へと、はなしをもどさないといけない。

 雑巾のようになってしまった布巾。
 ちょっと楽をしようという考え方。
 楽をして余ったエネルギーをべつのことにつかおうという計画。

 この3つが合わさって、ひとつの変化が起こる。「物理」氏には笑われるかもしれないけれど、これをわたしは力学だと思う。3つが合わさり、あたらしい力を生もうとしている。
 さ、わたしにうまく証明できるだろうか。もったいをつけているけれど、はなしは簡単。
 茶色のフェイスタオルをもとめてきて半分に切り、切ったところを縫って(正確には、二女に縫ってもらって)布巾にしたのだった。片面がパイル素材(精紡交撚糸)、片面がガーゼ素材の、吸水性はあるがかさばらないタオルを選んだ。
 考えたすえ、茶色(茶は、台所に入ってきていいことにしている色でもある)に決めた。これだと、汚れが目立たず、煮洗いの手間も、いっそ漂白してしまおうかというこころの揺れも、解消する。何より、布巾が雑巾のようになってゆくのを見る辛さから解放される。
 うれしや。このことで余ったエネルギーを、さて、どこへつかうかが課題である。

Photo
これで、楽をしようというわけです。
うれしや、茶色の布巾。


Photo_2
台所の手ふきも、同じものを使うことにしました。

それから。
浴室のタオルも、これまでずっと「白」を使ってきたのでしたが、
古くなったのを機に、このたび、
ベージュのタオル(写真のタオルと同じ素材の、色ちがい)にしました。
これで、また楽ができます。

            *

3月14日(水)自由学園の「明日館」において、
2回めの読者の会をひらきました。
不思議なほど、あたたかい会でした。
いらしてくださった皆さん、どうもありがとうございました。

参加してくださった方の書いてくださったアンケートのなかに
「明日地球が終わるとしたら、最後に何を食べるか」という
問いをみつけました。
近いうちに「うふふ日記」のなかでお答えしようと思います。
皆さんも、どうぞこの問いについて考えてみてください。

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2012年3月13日 (火)

あ、つながった。

 すごいなあ、すごいなあと思っている。
 こういうものに向かって、「すごい」と云うだけなんて、語彙(ごい)のないこと。けれど、ほかに……。そうだ、凄いと書いたらどうだろうか。こんなにやさしくきれいなものに「凄い」はないか。

 友人が、「母の手しごと……」と云って手渡してくれたものだ。
 刺し子の布巾である。赤い糸のと、藤色の糸のと2枚もらった。卓をはさんでともに飲もう、食べようという場面でのことだったから、すぐと鞄にしまい、それきり忘れた。
 思いだしたのは、夜半すぎ、家にもどったときだ。鞄からとり出し、矯(た)めつ眇(すが)めつ見れば見るほど、うつくしい。うつくしいが、それだけでなく、つよさのようなものもあらわれていて、圧倒される。
 友人のお母上は、たしか80歳をいくつか超えているはず。
 ふと、布巾の針目から、「使ってくださいな」という声が立った。酔っているせいかもしれなかったけれど、たしかに聞いてしまった。
 翌日、ほんとは飾っておきたいようなその布巾を、わたしは台所の電気オーブンの上にひろげた。洗い上げた食器類を拭いたあと、もうひととき干しておく広場にしようと考えたのだった。
 菜箸、しゃもじ、木杓子、椀、わっぱの弁当箱の休憩地である。この上で休みながら、さっぱりと乾いてもらおうという算段。

 お目にかかったことのない友人の母上が、わたしの台所で働いてくださっている。翌朝の台所には、そのことを思わせるのにじゅうぶんな空気が漂っていた。
「おはようございます」
 と、挨拶する。
「陽子さん(友人の名である)がここへ、お連れくださったのです。よろしくお願いいたします」
 刺し子の布巾は、「ごていねいに……」とおっとりと云ったあと、何年もここにこうしているかのような佇まいで、いる。
「陽子のところへは、子猫がやってきましたねえ」
 と、布巾が語る。
「ええ、ええ。先住の猫さんが逝ってしまって、しばらくは猫なしで暮らすつもりと云われていたのでしたが。そんなことにはならないような気がしていたのです」
 と、云う。
「生きる力が増すだろうね」
「ほんとうに」

 ひとと、こんなかたちでつながる。
 最近まで、それを知らないでいた。こころの宿ったものを通じて、つながることを確信したのは、東日本大震災のあとからだ。

Photo
気持ちのいい刺し子でしょう?
なんというやさしい針目かと、眺めるたび
わくわくします。
こういう手しごと、おぼえたいなあと思います。
そうして、知らない家の台所で働きたいです。
……夢。


Photo_2
休憩地です。

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2012年3月 6日 (火)

「忘れない人」

 ものがたりのなかにいるようだ。
 シルバーグレーのモーニングコートを身にまとい、10メートルほど離れた場所に立っている青年は、まるで、ものがたりに出てくる王子さまのようではないか。そして、そのとなりに佇むひとの可憐さと云ったら。
 先刻から、こっそり自分の手の甲や耳たぶをつねってみている。こういうときには頬をつねるものと知ってはいるけれど、たとえ夢のなかかもしれないにしても、目の前で結婚式が挙げられようとしているのだ。頬をつねるような仕草は、慎まなければならないだろう。

 ものがたりのなかにいる気分はそのままだが、これは夢ではない。つねった手の甲は赤くなっているし、耳たぶもまたひりひりする。
 モーニングコートの青年は、王子ではなく、わたしの友人の巧望(たくみ)くんだ。
 巧望くんは、長女の小中学校の同級生である。巧望くん10歳、わたし36歳のころから互いを、「巧望」、「ふんちゃん」と呼びあってきた。家族ぐるみで親しくしてもらった。
 いや、親しい、という云い方では足りない。3人の子どもたちはもちろん、夫とわたしも、巧望の家庭(巧望には、妹、弟、妹がある。4人きょうだいの長男)には少なからず影響を受けている。両親の方針で、つねに(つねに、である)体裁などより大事なことをまっすぐ大事にする6人家族に、自分たちの姿を写してあるときは恥じ入り、平生(へいぜい)励まされてきたのだった。
 昨年の終わり近く、巧望と婚約者の優理子さんが結婚式と披露宴の招待状を持ってきてくれたとき、叫び声を上げそうになった。辛いことをたくさん見聞きし、重苦しいものばかりを胸にあつめた1年(2011年)のおわりに、透きとおった光の幕が下りてきたかのようだった。「おめでとう」と云うはずのところ、「ありがとう」の5文字しか口にのぼってこなかった。
「ありがとう、ありがとう」と。

 すばらしい結婚式(と披露宴)だった。
 ともに列席した長女とふたりで、長きにわたって巧望と友情を紡ぎつづけてこられたこと、その両親ときょうだいたち(親戚も)を近く眺めつづけてこられたことのなみなみならなさを、ありがたく再確認す。
 新郎新婦が、自分たちの門出を祝ってもらおうというよりも前に、これまでの感謝をあらわす姿勢を貫いていたことにも驚き、打たれている。そういえば、ことしの巧望の年賀状に、「たのしい式になるよう準備に勤しんでいます」と書いてあったなあ。たのしい式とは何だろうかと思っていたのだったが……、このことだったのかと、思わず、目の裏が熱くなる。

 この縁(えにし)、自然につながって、なんとなくつづいてきたように考えていた。が、ほんとうはちがうのではないか。呼びあうものはあったにせよ、友情が途切れずつづいてきたのは、年若き友人の守護のおかげだったのではないか。
 この魂に触れてくるものについて、無頓着であってはならないと思わされている。わたしはときどき、ひとという……、自分という……存在に恐怖して、自ら無頓着の境地に逃げこむことがある。触れてくるものが慈愛に満ちている場合も、反対にときとしてこちらを損なう場合にも、そこを学びきれと、またしても励まされている。


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「忘れない人」というアルバムをつくって持っています。
友人のところに生まれた赤ちゃん、結婚式の写真、
発表会やリサイタルほかの舞台写真などなどをおさめます。
先達ては、
指輪(大叔母の形見)のリメイクをおねがいした作家の仕事場の写真も、
おさめました。
このアルバムに題名をつけるとき、
「忘れられない人」と書き入れましたが、
ふと……「忘れない人」にしようと思いなおしました。
「忘れない」ことを誓いたいなあ、と思って。


Photo_2

巧望の結婚式、
長女とふたり、きもので出席しました。
仕度を母に手伝ってもらって。
きものを着たのは、15年ぶりのことです。
きものが、よろこんでくれたような気がしました。

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2012年2月28日 (火)

あたまと尻尾

 目には見えないはずのものが、見えるような気のすることがある。
 と云っても、わたしに超能力があるわけではない。見えないものは見えないものとして、不思議なものは不思議なものとして、ただ、感じるだけだ。

 ごく最近もこんなことがあった。
 見えないもののあたまと、尻尾が追いかけっこをしている。わたしは、追いかけっこを眺めるところに位置しているのだが、それは……、そうだ、あれに似ている。虎たちの様子を、やしの木のかげに隠れて、「いったい、どういうことに なるのかしらと おもいながら、そっと のぞいてみている」さんぼに似ている。
『ちびくろ・さんぼ』の主人公のさんぼである。

                     *

 おかあさんのまんぼがつくってくれた赤いきれいな上着と青いずぼん、おとうさんのじゃんぼが買ってくれた緑色の傘と、底が真っ赤で内側も真っ赤な紫色の靴を、4頭の虎にとられてしまったさんぼです。泣きながら歩いていると、「ぐる・る・る」という恐ろしい声が聞こえてきました。
 それはなんと、4頭の虎が「おれが、いちばん立派な虎だ」と云って、けんかをしている声でした。しまいに虎たちは、けんかのきっかけになった、さんぼからとり上げた上着、ずぼん、傘、靴をほうり出して、自分のとなりの虎のしっぽに食いついて、ぐるぐるかけまわりました。すると、木のまわりに虎の輪ができました。
 そのすきにさんぼは、虎たちがほうりだした上着とずぼんを身につけ、靴を履き、傘をさして帰りました。
 あんまりぐるぐる、ぐるぐるまわっているうちに、とうとう虎たちは溶けてバタになってしまいました。そこへ、さんぼのおとうさんが大きなつぼを持って通りかかります。バタをつぼにいっぱい入れて、うちに帰りました。
 おかあさんはバタを使って、おいしい「ほっとけーき」(※)を山のようにつくってくれました。

                     *

 わたしに見えた(ような気のする)、見えないはずのものとは、時間のあたまと尻尾だった。時間の尻尾が、自らのあたまを追いかけている。それをこっそり見ているわたしは、むなしさとおかしみの混ざる気持ちを抱いている。
 ふと、忙しさから逃れたくて、ぐる・る・る・る・る・る・る・る・る・る・ると、自分の時間に追いかけっこをさせてしまったなあと、思ったら、むなしさとおかしみが同時に湧き上がってきたものらしい。
 ——むなしさやおかしみなんかより、バタのほうがよかったなあ。

 半年ほど前のことだ。
 朝の家事の時間にゆとりをもたせるため、洗濯を夜のうちにすることを思いついた。長年、洗濯は朝してきたのだったけれど。朝にしようと、夜にしようと、洗濯には変わりがないし、その変化も決して大きいものではない。それなのに、なんだかものすごいことを思いついたような気持ちになるのだった。これこそが家のしごとの特質だと、わたしには思える。そして、些細なことを掻き抱きながらすすんでゆくのは、一種の醍醐味とも云える。
 そのことはうまくいった。
 とくに初めは快調だった。
 ところがそのうち、洗濯かご(洗濯したいモノを入れておくかご)に衣類がたまっているのを見ると、朝であってもつい、洗濯したくなってきた。ことに夜、洗濯をすませたあとに帰宅した者たちが大物の洗濯ものを出したときなど、そんなことになるのだった。
 おかしなことに、いつしか、夜の家事の時間にゆとりをもたせたくなってくる。朝の家事の時間にゆとりをもたせるためにはじめた、夜の洗濯だというのに。このあたりで、時間の追いかけっこがはじまったのだ。時間の尻尾が自らのあたまを追いかけている……? いや、時間の頭が尻尾を……? 何にしても、ぐる・る・る・る・る・る・る・る・る・る・ると、やっている。
 忙しさから逃れたい気持ちが、あたらしい忙しさを生むというわけだった。
 ほんとうは、朝生まれたゆとりのなかで、「ほっとけーき」を焼いて、みんなでたーくさん食べたりするはずだったのに。

※ 「ほっとけーき」
ものがたりのさいごに、おとうさん、おかあさん、さんぼの3人が「ほっとけーき」をたくさん食べる場面が出てくる。さて、それぞれが食べた枚数は?
(答えはキャプションのおしまいに)。


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洗濯と云えば、先週初めてこういうものを洗いました。
三女が、中学の授業で使わせていただいた柔道着です。
干しているときも、たたむときも、どきどきしました。
柔道着、小さくたたんで帯でしばり、その帯を肩にかけて
(かついで)運ぶのですね。
そのことにも、どきどきしました。

          *

「ほっとけーき」の答えです。
おかあさんのまんぼ、27。
おとうさんのじゃんぼ、55。
ちびくろ・さんぼ、169。

※お知らせ
2012年6月1日 13:00 - 15:00
新宿の朝日カルチャーセンターにて、
「エッセイを書いてみよう」という講座(1回)の講師を
つとめることになりました。
ご興味のある方は、朝日カルチャーセンター
(03-3344-1945)に
お問い合わせください。

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2012年2月21日 (火)

こびとのしごと

 昨年の秋のこと。
 英文翻訳の課題で、「Christmas Every Day」※を訳した。アメリカでは知らないひとはないというくらい、有名なものがたりだという。毎日がクリスマスになりますように、というひとりの女の子の希いがかなってしまう……、ちょっと怖いものがたり。怖くはあるけれども、アメリカのクリスマスの様子が伝わってきてたのしくもある。
 ものがたりのおしまい近く、
“What’re your shoes made of?”
 という問いかけが出てくる。「あなたの靴は何でできてるの?」という問いかけである。靴のはなしなど、どこにも出てこないというのに、いきなり“What’re your shoes made of?”と。いきなり問われた相手(クリスマスの妖精)は、あわてず騒がず、“Leather.”(革で)と答える。
 何? 何? 何? とこちらは、思いきりこんがらかる。何かの暗号だろうか、と考える。
 このくだりがグリム童話の「こびとの靴屋」のものがたりをさしているというのは、授業のとき、高橋茅香子せんせいの説明によって初めてわかった。わたしにしたら、「へええええ」である。
 もしもわたしが、たとえばブログに脈絡もなくとつぜん、「あなたの靴は何でできているの?」と書いたなら、編集のNさんが、すぐさま電話をかけてきて、「山本さん、いくら有名なおはなしでも、『グリム童話の「こびとの靴屋」のものがたりより』と註をつけるか、文中で説明したほうが、親切ではないでしょうか」と云うだろう。と、そんなことを想像して、アメリカの文学の謎めいた一面を噛みしめた。

“What’re your shoes made of?”が「こびとの靴屋」縁(ゆかり)の一文だと知って「へええええ」となったのには、もうひとつわけがある。それは、このものがたりを大好きだったからで、再会は唐突ではあったものの、なつかしさうれしさに包まれたのだった。
「こびとの靴屋」のものがたりは、ある靴屋の家がだんだん貧しくなり、とうとう靴1足分の革しかなくなってしまったところから、はじまる。

                        *

 靴屋は革を裁つと、明日それを縫うことにして寝床に入りました。翌朝、しごとにかかろうと思って机に向かうと、そこには靴ができあがっているではありませんか。見事な出来映えの靴でした。その靴は高く売れ、そのお金で靴屋は靴2足分の革を仕入れることができました。
 その夜も、靴屋は革を裁って寝床に入りました。ところが。朝になると、また靴ができていたのです。そんなことがつづいた、クリスマスも近いある晩、靴屋とおかみさんは、いったい誰が靴を縫ってくれるのか、隠れて見ていることにしました。真夜中に、裸のこびとがふたりあらわれて、驚く速さで靴を縫い上げ、いなくなりました。
 あくる日、おかみさんはこびとたちに下着と上着とズボンとチョッキを、靴屋は小さな靴をつくりました。

                        *

 というものがたりである。
 お礼の洋服と靴をもらったこびとは、大喜びしてそれを身につけると、家を出てゆく。そのあと、こびとはもうやってこなかったけれど、靴屋の店は大きくなり、しあわせにしごとをつづけるのだった。
 誰もが幼い日、幾度か目にしたり耳にしたものがたりだろう。
 わたしは、「こびとの靴屋」のおはなしを知るや、朝起きたら、宿題の答えが書かれた帖面が机の上に置いてあるところやら、縫いかけのワンピースが縫い上がっているところやらを想像するようになった。いまでも、忙しい日がつづくようなとき、朝、弁当ができて置いてあるとか、おいしそうなおかずができているとか、そういうことはないかなあ……と、ふと考えたりする。
 そんな夢のようなことは起こらないと、相場は決まっているのだけれど、想像するだけで、忙(せわ)しなさでいっぱいになったこころがほぐれる。

 ところが。きのうの朝のことだ。
 うちにもこびとがやってきた。
 この冬、金柑(きんかん)の甘煮がほしいけれども、どうにもそれをつくる余裕がないなあ、どうしよう、がんばって煮るかなあ、あきらめるかなあ、と揺れつづけていた。つねづね、弁当の隙間に詰めるちっちゃくておいしいものを、心づもりしていて(弁当の隙間に詰めるちっちゃなものがないばかりに、そこらにある小さな置きものや、箸置きなんかを詰めそうになる。弁当の隙間を埋めることというのは、切実)、弁当の隙間に詰めるちっちゃくておいしいもののなかでも、金柑の甘煮は最たるものだからだ。しかし、どうやらことしは手がつきそうになく、あきらめかけていたのだった。
 朝、寝床から出て2階の台所に上がってきて驚く。鍋のなかに何かできていて、それが金柑の甘煮のように見える。まさかね。きっとわたしは寝ぼけているのだ。目をこする。
 ガス台のほうを見ないようにして、顔も洗う。おそるおそる、ガス台の上に目をやる。そこにあるのは、やっぱりつややかにふっくらと煮えた金柑だった。食べてみたかったけれど、そんなことをしてはいけないような気がして、そっとしておく。
 頭の隅で、考えている。
 ——もしも、もしもこれがこびとがしてくれたしごとなら、わたしは、お礼に何をしよう。

※ 「Christmas Every Day」(毎日がクリスマス)
 William Dean Howells(ウィリアム・ディーン・ハウエルズ/米国の作家、
 編集者。1837−1920)作


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鍋のなかの金柑の甘煮は、
金柑には包丁を入れず、まるのまま煮てありました。
起きだしてきた長女が、
「金柑をたくさんいただいたから、夜中に煮たの」
と云います。
(なんだ、そうか。でも、ありがとさん)。

①金柑にぷすぷすと竹串をさす。
②①を茹でて、ざるにあげ、水にさらす(15分ほど)。
③②を鍋に入れて、金柑がかぶるくらい水を注ぎ、
 砂糖(金柑の6割ほど)を加えて中火で煮る。
④沸いたら弱火にして、煮汁がとろっとするまで煮る。
⑤さいごに醤油(少し)を加える。
※煮汁がなくならないようにする。途中差し水をしてもよい。

というふうにつくったそうです。

          *

先週お知らせした『不便のねうち』が発売になりました。
刊行を記念して、3月14日に、小さなおはなしの会をひらきます(応募締め切りは2月28日午前10時)。
どちらも、よろしくお願い申し上げます。 
                                 山本ふみこ 

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2012年2月14日 (火)

雛(ひいな)

 立春の翌日。
 そわそわしながら、夫に、「あのさあ」と云う。
「あのさあ、あのさあ……あのさあ」
 と云う。
「何か、ぼくの出番?」
 と夫が訊くので、「箱をね、出してもらいたいの」と答える。
「ああ、茶箱ね」
 夫は、めずらしく勘がいい。そして仕事部屋の奥地(夫の部屋に隣接している納戸を「奥地」と呼んでいる)に置いた茶箱から、大小まちまちの箱を3つ出してくれた。
「ふたりで、あの日にしまったんだったな」
 と云いながら。
 そうそう、それを云いたかった。ひとりで「あの日」を思いだすのは、いやだった。3つの箱は、長女、二女、三女がそれぞれに持っている箱である。なかにはひな人形が納まっている。

 昨年の3月11日、ふたりでテレビの画面に映しだされる驚くべき光景を横目に、ひな人形をしまったのだった。
 そのときのことを、わたしはこう書いている。

   テレビ画面を凝視しながら呆然といている自分に気がついて、とつぜん
  ひな人形をしまうことにした。(中略)おひなさま方に、この状況をくわし
  くは知らさずにおきたいという思いが湧いた。これから先、どんなに過酷
  なことになっていったとしても、来年、またお出ましいただくころにはお
  だやかな日々がもどっているように、あたたかな日射しのなか坐っていた 
  だけるように、と。
   はっと我に返った夫も、それを手伝ってくれた。ひな人形のことをして
  もらうのは、これが初めてである。     (『不便のねうち』※より)

 あの日、「来年、またお出ましいただくころには」と思っていた、その日がめぐってきたわけである。
 おだやかな日々とはまだ云えないいま、未来に向けての大問題も山積しているいま、だが。
「この家の者たちは、なんとかやっています」
 と挨拶する、おひなさま方に。

 そのまた翌日、母が電話の向こうで云う。
「ふと思ったんだけど、うちにあるおひなさまは、アナタのおひなさまよねえ。山本のおじいちゃまが、アナタの初節句に買ってくださったのよねえ。ことしは、アナタに飾ってもらおうかなあと思うの」
 母の口調は、いつもながらおっとりとしているけれど、アナタ、というところだけは「ア、ナ、タ」というふうに、一語ずつ区切って念を押すように云っている。
 わたしのひな人形は七段飾りで場所をとるということもあって、実家に置いたままにしている。その上、この5年ほど、それを自分の手で飾っていない。母と子どもたちにまかせきりにして。
「ことしは、飾りに行く」
 と約束する。

 つぎの日曜日。実家へ行き、おひなさまを飾る。
 わたしの初節句というのは1959年(昭和34年)だから、このおひなさまも、50歳を越している。
「ずいぶん、長くやってまいりましたね、お互いに」
 と思わず、挨拶。
 五人囃子の5人のうち、2人までが額髪を広く剃りあげているので、烏帽子をかぶせるのに苦心しながら笑う。かぶせるとき、いつも苦心し、五人囃子の面面に文句を云うのがならいだったことを思いだして、笑う。
 それにしても。わたしは半日はかかる飾るしごとと、しまうしごとを、母にまかせきりにしてきたのだなあ。段段をつくるのなんかは、かなり重労働だ。「あ、そこ、押さえてて」ともうひとりに頼まなければ、自分の足で押さえていなければならない。
「これからは、自分で飾って、しまうからね」
 と、両親にお辞儀する。
 おひなさま方にも、お辞儀する。

 おひなさまは、不思議だ。
 何もかもを、見通しているように思える。すました顔で、何もかも。


Photo_6

飾りかけのときの写真です。
屏風もまだだし、髪も乱れていますが、
ああ、うつくしいなあと思わず、シャッターを切りました。
昭和34年の「ご成婚」の年だったので、
お顔を美智子さまに似せてつくられたという人形だそうです。

Photo_7
おひなさまのお道具が、好きで、
子どもの頃は、こっそりおままごとに拝借しました。
とくに、気に入りの火鉢です。

※『不便のねうち』(山本ふみこ/オレンジページ)
2月17日、このブログから5冊目の本が刊行されます。
どこかで見かけたら、どうか手にとってご覧いただきたく、
お願い申し上げます。

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2012年2月 7日 (火)

課外活動

 朝、15分くらい走るつもりで足を踏みだしたところが、左足のくるぶしあたりがにぶく痛んだ。走れば治るだろうと思って(そういう思い方をしがちである)、そのまま走る。
 同じ日の夕方、くつしたを脱いで驚いた。左の足首あたりが腫れている。
「腫れた腫れた」
 とちょっと得意になって(そういう思い方をしがちである)云う。すると、3人の子どもたちが、「病院へ行って!」と口をそろえて云う。
「え、病院?」
 と、たじろぐ。病院に行くなどとは露ほども考えなかったからだった。

 翌朝、いつもしている運動を休み、特急で家のしごとを片づけて、病院へ向かう。このあたりではいちばん大きな病院で、あたらしく、気持ちのいい建物。
 病院と云えば、待ち時間だ。分厚い本を鞄に入れる。大好きな本だが、寝転んで読むのが好きな行儀のわるいわたしが、開けないまま持っていた本、『懐かしきオハイオ』(庄野潤三/文藝春秋)だ。束(つか)に定規を当てて計ったら、3.6センチもある。
 診察の申しこみをし、整形外科の診察室の前のソファに腰をおろす。窓辺の、陽当たりのいい場所である。大きな窓の向こうに、みどりが揺れている。
 分厚い本を開く。2009年9月、「庄野潤三」が亡くなったときはさびしかったなあ。何より「……これから、どうしよう」という切実な不安にとらえられた。「庄野潤三」の本を頼りに暮らしているからだ。世知辛いものにからめとられそうになったとき、嫌気がさしたとき、「庄野潤三」の本がわたしに立ち直るきっかけをつくってくれるからだ。ところで、同じように身を寄せたくなる本に『星の牧場』(庄野英二/理論社)がある。この本の著者「庄野英二」は、「庄野潤三」の兄だ。なんというきょうだいだろう。ことばが、ない。
『懐かしきオハイオ』は、「庄野潤三」がロックフェラー財団の研究員として、米国オハイオ州ガンビアで暮らした1年間(1957年秋から翌年夏まで)をふり返り綴った作品だ。前編に、『シェリー酒と楓の葉』(文藝春秋)がある。この米国滞在の機会は、まことに恵まれたものではあったが、ただひとつ、3人の幼い子どもを日本に残して夫婦で渡米するという、何よりも家庭を大事にしている庄野夫妻にとって、どうにも難儀な条件がついていた。たしか、長女の夏子さんが10歳、長男の龍也さんが7歳、末っ子の和也さんが2歳だった。
 病院の待合室のソファの上で、オハイオ州ガンビアの、「白塗りのバラック」と呼ばれる教職員住宅の台所の水がなかなか落ちないのをなおしてくれたカレッジ(のメンテナンス・オフィス)のデイヴィッドスンさんが「テイク・イット・イージイ」と云って帰ってゆくところまで読んだわたしは、いきなりオハイオ州ガンビアから引きもどされた。「ヤマモトさん、ヤマモトフミコさん、4番にお入りください」というアナウンスが耳に飛びこんできたからだ。
 わたしの左足首あたりの腫れを診察した医師が、「お身内にリュウマチの方はありませんか?」と訊く。長年リュウマチとつきあってきた親しい友人の顔が浮かぶ。その意味でわたしにとって、リュウマチは身近な存在であり、「はい、あります」と答えそうになるも、友人とのあいだに血縁はないのだと思いなおす。
「ありません」
 医師は、ゆっくりうなずいたあと、こんどは、
「最近、蜂とか、虻(あぶ)のような虫に刺されませんでしたか?」
 と訊く。
 そういえば一昨日、蜂に刺されたひとのはなしを聞いたなあ。そうだ、長女だ。興味をもっていたニホンミツバチの養蜂の見学がかない、よろこびのあまり蜂に近づき過ぎて刺されたのだった(蜂はとても用心深い。攻撃のためいきなり人を刺したりはしない。よほど近づき過ぎたものと思われる)。しかし、それは長女の体験であって、わたしのではない。
「刺されてはいません」
 医師から、わたしの足首の腫れが、捻挫や打撲によるものとはちがうように思えるから、血液検査とレントゲン撮影をすると告げられる。また待ち時間がやってくる。こんどは本を開いても、すぐとはオハイオ州に飛んではゆけない。
 もし、リュウマチだったとしても……と考えているのである。もしそうだったとしても、わたしは絶望してはいけない、と考えているのである。長年、リュウマチとつきあってきた友人の明るさ、潔い生き方を間近で見ている者として、それはできない。わたしも、そうなってゆけるように努めなければならない。すくなくとも、医師の口からその病名を聞いたくらいのことで、怖じ気づきたくない。そんなことを、ぐるぐる考えて、オハイオ州に行けないのだった。
 そんな耳に、「前立腺がんだそうだよ。だが、落ちこんじゃいられないよ。命あるかぎり生きるってことさ」という、男声が届く。顔を上げると、70歳代とおぼしき男性が、同じ年頃のふたりの男女に話している。しばらく様子を見ていると、入院室から外来に診察を受けにきた男性が、待合室で出会ったふたりの友人に、「落ちこんじゃいられない」と話したのだ。彼(か)のひとの発言にもこころ動かされるが、もうひとつ、同じ病院内の入院室からやってきたというのに、チェックのシャツにコール天のズボンという姿でやってきていることにも感じ入る。

 家に帰りついたのは、昼だった。
 病院へとつよくすすめてくれた子どもたちに、感謝している。血液検査とレントゲン撮影によって、わたしの左足首の腫れは、過度な運動が引き金になっての炎症だとわかった。しかも、同じ病院の過去のカルテに、「過度な筋トレが引き起こした腕の炎症」という記録が残っており、医師から、「くれぐれも、ほどよい運動をお願いします」と釘を刺されたというわけだった。感謝したのは、原因がはっきりしたこともだけれど、それより何より、病院で考えたり、見聞きしたことがありがたかった。その機会をあたえられたことを感謝している。
 その日はわたしの、課外活動のような学びの機会だったのである。

Photo_10
毎年、「立春」に2回めの新年の祝いをと、
決めています。
屠蘇を用意しておくだけ、という年もありますが。
ことしは、病院に行くことをすすめてもらったお礼の気持ちで、
もう一度重箱をとりだし……。
煮〆と、子どもたちの好物の「鶏の唐揚げ」を詰めました。

A

かまぼこ、伊達巻きならぬ卵焼き、黒豆も。

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2012年1月31日 (火)

偵察散歩

 東京に雪が降った。
 まだ降っていなくて、「降るでしょう」と天気予報士が告げているときすでに、全身が雪でいっぱいになる。雪の記憶を、ひとつ残らず目の前にならべてみたくなる。雪だるまのように。
 雪だるまのように、とは、子どものころ雪が降り積もるたび(そうたびたびは積もらない)、気がつくと小さいだるまをつくってならべた思い出が、書かせている。目の前に勢ぞろいした雪のだるまに、雪郎、雪二、雪三、雪太、雪夫と、名を(なぜか男の名ばかり)つけてゆく。
 東京の雪は溶けてしまうのも早く、翌朝には、雪郎たちの姿は変わっている。どうかすると、末の弟たちなどは、いなくなっている。兄から順に、少しずつ小さくつくるからである。
「雪郎、雪二、学校からもどったら、また遊ぼう」

 このように、わたしが子どもだった時分には、東京にも、いまよりも頻繁に雪が降り、いまよりもたくさん積もった。記憶のなかには、弟とした雪合戦、つっかけ式の「板」に長靴の先をひっかけてするスキー、かまくらづくりといった情景がしまわれている。上ふたりの子ども時代にも、校庭での雪合戦の思い出があり、大雪による休校も、めずらしくはあったが、経験している。
 上ふたりの子どもと年のはなれた三女のときには、雪が遠のいていた。たくさんの雪の思い出をつくってほしかったけれど、そうはならなかった。

 思いのほか早くきりがついた仕事からも、子どものころの雪の記憶からもはなれて、茶の間に行くと、かごにパンが山になっている。パン店を営む友人がたくさんのパンを送ってくれたものだ。前に同じことがあったとき、おすそ分けしたマリ子さんが、「こんなにおいしいくるみパンは初めて」と云ってくれたのを思いだす。
 ——そうだ、マリ子さんに届けがてら、偵察散歩に出かけるとしよう。
 わたしは、ときどき「偵察散歩」という大仰なる呼び名の「てくてく」に出かける。そういう大仰の後押しを得て、なんとかして外に出るようにしないと、わたしはときどきほんものの「居たきり」になる。
 外を眺める。うれしや、おもては、いまだ白の国であった。
 マリ子さんは、長年の友人であるが、3人の子どものピアノの師でもあるひとだ。子どもたちがピアノをおしえていただいている世界では、マリ子せんせいとお呼びし、これは友情世界のことだなあと思えるときには、マリ子さんと呼びかけることにしている。呼び方なんか、どうでもいいという向きもあろうけれども、そこを呼び分けることには意味があり、そしてたのしい。幾重にも関わりのあるたのしさである。
 そういうわけで、きょうはくるみパンに、黒豆のパンを加えてた袋をかかえて、長靴を履く。長靴を履くと、エルマー*になったのも同じ。わたしは、すっかり冒険のおばさんである。財布? そんなものは持たない。パンだけを抱いてゆく。
 家を出ると、前の雪かきをしなかったため、門の前でつるりとすべった。おお、いけない。夫は関東出身、わたしも道産子二世なので、こういうところがにぶい。雪かきを平気で怠るのも、歩きだし方が下手なのも。
 中央公園を抜けてゆこう。そこは、広い広い、もひとつ広い原っぱで、この地域の拠所(よりどころ)のような場所である。白い原っぱに、大きな雪だるまが3人ならんでいる。まわりに、母子(おやこ)3組の姿がある。雪だるま3人、お母さん3人、子ども3人。眺めたかったのは、これだなあと、うれしくなる。
 マリ子さんの家のぴんぽんを鳴らすが、お留守だった。驚く顔がひと目見たかったけれど、マリ子さんも、白い国への偵察散歩に出かけているのかもしれない。門のなかの柵にパンの袋をぶら下げる。

 家に帰ってから、実家の母に電話をする。たしかめたいことがあったのだ。
「おとうちゃまは、今朝、雪かきをした?」
 と訊く。
「そりゃあ、もう」
 母は、あたりまえのことを尋ねられたという声で、答える。
 北海道苫小牧育ちの父(現在88歳)と、函館育ちの母(父の5つ下)は、雪、というと、なんとはなしにうかれている。ことに父は、起きるなり耳当てのついた帽子までかぶってあらわれる。雪が降り、積もりかけるやおもてに飛びだし、手慣れた手順で雪をのけてゆくのである。雪の量がどんなに少なくても、そうやって、雪のなかに道をつくって初めて、安心できるらしい。
 電話で「そりゃあ、もう」と聞き、あわてて、夕方おくればせの雪かきをする。雪はまばらに、凍っている。 

* エルマー
『エルマーのぼうけん』(ルース・スタイルス・ガネット作 ルース・クリスマン・ガネット絵 わたなべしげお訳/福音館書店)の主人公の少年、エルマー・エレベーター。はるかかなたのどうぶつ島にいるりゅうを助けるため、エルマーは冒険の旅に出ます。……黒いゴム長靴を履いて。

Photo
せっかく外に出たのに(偵察散歩)、
「財布? そんなものは持たない」
と云って出かけたので、買いものもできずじまい。
それで、夫の実家から届いた
ほうれんそうばかり食べました。
写真は、「炒めもの」です。

①ほうれんそう1把をざくざくと切る。
②オリーブオイル(大さじ2)を熱したプライパンに
 ほうれんそうと塩(小さじ1)を入れて炒める。
③ほうれんそうに油がまわり(二~三分通り炒めたら)
 熱湯(1カップ)と酒(少し)を加える。
④さっと混ぜて、沸騰したら、鍋のふたでほうれんそうを
 おさえながら、水気を切る。
※この方法は、中華料理のやり方ですが、
 おいしい青菜炒めができます。
※いろいろの青菜のほか、きゃべつ、レタスも
 おいしく炒めることができます。

★ お知らせ
昨年11月に、東京池袋で、
小さなおはなしの会をおこないましたが、
ご好評につき、3月もおこなうことになりました。
日時は、3月14日(水)13時半~、
場所は、東京・池袋の「自由学園明日館」です。
ご興味のある方は、どうぞお出かけください。
詳細は、こちらへ。

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2012年1月24日 (火)

決断 〈引用ノート14〉

 花森さんは、
「君はどんな本を作りたいか、まだ、ぼくは知らないが、ひとつ約束してほしいことがある。それは、もう二度とこんな恐ろしい戦争をしないような世の中にしていくためのものを作りたいということだ。戦争は恐ろしい。なんでもない人たちを巻きこんで、末は死までに追い込んでしまう。戦争を反対しなくてはいけない。君はそのことがわかるか……」
 続けて「君も知ってのとおり、国は軍国主義一色になり、誰もかれもが、なだれをうって戦争に突っ込んでいったのは、ひとりひとりが、自分の暮らしを大切にしなかったからだと思う。もしみんなに、あったかい家庭があったなら、戦争にならなかったと思う……」そんな意味のことを話されました。
「わかります」ときっぱり答えたら、
「よし」と言われて「なるべく早くやりましょう」
              『「暮しの手帖」とわたし』(大橋鎮子/暮しの手帖社)より

「暮しの手帖」は、母が毎号欠かさず読んで、わたしも子どもの頃からページを繰った雑誌である。このブログを見てくださる読者の多くも、同じだったのではないだろうか。読んでいたのがお母さまでなく、おばあさまだった方も含めて。
 引用したくだりは、花森安治(はなもりやすじ)と大橋鎮子(おおはししずこ)*が「暮しの手帖」創刊を決めた日の、すこしあとのやりとりだ。花森さんは34歳、大橋さんは25歳だったと、ある。ときは敗戦(太平洋戦争)直後、東京の街は焼け野原、食べものは配給制で、それとて、ほとんどが芋や小麦粉などの代用品だった。
 そんな時代に、「暮しの手帖」は産声を上げた。
 女のひとに役立つ雑誌。暮らしが少しでもたのしくなり、気持ちが豊かになる雑誌。できるだけ具体的に、衣・食・住についてとりあげる雑誌。というふうに方針が立てられ、女性、ことに主婦が、そして脇からはわたしのように子どもが、こころ踊らせて読んだのだ。この方針は、現在の「暮しの手帖」にもつながっているし、あとから生まれた雑誌にも受け継がれているといえる。
 が、この方針が、「国が軍国主義一色になり、誰もかれもが、なだれをうって戦争に突っ込んでいったのは、ひとりひとりが、自分の暮らしを大切にしなかったからだ」という逃げ道のない反省から生まれたことを知って、驚く。「自分の暮らしを大切にする」ことがそれほど力をもっているということも、あらためてわからせてもらった。
 もうひとつ、忘れてはならないことがある。
 花森安治が、「誰もかれもが、なだれをうって戦争に突っ込んでいく」有様(ありさま)を、ひとりひとりの責任として考えているところだ。わたしたちの現在にも、同じことがあてはまる。現在の過ちが現在のわたしたちを苦しめるだけならまだしも、100年先、200年先のひとたちを苦しめるとしたら……。

 この本を読んでゆくと、「暮しの手帖」が生まれるにあたってものをいったのが、タイミングと決断だったことがひしひしと伝わってくる。
「いまだ!」とわかっても、理由をつけて(もっとひどいときには、何かのせいにして)なまけたり、決断をあとまわしにするのは、いけないなあと、思わされる。そも、わたしたち市井(しせい)の生活者に「いまだ!」の瞬間など滅多にめぐってはこないと決めこんだり、決断もひとまず棚に上げることにしたり。けれど、ほんとうは、わたしたちこそが鍵を握る者だと思える。
 自分の暮しを大切にしたいと希っているわたしたちだ。突っ込んでいってはいけない場所の前で、踏みとどまるこころをもちやすいわたしたちだ。
 あとは、小さな決断を実行にうつす癖をつけるだけだわ。と、思う。

 きょう1月17日は防災とボランティアの日。
 1995年に発生した阪神・淡路大震災において、ボランティア活動がさかんに行われたことから、この日が生まれた。
 家の非常持ちだしのかばんのなかみを点検。水を入れ替え、板チョコを加える。
「天国にぶっ放せ」(3月10日——震災の前日、ここにいるわたしたちは元気ですと、天国の人びとに伝えるために花火を上げる/宮城県泉ヶ岳スキー場/スコップ団)に資金協力のため、チャリティー・バザーを開く友人に役立ててもらうモノをあつめる。(1月17日記す)

*1946年(昭和21年)3月に、花森安治(1911−1978)と大橋鎮子(1920−)は、暮しの手帖社の前身、衣裳研究所を創業。服飾の提案雑誌「スタイルブック」をつくり、1948年(昭和23年)9月に「食」と「住」の要素を加え、「美しい暮しの手帖」を創刊する。のちに「暮しの手帖」に変更し、これと同時に社名も暮しの手帖社とする。


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1月17日はそして、おむすびの日でもあります。
うちの5人それぞれが、おむすびをつくりました。
おむすびはいいなあ、とあらためて思いました。
ことしは、若い友だち(とくに子ども)におむすびを
つくってもらうとしましょう。
おむすびをつくれることは、そうとうの財産になりますから。

写真のおむすび、
上から夫、わたし、長女、二女、三女作。


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海苔は、偉大です。

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2012年1月17日 (火)

バッグひとつで 〈引用ノート13〉

  ハルナ ずいぶん大きな荷物ですね。
  タエコ そうですか。
       とりあえず必要なものだけ持ってきたんですけど。
  ハルナ 必要なもの?
  タエコ  読もうとしてた本とか。
  ハルナ 本。でも、ここじゃ読めないでしょ。
       サクラさんはね、毎年バッグひとつでここへ来るんです。
       ちょっとそのへんに買い物にでも行くような感じで。
                           映画「めがね」※より

 ことしがはじまって早早、名古屋に出かけた。長女とふたりでの、1泊2日の小さな旅である。
 これまで、自分は出かけるときには比較的身軽なほうだと思っていた。ところが、出かける日の朝、靴を履こうとしていたときにあとからやってきた長女を見たら……。わたしよりいっそう身軽で、隣町まで本をさがしに行くときと、そうは変わらない出で立ちで靴を履こうとしている。なんだか、御株(おかぶ)を奪われたような気がして、ちょっとくやしくなるけれども、もう間にあわない。靴を履いてしまったし。
「身軽だね」
 と云う、くやしい気持ちをおさえて。
「ああ、ラオスに行ったときに、荷物なんか、ほんとうに少しでいいなあ。持っていなくてもへっちゃらだなあと思ったんだ」
 と、長女が答える。
 長女は昨年の暮れからことしの正月にかけてラオス(通称はラオスだが、正式にはラオス人民民主共和国)へ一人旅をしてきた。帰ってきてから、ときどき、ぽろっぽろっと旅先のはなしを聞かせてくれるが、彼女の様子を見ていて、いい旅をしてきたのだなあということがわかり、それ以上は何も聞かなくていいような気がしている。聞かなくても伝わり、何かが伝染する。
 旅の経験のなかでも、「荷物なんか、ほんとうに少しでいいなあ。持っていなくてもへっちゃらだなあと思ったんだ」の経験は、かなり大きいものであるらしかった。

 そんな長女とふたり、新幹線の乗客になる。
 東京駅でも、名古屋駅でも、コロコロと車のついた鞄(キャスター付きスーツケース)を引きずって歩いているひとの多さに、仰天する。なかでも、若いひとがコロコロと行くのを見ると、なんとなく違和感をおぼえる。スーツケースのなかには、何が詰まっているのだろうか。
「流行(はやり)なのよ」
 と長女が説明する。
「流行って、荷物をたくさん運ぶのが……?」
 と驚いて訊く。
「キャスター付きのスーツケースを持つことが」
「ああ。鞄の流行……」
 何にしても、と思う。
 旅は、荷物のこともべんきょうである。旅の荷物を少なくできたら、日常の持ち方も変わるような気がする。
 どんなふうな荷造りをするかで、そのときの自分を知ることもできるだろう。
 持ち過ぎているようなときには、徒(いたずら)に心配性になっていることが疑われるし、持たないことは自由に近づいている証かもしれないし。まるきり持たない、つまり持たな過ぎるときは、虚ろな時期をあらわしたり、あるいはまた、ひと頼みになってのことだったりするだろうか。
 荷物が少ないのばかりがいいわけではないけれど、わたしは、少ないのが好みだ。身軽がいいなあと思う。
 名古屋への小さな旅のあいだ、荷物を預けることもなく肩にかけ、ふたりであちこち歩きまわった。まるで、地下鉄にもバスにも乗るのを忘れたひとになって。
 歩いていると、旅人だというのに、たびたび道を尋ねられる。名古屋駅に降りたってすぐ、総合案内所でもらった地図を見ながら、もとめの行き先を答えたりするのは、なんとも愉快。道を尋ねるときにひとは、正しい道標をほしがっているのにちがいないけれど、そのじつ、いっしょになって道をさがす相手をもとめているのだなあ。

 映画「めがね」に出てくるサクラさん(もたいまさこ)は、バッグひとつでその島にやってくる。その佇まいの潔さ、浄らなのには、あこがれを禁じ得ない。素敵だ。
 たそがれたい(これは、映画「めがね」の鍵を握ることば。ご興味の湧く方は、映画でたしかめられたし)、自由に近づきたいというときに、荷物はいらないということだろうな。

※ 「めがね」(日本映画/106分)公開2007年
脚本・監督 荻上直子
配役 小林聡美(タエコ)、市川実日子(ハルナ)、加瀬亮(ヨモギ)、三石研 
  (ユージ)、もたいまさこ(サクラ)

*毎月第3週に書いてきた「引用ノート」、ことしは第3週と決めず、いいことばに出合ったときに書きたいと思います。どうか、おたのしみに。

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小さい旅の効能でしょうか。
ずっと大事にしまっていた末の子どもの産着を
出してきて、階段の踊り場にある小さな窓に飾ることを
思いつきました。
友人が、佐渡の染色家にたのんでつくってもらったものです。
ときどきとり出しては、眺めるほか、
どうすることもできずに、ただ持っていました。
産着が、わたしを励ましてくれます。窓辺で。


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背中は、こんなふうです。
このうつくしさ、産着に込められたこころが、
わたしを励ますのだと思えます。


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前身頃をめくったところに、
金文字で、招き猫が染められています。
こんな「いいもの」が「隠れて」たしかに「在る」ということも、
わたしを励ますのだと思えます。

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2012年1月10日 (火)

陰のしごと

 「仕事」という漢字。
 書くたびに、かすかに惑うのである。
 それというのも、この二文字が、職業、業務を指すように思えるからで、たとえば家のことや、小さな雑用をしたというはなしのとき、「仕事」と書くと、どうもおもしろみが薄くなるような気がする。
 ああ、そうだ、家のことや手先の働きは、これから「しごと」と、ひらがなで書こう、と思いつく。
 漢字とひらがなの区別ということでは、ほかにも、わたしのなかに密かなとり決めがある。
「持つ」や「使う」。
 これは、どちらも、物質について書くときは漢字で、目に見えないものについて書くときはひらがなにしよう、と決めている。かばんは持つけれど、志はもつ、というふうに。手ぬぐいは使い、こころはつかう、というふうに。

 昨年の暮れ、夫の実家(埼玉県熊谷市の農家である)の餅つきに行った。
 ほとんどははがしてくれるのだが、子どもたちが竃(かまど)の火の番をしたり、つきたての餅をボウルのなかでちぎりながら、大根おろし(しょうゆと、砂糖少少で味つけ)で和える役をする。
 竃の火の番は餅米を蒸すしごと。餅を大根おろしで和えて出来上がるのは、からみ餅である。
 一方、夫とわたしはちちを手伝って、作物の収穫だ。
 その日あとからやってくる夫の弟一家と、うちと、もう2軒、合わせて4軒分の野菜を穫っておこうというのである。
 まず、ほうれんそう。
 オータムと、まほろばの2種類を、分けて収穫する。オータムは葉の丈が高く、まほろばは背は低いが色が濃い。これをちちが根元から大きな鎌で切ってゆくのを、わたしが荷運び用の一輪車にそろえてのせる。一輪車がいっぱいになったところで、夫が庭に運ぶのだ。
 ほうれんそうのあとは、長ねぎ、春菊(刃先を鎌で切って収穫)、にんじん、大根、ブロッコリ、ごぼうだ。柚子、キウイフルーツ(脚立に上がって、さいごまで残った上のほうのを)も穫る。
 庭に積み上げられた野菜は、壮観。
 ビール瓶を入れるケースを伏せて置き、そこへ坐って、作業を開始する。何の作業かというと……。
「この作業のこと、何と云うの?」
 と、ちちに訊く。
「……そうだねえ、昔っからここらでは、『野菜をつくる』と云うねえ」
 と、ちちは云い、つづけて、
「いまは、農家のお嫁さんのなかにも、『野菜をつくる』のがめんどうだから、といやがるひともあるんだよ。せっかく育てた野菜をもらってもらえないって。ほら、スーパーでは、きれいに『つくってある』野菜を売ってるでしょう。そのほうが楽でいいからって。まったく張りがないと、じいさまやばあさまが嘆いてるん」
 と話してくれた。
 しみじみと聞く。
 田んぼもことも畑しごとも、ほんの少ししか手伝えないわたしたちだが、せめて「野菜をつくる」ことくらい、ありがたく、うれしくしなければ。……と思って聞く。
 夫の実家はもとから米は出荷しているが、野菜は自分たちと親類縁者のためにつくっている。夫といっしょになってから、米、じゃがいも、玉ねぎを買ったことがないわたしは、しあわせ者である。
 さて、「野菜をつくる」とは、ほうれんそうなら、根の部分をはさみで切りそろえ、葉のあいだに紛れこんだ枯れ葉や傷んだ葉をとり、適量束ねてひもでしばるしごとだ。長ねぎはいちばん外側の土のついた皮をとって、長い根を切りそろえる。大根にんじんは土を落とし、春菊もきれいに束ね……。
 4軒分の野菜をつくる作業に、優に1時間かかった。
 野菜と云えば栽培と収穫、そうして調理だと思いがちである。が、収穫と調理のあいだに、もうひと手間があるというわけだ。
 これは、隠れた、陰のしごとと云えるだろう。農作業にあるこうした陰のしごとが、じつは、あらゆるしごとにあって、そこのところを疎(うと)んじたり、人任せにしてきたことが、日本のしごと風景を変えたのかもしれない。
 陰のしごとを厭(いと)わずすることは……、大事なものをとり戻す手がかりになりそうだ。
 それにしても。
「仕事」と「しごと」を書き分けることは、してみるとむつかしい。どちらの肩をもとうとしてもそんなことはできないし、つまるところ、どんなしごと(仕事)も、それをする者の心がけと熱心でなかみが決まるのだと思える。

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正月には、熊谷から
大きな大きな白菜をもらってきました。
半分は鍋にして食べました。
残りの半分は、こうして重しをして、
白菜漬けにしました。

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白菜………………………………………………1/2株
塩……………………………………………白菜の2.5%
水……………………………………………………100cc
柚子(厚さ5mmの輪切りにする)…………………1/2個
唐辛子(たて半分に切り、タネをとる)…大きめのもの1本

つくり方
①白菜をたて半分に切り、そのまた半分に切る。
②ボウルに白菜を半量入れ、柚子と唐辛子の半量をのせ、塩も半量ふる。
③残りの白菜を、②の上に芯の部分を逆向きにして置く。
④残りの柚子、唐辛子、塩、水を加える。
⑤白菜の上に皿を伏せて置き、重しをする。
※水が十分、上がったら、重しは取ってもよいのです。
※4日めにおいしい白菜漬けになります。
※漬けるときは、寒い部屋に置きます。

写真は、漬けたあくる日の朝です。
水が上がってきています。たのしみ。

 

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2012年1月 3日 (火)

いつも通り

 味噌汁をつくる。
 味噌汁をつくるのは馴れたものだから、失敗を恐れる気持ちもなく、坦坦とした気持ちで、鍋の前に立っている。坦坦という境地より、もっとぼんやり寄りだったかもしれない。「み」は、きゃべつと油揚げ。子どものころから、好きな「み」だ。
 それなのに。どういうわけか、どうもいいふうにできない。いつもの煮干し、いつもの昆布、好きな「み」たち(油揚げも油抜きした)、自分でこしらえた味噌が登場の、云ってみれば変化などつけようのないしごとである。それでも、なんだか、うまくゆかない。味がねぼけている。ねぼけていると思って、味噌をちょっと足したら、こんどは、味がとんがった。
 深く深く、ため息をつく。いろいろのうまくゆかなさのなかで、いつもしていることをいつも通りにできないときの気持ちというのは、納める場所をみつけにくい。それで、思わずついたため息も、深く深くなるというわけだった。

 なぜ、味噌汁しごとがうまいことゆかなかったのだろう。
 わたしに変化があったろうか。そういえば、昨夜入浴のとき、左足の第二指にしもやけができているのを発見した。足の指のしもやけと味噌汁とのあいだに因果関係は……。ないな、と思う。
 しもやけをみつけたとき、昔なじみと逢ったときのような心持ちになった。思わずしもやけに向かって、「お元気でしたか?」と声をかけてしまったくらいだ。
「あなたを知らないというひとがいたら、ずいぶん気の毒だとも思うんですよ」
 と、しもやけに云う。
 しもやけはそれには答えず、顔を赤くしている(しもやけの顔は赤いものと相場が決まっている)。
「うちの子どもたちはどうでしょう。とくに栞(末の子14歳)はどうでしょうね。あなたを知らなかったら……」
 と云っているところへ、栞が入ってきた。
「何、ひとりでぶつぶつ云ってるの? 怖いなあ」
 と云う。
「これ、しもやけ。アナタ、しもやけになったことある?」
 と、あわてて訊く。
「あるよ。去年の冬もなったじゃない」
「ああ、そうか。それはよかった……」
 足のしもやけに向かって、「大丈夫でした。あなたを知っているそうですよ」と報告する。

 さて、味噌汁のところへはなしをもどさないといけない。
 味噌汁がどことなくうまくつくれなかったというはなし。いつもしていることがいつも通りにできないときというのは、ずいぶんじりじりするものだ。自らの状態を見直そうとしてゆくのが、わかる。不調? 不健康? 不安? 不満?という具合に、「不」のつくことばが、ぽわんぽわんと浮かぶ。
 そのうちこんどは、「いつも通り」というのが、どれほど慕わしいものであったかということが、胸に迫ってくる。「いつも通り」というのに対して、いちいちありがたい気持ちなど抱かなかったけれど、たまには、ありがたがらないといけないなあ、と。ああ、すると。あれは、「感謝知らず」が招いたうまくゆかなさだったのだろうか。

 ことしは、「いつも通り」に、もうすこし、敏感になろうと思う。「いつも通り」が、「いつも通り」としていつまでもつづくのでないことは、わかってきたのだし。
 「いつも通り」をいくつかもっていることにも、「いつも通り」をきょうもできたということにも、敏感になって、ありがとうと思いたい、ことし。

Photo

あたらしいとしです。
ことしも、よろしくお願い申し上げます。

昨年、「いつも通り」をいきなり奪われるという経験を
余儀なくされた方に、「いつも通り」がもどってきますように。
と、祈ります。

写真のうどんの汁、                                          
昨年、クリスマスイヴの「鶏のまる焼き」を
すっかり食べたあとの骨でだしをとり、つくりました。                       
この写真は、そのときのもの。

「まる焼き」(鶏さん、ありがとう)は、
お腹にご飯をぎゅうと詰めて(※)焼き上げました。
すっかり食べ尽くしましたが、まだまだ。
骨にも、もうひと働きしてもらうというわけです。

○○タッキーチキンだって、
サカナの中骨だって、とことん働いてもらいます。

※鶏のお腹のなかのことを忘れていて、あわてました。
冷や飯(2杯分)と、
玉ねぎ・にんじん・干しぶどう(それぞれみじん切り)を                      
かるく炒め合わせ、
塩こしょうして鶏のお腹に詰めて焼き上げました。

ことし、「とことん」ゆきましょう。
骨の髄まで。                 山本ふみこ

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2011年12月27日 (火)

空き地

 目覚めるなり、頭のなかにきょう1日の予定が整列する。きょうは、やけにぞろぞろならんでいる。1年のうち、昼間がもっとも短い冬至だというのに。
 ぞろぞろをひとりひとり見て、ならび順をたしかめるというやり方もあると思うが、なんだか、それはいいや、と思った。(きょうはぞろぞろだなあ)とだけ思って、飛び起きることにする。

 食卓の上に、「きょうはお弁当いりません。あ」の札が置いてあった。あ、というのは長女のしるしである。
 毎日たいてい弁当を必要とするひとは、弁当を必要としない日、「きょうはお弁当いりません」を当日の朝わたしが台所に出るまでに食卓へ出しておき、たまに弁当を必要とするひとは、前の晩までに(わたしがふとんに入る前までに)「明日はお弁当たのみます」と予約するのが約束だ。
 さて、きょう、こしらえるはずだった長女の弁当がいらなくなった。(これで、予定のぞろぞろがひとり消えたなあ)と思う。目の前に、空き地がひろがったような気がする。あとにつづく、ぞろぞろのなかからはがきを書く予定をひっぱりだして、食卓で、とりかかる。弁当づくりの空き地で、はがきを書く。
 三女が朝ごはんを食べている、その横ではがきを書く。
「となりでこんなことしててごめんね。きょう、ぞろぞろなものだから」
「ぞろぞろって?」
 と三女が云う。
「ぞろぞろっていうのはね……」
 と、説明する。
「ふーん。わたしは、終業式終わったら、すぐ帰ってきて、ピアノの練習して、年賀状書いて、それから、友だちと遊ぶ。……ぞろぞろでしょ」
「ぞろぞろだねえ。がんばろうね、お互い」
 と云う。
 大急ぎで台所を片づけて、机に向かう。新聞のコラムのゲラ(校正刷り)を見て(1行削って)、ファクスする。原稿を書き上げ、後日それがゲラになったものを見るというのが、わたしの仕事だ。いつでも原稿を編集者にわたしたときほっとし、すべてが終わったような気になるのだが、ゲラが送られてきて、(そうだった。ゲラがあるんだった)と思う。出版社時代を含めて33年間もこういう仕事をつづけてきたというのに、毎度毎度、(そうだった。ゲラがあるんだった)と思うというのなんかは、進歩がないにもほどがある。けれど原稿を書き終えたときと、ゲラを見るときとでは、つかう神経も、向ける気持ちも、そうとう異なるともいえる。原稿のときはまだ、自分自身に属する部分が大きいが、ゲラとなると、ずいぶん自分とのあいだに距離ができている。そういうわけなので、(そうだった。ゲラがあるんだった)のときには、相手に対してどう挨拶したものか迷うこころが芽生えている。「ど、どうも」というふうに。
 無事ゲラをファクスして、こんどは約束の2本の原稿にとりかかる。
 きょうは午後、ことしさいごの英文翻訳塾の授業がある。うしろに出かける予定のあるときは、机に向かう気持ちが散漫になりがちな上に、きょうは11時半までに書き上がったら、ヒフ科に寄って唇にできたヘルペスの薬を出してもらおうという企てをもってしまった。時計を睨みながら、ああでもない、こうでもないと書いてゆくうち、とてもではないが、無理なことがわかってくる。(ヒフ科はあきらめよう)。
 どうにかこうにか書き上げて、パソコンでびゅんと送り、急いで出かける仕度をする。仕度をしながら、翻訳の課題を印字する。印字したものを読み返し、(こりゃまた、何のこったろうか)と、われながらうまくない箇所をみつけてしまったが、(高橋茅香子せんせい、ごめんなさい)とこころで詫びて、うまくない箇所には目をつぶる。
 三鷹駅に向かって歩くうち、だんだん自分が変化してゆく。目的の新宿駅では、もうおおかた学生になっている。

 教室で、きょう持ってきた課題を教卓に置き、そこに重ねてある前回提出した自分の課題(レイ・ブラッドベリの本のまえがきだ)をとって、席につく。青ペンでせんせいの添削が、入っている。せんせい、ありがとうございます。せんせい、ごめんなさい。ありがとうございます、ごめんなさい、それが入り混ざった気持ち。
 受けとった課題のしまい、欄外に、何か書いてある。「Season’s greetings!  Chikako Takahashi」と。それと、とてもうつくしい、小さなロウソクのシールがぽっと、貼ってある。もうずいぶん長いこと、茅香子せんせいを追いかけてきたけれど、せんせいとの距離は一向に縮まらない。縮まらないばかりか、せんせいの背中は遠くなる一方のようだ。でも……、こういうことは、つまり書類の隅っこに小さくクリスマスのメッセージを記したり、ちょんとシールを貼りつけたりするようなことは、真似できる。そう思うだけで、うれしい。
 授業のあと、学友たちとてくてく帰る。
 帰り道が一緒の、峯岸文子さんと笠井久子さんと電車に乗りこむと、いつもは最寄り駅の国分寺まで行く久子さんが、「きょうは、吉祥寺駅で降りて、毛糸を買うの」と云う。電子辞書を入れる袋を編むのだそうだ。三鷹組の文子さんとつきあわせてもらうことにする。毛糸売り場に行くのなんか、何年ぶりだろう。果てしないように見える毛糸売り場の棚から、久子さんは、「これとこれ」と云って、まるで前もって決めていたものを受けとるような素早さで、毛糸を2玉選んでしまった。どちらも紫色が入った、白茶系のと赤系のと、混ざり毛糸。
 買った毛糸を入れた袋をそっと叩きながら、「こういう色たちがそばにあるのがうれしいの」と久子さんがつぶやいた。わたしは、(そういう色たちをよろこぶ久子さんを眺めることが、うれしいの)と思う。うれしい、というより、刺激される。
 久子さんと別れて、帰る途中、それぞれ家に電話した文子さんとわたしが、同じように「ほうれんそうを茹でておいてね」とたのんだのが愉快だった。夫たちが、同じように(すこしあわてて)ほうれんそうを茹でているところを、ふたりで想像する。
 帰るなり冬至のかぼちゃを煮ようと腕まくりをするが、夫がかぼちゃとねぎの味噌汁をつくってくれていた。ご飯。かぼちゃとねぎの味噌汁。しゅうまい(きゃべつといっしょに蒸す)。ほうれんそうのおひたし、あさりの佃煮、の晩ごはん。

 予定ぞろぞろのきょうだったけれど、ところどころに空き地のようなものがあった。予定がひとつなくなってできた空き地、予定をひとつあきらめたことでできた空き地、寄り道によってできた空き地。そのほか、シールや、毛糸や、ほうれんそうやかぼちゃや。空き地というのは、ゆとりである。与えられるのもあれば、自分でつくり出すのも、ある。
 ところで。空き地で何をするか。  
 でんぐり返しがしたい!と思ったりする。
 でんぐり返しをすると、空も雲が近くなるもの。でんぐり返しといっしょに、いろんなものが入れ替わるもの。


Photo

いちご(うちの猫/16歳)は、いつもいつも、
空き地のような時間を悠悠と生きています。
ときどき、みならいたいなあ、と思いながら
その様子を眺めます。

さて、皆さま。
これがことしさいごのブログです。
ことしも、ここへ来てくださって、
お読みくださって、
どうもありがとうございました。

佳い年をお迎えください。
あたらしい年が希望とともに明けますように。
                  山本ふみこ

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2011年12月20日 (火)

グラデーション 〈引用ノート12〉

「その表現じゃ、彼女の心の複雑さを表したことにはならないだろうな。わかりやすくいうとこういうことだ。男を黒い石、女を白い石とするだろ。美月はグレーの石なんだ。どちらの要素も持っている。しかも五十パーセントずつだ。だけどどちらに含めることもできない元々、すべての人間は完全な黒でも白でもない。黒から白に変わるグラデーションの中のどこかだ。彼女はそのちょうど真ん中ということになる」     『片想い』(東野圭吾/文春文庫)

 長女が、「はいこれ」と云って、ただ、それだけ云ってわたしの机の上に置いていった本だ。(はいこれって……)と思ったし、見れば「片想い」とあるからふと、なつかしいこころにもなった。
 それに、「東野圭吾」。人気作家であるのに、一度も読んだことがない(原作の同名ドラマ「流星の絆」は、見たな)。
 けれど、こういうのを、わたしは出合いだと思っている。降られるほうの出合い。降られるのでないほうの出合いは、自分がもとめてもたらされるもの。
 不意に降ってきたので、一瞬もたもたっとしたけれど、だんだん降られたときのかまえになってゆく。降られたときのかまえとは、降りはじめた雨のなかに踏みだす感じだ。傘はないが濡れたっていい、というような。靴を脱いで、雨に濡れた道をゆきたい、というような(できれば、じゃぶじゃぶ)。つまり、ある意味、覚悟をもって踏みだすわけだ。
 読みはじめる前に、本の袖(カヴァの折り返し)を見て、驚く。「著者紹介/東野圭吾(ひがしの・けいご)1958年生まれ」とあったからである。(同い年じゃん)と。同い年なのが、どう驚きなのかはわからないけれど、わたしは、いちいち小さく驚きながらゆく癖をもっている。驚き癖(おどろきぐせ)とでも云ったらいいのだろうか。
 ただし、40歳を過ぎたあたりからは、同じ驚くのでも、ひそっと驚こうと気をつけている。
 ひとが、とくにわたしより年若いひとが、何かを打ち明けてくれるようなとき、こちらがあんまり驚くと、相手に打ち明けなければよかったという気持ちにさせてしまうことがあるからだ。こちらは、驚いても、声はおろか顔にも驚きを出さず、「ふーん」というふうに受けこたえをするのがいいように思える、きょうこのごろ。「ふーん」と云うのか、「そうなの」と受けるのか、それは何でもいいけれど、「わかる」、「わかるような気がする」というニュアンスを含ませるのがいいように思える、きょうこのごろ。
 そのニュアンスを醸そうとすることで、こちらにも、わかろうとする方向性が生じるから、不思議だ。

 さて、『片想い』のはなし。
 降られて、読んで、気がつくとすっかり浸りこんでいた。波が寄せては返すように、そうだったのか、そうだったのか、そうだったのか、そう……と、わたしの脳みそのなかを理解の波が行ったり来たりしている。
 子どものころわたしは、人間には、男性と女性の2種類があると思っていた。大人になったばかりのころは、男と女って、別の「属」だか「種」にちがいないと思った。その後やっとのことで、人間、2種類じゃなさそうだぞとわかり、男性のように見えていてもじつは女性だという存在や、女性のように見えていてもじつは男性だという存在があることを胸におさめ直した。以後、あらゆる性(とくに少数派の)に偏見をもたないわたしになってきたつもりでいたのである。
 ところが。『片想い』を読んで、男女の区別がそも、ある線できっぱり分かれているというわけでないことに気がつかされてしまった。ひとりの人間のなかにも、男性と女性が棲んでいる。
 女ということになっているわたしのなかにも、男性の要素が存在している。……そう思って考えると、ときどき、自分をつくる性の要素が偏りを見せていたことに思い当たる。
 冒頭に引用した「完全な黒でも白でもない。黒から白に変わるグラデーション」というくだりが慕わしく、午睡に落ちてゆくときのような安心感に包まれた。そうだったのか、そうだったのか、そうだったのか、そう……と。

 グラデーションという思想に切りこまれて、わたしは困惑している。ああ、この世はそんなに単純じゃあないのだわ、と思っている。わたしのなかの「こっち側」と「あっち側」が双方片想いし合って、あっちは(こっちは)、こっちを(あっちを)わかってくれないとじれている。
 それでも、グラデーションという在り方に、なぜだか救われた、とも思っていて、どうなっているのかしらわたしは……とあきれる。
 ここまできて、どうしても書いておきたいことが出てきた。
 グラデーションを生きているわたしたちには、しかし、グラデーションであってはいけない立場がある、ということ。それは、グラデーションを生きるひととしての存在を超えて、この世界を未来につなげる責任において。
 自然のサイクルを回復し(これ以上、自然を壊さないというところからはじめて)、未来につなげてゆこうとする生き方をする立場だ。

1_2
昨年の12月にいただいた、ポインセチアです。
名は、紅子(べにこ)。
1年を通じて、苞(ほう/紅かったのは7月まででした)を
茂らせ、たのしませてくれました。
ところが、冬になっても一向に苞は紅くなりません。
園芸書で、夜間覆いをしてやると紅くなるということも
学びましたが、なんだか、緑のままの紅子もいいなあと思えてきて。
紅くても、緑でも、紅子は紅子だと、思えてきて。

Photo
Merry Christmas.
この天使のオーナメント(全長5.5cm)、子どものころからの
気に入りで、ツリーにぶら下げたあとも、いつも近くに行って、
眺めていました。
近年、母に頼んで、実家からもらってきました。
とても古いモノなんだそうです。

静かな、佳いクリスマスをお迎えください。

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2011年12月13日 (火)

手のはなし

 手のきれいなひとが好きだ。
 きれいと云っても、つるつるぴかぴかの意味ではない。ええと、なんだろう……。所作のきれいなこと(それはたしかに大事だ)。
 それに、よく働く手であること(それはもっと大事だと思える)。

 手のきれいなのは、文字通りの「きれい」ではない、とたしかにわたしは考えている。
 けれど、のび切った爪を指につけている手や、何年も手入れをしていないくたびれた手は、いくら所作がきれいで、働き者であっても、「きれい」の範疇に加えるわけにはいかない。
 そう発表した上で、おそるおそる白状するけれど、のびた爪にぎょっとしたり、自分の手ががさがさなのに気がついて急いでポケットにつっこんで隠したり。それが、最近のわたしである。
 きれいな手が好きなわたしの手が、きれいでないのは……。わたしが、使い放題使うだけ使って、「ありがとう」も云わず、クリームもすりこんでやらない暴君だからだ。暴君。……よく云った。

 これはいけないと思い、ハンドクリームをつけようとした。友人がプレゼントしてくれた、ものすごく効き目があって、いい香りのする(チェリーブロッサムだった)ハンドクリームのフタをとって、指ですくいとろうとした。
 が、「待てよ」と思う。わたしはじきに台所に入り、料理をする身だ。それなのに、手にこれをすりこんだらどうなるだろう。まず、石けんでごしごし手を洗う。ハンドクリームを洗い流すのはもったいないし、それに、洗ったあと、塗ったものと、その香りが調理に障るのではないだろうか。それは困る。
 だから就寝前にすりこめばいいというわけなのに、つい仕損なう。まことにまことに、感謝知らず(自分の手への)だ。
 そういえば、以前、「柚子のタネを焼酎につけたものを手にすりこめばいいですよ」とか、「わたしは料理に使うオリーブオイルを手に塗っています」とおしえてもらったことがある。そんなありがたい助言を忘れて、ことしもまたもや暴君になっているなんて。がさがさの手で、過ごしているなんて。

 一昨日は台所で働きながらオリーブオイルをすりこみ、昨日はごま油を塗った。なかなかいい具合で、しわしわよれよれがさがさの手が、女っぷりを上げている。……ような気がする。きょうは、一昨日、柚子のタネを小さな空き瓶に入れ、焼酎を注いだもの(※)をすりこもうと思う。

 ありがとう、手よ。

※柚子のタネのハンドオイル、ほんとうはひと月ほどおくと、有効成分が出てくるそうです。でも、そんなことにかまわず、どんどん使っています。タネは洗わず、そのまま小瓶に入れています。

Photo
友人が、プレゼントしてくれたへちまです。
夏のあいだ、グリーンカーテンとしても活躍し、
たくさんの「実」をつけてたのしませてくれたそうです。
わたしは、これで(てのひらに収まる大きさにカットして)
食器を洗うことにしました。

へちまも、
ハンドオイル(柚子のタネ+焼酎、オリーブオイル、ごま油などの)も、
台所を変えてくれています。
……うれしい。

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2011年12月 6日 (火)

魔法

 わたしは、ひとつだけ魔法をつかえる。
 どんなふうな魔法かを記しておかないと、読むひとによっては恐ろしい魔女の仕事を想像するかもしれない。
 ひきはじめの風邪をなおす魔法である。
 30年ほど前のある年の暮れ、わたしは出版社の編集室にいた。ただでさえせわしない雑誌の編集作業に年末進行が加わったてんやわんやのさなか、どこからか風邪をもらってしまった。背中がぞくぞくする。……困った。
 そのときだ。当時机をならべて仕事をしていたKさんが、「どれどれ」と立ち上がった。Kさんとは母娘ほども年齢がちがっていたが、親しい友だち同士でもあった。寒気が襲ってきたのを、わたし自身が気がつくより早く気がついてくれたようだった。
 Kさんはわたしの背中にまわり、右の肩甲骨のあたりをさする。何かをさがすようにしばらくさすっていたが、「いくよ」と云って、親指で背中の一点をぐーっと押した。痛いと云うこともできるし、いい気持ちだと云うこともできる、が、何より効いているという実感がからだ全体にひろがった。Kさんは、云う。「ここは風邪のツボなのよ。この一点がみつかると、指がぐーっと入りこむの。ほら、わたしの指のつけ根まで入ってる。効くよー」
 これが効いたのである。わたしの寒気はたちまち消え去って、これからどっぷり風邪に浸りこもうとしていたからだが、しゃんとした。驚く腕前である。
「魔法みたい」とKさんに云う。
 Kさんは「仕事、仕事。初校の読み合わせしちゃおうか」と云う。

 これが、わたしに魔法が伝授されたときのはなしである。
 以来、どのくらい、あのとき伝授された魔法をつかったことだろう。
 家の者たちにはもちろん、出かけた先でも、たびたびこの魔法をつかった。子どもの通う保育園、美容院、バスのなか(となり合わせた老婦人が「寒気がする」と打ち明けた)、道の上(宅急便配達のおじさんが風邪ひきだった)など、いろいろの場所で魔法使いになったなあ。Kさんが、親指でぐーっと背中を押しながら云ったあたたかみに満ちた合(あい)の手を真似るのを忘れずに。
「効くよー」

 魔法魔法と云っているが、ほんとうは魔法でないことは、承知している。けれど、暮らしにくいところの少なくはないいまの世、そんなことのひとつも云ってみたくなる。そしてそれは、「風邪、お大事に」と声をかけるかわりにすることだから、魔法と云っても許してもらえるような気がして。
 わたしの魔法にかかってくれた人びとは、みんなからだが楽になったと、云ってくれる。「風邪がなおったような気がする」とまで云ってくれるひともある。それほどのことでなかったかもしれなくても、魔法使いとしたらうれしい。互いのあいだに、「風邪、なおしてほしい」という思いと、「ありがとう」という思いが通いあうのがこの魔法のいいところ。
 さて。その魔法、ささやかに伝授させていただこう。
 風邪をひきかけたそのひとの背中にまわり、右の肩甲骨の上部をさぐると、そのツボはみつかる。親指の腹で押して、指がぐーっとなかに入りこんだなら、まさにそれがそのツボである。ここがみつけられたら、魔法は半分かけられたも同じ。あとは気を入れて指を押しこみ、「効くよー」とやさしい声で云うだけでいい。
 ところで。
 この魔法には、おもしろい一面がある。
 それは、自分にはかけられない、というものだ。


Photo

3年休んで、ことし1月、味噌づくりを
復活させました。
わたし自身が仕込んだのにちがいないのですが、
こうして完成してみると、不思議で不思議で、
魔法のようだと思うのです。
わたしたちの暮らしのなかには、
魔法のようなことがいっぱいありますね。

        *

「家の仕事に憩いあり」という名の小さな読者の会を、
11月30日(水)東京都豊島区の自由学園・明日館にて開きました。
36人の皆さんと、たのしいひとときをもちました。
(抽選のため、参加していただけなかったかたができたこと、お許しく
ださい)。
親しい気持ちになって、わたしのはなしは雑談に終始しましたけれど、
共通の問題や、暮らしのなかにあるおもしろみを確かめ合うことが
できたと思っています。どうもありがとうございました。

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2011年11月29日 (火)

とくべつの日

 目が覚めたら、5時だった。
 すこしはなれたところで、いちご(うちの猫。16歳)がまるくなっている。
「おはよう」
 いちごは、ああ、と鳴く。おめでとうと、鳴いてくれている。
 きょう、わたしの誕生日。
 53歳おめでとう、の日。ずいぶんたくさん生きてこられたものだ。感謝。
 そしてきょうは、土曜日。三女が中学校へソフトテニスの部活に出かける。眠そうな顔で台所にやってきた三女、「おはよう。きょうはお天気? 気温は何度くらいかな」と云い、とつぜんはじかれるたように「おたんじょび、おめでとう」と叫ぶ。
 NHKの連続テレビ小説「カーネーション」をひとり見る。主人公の糸子に赤ちゃんが生まれた。あら、おめでとう。きょうのわたしは、のんびりしていられない。たーくさん仕事をしないといけない。「カーネーション」の糸子は、夫に向かって「わたしは仕事が大好き」と云っていたけれど、わたしは好きだろうか。……好きだと云えるだろう。
 机のパソコンに向かって、メールを確認する。「お誕生日おめでとう」が5つならんでいる。1つは、同じ日生まれの友人から。急いでこちらからも「おめでとう」とメッセージを送る。
 さあ、仕事。……しかし待てよ。そうだ、あのひとたちにも「オメデトウ」を云ってもらおう。「嵐」のファンクラブの窓口(サイト)から「そこ」へゆく。誕生日の日いちにちだけ、嵐の5人におめでとうと云ってもらえる「そこ」へ。云ってもらいにこちらから出かけてゆくにしても、このはずみ方はどうだろう。「ありがとう、ありがとう」と云いながら、もう一度見る。それから「アリガトウ、アリガトウ」と云って、もう一度。「有難う、有難う」と云って……。画面の下には「このメッセージは、本日の24時まで見ることができます」とある。
 原稿にとりかかる。よくよく考えないと、最終地点に着地できないというような内容で、書きはじめている。今し方ゆるんだ口元が、きゅっと締まる。ああでもない、こうでもないと苦心の末、書き上がる。
 書いている途中で二度、家の門の呼び鈴が鳴った。
 ひとつめは、西村佳哲(よしあき)さんの新刊だった。『わたしのはたらき』 (※1)。「自分の仕事を考える3日間Ⅲ」としてことし1月、奈良県立図書情報館で開催されたイベントから生まれた本である。8人のゲストと数百人の人びとが全国から集まって、仕事や働き方をめぐって、話を聞いたり語り合ったり。わたしはゲストのひとりとしておかしな話をしたが、何よりも自分の勉強の機会と出会いをもたらしてもらった。そんななつかしい本がきょう届くなんて。ありがたいにもほどがある。
 ふたつめの呼び鈴。やってきたのは12月はじめ発売の拙著(※2)だった。いつものことだが、カヴァも帯も見るのは初めて(本が出るまで見ないことにしている)。へえええと感心する。本の誕生と、自分の誕生日が重なったのは、たぶん、初めてのこと。
 上のふたりの娘たちを起こしにゆく。ふたりがふたりとも、布団のなかから「お誕生日おめでとう」と云う。にょきっと腕をさしのべて。
 つぎの原稿にとりかかる。こちらは、何を書くかまだ決まっておらず、どうしたものかなあと考える。目につくものを手にとったり、机まわりの片づけをしたりしながら考える。
 午後1時、部活から三女もどる。散歩がてら買いものと昼食に出る。女ばかり4人でぞろぞろと。靴を修理したいと、長女は2足の靴が入った袋を下げている。靴を預けてから、三鷹駅近くの寿司店の客になった。あおさの味噌汁がおいしい。烏賊と小肌がおいしい。三女が、
「ね、好きなものは先に食べる? あとにとっとく?」
 と皆に訊いている。
「わたしは先に食べちゃう」
 と長女が答える。
「とっておくと、食べられちゃうもの」
 これは、ひとのおかずをねらうことのある(ことに弁当)長女ならではの答えである。
 会計をし、店の外に出て歩きはじめたが、なんだか落ち着かない。たったいま、支払いをすませた金額が、少なすぎるように思える。店にとって返してたしかめてもらう。思ったとおり、ひとり分計算から抜け落ちていた。気がついて、とって返せてよかった。こちらにその気がなくても、一部ただ食いをするところだった、誕生日の日だと云うのに。
 前から行ってみたかった三鷹駅南口から10分ほどの「山田文具店」を覗きにゆく。なつかしいモノ、実直なモノ、慕わしいモノが、厳選されてならんでいる。子どもたちがそれぞれ、誕生日プレゼントを買ってくれる。原稿用紙の升目のあるはがき大の便箋や、紙のシール、グーチョキパーのかたちのクリップなど。
 帰りに、いつも行く文具店「NIHON-DO」の客になる。文具店へのときめきは、子どものころからすこしも変わらない。年賀状の版画の道具をもとめる。
 帰宅してもうひと仕事。子どもたちは台所に入りこんで、晩ごはんの仕度をしてくれている。昨日、何が食べたい?と尋ねられ、咄嗟に「パクチー(香菜)」と答えた。たぶん、パクチーを齧れるだろう。たのしみ。やっとのことで仕事にきりをつけ、風呂に入る。これ(晩ごはん前の入浴)も、若い日から変わらない日課。
 湯上がりに書斎で本を読んでいて、くしゃみをする。この部屋の暖房、どうしよう。北向きの部屋なので、暖房なしというわけにはいかない。先週、寒い日に新聞の挿絵を描いていたら、線がまっすぐに引けずぐにゃりと曲がった。どうしたんだろうと思ったが、手がかじかんでいるのだった。あらま。
 晩ごはんに呼ばれる。
 卓の上に見たこともない紅いランチョンマットが敷いてある。
「これね、いつもの赤紫のを裏返したの。おめでたい感じでしょう? ね」
 と三女。たしかに、おめでたい感じだ。
 シャンパン
 野菜スープ
 シンガポール風鶏飯(けいはん/チキンスープで炊いてある、蒸し鶏添え)
 パクチーのサラダ
 トマト
 プディング
 長女をリーダーに、3人でつくってくれた。どれもよくできている。ありがとう。昼間山田文具店でもとめたプレゼントとカードを受けとる。ありがとう。
 夫は仕事で旅先にいて、きょうをともに過ごせなかったが、いい日だった。

 とくべつの日。
 でも……。明日も明後日もその先も、きっと、とくべつの日はつづく。毎日毎日がとくべつの日なんだと、わからせてもらった、きょう。おめでとう、わたし。


Photo

誕生日の日、
ミニシクラメンの花が咲いているのに気づきました。
……ぽっと。
昨年もとめたミニシクラメンです。
名前は不二子(「ルパン三世」に登場の「峰不二子」から名前を
もらいました)。
不二子は、たくましいです。
下のほうに、つぼみ、たくさん。
うれしいなあ。

※1『わたしのはたらき』(西村佳哲/弘文堂) 本体1800円+税
※2『そなえることは、へらすこと。』(山本ふみこ/メディアファクトリー)
 本体1200円+税

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2011年11月22日 (火)

課題

 夫が13日間、仕事で家をあけることになった。
 10日間以上留守にするのは、久しぶりのこと。ちょっと心細い。
 わたしは、夫に対してなんというか……、威張っている。威張りながら、頼っている。頼るなら、威張ったりしなければよいのに、つい、威張る。
 つまり、13日のあいだ、わたしは誰に対しても威張れず、頼れずということになるわけだ。心細くもあり、つまらなくもある。

 仕事の目的地から夫が、「無事到着」のメールをよこした。自分でくるまを運転して出かけたので、ほっとして、無事をよろこぶ。
 メールには、「早くも寂しくなっています。留守が長くなるけれど、よろしくお願いします」とあって、思わず笑う。「寂しい」などと云うことの、滅多にないひとである。こころのなかに起こったことを、そのままことばにできる心境というのは、いいなあと、思える。
 こちらも、同じようにゆきたい。そして、こう返信した。
「留守のあいだのことは、大丈夫、まかせてください。さて、わたしが機嫌よく1日を過ごすため、大事だと考えていること、それは何でしょうか。明日の朝までに、この課題を考えて答えてください。ふ」

 つぎの朝、メールで「答え」がくる。
「課題の答え。朝、いちご(うちの16歳になる猫)に『おはよう』を云うこと」
 なるほど、それはいい答えだ。そしてそれも当たっている。が、答えてほしかったのは——

 朝、みんなでその日の分の家事を大方してしまうこと。

 それが、答え。
 どうして課題を出す気になったものか。
 わたしにしたら、夫が13日間留守をすることになったのをきっかけに、この家の1日について考えてみたというわけだろう。考えてみて、1日の家事の大部分(75パーセントほど)を皆で手分けして片づけてしまっていることに、あらためて気がついたのだ。
 残り(25パーセントということになる)の家事は、洗濯もののとりこみや片づけ、晩ごはんの仕度、後片づけ。夕方の家事は、25パーセントという数値よりも楽だと思える。1日のおわりに、それはたいていわたしが担うことになるが、それは労働というより一種のやすらぎである。
 ひとりごとをつぶやきながら台所で働いたり、とりこんだ衣類をたたんだりしながら、縮こまった神経をのばしてゆく。

 わたしが夕方の家事をやすらぎと思えるのも、朝の一同のはたらきによるところが大きい。
 いちばんに起きるのはわたしだけれど、つぎつぎに起きだして、忙しく働く。夫は植物の水やりや味噌汁づくり(、ときに掃除)、長女はトイレと洗面台の掃除、二女は風呂掃除(、ときに掃除)、三女は外まわりというふうに、たびたび役をとりかえたり、「きょうはできなーい」と叫んだりしながらも、とにかく働き、平均して1日の家事の75パーセントを片づける結果となる。わたしは、そのあいだに朝ごはんと弁当の仕度、洗濯と洗濯干しをする。
 朝がこんなふうにはじめられると、わたしは機嫌よく書斎に入ることができ、待ちかまえている予定に向かえるというわけだ。

 夫に、課題の答え(朝、みんなでその日の分の家事を大方してしまうこと)を知らせるメールのおしまいに、こうつけ加えた。
「仕事で夜更かししたり、たとえば二日酔いで朝起きられないときには、『ご、ごめんね、起きられないや』と云ってください。けんかしたときも、とにかく朝、わたしがいる台所にきてください」

Photo_2
夫が13日間の旅仕事に出かける数日前のことです。
「裁縫箱、貸して」と云います。
裁縫箱を、夫が自分で使おうというのは、
初めてのことのような気がします。
しばらく、太い針でちくちくやっているようでしたが、
夕方、こんなのができていました。


Photo_3
こら、こんなふうに。
業務用のビデオカメラの吊り紐になりました。
近所の自転車店で、タイヤのチューブをもらってきて、
古いかばんの提げ紐と、縫いあわせたそうです。

チューブだと、ビデオカメラがすべらず(カメラは
固定が原則なので)、具合がいいというわけです。
先輩カメラマンがつくったのを真似たとのことですが、
男のちくちく、なんていいんだろうと感心しました。
(この写真、ビデオカメラをかまえているのは、わたしです。
思っていたよりビデオカメラは重かった……)。

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2011年11月15日 (火)

尻餅と靴擦れ

 雨の夜だった。
 コンクリートの地面が濡れ、ぬらぬらと光っている。なんだか物悲しい。が、それが夜行にふさわしくも思える。
 深夜バスの発車時刻を告げる幾通りかの声を聞き分けようと、うろうろしかけたとき、ぺたんと尻餅をついた。こういう事態に陥ったときの常として、一瞬、何が起きたかわからなくなる。
 ——え、何?
 というふうに。まるで、時空の穴に落ちこんだようだ。が、その一瞬が過ぎると、こんどは事態が飲みこめて、ああ、尻餅をついたのだなと自覚する。このときの感覚が、もっともひとによってちがいがでるところだ。
 さあ、どう感じるか……。
 わたしは、こんなふうに感じた。
 ——尻餅。なんだか、すとんとついたな。正調尻餅。
 そして、着地地点は、ここだ。
 ——これでよし。この旅は、うまくゆく。

 デニムのお尻をさすりさすり立ち上がると、まわりの驚いた顔、心配して、声をかけようかそうしないでおこうか迷うような顔に囲まれているのに気がついた。これもいつものこと。わたしは、自分の尻餅や転びに馴れっこになっていて、どうとも思わないけれど、いつもここで、反省する。まわりを驚かせてしまったことに対して。
「あ、大丈夫です。すみません」

 学生時代(中学、高校、短大と8年間)の同級生の個展が奈良で開かれる案内をもらって、とつぜん出かけることにした。行動力があるとはとても云えないわたしには、めずらしい冒険だ。しかも、行き帰りの交通手段を、深夜バスと決めた。
 冒険を前に、片づけておかなくてはならないことを片端から片づけ、仕事の約束も守ろうと(また、帰宅した日に焦って仕事をしなくてよいように)、それはもう大忙しであった。自分にめずらしい冒険への緊張からか、かなり切羽詰まっていた。ただし、切羽詰まったのは3日間のことだ。行こう、と決めたのが出かける3日前だったから。
 冒険への緊張。それは端(はた)にも伝わったらしく、「お母さん、緊張してるね」と長女に云われる。
「うん。深夜バスも初めてだしね。ちょっと、き、緊張してる」
 深夜バスに乗ることも、度重なる地方への取材も、ものともしない勇敢な長女(雑誌の編集部に勤めている)は、「大丈夫。いまの深夜バスは進化しているからね。早朝到着して、深夜出発でしょう? スーパー銭湯を調べておくといいよ。時間がつぶせるから」と云う。
 そして、首枕(息を吹きこんでふくらませ、首に巻きつける枕)と、アロマオイルを染みこませたアイマスクを手渡してくれた。うれしかったが、これで、また緊張が募る。

 深夜バスの集合場所で尻餅をついたところにはなしを戻すけれど、そのとき、やっと緊張がほどけたのである。尻餅でどうして緊張がほどけるかと尋ねられても困るけれど、ほどける。ああ、この尻餅が、この旅のあいだの困ること全部を引き受けてくれたなあと思うからである。
 そして、ほんとうにいい旅になった。
 まず、深夜バスがわるくなかった。首枕とアイマスクが威力を発揮した。かなたの長女に向かって、「ありがとう、ありがとう」と云いながら眠りにつく。
 さがしておいたスーパー銭湯もいい塩梅だった(到着の朝と、出発前の夜と、つまり同じ日に2度同じスーパー銭湯の客になった)。
 そうして。友人の個展、「樫本素子 展」がすばらしかった。
 およそ20年ぶりの再会だというのに、とつぜん出かけていったので、たいそうおどろかせてしまったが、絵は大作も小さな作品もみな、こころに響いた。20年会わないあいだ、わたしの知らないいろいろのことが起こったのにちがいなくても、作品から、素子さんがずっと明るい気持ちで過ごしてきたことが伝わった。
 個展会場でばったり会った、2人の級友(こちらは30年ぶり)と、近くの店で目がとび出るほどおいしい天ぷらを食べる。
 べつの友人と近鉄奈良駅の行基(ぎょうき)さんの銅像前で待ち合わせをし、ふたりで「磯江毅=グスタボ・イソエ 展」(見ることができて幸いであった/奈良県立美術館)と「正倉院 展」を見、釜飯を食べた(このとり釜飯がまた、おいしい)。
 仕事を終えた友人のだんな様が車で来てくれ、若草山に上がる。頂上から眺めた奈良盆地の夜景。それをこころに刻みながら、死ぬ間際この光景を思いだすかもしれないなあと、ふと考える。暗がりのなか、鹿が鳴く声を聞いた。鹿を2頭ばかりバスに乗せ、連れ帰りたいようだ。
 という奈良での1日。すばらし過ぎる1日。
 出がけ、バスに乗りこむ前についた尻餅のおかげで、無事冒険ができたのだ。友人夫妻と別れたあと、足のかかとに靴擦れができているのに気づく。夜、その日2度めのスーパー銭湯に入ったとき、見ると、皮が剥けてそうとうにひどい靴擦れであることがわかった。どうりで、痛いはずである。
 いつも履いているスニーカーで、これほどの靴擦れができるとは。
 ——ああ、そうか。
 と、こころづく。
 この旅のよろこびと無事がもたらせるのに、尻餅という災難だけでは足りず、靴擦れも加わったのだなあ。と、こころづく。

Photo
靴下(三女の)のかかとがすり切れたので、
あたらしいのを買いました。
左の靴下、3回は繕いました。

尻餅、転び、靴擦れのようなのも、
わたしには「お守り」に思えますが、繕いも、
そうとうに「お守り」になると信じています。

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2011年11月 8日 (火)

何を足すか 〈引用ノート11〉

 日本中のひとが、昨日より今日の方が少しでも美しくなったとしたら、日本中は昨日より今日の方が美しい国になるのです。今日よりは又明日がもっと美しくなったとしたら、日本中は又ずっと素晴らしい、美しい国になっている訳です。
 日本中の女性——といっても、それは、実はあなたがた一人々々が、自分をもっと美しくしようと考えて、ほんの少しでも努力して心がけてゆけば、結局はそれが日本中を美しくする……ということになるわけです。
 もっと美しくなろうと考えることは、それは何もこれ以上お金をかけるということではなくて、今のままでも、例えば、どんなふうに着るものの調和を考えたらいいか、あるいはどんな組合せをしたら美しいのか、またこんなところには何を着て行ったらいいか、といったようなことを、一番効果的な結果になるための工夫をするのです。また女性が「美しく」見える時は、美しい着物を着ていることだけではなくて、そのひとのほんのちょっとした女らしい心づかいから、思いがけない美しさが見られるものだということも知っていて下さい。   
       『あなたがもっと美しくなるために。』(中原淳一/国書刊行会
※1)所収

 「中原淳一」(※2)は、女性たちのこころをときめかせる(励ます、ともいえる)世界観をつくった人物である。ほんとうは、わたしのひとつ前の世代が、「中原淳一」の存在との実時間を生きていた。わたしはといえば、姉さん格の友人や先輩の部屋で「それいゆ」や「ひまわり」(※3)に出合ったクチである。坐りこんで、時がたつのも、日が暮れるのも忘れて読みふけった。
 そのまばゆさは、遠い世界のはなしのようでありながら、そのじつ努力によって、自分もそこへゆき着くことができるという気持ちにさせられるのが常だった。うつくしいが華美ではなく、豊かだが贅沢ではなかった。
 久しぶりに「中原淳一」に会いたくなって、本棚をさがすのに、1冊もみつからない。さがしながら、そういえば……と、頼りない気持ちになってゆくのがわかる。
「中原淳一? 知らないなあ」とか、「何をしたひとですか?」と云われるたび、野蛮なこころになって「これをあげるから、読んでみて!」と叫んでは本を押しつけている自分を思い返して。そんなことでいちいち野蛮なこころになったりするのは、「中原淳一」を幻滅させる振る舞いであることをわかっているつもりだ。それでも、知らないという若いひとに、どうしても知らさなくては、と思うあたりで、突如野蛮に、どうかすると獰猛になってしまう。

 本棚に「中原淳一」の本が(あんなにたくさんあったのに)なくなってしまったことを知ったわたしは、また野蛮なこころになりかかって、書店に本をさがしにゆく。とりあえず、かつて自分が持っていなかった本を1冊さがしあてて、やっと野蛮から解放されたのだった。
 その本『あなたがもっと美しくなるために。』のまえがき(掲出の)を読んで、唸る。これは野蛮、獰猛系統のものでなく、しみじみ感じ入っての唸りである。
「中原淳一」を好きなのは、「日本中のひとが、昨日より今日の方が少しでも美しくなったとしたら、日本中は昨日より今日の方が美しい国になるのです」と、堂堂と云いきるところであり、価値基準を「お金をかける」に置かないところ、すがたかたちのおしゃればかりでなく「なかみ」を大事に考えるところだ。
 この本には、主に、おしゃれについての考え方、工夫について書かれている。帽子のかぶり方。替カラー(衿である)のはなし。ハンカチのはなし。端切れでつくる家着。1着の服を何通りにも着る方法。セーターをよみがえらせる方法。などについて書かれている。そればかりではない、あいだに、電話のかけ方、文字を書く練習、坐ったときの姿勢、うつくしい歩き方、清潔な手、ということについてのエッセイもはさまっていて、はっとさせられる。
 その昔、先輩の本棚からひっぱり出した「それいゆ」には、オーバーを2年に1度、3回仕立て替えたなら、6年に3度あたらしい型のオーバーが着られるというはなしがのっていた。また、1着しかないオーバー(グレーか黒を選んで)の衿のあしらいを変えたり、ベルトをするなどしていろいろに着ることができるというはなしも読んだ。
 そういうはなしは、いつしか自分のなかに棲みつくものである。わたしが、30年以上も1着のコート(紺色のロングコート)を気に入って着つづけているのも、「中原淳一」の導きによるような気がする。途中、仕立てなおしの専門家に頼んで肩幅を詰めてもらったり(肩パットもはずして)、裏地をなおしたり(これは自分でした)しながらの30年である。
 紺色のコート。その存在は、わたしに何かを告げている。
 あるモノをいいなあと思う、気に入る。この選びは成功だったなあ、などとも思ってよろこぶ。大事に、できるかぎり長く使いたいなあと希う。
 ここにあるのは、おしゃれのこころ、約しいこころだ。が、それだけでは足りない、と紺色のコートは告げている。おしゃれ単独でも成りがたく、約しさ一辺倒でも成りがたい有り様(よう)を、紺色のコートは告げている。
 何を足すか。それは、手をかけるということだろうなあと思う。ワードローブに置きつづけ、ひたすらに「大事大事」と思おうとしても、やがて着飽きて(見飽きて)しまうだろう。が、修繕や手入れを加え、小物の工夫をすることで(仕立て替えるところまでゆかなくとも)、おしゃれと約しさが手をとり合うことができる。愛着が生まれる。

 なんだか、また、冬のやってくるのがたのしみになってきた。あのコートを着るたのしみがある。ことしは、どんなふうなことを加えよう。昨年は、若い友人から贈られた、渋みの効いた青系のマフラーがコートの衿もとを引き立ててくれた。
 そうそう、そのコートは丈が長いので、駅の階段を上るときなど、前立てをすこうし持ち上げるようにしないと、裾(すそ)で階段掃除をすることになる。そんなことに気を配るのも、愉快。そうしてまた、長さ故に姿勢をよくして着ないと、折れまがった案山子(かかし)のようになってしまう。ぴんと背筋をのばして、歩かないといけない。そんなことでも、冬の相棒とも云えるコートは、わたしを励ましてくれている。

                     *

 長年の気に入りをある日とつぜん失う悲しみのあることを、ことし知りました。そのような目に遭った人びとのもとに、気に入りの1着がまたやってきますように。

※1 『あなたがもっと美しくなるために。』
1958年(昭和33年)ひまわり社発行の『あなたがもっと美しくなるために』を原本にした作品。

※2 中原淳一
1913−1983 画家、人形作家、ファッションデザイナー、スタイリスト、ヘアアーテイスト、作詞家ほか。著述作品も多数ある。

※3「中原淳一」が自ら企画編集した雑誌に「それいゆ」(1946年)、「ひまわり」(1947年)、「ジュニアそれいゆ」(1954年)、「女の部屋」(1970年)がある(カッコ内は、創刊の年)。「それいゆ」は、フランス語のひまわり。 

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左側が、ここへご紹介した『あなたがもっと美しくなるために。』です。
そして、もう1冊、『夫 中原淳一』(葦原邦子/平凡社ライ
ブラリー)がうちにはあります。この本は、若い友人にも渡さず、持ちつづけて
いました。
葦原邦子(あしはら・くにこ)さんは、戦前の宝塚の大スターです。
退団後、あこがれのひとと結婚、夫を支えつづけました。
出版社時代、幾度かお目にかかる機会を得ました。
あたたかいあたたかい、方。おふたりの夫婦愛は、ひまわりのように
思い出のなかに咲いています。

「中原淳一」の本は、どの本を見てもよいと思っています。
これがおすすめ、と選びきれず、「とにかく」手にとってみてほし
いなあと希っています。

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2011年11月 1日 (火)

ともだち

 先週のつづきで、「不便」と「便利」のことを考えている。考えずにはいられない。なぜと云って、暮らしをどうにかくりまわしてゆこうという立場のわたしたちにとって、「不便」と「便利」は大問題だからだ。
 暮らしをどうにかくりまわしてゆこうという立場のわたしたち、と書いて、可笑しくなる。暮らしをどうにかくりまわしてゆこうという立場でないひとというのは、この世には(ほとんど)いないことに突きあたって。(ほとんど)と記したのは、この世には思いがけないことがいくらでもあるからだ。そして、わたしには、その思いがけなさがまだまだわかっていないからだ。

 さて、「不便」と「便利」のはなし。
 わたしが小学校から短大まで14年間かよった自由学園という学校は、不便な学校だった。どんな学校でしたか? と尋ねられたときには、「うつくしくて、不便な学校でした」と答えることにしようと決めているくらいだ。
 残念ながら、そういう問いを受けたことはない。自由学園のことをすこしは知っているひととのあいだでしか自由学園のことは話題にならず、話題になるときには、たいてい相手が「おもしろい学校」、「変わった学校」というふうに云ってはなしが終わる。
 いつか、「うつくしい」というほうのはなしも書いてみたいと思うけれど、きょうは「不便」のほうのはなしを。

 自由学園は、羽仁吉一・もと子夫妻の創立した(1921年)学校である。ことしの4月、創立90周年を迎えている。
 羽仁吉一せんせいの著作に『雑司ヶ谷短信』(上・下巻/婦人之友社)がある。月刊誌「婦人之友」の巻末に、1932年(昭和7年)以来23年間書きつづけられたものだが、そのなかに「教育は不便なるがよし」という一文がある。
 なんと潔いことばだろうか、「教育は不便なるがよし」とは。
 学生生活のなかには、たしかに不便なことがたくさんあったけれど、このことばを胸のなかで唱えることによって、その値打ちをわかる者になりたいと考えていた。その意味では、健気な学生であったとも云える。が、そういう方向で考えないと、このめずらしい学校生活をたのしむことはできないだろうという切実な思いがあったのも、また確かだ。
 昼食づくり(当時は当番の25人ほどで約600人分の食事をつくった)。後片づけ。掃除ほか、多くの事ごとが生徒の自治でおこなわれた。
 そのひとつひとつに、ほとんど昔ながらの方法で立ち向かってゆく。リヤカーでの荷物運び(坂道はあったし、あれはほんとうに重かった)、薪を使っての竃(かまど)のご飯炊き、サカナも600尾下処理して炭で焼いた(高校1年の1年間、サカナ料理だった。初めて焼いたサカナはトビウオで、そのときは、サカナ嫌いの友人に代わったのだった。そうしてその後1年間、当番のたびにサカナを焼く羽目になった)大鍋での煮炊き(おかずばかりでなく、ジャムやミンスミートもつくった)、学校じゅうの雑巾洗い、カーテンの洗濯、繕いもの。堆肥もつくったし、芝刈りもした。
 冬は寒かった。
 学校のある東久留米市は、同じ東京でも23区に比べると1度か2度気温が低い。その上、学校の正門を入り、坂を下りて女子部にたどり着くとまた1度か2度気温が下がっている。わたしが生徒でいたころは、各教室石炭ストーブだった。当番が朝早く登校して、石炭バケツで石炭を運び、ストーブを焚く。ストーブのなかで空気(気流)がうまく上昇するように焚ければ拍手喝采だが、ときどきうまくゆかずに、教室じゅうがもくもくと煙だらけになった。休み時間になると、皆がストーブのまわりに集まり暖をとる。そんなときに、はずみでスカートやセーターを焦がすというようなことも、1度や2度ではなかった。
 なつかしい日日を思い返しながら、ふと思う。
 あのころ、わたしの目には「不便」と「便利」が見えていた。ただし、そのふたつは相反するものではなくて、そう、ともだち同士のようなものだった。

「不便」は「便利」に向かって云う。
「あのさ、どうしてそこまでしてくれるの?」
「便利」は「不便」に向かって云う。
「キミが大事だからに決まってるじゃない。いなくなってもらっちゃ困るからね」

 ともだち同士が、こんなこと云い交わすなんてこと、ないと思う。云う場面があるとしたら、そうとうに切羽詰まった場面ということになるだろう。が、このたびは、暮らしをどうにかくりまわしてゆこうという立場のわたしに、確かめる必要があったので。
 おかしな会話をさせたこと、「不便」と「便利」にあやまりたい。

 ところで。
 あのころくっきりと見えていた「不便」と「便利」が、いまはよく見えない。「便利」があたりまえになり、そうなると「不便」もまた、見えなくなくなっている。ふたりはもうともだちでもなく、お互いの顔も見えない場所に立っている。

Photo_4
ナイフの写真なんか出してきて、
驚かせたら、ごめんなさい。

これは、結婚して実家をでるときそろえた
ナイフです。
西洋料理を食べるとき、使いましょうと思って。
フォークとスプーンは6本ずつそろえましたが、
ナイフは2本。必要になったら買い足すつもりでした。
ところが。ナイフを買い足すことはなかった……。
出番がくると、ナイフだけは使いまわします。
肉を切ったら、「はい、つぎのひと」というふうに。
さいごはたいてい、ナイフとフォークの両方を使って食べるのが
好きな三女とわたしが使いつづけます。
きっと、これからも2本のままだろうなあと、思います。

ナイフが2本というのなんかは「不便」のうちには入りませんが、
この、じゅうぶんでない感じが、わたしはちょっと好きなのです。

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2011年10月25日 (火)

不便を愛す 〈引用ノート10〉

 不便とは、もちろん便利でないという意味だ。それでは便利とは? 国語辞典にあたると、「つごうのよいこと」とある。それを見て、つごうというのは案外複雑なものだと思った。あなたのつごう、私のつごう。人のつごう、動物、植物のつごう。それぞれのつごうが対立して、うまくいかないことがそこにもここにもいっぱいある。有史以来人間は自分のつごうを優先させてきたと思うが、鉄砲を発明して使うようになるまではそれでも、つごうの悪いことをからだを使って片づけてきた。いつのころからだろう、人間のつごうを力まかせに優先させはじめたために、いま、あちらこちらからしっぺ返しを受けようとしている。
                       『暮らしのポケット』(山本ふみこ/大和書房)

 月に一度、この欄へ「引用ノート」という題で、本ばかりでなく新聞や雑誌、ラジオやテレビ、缶詰のラベルや聞こえてきたやりとりまで、ふと目や耳にとまったことばを紹介することにしてきた。それを、今月していなかったことに気がついて、あらまあと思っている。
 毎週書くので、3週めを「引用ノート」の回と決めていたのに。久しぶりに神戸に仕事で出かけたりしたため、決まりごとが揺らいだのではないだろうか。日日のなか、いろいろの決まりごとができてゆく。ことに、わたしのように、おなじような日日をかさねている者には、それがつくられやすい。
 決まりごとと云っても、それを破っても誰かに叱られることはない。自分で気がついて「あらまあ」と思うくらいで、ことは済む。が、あらまあと思うとき、決まりごとが日日を支えていることに驚くことはある。一日留守にした台所で働こうとするときなど、決まりごとが揺らいでいて驚くのである。
 冷蔵庫のなかで、煎りごまが行方不明になっていたり、知らない食べものがおかずを貯める容器に入って、すましてならんでいたりする。「おーい、ごまー」「アナタ、誰?」という具合だ。
 「引用ノート」を書こうとするとき、前の週のはじめ、さて何を紹介しようかなあと考えをめぐらす。もっと以前にひらめいていることもあるけれど、これだと決めるのは、前の週のまんなかあたり。わたしは、このたび考えをめぐらすこともしなかったのだった。あわてる(決まりごとが揺らぐと、たいていあわてる)。
 それでも一昨日、「中原淳一」のことばを紹介したいなあとひらめいたので、ほっとした。ほっとしながら本棚の前で、「中原淳一、中原淳一」とさがすが、みつからない。また、あわてる。おそらく「中原淳一」を知らない若いひとに、本をあげてしまったのだ。たくさん持っていたのに、何ということだろう。
 しょんぼりして、また夜にでもあらためて考えをめぐらすことにして、べつの仕事にとりかかる。むかしよくつくったさつまいもの料理のつくり方を調べるため、本を開く。本と云っても、自分が書いた本だ。さつまいもの料理はみつからなかったけれど、ふと「不便を愛す」という見出しが目にとびこんできたのだった。
 いいことばだと思った。
 2002年刊行のこの本には、熊本日々新聞と一緒に配達されるフリーペーパー「くまにちすぱいす」に連載したエッセイを収録している(1996年4月16日号〜1999年3月27日号/「元気の記」)。連載の仕事としては、初めてのものだったのではなかったろうか。熊本の新聞社に勤める熊部一雄さんは、遠くからよくわたしをみつけてくださったなあと感謝したものだった(近くても、仕事をたのんでくださる方があらわれるたび、「よくわたしをみつけてくださったなあ」と思うが)。
 この本のなかに「不便を愛す」という一篇は、あった。
 かなり前に書いたこともあって、自分が書いたのにちがいなくても、親しい若者のものを読むような気持ちで読み返している。あのころは、「わたし」を「私」と書いていたのだなあとか、「有史以来」という云い方をどこでおぼえたのだろうかなあとか、くすぐったく読み返す。
 東京に、十何年ぶりの大雪が降った年だ。降りこめられて買いものに行けず、家のなかの食べものを総動員して食事の仕度をしたことが書いてある。缶詰、乾物、冷凍食品などがいろいろ隠れていて、ごはんがつくれたとある。若かった「私」は、お腹もふくれ、家のなかの食品も片づき一挙両得と云いながらも、反省するのである。不便を嫌い、便利ということばに引きずられている現代の暮らしを。

 こういうときには、節約や手仕事をたのしんでみるのもわるくない。自分の暮らしを見直すと、この時代の不便が何かを教えてくれる、そんな予感がするのだ。便利な暮らし、それはほんとは不便(=つごうの悪い事態)からメッセージを受けとり、その手に実力をつけていくひとの暮らしのことじゃないかなあ。

 というのが、「不便を愛す」の結びだ。
 ——その手に実力をつけていく。
 いま、このことばに再会したことがしみじみうれしい。それを手わたしてくれたのが「私」というのが不思議で、まるでタイムトラベルのようだけれど、あらためて「手に実力をつける」ことをめざしたいと思った。

 このたびは、決めごとを揺らがせた揚げ句、むかしの自分に助けを借りたりして、気恥ずかしい。けれど、昔の自分というのが、ちょっといいことを思ったり、いまの自分におしえをもたらすことのおもしろさを書けたことはよかった。
 そして、来月の3週めまで、「中原淳一」のことばをさがすたのしい時間をもちたいと思う。


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原稿を書いたあと、缶詰かごを見たら、
こんなでした。
さば缶、ツナ缶、とうもろこしのクリーム、
とうもろこしのホールの4缶。
ずいぶんがらんとしているなあと思いましたが、
これだけあれば、かなりいけるという思いもあります。

乾物のひきだしのほうは、
麩3種類、切り干し大根、おぼろ昆布、
干ししいたけ(どんこ)、高野豆腐など、
大勢でした。

近く、缶詰を仕入れようと思います。
定番としては、上記に加えて、ココナッツミルク、
アサリのむき身、果物(ゼリーのなかみ用)、
トマトの水煮などがあります。


※お知らせ
12月4日(日)、東京・渋谷区の「青山ブックセンター」で、
「自分の仕事を考える丸一日」という会があります。
ことし1月、「仕事」や「働き方」をテーマに
奈良で開催されたフォーラム(わたしも参加しました)の出版記念の会です。
ご興味のある方は、お出かけください。
わたしは、3限目(17:30-20:00)を担当します。
詳細は、「こちら」へ。

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2011年10月18日 (火)

水のこと

 雨が降ってきた。
 まず、物干しを思い浮かべる。洗濯もの……は、きょうは外に干さなかった。つぎに思い浮かべるのは、「きょうは、どこを洗おうか」ということだ。雨脚がつよくなってきた。これはいい。風がないところも、具合がいい。けれど、もうちょっと待つほうがいい。雨が地面をすっかり濡らすまで。
 ひと仕事片づけるあいだ待つことにする。思いついたことを宙に浮かせておいて、べつの仕事をする、というのは、なかなかむつかしい。ひと仕事、と思うけれど、とりかかっていた原稿はまだだいぶ時がかかりそうだから、それを脇にやり、挿絵を3枚描いてしまうことにする。
 挿絵はいつも、はがきサイズの情報カード(無地)に描く。うまくすると、するするっと終わるけれど、何にひっかかるのだか、なかなか終わらないことがある。ただし、描きなおすということは、ない。もうずいぶん長いこと、挿絵らしきものを描いてきたが、描き損じというのは3回くらいしかしたことがない。
 出だしで線が縒れてしまい、あらま、とつぶやいて紙を裏返し、気をとりなおしてまた描く、というのは描き損じのうちに入らない。紙を無駄にしていないからだ。
 挿絵は運よく、するするっと描けた。運がよかったのではなく、おそらく思いついたことのほうへ早くうつりたいというこころが、するするっといかせたのだろう。そういうことは、よくある。出かける前の家事なんかは、もう、するするするするっとすすむ。
 挿絵を透明の袋に入れ、小さい紙にうんと短い手紙を書いて、それらを封筒におさめる。宛名と住所を書き、差しだしのほうには住所印を押し、封のスタンプ(その日の気分でハリネズミのか、羽根のかを選ぶ)も押し、切手を貼って、「速達」と赤いペンで書く。これを「うちのポスト」と呼んでいる玄関の靴箱の上に置いて、ここでこの仕事はおわりだ。
 ひと仕事が完了した。やっと思いついたことのほうへうつれる。
 雨合羽を着こみ、傘をさして玄関を出る。傘を左手に持ち、右手にはデッキブラシを持った。玄関前の石の階段は雨に濡れて、すこし雨水がたまっている。いい具合だ。ここを、デッキブラシでごしごしこする。小さな門の前を傘をさしたひとが通り、ちらっとわたしのほうを見る。ちらっと見た目が、「へ?」と、驚いたふうな感じになる。
 わたしなら、雨のなか傘をさし、もう片方の手に持ったデッキブラシで玄関前をこすっているひとを見ても、「へ?」とはならないだろう。そういうことを思いつく同志のように思えて、ずいぶんうれしくなるだろう。

「東日本大震災のあと、どういうところがいちばん変わりましたか?」と、幾度も尋ねられた。そのたびに、いろいろの答え方をしてきた。答えはひとつではなかったけれど、全部ほんとうのことだった。ずいぶんいろいろな答えをしてきたいま(きょうは震災から7か月が過ぎ、8か月めがはじまった日だ)、いちばん変わったのはこれかなあという答えに突きあたったような気がしている。
 水のことだ。
 震災前、朝風呂に入っていたわたしがそれをやめたところから、そのことははじまっている。朝風呂は、朝風呂にはちがいなくても、掃除だからという大義を自分に向かってささやきつづけていた。でも、震災のあと何日も何週間も、ある場合はひと月以上も湯船に浸かれなかったひとのはなしを聞いて、朝風呂には入れなくなった。
 風呂の湯は2日に1回替えるようにした(以前は毎日替えていた)。洗髪は2日に1回、これは以前からだ(娘たちは、毎日洗っている)。
 風呂に浸かりながら、水のことを考えた。ああ、水をもっともっと、大事にしなけりゃと思った。夏になり、ますます水のことを考えた。夏でも、湯船に浸かるのがからだにいいことは知っていたが、どうもそういう気にならなかった。バケツ1杯の水か湯で、自分ひとり分のからだをきれいにすることくらい平気でできるひとになりたいなあと思った。
 家の者たちのためには湯をためてきたが、夏のあいだ、こっそりその練習をした。髪を洗うときは、湯がたりなくて、ちょっとシャワーを使った。

 雨が降ると、デッキブラシで玄関前をこすったり、たわしでベランダの手すりをこする。いまに雨の日に庭に出て、髪を洗ったりするかもしれない、わたしは。


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雨のはなしを書いたので、傘を思いだしました。
この折りたたみの傘は、三女が保育園を卒園するとき、
記念に贈られたものです。
ですから、もう7年半、使っているわけです。
長いつきあいになってきました。

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主に、学校の置き傘として使ってきたとはいえ、
子どもが思いきりよく(乱暴に、と言い換えることもできる)
使うので、これまでに3回骨が折れました。
そのたび修理して(この傘を扱っていた店で)、ほら、この通り。

Photo_3
この傘の骨、丈夫にできています。
丈夫で、修理がしやすいというふうです。

水も大事、道具も大事。
このごろとみに思うことです。

※お知らせ
11月30日(水)13時半~、
東京・池袋の「自由学園 明日館」で、
小さなおはなしの会をおこないます。
この会のタイトルは、
「家の仕事に憩いあり」。
ご興味のある方は、どうぞお出かけください。
詳細は、こちらへ。

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2011年10月11日 (火)

空気砲の威力

 米村でんじろうせんせい(サイエンス・プロデューサー)が、わたしの住む東京都武蔵野市にやってくると聞いて、飛びつく。往復はがきで申しこみをして、「ゆけるかなあ、どうかなあ」とどきどきしながら返信を待った。
 こらえきれずに脱線するが、わたしは、往復はがきをいいものだなあと思っている。思っているだけでなく、たびたび使う。米村でんじろうせんせいのサイエンスショーへの申しこみに使ったりするのは、開催団体が「往復はがきで申しこんでください」と発表しているからであるけれども、そういう場面でないときにも、使う。
 あるひとにお目にかかりたいと思う。電話をかけようかと、考える。が、何時くらいに電話をすれば、お邪魔でないだろうか(比較的)という考えが浮かぶ。……わからない。メールをしてみようと思いつくが、先方はメールをしないのだったと気がつく。そういう場面で、往復はがきをとり出すというわけだ。往復はがきを使って、ご都合をうかがう。
「○日か、□日あたりにお目にかかりましょう」という返事がくる。これが、うれしい。待った甲斐があった、といううれしさだ。はなしは、これでおわりではない。こんどは官製はがきをとり出して、「それでは、○日に吉祥寺の△という店で午後2時にお目にかかりましょう。行き方はこうです。よろしくお願いします。たのしみにしております」と書いて、投函する。電話やメールならあっという間にたどり着く場所に、往復はがきに、もう1枚はがきまで使って何日もかけてたどり着くというのが、わたしにはおもしろくてたまらない。

 そろそろ、米村でんじろうせんせいのサイエンスショーのはなしにもどらなければ。
 サイエンスショーに、行けることになった。返信はがきには、たくさんの応募があったので、午後2回開催することなりました、と書いてある。返信はがきを、自分の部屋の小さなコルクボードにピンでとめる。
 これは、いまから4年くらい前のはなしだ。もしかしたら、5年たっているかもしれない。当時小学生だった三女と連れだって市内の市民文化会館に出かけ、サイエンスショーを観る。米村でんじろうせんせいは、白衣を着てあらわれた。先のとがった素敵におもしろい靴を履いているのが見えた。
 ブーメランを使った実験や風船を使った実験があったが、なかでもいちばんすごかったのが、空気砲だった。
 ステージの上にでっかい箱(ひとつ穴が開いている)があらわれて、でんじろうせんせいがその箱をたたく。すると、ステージの上の(何だったか)モノが、箱の穴から出てきた目に見えないものによって倒れてゆく。目に見えないものは、空気だそうだ。空気の輪っか。箱のなかの空気が、穴から輪になって出てくる。出てきた空気は、回転しながら飛んでゆく。
 回転することで、まわりの空気との抵抗が小さくなるらしい。抵抗の小さくなった空気の輪っかは、勢いよく遠くまで飛んでゆく。サイエンスショーでは、さすがにショーというだけあって、大がかりに、箱から出てきた大きな大きなけむりの輪っか(空気をけむりにしておいて)が、客席のわたしたちに向かって飛んでくるという実験が行われた。たしかに空気のちからがきて、ぼわっという衝撃を与えて後方へゆくのを感じた。

 三女と「すごかったね、すごかったね」と云いながら、歩いて帰る(市民文化会館から徒で7分ほどのところに、住んでいる)。「すごかったね」「うん、すごかった」とくり返し云うのなんかは、科学という学問の苦手な証拠のようなもので、苦手でないふたりなら、どこがどうすごかったかを話し合える。それでも、すごかったことがわかり、たのしいと感じられたことで、苦手だったわたしたちの前には、科学の道がひらけている。と、思った。
 帰宅してすぐ、わたしは、家にあった段ボール箱で空気砲をつくった。サイエンスショーに行かなかった者たちに、すごいところを見せたくて。「箱のなかの底の部分にも、ガムテープを貼らないと」とか云いながら、三女も手伝う。

 そのときの空気砲は、サイエンスショーに行かなかったひとらには、そうは受けなかった。空気の輪っかが目に見えるように、箱のなかで蚊とり線香をたきしめた。おもむろに箱の側面をたたき、けむりの輪っかにして見せたのにもかかわらず。説明がうまくできなかったせいかもしれない。
 いちばんびっくりしてくれたのは、猫のいちごだった。

Photo_11
これが、4年前の空気砲です。
ずっと持っていたんです。
ときどき、ぼんと空気の輪っかを出してひとりで、にんまりしていました。
なにしろ、科学の道をゆくわたしですから。

置き場所はどこか、ですって?
長女の部屋のワードローブのなかです。
洋服もそうはたくさん持たない長女のワードローブはがらがらで、
これを置くスペースがあったからです(客用布団2組も、このひとの
ワードローブに入っています)。
自転車乗りになった長女には、近年、自転車用品がふえてきました。
専用の衣類(お尻のところにクッションのようなものが入っているズボンとか)や、小物類です。
それを、とうとう、この箱に収納することに決めました。
上部のガムテープをはがすとき、ちょっとさびしかった……。
「穴の部分から、小物をとり出せるところが便利です」
と長女に伝えますと、
空気砲をして見せたときよりびっくりしていました。
 ――おしまい。

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2011年10月 4日 (火)

欲の片づけ

 けんちゃん(食器洗い乾燥機の名前)を台所から書斎にうつして、文房具と学校関係(三女の中学)の資料置き場にしたはなしは、以前、ここへ書いた。その後もけんちゃんは、かつての仕事とはまるでちがう仕事を文句も云わずにつづけている。
 けんちゃんに手伝ってもらわなくなってから、食事のあとの片づけを、みんなでするようになった。けんちゃんが来てくれる前、「10分ばたらき」と呼んで、とにかく10分間、みんなで片づけをしようと決めていた頃にもどったわけだ。
あのころは子どもたちも幼くて、片づけに文句の出かかることもあった。それで、ほんとうに10分間タイマーをかけて、時間内に片づけがおわるように、ゲームのような感覚で働いたものだった。きょうは、ちょっと食器の数が多いなというようなときは、こっそりタイマーを10分より長く、15分にすることもあったなあ。
 皆で押しあいへしあい、小さな台所で働くのはたのしい。そして、食器洗いという仕事をとおして、それぞれが何かを学んでいるふうでもある。洗い役になると、いきなり洗剤を泡立てるようにしていた三女が、たちまち、洗剤を使わずに食器を洗う方法を身につけた(あらかじめ、よごれをへらで落としたり、湯をつかったり)。
「10分ばたらき」はいい習慣だったのに、なんだか欲が出て、食器洗い乾燥機を持ちたいと思うようになったのは分不相応だった。ぜいたくを戒めてきたはずのわたしのようなのでも、つい、欲を出す。
 分不相応。身の丈に合った暮らし。そんなことばを思いだせたのも、東日本大震災のあと、自らを省みるようになったからだ。

 ことし、多くの小学生が、夏休みの自由研究のテーマとして、「節電」を選び、それぞれのやり方で研究調査した。新聞でも読んだし、テレビのニュースでもそんな様子や、研究の成果を見せてもらった。
 思いがけないほど電力をつかう道具のひとつに珈琲メーカーがあることも、ある小学生の調査がおしえてくれた。へええええ、と驚いて、夫の仕事場に飛んでゆく。
「珈琲メーカーってね、」
 と報告する。
「そうか、電熱系統だからね。そうか」
 と夫も云い、ふたりで書棚の上の珈琲メーカーをじっと見る。
 この珈琲メーカーは、仕事ちゅう珈琲を飲みたい夫と、仕事仲間のためにと、わたしが贈ったものだった。ほら、また、わたしの欲。
 夫の仕事場の珈琲メーカーは、ドリッパーにペーパーをのせる型だから、電気なしでも上から湯を注いで使うことができる。ああ、よかった。以来夫は、2階の台所で湯を沸かし、そこで、ゆっくり珈琲をいれるようになった。おかげで、夫が珈琲をいれるところを見ている誰かが「わたしもお願い!」と注文できるようになった。これまでは、水だけはとりにやってくるけれど、遠くから珈琲の香りが漂ってくるだけだったのだけれど。

 食器洗いといい、珈琲をいれることといい、道具の使い方をあらためる機会だったのにはちがいないが、ほんとうは、わたしの欲の片づけだったと思う。道具たちをもとのかたちで使ってやれないのは申しわけないけれど、もしかしたら道具のほうでも、本来のかたちを思いだしてしみじみしているかもしれない。


B

この壜、つねに夫の仕事場に置いてある、せんべいの容れものです。
高さ15cmほどのプラスティック製。
コピー機(夫の仕事場にある)を使ったり、
用事があってそこへ行くとき、
なんとなく、容れもののなかのあられをひとつつまんだりします。
こんなささやかなたのしみを、忘れたくないなあと思うんです。

※お知らせ
10月13日(木)18時半~20時半、 神戸市で、
「カフェ雑談 くらしをしあわせにするデザイン」
という「KOBE デザインの日」記念イベントに参加します。
ご興味のある方は、どうぞお出かけください。
詳細は、こちらへ。

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2011年9月27日 (火)

尺取り虫

「栗があるのは、うれしいです」
 と絢(あや)ちゃんがぽつりと云う。

 絢ちゃんは、夫のいとこの長女である。わたしたちからは「従姪(じゅうてつ)」にあたる。呼び方なんかはどうでもよいのだけれど、知ってみるとおもしろくもある。
 絢ちゃんの家は、栗農家だ。お父さんの井上賢(まさる)さん(このひとが夫の母方のいとこ)も、お母さんの一恵さんも、絢ちゃんのお兄さんで長男の圭介さん(わたしたちの従甥:じゅうせい)も、現在、それぞれに栗の仕事とはべつの職業をもっているから兼業栗農家。もともとここは賢さんの奥さんの一恵さんのご先祖が代代守ってきた栗林であり、一恵さんのご両親の代までは栗仕事だけでじゅうぶんやってゆけたそうだ。一恵さんと結婚した賢さんを見込んで家督を譲ったご両親は、じつに見る目があるなあと思える。びっくりするくらい気持ちのいい家族だ。いまは、それぞれに職業をもちながら(絢さんは大学生)、栗を守っている。

 一度、栗の季節に栗拾いをしてみたいと思っていた。それがかなった。埼玉県の中心部、東松山の丘陵地帯に、賢さん一家の家と栗林はある。
 夫と、二女と三女と4人で勇んで出かけてきたのに、途中で雨に降られ、こういう天候のなかでも栗拾いはできるのだろうかと心配になる。傘をさして栗を拾う姿を想像するが、雨には、すこしの間でも休んでいてもらえないだろうか。ところが、到着するなり、雨が上がって雲間から日の光が射してきた。ありがたい。天気のことも心配だし、何より早く栗が見たくて、「一服してください」と云う一恵さんの好意を辞退して、早速栗林にむかう。わたしたちは、長袖長ズボン、長靴(気に入りの、日本野鳥の会の長靴だ)、帽子に軍手という出立ち。それではまだ足りない、「蚊がすごいんだ」と賢さんは云い、ひとりひとり蚊取り線香を携帯するようにと、蚊取り線香入れにひもを通したものを手渡してくれる。それを腰に巻く。
 栗林のなかは薄暗く、地面には栗のいががたくさん落ちている。ああ、そうか、落ちたものを拾うんだな、とそこで気づく。すでに栗拾いの時期も終盤を迎えているので、空っぽの、つまりなかの実をとり出したいがが、木の根元に山となっている。実を拾ったあと、そうしていがを根元にあつめるのが仕事の作法のひとつらしい。
 賢さんが、落ちているいがを足でこうして、と、手本を示してくれる。足でいがをはさんで踏み分けるようにすると、いがが割れてなかの栗が見える。栗の実を火ばさみ(わたしたちは、銘銘火ばさみを手にしている)で、取りだし、かごに入れてゆく。考えていたより栗のいがは頑丈で、手を使っての作業ができないというわけだった。「栗を拾っていて、背中にいがが落ちてきて、つき刺さっていたこともある」と賢さんは云う。
 つい手で栗をとり出したくなるのを我慢して、火ばさみを握りしめる。
 はじめは夢中で、開けるいがを片端から足で開いて、なかの実をとり出していたのが、だんだん、いい栗とそうでもないもの、まだ若いうちに落ちてしまって(前の週には台風もあったので)熟していないものの見分けがつくようになってきた。かすかにだが。いがに厚みがあって、足で踏み分けると、すっと割れるようなのがいい栗のようだ。うつむいて地面の上の栗のいがばかり追っているので、気がつくと、自分がどこにいるのかわからなくなっている。たのしくてたのしくて、仕方がない。もとより、同じことをくり返すような作業が好きなのだ。好きな上に、栗がかごに入り、それがだんだんふえてゆく。
 正午を過ぎたので、栗を拾い拾い、賢さんの家へともどる。

 一恵さんと、一恵さんのお母さんの栗ご飯、手打ちうどん、モロヘイヤのごま和え、春菊のおひたし、きのこの炊き合わせ、それにおはぎをごちそうになる。そういえばお彼岸だった。どれも、おいしい。わたしが自分の本のなかに、ときどき料理のはなしを書くのを知っている一恵さんは、「食べていただくのが、ちょっと怖かった」と云うけれど、それはわたしが食べたりつくったりが好きなだけでたいして腕が立つわけではないことを知らないからだ。腕はないが、このようなもてなしのこころはわかるつもり。

 ご飯のあと、わたしたちが拾った栗を長男の圭介さんと、絢ちゃんが選別してくれる。圭介さんはこの春から大学の職員になっているが、就職のとき、履歴書に特技、栗の選別、と書いたそうだ。何のことだかわからない試験官に、栗の選別について一から語ったという。
 庭先の、作業小屋の台の上に大判のタオルをひろげ、そこに栗をあける。タオルで栗を拭きながら、いいもの、B級(B級と云っても、栗ご飯などにはなる)、腐ったり虫食いで食べられないものの3つに分けてゆく。圭介さんの選別がいちばんきびしく、厳密であることから、頼りにされている。
 眺めているわたしの目から、それがどうして食べられないもののほうにゆくのか、わからないというような具合だ。選別の作業を手伝っているとき、絢ちゃんのつぶやきを聞いたのだった。
「栗があるのは、うれしいです」というつぶやき。「栗があるのは、うれしいです。栗を食べてもらうことで、つながりがつくれるのが、いちばんうれしいかな」と。
 昨日も、大学から帰ってから(絢ちゃんは片道2時間半かけて大学に通っている)、ひとりで、栗拾いをしたそうだ。こちらが聞いて驚くようなことを、こともなげにしてしまい、こともなげに語る。生きる力ということばが浮かぶ。しかも、自然な生きる力。

 集落のなかをひとまわり散歩する。
 黄金色に実って頭(こうべ)をたれている稲が、刈られる日を待っている。ごま、小豆、枝豆の畑。空には、うろこ雲がひろがっている。地平線のあたりまで。ふと足もとを見ると、茶色に赤い線の入った尺取り虫が1匹、となりでせっせと尺を計っている。
 きょう、この尺取り虫と自分とのあいだが縮まったような気がした。

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栗拾う。

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足でこうして、いがを割ります。


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栗の選別。
ひとつひとつ、です。


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その日、栗を拾っていたら、
一恵さんが麦茶の入ったポットを持ってきてくれました。
それと、それぞれに紙コップを。

二女とわたしはこれを持ち帰って、
机に飾っています。
なんていいんでしょうと、思って。
夫の紙コップには、
「ほんとうはビールがいいと思うのですけれど」
と書いてあったとか。

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2011年9月20日 (火)

自分が知っている、自分

 「そやな。それに、あんたって、自分が思ってるんとは全然違うしな」
 田村さんはそう言いながら、けたけた笑った。
 「どういう意味ですか?」
 「あんた、自分のこと繊細やとか、気が弱いとか言うとるけど、えらい率直やし、適当にわがままやし、ほんま気楽な人やで」
 「何ですか、それ」
 私は顔をしかめた。
 「ほめてるんやで。あんたみたいな人は、長生きするわ」
 そうなのだろうか。自分ではそんなことわからない。だけど、確かに今は長生きできそうな気がする。もっともっと生きていけそうな気がする。 
 ここで過ごしたのはたった一ヶ月足らずの時間だけど、その間に自分の中の何かが溶けて、違う何かが息づいたように感じる。   映画「天国はまだ遠く」より(※)
 

 書斎に夫が入ってきて、真っ黒い本をくっとつき出すようにする。「これ。できました」と云う。受けとった本のカヴァには、『ミニシアター巡礼』と書いてある。夫がこの数年、旅しながら書きためたミニシアター探訪記が、とうとうできたということらしかった。
「おめでとう。ほんとうによかった。よかった」
 さいごの「よかった」は、自分に。
 本を書くのが本業であるわたしから見て、こんなに時間をかけて大丈夫なのかとはらはらさせられ通しの数年だった。大月書店の西浩孝さんという編集者は、とても若いが優秀で、そしてそして並外れて我慢強いと思う。ありがとう、西さん。わたしは脇から眺めていただけだったが、はらはらしたから「よかったね」と自分にも云うのである。
 この本の帯に、大きな字で「人間には“あの暗闇”が必要なんだよ」とある。わわっ、と声が洩れる。“あの暗闇”とは、映画館の(この本では、ミニシアターの)闇のことだが、“闇なし自室上映のひとり観客”をつづけている(1年に100本観る)わたしが、わわっとなるのも無理はない。おもに“あの暗闇”のなかで観てもらう映像をつくるのが本業の夫に対してうしろめたさを抱きながら、きょうも午前中「劔岳 点の記」を観たところだ。

“闇なし自室上映のひとり観客”のいいのは、気に入った作品を何度も何度もくり返し観ることができるところだ。先に劇中の台詞を引用させてもらった「しあわせのかおり」(向き合うもの)も、DVDを購入して、何度も何度も観た。DVDを観るのは、なんと仕事ちゅうである。たしか、「原稿を書くとき、たいてい右方で映画を上映している。読むとき音は困るけれど、書く(描く)ときには、あったほうがいい」と書いたと思う。あれは、わたしにはちょっとした告白だった。
 告白から数日後、テレビをつけたら、ミュージシャンでアーティストの槇原敬之さんが話をしていた。槙原さんは鳥のようなヘアスタイルをしていて、鳥好きのわたしは、うれしくなる。頭のてっぺんのほうをしゅっと立てているヘアスタイルで、槙原さん本人は、べつに鳥などイメージしていないだろうが。よく似合っている。そういうきっかけで観はじめたのだったが、お話がまたおもしろい。そうして……。
 音楽(歌詞かもしれない)をつくっているとき、テレビとかDVDをかけているという話になる。驚く。聞き手のアナウンサーも、「お仕事の妨げにはならないのですか?」と訊いている。「いえ、なんだか、このへんでひとやものが動いていたり、音が鳴っていたりするのがいいんですね」と槙原さん。わたしは、鳥につづいてすっかりうれしくなった。自分が告白したことを、わるくないんじゃない? 僕もそうです、と云ってもらいでもしたかのような気持ちだ。

「天国はまだ遠く」も好きでたまらない映画だ(原作は「瀬尾まいこ」)。DVDがすり減るのではないかと思うほど、観ている。溌剌(はつらつ)としたひとが観ても、元気を失いかけたひとが観ても、等しく「いいなあ」と思えるはずだけれど、元気を失いかけたひとにより効果がある映画である。
 主演の「徳井義実」と「加藤ローサ」がいい。「加藤ローサ」という俳優がいいというのは知っていたが、「徳井義実」がこれほどの存在感をもっているとは。彼は、「チュートリアル」で「福田充徳」とコンビを組むお笑い芸人である。表向きを超えたひとの存在の奥深さだなあ、と感心しないではいられない。
「加藤ローサ」演じる女性が死に場所をもとめて、山間(やまあい)の集落にやってきたところからものがたりは、はじまる。胸に迫るのは、人格に問題をもっているわけでもない、かわいらしい若い女(ひと)が、心身ともに疲れきってしまい、そんな状態から一刻も早く解放されたいと思いこんでしまうところ。ひとは、たいしたことではなさそうなことに悩んで、「困難」という名の坂道を「深刻」という名の谷底に向かってころがり落ちてゆくものなのだ、とあらためておしえられた。
 けれどまた、何かの拍子にすっくと立ち上がって、べつの方向へと歩きだすことができるのも、ひとというものなのだな。

 引用したふたりのやりとりが、こころに染みる。
 ああ、自分が知っている、自分というのも大事だが、自分が知らない、自分というのも在るのだという認識も大事だなあと思う。その認識の上であらゆる人間関係が深まり、それはまた、ひとに対して何ができるかということの道しるべにもなる。

※ 『天国はまだ遠く』(瀬尾まいこ/新潮社)がある。掲出のくだりは、ここから引用しました。

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「天国はまだ遠く」には、
「いいなあ……」と思えるものがたくさん出てきます。
そのなかに、讃美歌があります。
讃美歌をうたう、讃美歌を口ずさむ……。
いいなあ、素敵だなあと思います。

朝の礼拝から1日がはじまる、という学校に14年間も
通ったわたしも、讃美歌をとても好きです。
わたしの讃美歌には、母が当時凝っていた革細工で
つくってくれたカヴァがかかっています。

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若いころ、初めてカラオケに誘われて行ったとき、
讃美歌がうたえたらいいなあ、と思ったものです。

  
 

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2011年9月13日 (火)

たたむ

 タオルケットというのは、すごい。
 タオルの超大型というのだけでもすごいが、掛け布団よりも自由で。タオルケットは、ときに邪魔にされることがあろうとも、ともかく安心をくれる。端をつかんでいるだけで。お腹のあたりにまるまっているだけで。邪魔にされることなんか、何でもないです、というような健気さがある。
 夏のはじめ、そろそろ羽根布団からタオルケットに換えようかというときは、思わずときめく。うちは、羽根布団とタオルケットのあいだの掛けものを持たないから、ときめきの度合いもふくらむ。
 ときめいて、「そろそろタオルケットに……」と云いかけるたび、2、3回は「まだ早い」と決めつけられる。とくに3人の娘たちに、だ。「お母さんは、いつもちょっと早すぎるからね」と云うのである。「結局、寒くてぶるぶる震えて、タオルケットにくるまるのでも足りなくて、ベッドカヴァにも助けてもらうことになって……」
 ——はいはい、そうですか。
 けれど、くるまると云えば、夏のあいだにだって1枚のタオルケットにくるまる寝姿を何度か見ることになる。近年、熱帯夜の日数がふえたそうだが、熱帯夜ばかりがつづくわけではなく、たまには涼しい夜はある。涼しい夜につづく明け方には、くっと気温が下がる。そんなときには、朝、3体のミイラが見られる。頭からすっぽりタオルケットにくるまる子どもたちの寝姿だ。これが見たくて、子どもたちが寝ている3階にそろっと駆けあがることがある。
 ミイラは、無条件に愛らしい。
 ミイラのままでいるという日があってもいいように思うけれど、ミイラはたちまち起きだしてきて、それぞれ忙しそうな様子をして、文句を云ったりする。「まったく、どうしてこんなに暑いんだろう」なんかと。ミイラの愛らしさは、いったいどこへいってしまうのだろう。おそらくタオルケットのほうにくっついているのだろう。

 この夏のことである。
 目覚めていちばん、自分が使ったタオルケットをたたむところからはじめることを思いついた。目覚めたら起きてしまおうと考えているわたしは、決心がにぶらぬうちにとばかりに、眠気を払ってびゅんと台所へ駆けだす。寝床をかえりみることもせずに、びゅんと。
 びゅん、はいいのだが、わたしがたたまずにおくタオルケットはといえば、たいてい夫が布団を上げるときにたたんでくれる(子どもたちはそれぞれベッドだが、夫とわたしは布団を敷いている)。そのことで文句を云われたこともないし、してもらって恐縮するというほど慎ましくないわたしだ。けれど、ある日ふと、タオルケットは自分でたたもうなあと思った。びゅん、は、そのつぎのことにしよう、と。
 ふと、わたしは何を考えたか。
 それは、起き上がってこの場を去ったわたしは、ふたたびここへもどることはないかもしれないという考えだった。あとでしようという「あとで」がくるとはかぎらない、とわたしにおしえたのは、ことしの大地震かもしれない。
 ふたたびもどることはないかもしれない、などと書けば、いかにも儚(はかな)い。そしてわたしは、たしかに儚さも感じているのだけれど、それだけではなく、せめてそこにあるたためるものはたたみながら、つぎにすすみたいと考えているのだ。

 タオルケットは大きいから、たたもうとすると、立ち上がって両手をいっぱいにひろげないといけない。端と端を合わせて、もひとつ端と端を合わせて、たたむ。何分もかかるわけではないが、あっという間というわけではなく、たたみながらちょっとしたことを考える。無事に起きられたありがたさとか。今朝のみそ汁の実についてとか。ぬか漬けにする野菜の顔ぶれはあれとこれ、とか。
 ——きょうは、英文翻訳の勉強に行く日だな。
 というようなことも思う。
 たたんだタオルケットは、そこに置いてゆく。

 何かをよして、引き払うときにも、「たたむ」という云い方をする。わたしは、すこうし、その「たたむ」にもこころを寄せているのかもしれない。人生のおわりが見えている、という話ではない。そうではないけれど、ここから担担と歩いてゆけばそこへ着くという思いはある。そんなふうに思えるのも、日日まあまあおだやかに暮らせているおかげだ。
 たたみながら、担担と暮らしてゆきたい。

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木綿のケット。
わたしの持ちものには、めずらしい柄ものです。
これを選んだときの気持ちは、よくおぼえています。
もう18年くらいも前のことになります。
当時のわたしは、いろいろの心配事を抱えていました。
そんななか、タオルケットをあたらしく買うことになったのです。

「ふみこちゃん、悩みや心配事があるときには、
こんな敷布(シーツ)を使うといいわよ。いい夢が見られる。……
がんばって」
というやさしい声がよみがえりました。
学生時代、心配事をもったわたしに、友人のお母上が
きれいな花畑のような柄のシーツをプレゼントしてくださったのです。
たしか、イギリスのものだったと思います。
夜、花畑のなかで眠るたび、自分のことを応援してくれるひとが
いるんだなという気持ちに包まれました。

ふと、そのときのことを思いだして、
わたしは、こんなタオルケットを選んだらしいのです。

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2011年9月 6日 (火)

なあんだ

 ふと、家のなかを見まわし、あれ、と思う。
「あれ、」のあとで、やっと、自分がすこうしくたびれているのではないか、体調をくずしかけているのではないかということに、気づく。
① 食卓の上に、新聞が出しっぱなしになっている。
② 台所に、空のガラスポットが置いてある。
③ 居間の壁に洗濯用のタオルハンガーが立てかけてある。
④ テレビのリモコンが床に投げ出してある。

 これらをそれぞれの居場所におさめるのに、たいした苦労はない。
① 1日のおわりの新聞。食卓から10歩先にあるわたしの部屋に片づける。
② ガラスポット。ここに半分ほど湯を注ぎ、茶葉の袋を入れて10分ほどおく。
それを冷蔵庫へ。
③ タオルハンガー。わたしの部屋のワードローブ内のS字フックに吊るす。
④ テレビのリモコン。テレビ横の窓枠(大陸棚のようになっている)に置く。

 こういうことをできずに「あれ、」と思うときは、要注意だ。こうして不調に気づいてしまうと、突如大げさになる。もう二度と、不調でない自分にはもどらないような心細さが全身を包む。さようなら、元気だったわたし。こんにちは、不調なわたし。どうかよろしくね。
 まったくどういう話の展開を期待しているのだか、わたしはずんずん、不調の坂道をころがり落ちてゆく。まわりにあらわれた、些細な「片づけられなさ」を見てやっと気づいたくらいの状態だというのに。

 さて、不調は不調、くたびれは、くたびれなのである。
 が、そんなもの、ときどきまわってくる当番のようなものだと知っている。
 だから、かすかに、不調のつづくことを恐れながらも、ほんとうはそう遠くない日に当番の終わることは知っていて、当番のあいだは最低限のことをしてゆく覚悟をする。
 ①のこと、②のこと、③、④のことなどは、どうということもない。誰かがかわってしてくれることもあるし、そうでなくても、そのくらいのことは、目をつぶれる。不調の日のなかで、いちばん、自分を悲しませ、自信を失わせるもの、焦りのようなものを生じさせるものは、べつにあった。その正体が何であるかに気づいたのは、つい最近のことだった。

 便りをするのが好きだ。
 こちらが元気で、しゃんとしているときには、時間がなかろうと、忙しかろうと、すぐと便りをしてしまう。
 便りと云っても、たいていははがきだ。美術館めぐりのときに集めた絵はがきを選びに選んで使うこともあるけれど、できるだけ、官製はがきに絵を描き、私製絵はがきをつくることにしている。そうするのが好きだからだし、文字の足らなさ、絵のほうの足らなさをお互いに補いあう便りになると考えているからでもある。
 好きらしいことには気がついていたけれど、自分がこれほど便りを書くことが好きだとは思わなかった。それをすることで安心を得ていることも。
 気がついたのは、最近の不調のときに、自分がやけにしょんぼりし、苛立っているので、「仕事のことなら心配ないんじゃないの? 約束のは仕上がっているし、書き下ろしのほうの原稿は少しなら待ってもらえるんじゃないかな。いまは最低限のことをして、からだを休めたほうがいいよ」と、自分に云って聞かせてみた。すると、わたしはこう云うのである。「仕事のことは、あんまり心配していないのよ。なんとか、急ぎのと、ぎりぎりのはやったし。だけどだけど……」
 だけど、だけど……のあとは、「しなければならないのにできずにいること」があるというのに、ちがいなかった。仕事ではなくて、家の仕事でもない「しなければならないのにできずにいること」とは、何か。
 すると、ここ数日、1枚もはがきを書かずにいたことに気がついた。あのひとへのお礼。かのひとへの返信。書きたいと思いながらも、どうしても書けない。それをする気力を失っているのである。

 つぎの日。思いきって、はがき書きからはじめた。
 すると、どうだろう。不調がとっとこ逃げていった。
 ——なあんだ、しなければならないって、アナタ、はがきが書きたかったんじゃないの。


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皆さんにもはがきを書くつもりで、
何か絵を描こうと思ったら……。
迷わず、フラミンゴが浮かびました。
(鳥の好きでない方、ごめんなさい)。

小中学時代、
わたしの通った学校では、
動物園に行って動物のスケッチをする美術の授業が
ありました。
フラミンゴが1本足で立つ様子がめずらしかったのと、
色もきれいなところが気に入って、
いつも、フラミンゴのところへ行って「ひとりで」
スケッチしました。
好きな動物は、ほかにもたくさんありますが、
動物園でのなじみと云えば、何と云ってもフラミンゴです。
ひとりでフラミンゴ舍の前に佇んでいる感じは、
いまもなつかしくて。


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こういうものをお目にかけるのは、
気が引けるのですが……。
パレットは、ここ数年、一度も洗ったことがありません。
こんな状態のまま、年中、机の横の棚に置いてあります
(ぱちんと、二つ折りにして)。

はがきの絵は、描きためません。
相手のことを思って、ふと浮かんだものを描きます。
至福のときと、云えるかもしれません。

それにしても汚いパレットですね。
中学のときから使っています。

        *

先月、新刊『まないた手帖』(毎日新聞社)ができました。
すでに、読んでくださっている皆さん、どうもありがとうございます。
この本は、毎日新聞に毎週火曜日連載の「山本さんちの台所」を
収録した2冊めの本です。
どこかでお手にとっていただけましたら……。
よろしくお願い申し上げます。          山本ふみこ

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2011年8月30日 (火)

素振り

「今度の『しないちゅう』、見にきてもいいよ」
 と末の子どもが云う。
「しないちゅう」って何だろうかと思っていたところへ、折りたたんだ刷りものを渡され、その題名が「武蔵野市中学校総合体育大会のお知らせ(ソフトテニス部)」となっている。

 末の子ども(以下S)は中学2年だ。
 中学に上がった春、どのクラブに所属するかまよいにまよっていたのが、きのうのことのよう。小学6年のときには「中学に入ったら、バスケットをやろうと思う」と云っていたが、実際に中学生になり、部活動を見学してまわるうち、いろいろの考えが湧いたものらしい。運動をしようということだけは決めていて、水泳、バスケット、陸上、卓球、バドミントン、ソフトテニスと、見てまわるうち、運動との相性ということのほかに、部の雰囲気のなかに自分を置いてみて「やっていけるかどうか」、「つづけることができるかどうか」を考えるようになったそうだ。
 その様子を、わたし自身のなかに乏しい「慎重」と見て、こそばゆくなった。わたしなら、たいしてよく考えてもみないで、友人の考えやなりゆきにひきずられて入部を決めてしまっただろうなあと思って(じっさい、中学のときの硬式テニスクラブへの入部は、そんなふうであった)。何を選ぶのか、そっと観察をつづけていたところ、「入部申しこみ」の期限の前日、やっと「ソフトテニス部に決めたよ」と云って、「入部申しこみ」用紙の保護者サインと捺印を頼みにきた。
「いいねえ、テニス。ソフトテニスっていうのは、軟式のこと?」
「うん、そう。ボールはぽわぽわのやわらかさ」

 入部後は、「練習も試合も、見にこなくていいよ」と云っていた。「見にこなくていい」というようなのを、ことば通りに受けとることにしているわたしは、そうか、と思い、「見にきてよくなったら、知らせてね」と頼んだ。
 ソフトテニス部は、水曜日と日曜日を除く5日間(日曜日には、ときどき試合が入る)、練習がある。Sの一所けん命さと、たのしそうさだけをよすがに、そっと応援した。わりあいおとなしい性格だし、強気になるところを見たことがないから、坦坦とラケットを振っているところを想像していた。
 1年以上たって、やっと「見にきてもいいよ」の日がきたわけだった。午前9時試合開始だという。
その日締切の新聞の原稿が書き上がったら出かけることにする。こういう決心のもとではじめたせいかさくさくとすすみ、1時間ほどで書き上がったので夫に読んでもらう。原稿は、書き上がると、夫がいれば読んでもらう。もう長いことそうしてきた。見てもらっても、夫が「ここは、ちょっとわかりづらい」と云うのに、「それはそのままでいいことにさせて」なんかと、批評を反映させないことも少なくはないのだけれど、見てもらう安心は手放せない。夫がいないときには、自分が夫になったつもりで原稿を読み返し、「いいんじゃない?」と云ってみたりする。

 市営コートには、もう球音(たまおと)が響いている。
 夫とふたり、コートの外側の金網越しに見学する。到着するや、Sの出番がきた。緊張する。ペアのRちゃんはやさしく、おっとりとしているが、技術のある選手だ。Rちゃんと組めたことがうれしいという話を、何度も聞いている。
「あ」とわたしは、いきなり驚いている。
 Sが素振りをしている。その素振りに、驚かされているのだ。おとなしい子が腰を低めにかまえて、ひゅん、と音が離れたここにまで伝わりそうな勢いでラケットを振っている。こちらは、猛獣に威嚇された小動物のような気分だ。
 その様子をひと目見ただけで、Sがどれほど部活動を好きで、どれほど熱心に取り組んできたかがわかった。わたしの知らない動作を、自ら学びとっていることがまぶしくて、不覚にも瞳に膜ができる。
 

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わたしの知らない動作をするS に
尊敬の念を抱きつつ、
わたしの知っている昔ながらの動作を
おしえてやらなられば……とつよく思いました。

軽く缶詰類をあけることができる缶切りを、
被災地への荷物に(缶詰ともども)入れました。
それで、いまうちにあるのは、この昔ながらの缶切りです。
これを使うの、初めてだったそうです。
 

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マッチを擦って、火をつける。
これは、したことはありますが、
なんとなくぎこちない。
……練習。


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ごまをほうろくで煎る。
これも、練習しました。
このほか、かつお節削りや、ぬか床のかき混ぜも
してもらっています。
忘れたくない動作、所作が、いっぱいありますね。
        *
本文の「しないちゅう」で、Sの中学は優勝しました。

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2011年8月23日 (火)

大人の仕事

 土曜日の夕方。
 長女が台所にやってきて、「ああ、料理したいな」とつぶやいた。たしか、夕方から出かけると云っていたから、そう云ってみているだけなのだろう。こういうときは、黙っているのにかぎる。この手のつぶやきへの返答をしくじると、思わぬ事態に陥ることがある。
 家族という機関のはたらきのなかで、もっともはっきりしているのが「あたる」(=八つあたり)だと考え怖れるわたし(そして、わたしもする)は、ときどき、こんなふうに身をかわす。そうでなくても、このところ忙しくしている長女の「〜したいな」というような願望は、そっと静かに見守るしかない。
「料理したくても、台所はお母さんの砦(とりで)だからね。そう自由にはできないね」てなことを云われたとして、そのことばをど真ん中で受けとめ、まっすぐ返球する体力が、いまのわたしにあるかどうか。
 長女は、ひとことつぶやいただけで、冷蔵庫のなかの冷たいお茶を飲むと、行ってしまった。やれやれ。

 ——「ああ、料理したいな」か。わかるなあ……。
 と思った胸のなかに、「でもね、」という接続詞が浮かんだ。
 ——でもね、料理というものは、自分のつくりたいものを煮たり焼いたりすることではないのよ。

 こんなふうに——、
 ガス台を磨いたり。
 ヨーグルトをつくるガラスの容器を、煮沸(しゃふつ)消毒したり。
 お茶をガラスのポットにつくって冷蔵庫に入れたり。
 ゼリーをつくったり。
 明日の弁当のブロッコリを茹でたり。
 明日の弁当の鶏の唐揚げに下味をつけたり。
 ぬか床の調整をしたり。
 いちご(猫)に缶詰のごはんをやったり。
 残りわずかになった「かえし」(※)をつくったり。
 胡麻を炒ったり。
 「かぼちゃ、切ってくれない?」と夫にたのんだり。

 そうした雑用や下準備の揚げ句の、料理である。
 その料理にしたって、つくりたいものを自在に、というのではない。冷蔵庫にのこった野菜をぜんぶ使いきる企てをしたり、豚肉と卵でつくる最善のおかずを考えたり、わかめをもどし過ぎてぎょっとしたりしながら、兀兀(こつこつ)働くのだ。でもそれは、台所の事情をすべて背負っているからこその働き方だ。
 残念ながら、わたしにはもう「ああ、料理したいな」という夢見の料理はできない。残念でもあるが、そこには誇りもある。

 夏なのだし、きょうだって、これから台所で働くのだし花火のように、打ち上げてしまおう。
 ——それが、大人の仕事というものなのさ。

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夫とわたしが家にいるときは、
昼にたいてい蕎麦を食べます。
いつ飽きるかなあ……と思うのですが、
飽きないんですね。不思議。

そばつゆに活躍の「かえし」(※)です。
日本料理(新宿割烹 中嶋)の中嶋貞治さんに
テレビ番組でおそわった万能調味料です。
しょうゆと砂糖、みりんを合わせて火にかけ、
みりんのアルコールをとばしたこれは、冷蔵庫で1年だって
保存がききます(つくれば、すぐ使い切ってしまいますが)。
これが、うちのめんつゆの素です。

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「かえし」を、だし汁で薄めます。
かえし1:だし3の割合です。

だしは、このような陶製のだしとりポットで
朝いちばんにつくります。
昆布とかつお節でとったり、
あごや干ししいたけを加えたり……その日の気分と計画によって、
いろいろなだしがつくれます。
だしとりポットのなかには、こし器がついていて、
そこへ昆布やかつお節を入れて、湯を注ぐだけです。
それをガラスのポットにうつして、冷蔵庫へ。

そうして、だしとりポットでもう一度だし(二番だし)を
とっておきます。
若い日、ほしいなあと思っていた、
ひねると、だしの出てくる蛇口にも似た便利さです。
このだしのおかげで、茶碗蒸しでも、
だしでつくる即席漬けでも、煮ものでも、
気軽につくれます。

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2011年8月16日 (火)

どこまでもどこまでも…… 〈引用ノート8〉

・その人が、被災体験について話をしているときに、話題を変えないようにしましょう。
・「あなたのお気持ちがわかります」と言ったり、相手が聞いていないのに、あなた自身の体験を話さないようにしましょう。たとえあなたが同じような被災や死別の体験をしていたとしても、今は、その人の体験や感情が重要なのです。
・求められていない時に、アドバイスをするのは避けて下さい。
・守りきれない手助けを、約束しないで下さい。不確かな情報も、提供しないように気をつけて下さい。
・一定期間が経てば悲しみを克服できると考えないで下さい。悲しむことは、人々が予想しているよりもずっと長く続くものです。
・子どもの支援には、その子どもをもつ親への支援が大切です。親が安心して休める場を提供し、親の不安を和らげることが、子どもの支援につながります。
・まずは自分の心身の安全を確保できる事が、支援者として最も重要なことです。そして、支援者自身の過労や燃え尽きに十分に注意して下さい。被災地での活動は、支援したいという気持ちや精神的緊張から、過剰に活動してしまいやすい環境にあります。また、心に傷をもつ人たちのサポートは、強い疲労感や無力感を引き起こすことを覚えておき、自分で休息をとるように配慮して下さい。
     「被災地の外部から被災者を支援する皆様へ」のしおり(※)より

 8月のはじめのある日、遠野にある岩手県ボランティアセンターへ行くや、初めて参加するわたしたち5人は、「受付」でボランティア登録手続きというのをした。左肩をホッチキスで止めた紙の束を受けとる。そこには、いろいろの「注意事項」「約束事」「禁止事項」が記されていた。バスが出発するまでのあいだ、紙の束のなかの「被災地の外部から被災者を支援する皆様へ」の項目に目を通す。わたしたちが配慮すべき事柄が、全部で21ならんでいる。ボランティアとしては、まだ受付をすませて装備をととのえただけだというのに、もう、からだが裏返しになるほど、圧倒されている。
 わたしたちは手伝いをしたいと希ってここへやってきた者にはちがいないけれど、よそ者であることもまた事実なのだと思い知る。ここへ引用した7項目は、とくにこころに響いたものだ。……響いたなんてものじゃない。いきなり鳩尾(みぞおち)あたりに拳固(げんこ)が入った感じ。その衝撃で、自ら着こんだボランティアという名の衣が肩から落ちて、ひととしての自分のいまの有り様(よう)が、頼りなくゆらめいている。これから作業なのだ。作業の心得を読んで、それを日頃自分が抱えるひと同士の問題にあてはめ、ゆらめいている場合ではない。それでも……なんだか。
 ——ああ、ああ。

 何度読んでも、どう考えても、ここに書かれているのはどれも、なるほどと納得することばかりだ。それなのにこれほど衝撃を受け、打ちのめされたような気分になっているなんてね。
 ——ああ、ああ。
 ふと、東京を出発する数日前、近所に住むわたしと同じ名前の友人に云われたことを思いだした。
「岩手県で、ちょっと働いてきます」
 そのとき、ふみこさんが「それはいい。いちばんには、ふみこさん、自分のためね」とつぶやくように云ったのだ。
 ——わたしの、ため……。
 そのことばを受けとっていたため、わたしは鳩尾に拳を受けても、かろうじて倒れないでいられた。端(はな)から自分のための活動なのだ、自分の自信がどうだとか、自分の理解が及ぶか及ばないかという範疇のものではなかった。
 ——どこまでも、どこまでも、学習なんだわ……。

 しかし。バスが出発し、1時間半かけて運ばれた活動場所におそるおそる降り立ったとき、自分が直接被災者に会うのでないことを知って、ほっとした。戒めても戒めても、いまはまだ学習が足らなくて、つい「お気持ち、お察しします」なんかと云ってしまいそうなわたしだもの。がんばってがんばって、これ以上、どうがんばればいいかわからないひとたちに向かって、うっかり「がんばろう」なんかと云ってしまいそうな……。
 ——どこまでもどこまでも、学習なんだわ。

※このしおりの作成は、Japan Tsunami Grief Support Project(JTGSプロジェクト)による、との記述があります。


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陸前高田での作業に活躍した長靴たちです。
ごしごし、ごしごし洗って干して、
やっとしまえます。
また、これを履いて働きたい……。

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2011年8月 9日 (火)

12センチ

 日本地図を開いて、眺めている。
 長くて細くて、ひょろりとしている。そうだ、日本列島は細長い。印刷された日本国は頼りなげで、ぽきりと折れてしまいそうにも見えるけれど、なんという慕わしさ、なつかしさだろうか。
 地図帳のつぎのページは「日本北東部」。北は北海道——国後島(くなしりとう)、択捉島(えとろふとう)も入っている——南は、瀬戸内海に浮かぶ小豆島と、四国高松(どちらも香川県)、鳥取まで収まっている。おもしろいのは、青青とした太平洋が、ひとところだけ地図帳の版面(はんづら)の枠からはみだして、八丈島(東京都/伊豆諸島)がかろうじて入っているところだ。
 現在わたしが住んでいるのもこのページだが、今回3日間、このページのなかで旅をしてきた。東京から陸前高田。地図帳に定規をあててみると、その長さは12センチ。
 ——12センチか。

 12センチの旅。
 ボランティアセンターとの交渉はじめ、一切のめんどうをみてくれた友人一家との総勢8人の旅。
 東京を出発し、一関(岩手県)まで東北自動車道をひた走り、平泉(岩手県)でさきごろ世界遺産になったばかりの中尊寺、毛越寺(もうつうじ)を見学。遠野(岩手県)へ向かう。遠野駅前に宿をとり、早寝。
 翌早朝、金曜日仕事を終えてから深夜バスでやってきた長女と合流し、岩手県災害ボランティアセンターへ急ぐ。ここ遠野総合福祉センターでは、泊まりこみのひとも、すでに身支度を終えている。夏休みということもあるのだろう、大学生もたくさんたくさん集まってきた。
 建物の入口のホワイトボードに、本日の活動先が三か所書かれている。大槌(おおづち)と釜石と陸前高田。陸前高田の瓦礫(がれき)の片づけの欄に名前を書いた。
 陸前高田。震災後、何度も何度もその地名を聞いたし、被害の大きかったことでも記憶に染みついている。バスを連ねて——総勢180人——1時間半かけて気仙町(けせんちょう)——ここは陸前高田でもっとも宮城県寄りに位置し、気仙沼にもほど近い——向かう。窓の外には、瓦礫(がれき)と呼ばれる地震によって壊れ元のかたちを失ったものたち、崩れかけたもの、あり得ない場所に運ばれたもの——畑のなかの船、山に叩きつけられた建物など——が、つぎつぎと過ぎてゆく。気仙町の、ある集落に降り立った。ここは津波に襲われた際の地域であるとのこと、津波の跡がつづき、あたかも等高線のようだ。
 暑い暑い日だった。立っているだけで、汗が流れ落ちてくる。わたしたちの持ち場は一見拓けた地面だが、コンクリートでつくったいしずえがあり、そこにかつて家があったことを知らせる。
 さあ、作業開始。
 土のなかに埋まったものを半ば掘りだすようにして、燃やせるもの、燃えないもの、ガラスや瓦(かわら)、の3種類に分けて積んでゆく。作業をはじめるや、3種類の山では足りないことがわかった。この場所から3キロも海に寄った魚の加工場から津波が運んだ、無数のさんまの詰まった木箱。つまり、こうしたいわば元さんまの片づけが必要になったのだ。強烈な匂いを放ち、銀蝿がたかっている。口を布やマスクで覆わなければ、だんだん堪えられなくなる、そんな匂いだ。
 それでも、5月に同じ場所で作業をしたという友人は、「あのときに比べて、どれほど片づいたことか」と、海に顔を向けて感慨深げだ。そのときには、あたりはさんまだらけだったそうである。
 ビニール袋の端だと思って引っぱると、それは木箱のなかに敷かれたもので、もれなくさんまがついてくる。あのぴかぴかの姿を失った、おいしいさんまとは似ても似つかぬ、かつてさんまだったもの。
 わたしたちのグループは、元さんまの片づけにかかった。どろどろになったさかなの身を扱うのには苦労したが、スコップを突き立てては一輪車にのせ、山に積みにゆく。
 そんななか、スコップが生活を掘りあてたときの、なんともいえない気持ち。これは、元さんまの強烈な匂い以上に、きびしいものだった。台所で使う密閉容器らしきもの。模様もうつくしい皿の欠片(かけら)。ちゃんちゃんこ。おままごとの海老フライ。ブロックでつくったロボットの頭。マニキュアの小瓶。ああ、この家には、女の子と男の子が暮らしていたんだな、子どもの遊ぶ傍らでは歳若いお母さんが爪を染めたりしていたんだな、と思ったとき、目の前が暗くなった。同情はいくらでもできそうだったけれど、どんなふうに思ってみても、当事者でなければわからないことばかりだという気がした。作業に集中するしかなかった。
 結局、午前午後合わせて3時間ほどで、作業は終了となった。もっともっと働きたかった。が、無事に活動を終えること、体調管理に責任をもつことがボランティアの鉄則である以上、無理は禁物なのだ。
 帰りのバスから見た光景が、行きとはまったくちがって見えたのには心底驚いた。3月11日のあの日まで、そこにたしかにあった暮らしを目の当たりにした身は、行きにはもち得なかった、ちぎれるような悲しみを宿していた。
 翌日、盛岡で用事をすませ、帰途につく。

 被災の事実めがけて出かけていったつもりだったが、そこにあるのは無数の暮らしであり、無数の人生でありいのちだった。その実感をもつことができただけでも、ありがたかった。
 12センチ向こうとこちらは、つながっている。

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東日本大震災から5か月がたとうとしています。
たった一日ボランティアとして作業しただけですが、
させてもらえたこと、感謝の気持ちでいっぱいです。
被災地のためというより、自分のためだったと、
感じています。
5か月たっても、まだまだ、いろいろの片づけが必要とのことでした。
わたしも、また、出かけてゆきたいと思います。


Photo_2
実際には、軍手の上に厚手のゴム手袋をはめて
作業しました。それでも、軍手はこんなです。
よく働いてくれました。

Photo_3
暑くても、長袖、長ズボンで働きます。
持ちものも最小限に。
長靴(金属の入った中敷も)も、必需品でした。
ものすごい匂いを放っていますが、
一緒にがんばった衣類が特別のものに思えます。
記念撮影。

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2011年8月 2日 (火)

ちょっぴり悪い

 中学1年から短大の2年まで8年間、同じ学校で、わたしたちはずっと友だちだった。それも、ものすごく親しい友だちだった。親友ということばは使わないようにしていたし、そうでなくても、わたしたちが通っていた学校には「親友はつくらない」(=誰とでも親しくしよう)という不文律(ふぶんりつ)があった。「あなたたち、くっついてる」とからかわれるのくらいは仕方ないとしても、「親友はつくっちゃいけない」と居丈高(いたけだか)な云い方をする級友もいて、ほんとうにめんどうくさかった。
 わたしたちは、人前では、そんなには親しくない……という顔をして、よそよそしくふるまったりした。反対に、むくむくと手むかいたい気持ちが湧いて、「親しいけど、それのどこがわるい?」と開きなおることもあったな。ともかく、あまりに親しかったために、苦労したわけだった。
 なんだかまるで……、人目を偲ぶ間柄みたいだった。

 なぜそんなことになったのか、てんでわからない。
 が、学校を卒業して数年がたったころ、実際に会うということをしなくなったのは、事実だ。
 それがこの夏、ひょんなことから電話で話す機会が降ってきて、「会おう!」という相談になり、先週、彼女Rちゃんが家にやってきた。この年になって「Rちゃん」でもないのかもしれないが、目の前のRちゃんは、どうしたってRちゃんだった。変わらないなあ……、と驚く。が、もっと驚いたのは、会わないでいた年数だ。「何年ぶりかな」と云うと、「17年ぶり」とこともなげにRちゃんが答えた。
「……17年」
「そうよ、下の子が生まれたあと、会いにきてくれたでしょう。それが最後だもの。その子がもう17歳だからね」
「……」
 17年のあいだにあったことは、お互いあまり話さなかった。ただ向かいあって——まっすぐ向かいあうのは照れくさかったから、椅子ひとつ分ずらした——坐って、近況だけを語りあった。

 むかし、ふたりで「地球は自分中心にまわってるよね」と話したことを思いだして、笑う。日頃から「自己中心」を戒める当時の先生が聞いたら、目をまわすような「思想」だ。
「それでもさ、あのときからいまに至るまで、ずっとそう思いつづけてきたかなあ」と、Rちゃんがそっと云う。
 同感だった。
 中学のころから、たしかにわたしたちはふたりとも、自己中心であったかもしれない。だけど、ほんとうは、こういう希いももっていた。地球のまんなかで、自分の責任において生きてゆきたいという希い。
 たのしいこともいっぱいあったけれど、たまには、たのしくないこと、辛いことも降りかかってきた。たのしいことが降りかかってきたときには自分の手柄や運のよさだと考えるくせに、たのしくないこと、辛いことが降りかかると、ひとはなんだか自分以外の誰か、あるいは何事かのせいにしたくなる。中学生のころ、Rちゃんとわたしは、「そういう考えはヤだね。したくないね」と話しあった。その決意みたいなものが「地球は自分中心にまわってる」につながるのだが、それは、なかなかにひとにわかってもらいにくい考え方だった。
 ああ、その考え方がつづいていたんだな。会わないでいたあいだも、ずーっとつづいていたんだな。17年間も。

「ねえRちゃん、それにわたしたちって、いつもちょっぴり悪いよね」
「うん、悪い悪い」
 反省し過ぎないように、とは要心している。けれど、「ちょっぴり悪い」という自覚はしていたい。なぜって、よかれと思ってしたことですらひとを傷つけてしまうことがあるというのが、この世の仕組みだもの。ぼんやりしているというだけで、困ったことをひき起こすこともあるのだもの。

 Rちゃんがやってきてくれた日、あらためてこう思ったなあ。
 どんなことも、ひとのせいにせずに生きてゆかれますように。

 ところで。
 なぜ、17年間も会わずにいて平気だったのかわからないけれど、もう、会わなくても平気という実験は、おしまい。おしまい。

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このひもを解くと、なかからけむりが……。
「そして17年分年をとります」
なんてことだったら、困りますね。

冗談はさておき。
これは、この夏の弁当スタイルです。
大きめの保冷剤1個を入れています。


Photo_2
きょうの弁当。
初めてパスタ弁当をこしらえました。

弁当は、朝つくって、しばらく冷蔵庫か冷凍庫に入れておき、
包んで、さきほどの保冷袋へ。
夏の弁当。
がんばりましょう……ね。

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2011年7月26日 (火)

あたらしい道

 することが多くてこんがらかる。
 胸に「解決」という漢字二文字をならべて置き唸(うな)る。
 どこか遠くへゆきたいなあと、彼方(かなた)に目を向けることもある。疲れているのかなあ。気がつけば、からだが鉛のように重い。これはからだの疲れなのか、それともこころのほうの、なのか、と考えたりする。心(しん)と身(しん)のあいだに分けて入り、どっちがどうだということに、意味などないことを知りながら。労(いたわ)らなければならないときには、どっちのことも労らなければ。

 ひとは時として、こういう状態に陥る。予告もなしに深い谷にはまるような塩梅で、そなえもしていなかったから、「いきなり」+「すとん」なのだ、たいてい。足を踏みはずしたあたりを見上げて、落ちた、と考えるときには、あきらめがついている。
 ——落ちたなあ。
 谷の深さはまちまちだが、そこから上がろうとするときのきっかけは、深さに関わらず必要だ。何かにつかまらなくてはのぼれない。そうそう、ちょっと休んでからにしないと、どうにも……、ということもある。

                          *

 朝靄(もや)がたちこめていた。
 どうやらそこは山間(やまあい)の谷であるらしい。ボクは落ちて、ここにいる。あはは。
 ——落ちたなあ。
「何かをさがしておいでかの?」
 そう云うのは、仙人のように、白く長いひげを胸のあたりまでのばした老人である。
「そのように、きょろきょろと。さがしものなら、手伝いますぞ」
「……道」
 ボクはそう答えた。正しい答えだと思える。
「道。はて、どんな道をおさがしなのかな?」
「どんなって……、帰り道」
「帰り道。はて。ここには、ないのぉ」
 老人は持っていた竹の筒をボクにさしだすと、からだの向きを変え、
「帰り道という道はないんじゃ。それはないけれど、道は無数にあるな。道なき道というのもあるな」
 と云うと、ふふふっと笑い、歩きはじめた。
「帰り道がないって、どういうことですか?」
「わからんかのぉ。アンタがこの谷から出て、どこかへ行きつく。行きついたとき、そこまでの道のりがはじめて帰り道になるんじゃよ」
 老人の姿は、靄のなかに消えた。
 靄のなかに、声が滲(にじ)んだ。
「道にどんな名をつけてもかまわないが、道は、いつもあたらしいのですぞぉ」
 老人に手渡された竹筒に、口を近づける。
 目をつぶって、ぐっと飲む。
 ——苦い。
 その苦さに、からだがぶるっとふるえた。が、足の裏から活力が湧いてくるのがわかる。
 ——よし、ゆくか。

                          *

 先週、わたしも落ちた。
 多種多様なことにからみとられて、足がもつれ、谷底へすとん。落ちてしまえばこっちのものだ。落ちたところからのぼればいいのだもの。
 落ちることかなわず、ああでもないこうでもないと散らかってゆくことに比べたら、はるかにわかりやすい。
 このたび、わたしにのぼる気にさせたのは、学生時代からの親友だった。久しぶりに会う約束をしたら、とつぜん「足の裏から活力が湧いて」きた。

 再生。
 再生などと云うと、また大げさな……と云われてしまいそう。けれど、わたしたちは日日再生をくり返す存在だと思う。そこには小振りな再生が多く含まれ、大がかりなのはたまの話。
 小振りのときも大がかりのときも、自分が落ちたことに、谷にいることに、気がつくことが、まず肝要だろう。
 そして。帰り道をさがそうなどとは思わないことだ。ひたすらにゆく道は、つねにあたらしい道、再生の道である。

Photo
「再生、再生……」とつぶやいていたら、
「リボーン(reborn)」ということばが浮かんできました。
「リボーン、リボーン……」とつぶやいたら、
こんどは「リボン(ribbon)……」ということばが浮かびました。

ええと。
うちにあるリボンは、これだけです。
こんなふうに持っています。
この袋に入るくらいためておこうという考えです。

Photo_2
リボン、こんなところでも活躍です。
朝顔、夕顔のつるを、誘導したいと目論みながら、
つぎ見たときには、もうその地点がみつからない……。
そのため、目印をつけておくんです。

このつるが、なんとか「こちら」にまいてくれるように。
このつるが、「そちら」にゆかないように。

reborn と ribbon の話でした。
おそまつさま。

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2011年7月19日 (火)

向きあうもの 〈引用ノート7〉

 今日から弟子となった貴子に、王(ワン)はまずスープ作りを教えた。
 緊張している貴子(たかこ)に「貴子さん、冷蔵庫に、鶏のミンチが入っていますから、取り出して下さい」
 「ハイ」
 大きな冷蔵庫から、鶏のミンチを取り出すと「ボウルにあけて下さい」
 「ハイ」
 貴子は言われた事に対してテキパキと動こうと努めた。
 「ミンチは八百グラムあります。三倍の水で、ミンチを溶いて下さい」
 「あの、スープなんですよね?」
 「そうです」
 「鶏ガラとかは?」
 「いりません!」 
 王の声が響いた。
 驚く貴子に「貴子さん、貴方、一杯料理の本を読みましたね」
 「ハ、ハイ?」
 「全て捨てて下さい。これから貴方が相手にするのは目の前にある食材です。本ではありません。良いですね」  
                             映画「しあわせのかおり」より(※)

 映画は、かなり観るほうではないかと思う。とくに邦画が好きだ。
 映像をつくることと、映画製作について若いひとたちにおしえる仕事をしている夫に、「え、それも観てるの?」と驚かれることがあるほど、かなり一所けん命観る。
 映画は、暗闇のなかスクリーンで観てはじめて映画だと云えるとは、長年夫におしえこまれてきたことだし、それにちがいないと、自分でも思う。が、なかなか映画館に出かけられないという都合を抱えるわたしは、年間通じて100本ほど観る映画のうちの90パーセントまでを、書斎の机の上の小さな小さなDVDプレイヤーで鑑賞している。
 書斎にいるときには、この小さな小さな画面に映画世界がひろがっている。ものを考えながら、手をとめてぼんやり眺めていることもなくはないけれど、原稿を書くときもたいてい右方で映画を上映している。読むとき音は困るけれど、書く(描く)ときには、あったほうがいい。
 契約しているある会社の映像レンタル部門から、月に8枚———1週間に2枚ずつ———DVDが郵送されてくる。つねに自分で20〜30作品選んで登録してあるなかから、2枚届くというわけだ。
「ああ、今回はこれとこれか」と思うが、その送られ方が何とも云えず時宜にかなっているのがおもしろく、誰かが、わたしのこころの有り様(よう)をどこかで観察して注意深く作品を選択してくれているのではないだろうか、と思いかけるほどだ。
「ながら」で観ることが多いわけだが、好みの映画はつかまえることができる。つかまえたら、その作品(DVD)を購入することにしている。これは、わたしが「好き」となったら、何度も何度もくり返し観たい質(たち)であるからだけれど、(こんなにすきな映画を)映画館で鑑賞しなかった申しわけなさ無念さを確認する意味もある。

「しあわせのかおり」は、たまらなく好きだと思って、DVDを購入した作品のひとつだ。何度観たか知れない。どこがどんなふうに好きなのかと説明しようとしても、ほんとうのところ、全体的にいいとしか云えないような気がする。映像に関してのわたしの「好き」の条件は、いやなところがないということでもある。それは、映像作品とがっぷり四つに組む立場のひとからすると、まるでなってない見方かもしれないけれど、わたしはそうなのだから仕方がない。まるでなってなかろうが、こうも云いたい。わたしには、映像が恐ろしいのだ。
 いいなあと思う場面がいつまでも記憶に残るのと同様に、(わたしにとって)忌まわしい場面も記憶にとどまり、長きにわたって胸を塞ぎにかかる。本は、それを閉じてしまえば、比較的早く忘れてしまえるけれども、映像のこびりつき方は並大抵でない。
 年をとったら、過去に自分が好きだと思った映画をくり返し観たいと思っている。そんなささやかな夢をもっているのに、映像世界の変貌はかなりめまぐるしくて、VHSがDVDに取って代わったと思ったら、今度はブルーレイだということになって、困る。いっそ、小さなプレイヤーを何台もとめておいて、世のひとがDVDなど忘れ去っても、ひとりDVDで映画鑑賞する婆になろうかと考えている。

 つまらないことを長長書いて、「しあわせのかおり」の話になかなかなってゆかないが、この映画は、わたしに対象と向きあうこころをおしえた。人生、苦労もいっぱいだけれど、誰が何と云おうと、もっともっと自分の思いを尊重していいのではないかという、ほの明るい気持ちにさせてくれた。そうして、こころの赴くままに、聞くべき(聞きたい)声を聞き、向きあうべき(向きあいたい)ものに向きあえばいい、と。

 それから。この映画の凄みは、もののおいしそうなことだ。
 日日の事ごとに疲れたら、「しあわせのかおり」の厨房世界に身を寄せて、お腹をくうと鳴かせてやるのにかぎる。
 トマトの卵炒め、何度つくってみたか知れない。

※「しあわせのかおり」
 2008年/124分
 監督・脚本 三原光尋
 製作 「しあわせのかおり」製作委員会
 配給 東映
 出演 中谷美紀 藤竜也 田中圭 八千草薫ほか

        *

 『しあわせのかおり』(三原光尋/幻冬舎文庫)がある。
掲出のくだりは、文庫より引用した。


Dvd

机上の上映環境です。

きょうの上映。
「おと な  り」
(2009年/119分/監督 熊澤尚人/脚本 まなべゆきこ/
製作・配給 ジェイ・ストーム/出演 岡田准一 麻生久美子ほか)

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2011年7月12日 (火)

ぎりぎり

 忙しくなってくると、深呼吸して……、くっとそこから気を逸らしたくなる。
 何をするときでも、まっしぐらに目的地へ、という気持ちにはなれず、いつも、さてどんなふうに道草を食ってやろうかな、とか、どれほどの遠まわりができるかな、と考えている。
 どこかにおもしろみが混ざっていないとがんばれない。
 簡単に云うなら、そういうことだ。
 そうしてそれは……。わたしにとって、いちばんおもしろくて大事なのは、台所のことだったり、手仕事だったりするから、それをよしてしまってまで忙しさに感(かま)けるのは、具合がわるいという意味でもある。

 どうやら、ちょっと仕事が立てこんできたせいで、こんなふうに理屈をこねはじめていたところへ、愉快なはなしだ。長女の口を通して聞いた、わたしのかつての夫でいまや親しい友人になりきっているひとの打ち明け話だった。

                          *

 ある日、友人宅の草刈りを手伝い、晩には酒を飲んだ。めずらしく度を越して飲んだ帰路、家の近くの陸橋の上で気分がわるくなった。そして、心ならずも陸橋の隅を汚してしまった。失敗、失敗。翌日は日曜だったが、跳ね起きて、昨夜の陸橋に駆けつけた。掃除しようという目論見(もくろみ)だ。が、駆けつけたときには、すでに陸橋はすがすがしく掃除されており、「遅かった」と思いながらも甚(いた)く感動した。

                          *

 そこまでのくだりも、しみじみ聞いたのだけれど、じつは、このはなしにはつづきがある。
 その後、彼は、土曜日か日曜の朝いちばんに、歩道橋の清掃をするようになり、今年14年めになるという。……14年。
 しかし彼の性格を思うと、それを美談としてより、おもしろいはなしとして受けとりたくなる。相当に忙しいサラリーマンである男が、週末に早起きして歩道橋の清掃に出かけてゆくというのは、じつに、じつに……おもしろい。

 どんなに忙しくても、いや、忙しいからこそ道草、というのはこういうことだ。道草を、無用なことに時間を費やすととらえる向きには、端(はな)から通用しないだろうけれど。道草とは、道の上での必要かくべからざる事ごとだと、わたしは考えている。……考えたい。
 そして、道草をしようというときのこころというのは、こうだ。
 ひととの約束もあるから、期日に目的地に到着しなければならない。これまでの経験から見て、ぎりぎり到着できるだろう。しかし、ぎりぎりというのは、いかにも危ない。なんとなれば、「不慮の出来事」の分の時間のゆとりが計算されていないからだ。何ごとかが起きて阻(はば)まれたら、期日の到着はむずかしくなる。……さあ、どうする。
「不慮の出来事」を想定して、保険の時間をとっておくか……。省けそうな事ごとを一切省いて時間をためておくということだが。
 答えは否、である。立派に道草もして、やっとのことで目的地に到着しよう。と、いう決心である。

 そも、わたしのゆく道を思うとき、目的も道草も判然としない。渾然一体。どれも大事なあれやこれやだと思える。ときどき、ひとから「そんなに日常のことに血道を上げていたら、仕事がしきれないでしょう」とか、「家のことなどほどほどにすることにしたら、もっと仕事ができるでしょうに」と、指摘される。そうだね、と思う。
 そうだね、けれど、それはわたしの道ではない。
 わたしの道、それはぎりぎりだ。日常生活をくるみくるまれ、道草を食いながら、ゆく。

Photo_2
忙しいときにかぎって、こういうことをしたくなります。
紙に絵を描いてのりで貼りつけ、
へり紙、耳紙をつけました。
こういう道草は、自分を相当にはずませます。
(やっぱりやればできるじゃない……ね)と思ったり。   


Photo
こちらは、100円ショップでみつけた
白地の扇子です。
出来がいまひとつで、閉じるのに手間取りますが、
気に入りの1本です。
きゅうりが描いてあるなんて……気に入りに決まっています。
ふふ。

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2011年7月 5日 (火)

風が吹いてきた

 夕方、ベランダに出て、朝顔やハーブたちに水やりをする。
 夏はそうやって、日に2度水やりをしないと、植木鉢の植物はもたないような気がする。(喉、渇いた……)と云わぬばかりにうつむいて、ときどきちらっと、こちらを見ている。
 そんなとき、如雨露(じょうろ)を持ちだす時間さえ惜しまれて、台所の洗い桶やボウルに水をため、彼らのもとに急ぐのだ。水を注ぐと、自ら注がれでもしたかのように、たちまち安心する。(ああ、よかった)。
 安心ついでにベランダに佇み、しばし、ぼんやり。わたしは、自分のそれを「草化け」と呼んでいる。ひととき、ひとであることを忘れて——忘れたことにして——草になってじっとしていてみるのだ。すると、ほんとうに草になりかかるのか、常よりも冴える。ふだんは聞こえない遠くを走る電車の音が聞こえたり、ねこをベランダに誘うこともできる。ねこは、ときどき草を食(は)みたいくせに、ふだんは(いいの、いいの、草なんて)と云いながらすましている。ひとの前で草など食んでたまるかいな、というのがねこという存在らしい。
 それが、こんな夏の夕方は、ベランダにいるわたしにかまわず、草に噛みついている。これは、草化けがすすんでいる証拠ではないのか。

 電車の音。
 これが聞こえると、なぜかとてもうれしい。
 JR三鷹駅、いや線路から徒歩12、3分という距離にうちはある。その12、3分のなかには、道や四つ角、民家や、会社らしい建物、店屋がひしめいていることもあって、電車の音は滅多には聞こえない。たまにそれが聞こえるのは、草になったわたしの耳が聡くなっているからだと思いたい。
 けれど、ほんとうはちがう……。風のはたらき。さらには、風向きだ。

 先達て、友人が3人遊びに来てくれた。
 冷たいのと熱いのと紅茶を飲んだり、おみやげにいただいたやけにおいしい烏龍茶を飲んだり、その日の朝焼いておいたおからのケーキを食べてもらったりした。そして、東日本大震災のあと音楽家の新実徳英(にいみとくひで)氏がつくった〈つぶてソング〉のなかの「あなたはどこに」を神妙に歌った。
〈つぶてソング〉(※)は、福島県在住の詩人和合亮一さんの詩をテキストとして新実さんが作曲した歌集である。歌のちからを借りて、全国に「気」をおくりたいという作曲家の思いを、お茶の時間のあとに、実現させてみたわけだった。
 とても静かで、それでいて力強い気のこもった歌だった。うたっているうち、こころが落ちついてきた。満ちてくるものがある。こころを落ちつかせることもそうとうにいいことだわという自信も満ちてきている。

 友人を三鷹駅までてくてく見送り、帰ってきてみると、家のなかの様子が変わっていた。目に見える変化と云えば、友人のひとりが持ってきてくれた黄色いミニバラの鉢が窓辺に置いてあることくらいだったが。ミニバラは315円だったそうだけれど、すっかり窓辺に馴染んで、夕焼けを背景に輝くばかりのうつくしさだ。
 友人たちと過したひととき。うた。ミニバラ。
 これらは風のようにこの家に吹きこみ、そこらじゅうを浄めてしまった。ことしの夏は、こうした不思議な風にも敏感になって、過ごすつもり。

※〈つぶてソング〉
 YouTube(動画共有コミュニティ)にて、新実徳英氏自らがうたう〈つぶてソング〉を聴くことができます。この歌集は、Vol.1(1.あなたはどこに/2.フルサト/3.放射能)につづいてVol.2 が作曲(発表)されています。さらに、つづく予定。

Photo
「いちご」(うちのねこ/14歳)が好んで食むオリヅルランの
鉢に、ネジバナが1本出てきました。
これをみつけたときも、うれしかった……。
なんとも云えぬ励ましを感じました。
こういうのも、風だろうなと思います。
気づきたい風です。

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2011年6月28日 (火)

不便は愉し

 はじまりは、ろうそくだった。
 以前はたのしみのためにもとめていたろうそくだったが、東日本大震災のあとは必需品として、買うようになった。夕方になっても電気をつけずに、作業や移動には手まわし充電のライトを用い、食卓にはろうそくを置いている。
 つまり、ろうそくが、常備の消耗品の仲間入りをしたわけだった。ろうそくが加わったのをきっかけに、考えたら、現在、この家の消耗品の種類と数の、いつの間にやら多くなったこと。消耗品とは、使ううちになくなってまた買うことになるモノたちのことである。
 たとえば台所。
 基本調味料や気に入りの乾物、缶詰類。冷蔵庫のなかにもいろいろある。食品包装用ラップフィルムやアルミ箔、袋ものも。
 そのほか。洗剤類。石鹸の仲間。歯ブラシ。顔やらからだに塗るようなモノ。あらゆる紙製品。救急箱のなかみ。などなど。
 そしてろうそく、だ。
 質素に暮らしたいと希いながら、こんなにもたくさんのモノをつねに持とうとし、なくなったら買い足すことに躍起になっているなんて。ちょっと見直したほうがよさそうだ。それはほんとうに必要か、と、ときどき自分に問うて、しかも、買わずにすます方法はないのかという発想をともなって考えてみたくなった。
 手帖をひらいて、見開き2ページをそのために確保し、〈これは、常備しなくてもいいんじゃないだろうか?〉という表題をつける。〈これは、常備しなくてもいいんじゃないだろうか?〉を探りあてる手立ては、便利に走り過ぎない決心だと思える。「便利、便利」と、何とかのひとつ覚えのようにくり返し唱えていないで、「不便は愉し、不便は愉し」と、云い換えて。

 自ら不便に立ち向かってゆくということもなく、ただ手軽に手に入れることのできる便利をなんとなく受けとるということばかりしていれば、ありがたみも感じられなくなる。実際わたしは、いま、たいしたありがたみを数数の便利に対して抱いてはいない。そんなのは、神経の麻痺(まひ)ではないのか。
 まずは、不便の状態を発想することだけでもしてみれば、多くの不便が愛おしく思えてくるばかりでなく、こんなことを簡便にするためにそれほどの犠牲——地球を痛めつけたり、限りある燃料を無駄づかいしたり——をはらうなどとは……という気づきにもつながる。

 これまで、ぎょろりと目を剥(む)いていた、恐ろしげな「不便」が、柔和な顔になっている。長く嫌われ者でいたことで、顔つきまでもそんなふうになってしまっていたらしい。反対に、呑気なかまえでゆるゆるやってきた「便利」のほうは、立場が曖昧(あいまい)になって、困ったような媚(こ)びるような表情をつくっている。この様子を見るにつけても、大量生産の便利が気の毒にも思えてくる。きっと昔は、「不便」と「便利」のあいだにも、ある相談のようなものが成り立っていて、「アタシの『ここのところ』は、いかにも融通(ゆうずう)がきかないからさ、アンタ、なんとか知恵を出しておくんなよ」と不便がささやくと、「便利」が「あい」と答えてそっと胸を叩いてみせるようなことがあったのかもしれない。

 手帖の〈これは、常備しなくてもいいんじゃないだろうか?〉は、日一日と、その項目をふやしている。思いついて記すたび、なんだか、愉快だ。
 ただし、ここへはその項目を記さないでおく。こういうのは、ひとりひとりがそれぞれに考えるのがいいのだし、「不便」と「便利」のあいだで、自らああだろうかこうだろうかと揺れることも、意味あることだと思える。

Photo
これは、もとは下敷きとしてはたらいていた
末の子どもの学用品です。
中学では下敷きを使わなくなったとのこと。
いたずら描きをして、机に置いてありました。
「これ、くれる?」と頼んで、もらってきて1年が
たちました。

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冷蔵庫のなかで、こんなふうに
使っています。
毎日つくっているヨーグルトの器のふたとして。
ときどき、保存容器に入れ替えるまでもなく
「ちょっとだけ保存」のときも、このふたが活躍します。
まあ、なんでもないことなのですが、
慕わしいフタなのです。

こんなのも、わたしには、立派な「便利」。

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2011年6月21日 (火)

こころの交流〈引用ノート6〉

 チャリング・クロス街八四番地のみな様へ

 美しいご本をご恵贈くださいまして、ありがとうございました。総金縁の書物を手もとにおくのは、私にとってこれがはじめてのことです。そして、とてもお信じになれないでしょうけれど、あの本、私の誕生日に着きましたの。
 みな様、礼儀正しくていらっしゃるので献辞をカードに書いてくださいましたけれど、なぜ見返しに書いてくださらなかったのでしょう。どなたも古本屋さん気質まる出しね。見返しに書くと本の値打ちが下がるので、おいやだったのでしょう。現在の所有者であるこの私にとっては、見返しに書いてくださったほうが、よっぽど値打ちがあるのですよ(そして、たぶん、未来の所有者にとっても。私は見返しに献辞が書かれていたり、余白に書き込みがあるのが大好き。だれかほかの人がはぐったページをめくったり、ずっと昔に亡くなった方に注意を促されてそのくだりを読んだりしていると、愛書家同士の心の交流が感じられて、とても楽しいのです)。
                               『チャリング・クロス街84番地』
                   (ヘレーン・ハンフ編著 江藤淳訳/中公文庫)※

 好きな本を尋ねられたら、『チャリング・クロス街84番地』ははずせないような気がする。まず。その昔、書籍編集者の友人から「これ、あげる」と、なんと云うこともなく手渡され、なんと云うこともなく読みはじめたときの驚きが忘れられない。本がたくさん登場する、書簡、仕事のはなし、とくれば、それだけで食指がうごくというものだ。それに、このものがたりには、正直さ、ユーモア、思いやりが満ちている。自分が正直さ、ユーモア、思いやりの3つ全部を失っているという残念過ぎる事態は滅多にはないとしても、ひとつかひとつ半くらい、どこかに置き忘れたとか、3つが少しずつ欠けた状態にあるということなら、日常的なはなしだ。この本を読むうち、正直さ、ユーモア、思いやりを、たやすくとり戻せるように感じられる。そこには錯覚も混ざっているにちがいないけれど、とり戻す勇気は分けてもらえる。
 アメリカはニューヨーク在住の、ヘレーン・ハンフ———当初自らを、小娘、貧乏作家と名のる———という女性が、絶版本を専門に扱うイギリスはロンドンの古書店マークス社に宛てて出した古書の注文書が、いつしか、例の3つの佳きものの満ちた手紙になってゆく。そうして、佳きものを受けとる資質に恵まれたフランク・ドエルはじめマークス社の一同のあいだに、書簡が行き来する。最初の手紙はヘレーン・ハンフが書いた1949年のもの、最後のは1969年、フランク・ドエルの長女シーラが書いている。
 内容をもう少しくわしく明かしたい気持ちをおさえるためにも、「ほんとうは……」と書いてしまってもかまわないだろうか。ほんとうは、ヘレーン・ハンフの手紙のニュアンスは、もう少していねいで、よそよそしいものだったと思いたい気持ちがある。そのニュアンスはもちろん、評論家であり、翻訳をいくつも手がけている江藤淳氏の洞察の結果である。それはわかっている。もう少しだけていねいで、よそよそしいは、つまるところ、わたしの好みだ。
 しかし、フランク・ドエルは、どこまでも英国的紳士である。控えめでありながら親しみをかもすのだ、書簡のなかに。お見事。

 古書が好きである。
 これは、わたしにしてはめずらしい明快な結論だ。
 古書が好きである。古書に見え隠れする前の所有者の痕跡、気配を受けとるとき、それをこころの交流と呼びたくなる。
 古書ばかりでなく、古いものを、たいてい好きだ。
 ということを、ここで宣言してみたくなっている。そうすることによって、もしかしたら、これまでたいした理由もなく「古もの」を敬遠していたひとのうちひとりかふたりくらいが、「わたしも、好きになってみようかな」と思ったり、「少なくとも、怖くはなくなった」と考えるようになるかもしれない。そうなったら、どんなにかうれしい。

※この本には、「書物を愛する人のための本」という副題がついています。
 英語で読みたい方には、『84,Charing Cross Road』(Helene Hanff/ペーパーバック)をおすすめします。
 なお、この作品は映画化されています(「チャリング・クロス街84番地」1986年/アメリカ)。出演:アン・バンクロフト、アンソニー・ホプキンスほか。

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これは、なんでしょうか。    


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ふたをあけました。ほら!

左から……
・アスパラガスのきんぴら
・豆腐とピータンの和えもの
・きゅうりと新玉ねぎの梅酢和え

こんな平べったいたのしい籠に入った、
甘納豆をいただきました。
甘納豆も弁当の箸休め、茶請けに活躍しましたが、
籠もまた……。
遅く帰ってご飯をひとりで食べることになるひとの、
小さなおかず入れとして使っています。
そして、こういうのが、
わたしの考える「正直さ、ユーモア、思いやり」です。
これのどこが、正直さかですって……?
それはね、
こちらの思いが正直に料理に映るところ。

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2011年6月14日 (火)

1枚ずつ、ひと針ひと針

 書いたり、本や資料を読むため机にかじりつくか。家のなかを動きまわった末、最終的に台所に落ちつくか。こういう暮らしをつづけていると、2週間に一度通っているカイロプラクティックのせんせいの、「1日のうち、ほんの少しでも外に出られるといいんですけれどね。ん」という声があたまの上から降ってくる。そうだった……、とあわてて、外に出てゆける日もなくはないけれど、ほんとう云うと、机にどのくらいかじりついていられるか、家のなかを動きまわったり台所にこもることにどれほど時間を費やせるか、が、わたしのいまの人生だ。

 ある日。
 わたしの部屋の、「けんちゃん」の上に、妙な現象が起こりはじめた。「けんちゃん」は、もとは食器洗い乾燥機として働いていたが、いまは文房具の在庫と、学校関係の(いつ必要になるかわからないが、捨ててはまずそうな)資料の保管業務に転職している。「けんちゃん」の上には、読みさしの本と、これから読む本、数冊の辞書をならべて置いている。ここを見ただけで、自分の現在の読書計画がわかるし、通りすがりに立ったまま、辞書を引くこともできるので、いまやわたしの気に入りの場所になっている。
 そこに……。ある日、1枚の真っ白い雑巾が置かれた。
(何だろう、この雑巾は)と思ったけれども、とりまぎれて確かめることを忘れた。つぎに同じ場所を見て、驚いた。1枚だった雑巾が3枚になっている。(けんちゃん、保管の仕事だけでは飽き足らなくて、雑巾を縫いはじめたのかなあ)と思いかけたけれど、いくら何でもそれは考えにくいね、と思い直す。ちょっと愉快になってきて、雑巾のことは、そっとしておくことに決めた。それに……、雑巾が置いてあるのは……、なかなかにいい光景でもあったのだ。
 雑巾は、その後も少しずつふえて、その日は結局5枚重なっておわった。翌日、午前中は5枚のままだったが、午後になると、また1枚2枚とふえはじめた。夕方、台所におさまったあとで、ある資料のなかみを確かめておきたくなって机にもどってみたところが、そこに怪しい人影があるではないか。
 いつも仲よくしているすずめの化身だった。

 というのなら、叙情的なものがたりになるところだが、何のことはない、見慣れた二女の姿だった。二女は、「けんちゃん」の上に、9枚めの雑巾をのせているところだった。

「それは、いったい何なの?」
「何って、雑巾。古タオルのひきだしに、タオルがたまっていたから縫ったの。だめだった?」
「だめなんてこと、あるわけないよ。でも、どうして……?」
「デスクワークがつづいていてさ、変化をつけるために、ひと区切りのたびに雑巾1枚縫うことにしてみたの」
「へえ」

 このひとは、現在、在宅でホームページをつくる仕事をしていて、それが、本業の洋裁よりも忙しくなってしまい、てんてこ舞いしている。ときどき、部屋から「や、こりゃ、失敗」「あー、わかんなーい」という、小さな叫びが聞こえてくる。そう云えば、ががががががという、ミシンの音も聞こえていたかもしれないなあ。
 それが、えらくうらやましくなってしまった。「それ」というのは、雑巾縫いもだけれど、何より仕事に区切りがつくたび、ミシンを踏むということがだった。
 真似しよう。
 とはいえ雑巾を縫うのは真似が過ぎるような気がして、あれこれ考えをめぐらす。そうだ、わたしは布巾を縫おう。古タオルのひきだしのなかには、商店名や品名の印刷された真新しいタオルもまざっているから、それを使って。
 そう決めたものの、自分のしていることのどのあたりが「ひと区切り」なのだか見当がつかず、なかなか布巾へと向かえない。もうもう、力ずくでひと区切りつけ、二女の部屋に行き、1枚縫わせてもらう。

 1枚縫うと、なんとも心地よい。
 調子づいて2枚めを縫おうとすると、「それは、だめなんだよね。1枚ずつじゃないとね」と二女に止められた。(ああ、1枚ずつね……)。そんな約束、したおぼえはない、と思いながらも、「1枚ずつ」には妙な説得力あって、云うとおりにする。1枚ずつ、ひと針ひと針。
 そうだ、この作業によってもたらされるものは、1枚ずつ、ひと針ひと針の心地よさなのだった。そりゃあ、文字を打ちこむのだって読むのだって、ひと文字ひと文字にはちがいないし、台所でもひと刻みひと刻み、ひと混ぜひと混ぜだ。が、ひと針ひと針のときの、少しずつだが一本道をひた走るがごとき感覚は、ほかに類を見ないもののような気がする。そうして、道は1枚ずつ長くつながってゆく。

 現在、雑巾、18枚。布巾、10枚。

Photo
けんちゃんと雑巾。

いまもまだ雑巾は積まれつづけ、
一部は、被災地にもゆきました。
友だちも、持っていきました。

雑巾の威力に、感じ入ります。

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2011年6月 7日 (火)

台所模様

 料理書を見ながら何かつくるというようなとき、以前——それも、かなり以前——は、そりゃあ真面目なものだった。真面目というよりも、それは、融通のきかない思いこみだろうかなあ。材料をそろえるのに、どれくらい苦心したかしれない。不足がちに暮らしている若い主婦の家に、どこの国のものかも知れぬめずらしい調味料を常備しているはずはなく、知識の乏しさも手伝って、聞いたこともない食材はいくらでもあった。
 けれども。つくってみたさ、食べてみたさ、食べさせてみたさは、ひと並みに、いやひと一倍もっていたから、苦心は、当然のことだったといえるだろう。
 そうした苦心が、自らを困らせるということもなくはなかった。
 苦心の末にそろえた目新しい調味料が一度の料理のあと、一向に使われることもなくいつまでも家にある事態。それから。料理書の材料の欄にある、「卵黄……6個分」というときの卵白、「トマト(タネをとって)……大1個」というときのトマトのタネ、「きゅうり(まんなかのタネのある部分はくり抜く)……3本」というときのまんなかの行きどころにも、困った。料理書には、いともあっさりそう記してあるだけだから、若かったわたしは、〈大事な、べつの、部分〉をもて余してしまうのだった。それに当時は、食材を使いきる、生かしきることに興味をもっていなかった。
 わたしはわたしで働き、食材は食材として存在し、というのが当時の台所模様だったのである。

 いまなら、こんなことで困ったりしない。
 調味料も、料理書の云いなりにもとめたりせず、代用のモノを家のなかにさがす。結局一度きりしか使わないのではないかという疑いを自らに対し、きっぱり抱けるようになったおかげで、ここ十何年、見て見ぬふりを決めこむ調味料をかかえこまずにすんでいる。
 ひとつ食材のある部分だけを用いるような場合も、残った部分に罪の意識をもたされることもなくなっている。
 卵白などは、1個分や2個分なら、卵焼きにひき受けてもらったり、焼きものの下味に混ぜこんでしまう。もっと多ければ、炒り卵白にして、サラダのトッピングや酢のものにしたり、トーストの上にのせて食べる。純白の炒り卵は、なかなかうつくしく、大人っぽい。
 トマトのタネ、きゅうりのまんなか、たらこの皮、野菜の皮やしっぽ、そんなのは、どうにだってなる。あぶれたモノたちと懇意にするのが、いまのわたしの台所模様だもの。まかせてほしい。

 ある日。
 夫の仕事部屋に、5人の仲間がやってきた。苦労の末に、やっとまとまりかけた映画の、第一回めの試写会だそうだ。映像製作のむずかしさはわたしの理解をいつも軽く飛び越して、あれよあれよという間に完成地点に着地しているという具合だ。そういうのを無理解と呼ぶのだとしても、無関心ではとてもいられない。それでわたしは、食べるものをこしらえよう……と考える。8畳ほどの、それも窓を閉めきり暗闇をつくった部屋のなか、映像を観る。その後、監督、撮影、録音、編集、その他に力を尽くした面面が意見を交わす場面で、食べるものと云ったら……、サンドウィッチ。
 家でサンドウィッチをこしらえるときは、パンの耳はつけたままにするのだけれど、この日は、なんとはなしに恰好つけてしまった。耳なしのサンドウィッチを、大皿2枚にならべる。

・蒸し鶏とセロリ(マヨネーズ)
・ゆで卵とピクルス、玉ねぎ(ピクルスの漬け汁でつくったドレッシング)
・キューカンバーサンドウィッチ(塩)
・合挽肉と玉ねぎの炒め(トマトソース)
・ママレードとクリームチーズ

 さて、時間どおりに暗闇の部屋にサンドウィッチを運んだあと、わたしのもとに3斤分のパンの耳が残った。パンの耳のような存在と気持ちを通わせ合うせるところまでして初めて、サンドウィッチづくりになるというわけだ。

 翌日の台所模様。
・キッシュ(パンの耳、卵、牛乳、サルサソース、ブロッコリ、ピッツァ用チーズ)
・シーザーサラダ(パンの耳、風変わりなレタス類、ベビーリーフ、パルメザンチーズ)

 もぐもぐ ぱっちり(※)。

※これは、わたしの造語、結びのことばです。おいしそうなのがいいなあ、と思って。


1

卵白の炒りたまごです。
なんでもないことですけれど、これを
考えついたときは、こころが晴れる思いでした。
味つけは、塩こしょう、マヨネーズ、いろいろです。
クリームチーズを塗った上にのせても……。
サラダや、酢のものにも、重宝します。

パンの耳キッシュ、シーザーサラダ(パンの耳入り)のつくり方は、
きっと、また……。
キッシュはサルサソースが、
シーザーサラダはドレッシングが決め手です。 

 

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2011年5月31日 (火)

あらためる

 柔軟を装っているが、わたしにはどこか頑(かたくな)なところ、かたまりやすいところがある。それは、父を見ていて、(どうしてこんなことで、これほど頑になるのか……)と思うことが少なくはなく、そういう父にわたしは似ているらしいからだ。父も自分の頑さ、かたまりやすさには気がついているらしい。癖であるのか、気質なのかわからないけれど、それらがあやまちを生まぬよう、自らを戒めてもいるように見える。
 それが証拠に、ときどきへんてこなことを云いだすのだ。
「おまえにおしえた雑巾や台布巾の絞り方だが、あれはどうやら逆さまだったようだ。すまなかったね」
 という挨拶が、へんてこのはじまりだった。父特有の熱意によっておしえこまれた絞り方を10年近くつづけた揚げ句、あらためよと云われても……。「ええー? 逆さまだったのぉ?」と口をとがらすわたしに向かって、父はこう云った。
「わたしはあらためたよ」

「あらためる」は漢字で書くと、「改める」であり、「革める」だ。「改」はわかりやすいけれど、「革」ともなると、事態は急を告げるようだ。なにしろ革命の「革」だもの。
 そうしてこの春、わたしがあらためた事柄は、この「革」の字をあてはめるのがふさわしい「あらためる」だったかもしれない……。

 主婦になりたてのころから、この春先まで、わたしは台所の流しに「洗い桶」を置かなかった。「持たない」をめあてに暮らしはじめて、洗い桶については、すぐさま「いらない」と決めこんだ。わたしの最初の本『元気がでる美味しいごはん』(晶文社/1994年)にも、そのことがいともかんたんに書いてある。
「〈持たない主義〉のわたしの家には、台所の洗い桶、生ごみを入れる三角ザル、洗った食器をふせておくカゴ、布巾かけ、テーブルと椅子、ふとん叩き、雑誌ラック、子どもたちの学習机、わたしの机、お手洗いのマット類とスリッパ、がない。ふとんはバドミントンのラケットで叩いているし、学習机はキャビネットに板をわたして代用している。わたしはちゃぶ台で仕事をするか、背の低いチェストの扉をひらいて足をつっこみ(主にワープロ用として)机代わりにするかだ。ええと、ほかにまだあるかなあ」
 あのころのわたしは、洗い桶とは何か、なんのためにあるのか、ということを考えてみることをしなかった。そら、それが頑さであろう。かたまりやすさであろう。……と、いまは思う。
 さて、初めて書いたその本を読んでくだすった友人のお母上が、「感心しました。あなたのおかげで自分のモノの持ち方を見直したんですよ」と断って、「けれどね、台所の洗い桶だけは持ったほうがいいように思うんですよ」と云われた。
 云っていただいたことを忘れたわけではないけれど、それを見直してみる機会を寄せつけないできてしまった。ことしの3月、東日本大震災が、水のありがたみ、電気やガスの使い方ほか、いろいろの見直しを促すまで。  
 これまで平気の平左でしていたあらゆる無駄づかいに気づいて、恥じつづけた日日。そうして、一度恥じてしまったら、もう、以前のような無駄づかいはできなくなるというわけだった。すぐと気づけたものもあったけれど、ゆっくり知ってゆく無駄づかいも少なくはなかった。
 たとえば、台所で。水を使いながら、日に日に違和感を抱くようになってゆく。食器洗い乾燥機の「けんちゃん」は通電せずに仕事を変えたけれど(日日のしおり…4月6日~7日)、わたしの食器洗いは、「けんちゃん」のしてくれていたそれと水の使用量を比べたら、いったい節水になっているのだろうか、と考えさせられることもある。ふと、自分が水を流し放しにしていることにはっと気づくことなど、1日のうち1度や2度ではなかったからだ。
 そのときだ。かの日の「台所の洗い桶だけは持ったほうがいいように思うんですよ」というやさしい声がよみがえった。そうだ。洗い桶があれば、そこに水を受けて、あと片づけにも使えるし、ほかにも水の使いみちへつなぐことができる……。何年ぶりの見直しだろうか。なんと、約30年ぶり。やれやれ、何と年月のかかったことか。
 けれども、「革める」のに、遅いということはないだろう。気がついたそのときを逃さぬことが何より大事と、いまは思える。

 父の真似をして、家の者たちに、挨拶する。
「あらためるよ」


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洗い桶。
使わないときには、こんなふうに壁にひっかけておくことにしました。
ブリキのような素材の、軽い洗い桶なのです。


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水を張って、そこで下洗いをしたり。
何かを茹でたあとの汁を受けて、あと片づけに
使ったり。
水の流し放しは、洗い桶のおかげで、
ずいぶん少なくなりました。

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2011年5月24日 (火)

たんころりん

 たにしというのは、何だろう。
 貝かな。貝のような気がするが、思いがけないものの仲間だったりすることもないとはいえないな。
 考えたってわからないので、調べてみる。
  【たにし】田螺。腹足綱 原始紐舌目 タニシ科に分類される巻貝の総称。

 そうか、やっぱり貝だった。
 2年前、たにしをもらうという稀有(けう)な機会にめぐまれたとき、まず思いだしたのが、「木下順二」の手になる民話「ツブむすこ」。主人公のツブというのが、たにしだった。この話には、夫婦の有りようについて、ひとのみかけについて、考えずにおれなくなるような不思議なちからがこもっている。

 もうひとつ思いだしたことがあった。子どものころ、大好きだったカルタだ。
 絵札は段ボールシートに印刷され、読み札のほうは粗悪なボール紙でできていた。読み札にいたっては、裏おもて両面にことばが印刷されているものまであったから、たしかめたしかめ読まないと、ついには、絵札が場にのこってしまう始末。母が、ある雑誌の付録を切りとってもっていたカルタだった。
 そのほかうちには、日本昔話のと、ポパイのと、立派なカルタがあったが、弟もわたしも、そして両親も、なぜかその付録のカルタを贔屓(ひいき)にした。正月になると、「カルタやろう、カルタやろう」と誰彼ともなく云いだし、そうしてやりたいカルタといえば、いつもその付録の、だったのである。
 さて。カルタでも百人一首でも、そしてトランプや花札でも、ひとそれぞれにその札だけは自分の手もとに置きたいというような、気に入りの1枚をもっているものだ。それはわたしももっており、また、付録のカルタのなかにも、そんな1枚があった。

  田んぼでたにしがたんころりん

 たしか絵札には、水田を背景に、たにしがどんと描かれていた。その札だけは、幼ごころにどうしてもとりたかった……。
 大人になってから、(たんころりんとは何だろうか)とふと気になった。これまた、考えたってわからないから、調べる。すると、妖怪の「たんころりん」と、行灯(あんどん)の「たんころりん」とがあることを知った。
 先の「たんころりん」は、実った柿の実をとらずにそのままにしておくとあらわれる妖怪で、あとのは、愛知県豊田市足助(あすけ)に古くから伝わる、竹で編んだ籠と和紙を組みあわせてつくった円筒形の行灯だ。妖怪はちょっと恐ろしいけれど、行灯の「たんころりん」は灯ったところを眺めてみたい。足助では毎年8月のある期間、古い町並み(1.3km)に沿って、夜、「たんころりん」に火をともしてならべるという。
 調べをすすめるなかで、「田圃(たんぼ)にて」という詩にめぐり逢った。山村暮鳥(やまむら・ぼちょう/1884−1924年/詩人、児童文学者)のこの詩は、のちに「中田喜直」(なかだ・よしなお/1923−2000年/作曲家)が曲をつけて童謡としてうたわれるようになっている。

  たあんきぽーんき
  たんころりん
  たにしをつッつく 鴉(からす)どん
  はるのひながのたんぼなか

 ああ、これだ。
 たにしの「たんころりん」は、これだ。

 ところで、2年前、いただいたたにしはどうなったか。
 たにしがうちにやってくるというよすがにわたしは打たれ、たにしを迎える準備にとりかかる。
 わたしの思いを察してくれたものか、たにしの家は夫がぶら下げて帰った。浅草橋の駅前の陶器店でみつけた睡蓮鉢だった。このあたりでわたしは、よすがに打たれるという思いをつい沸かせ、小振りの睡蓮をもとめたり、たにしがさびしくないようにと(?)、折しもめだかを育てていた友人に5匹分けてもらったりした。そうしてとうとう、睡蓮を植えつけた粘土状の土の上に、そっとそっと、たにし6匹を置いたのだ。
 夢のようだった。自分のそばにたにしがいることも、睡蓮の花を見られるかもしれないことも、めだかまでやってきたことも。毎日何かと云うと睡蓮鉢のなかをのぞき、のぞくたびに、たにしたちとめだかたちの数をかぞえた。たにしは、鉢の内側にぴたっとくっついて、そのまま動かない。
 ところが。夢のような世界は長くはつづかなかった。まずめだかが1匹ずつ死んでゆき、つぎにたにしの姿が見えなくなった。見えないだけで、鉢底の土のなかにもぐっていると思いたかった。3か月ほどすると、睡蓮の容態が思わしくなくなり、とうとう……。
 あのときの「うまくいかなさ」は、わたしをしばらくのあいだ虚ろな気持ちにさせた。縁あって、寄ってきてくれた命を自らの落度によってことごとくなくさせたように思えた。しかし、いま思い返してみると、わたしはあのとき、たしかに学んでいた。他者の存在、その命を守ることのむつかしさを。あのときの「うまくいかなさ」は、その後、ひょいと命を引き受けようとする自分を止めはしないが、慎重にと釘をさす。そして、命とは、縁(えにし)のことでもある。

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先週お目にかけた瓶(かめ)の
なかみは、これです。
きゅうりと茄子を解禁にしましたので、
夏のあいだ、ここへぬか床をうつすことにしました。

もとは睡蓮鉢で、たにしも、めだかも棲んでいたところを、
ぬか床にするなんて……と、わたしは思わないのです。
いろいろ学ばせてくれた命のすみかに、朝晩手を入れ、
命のおもみ、縁のおもみを、思い返すことにしたいな、と。

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2011年5月17日 (火)

それとこれのつながり〈引用ノート5〉

 けれど、このごろ、私はファンタジー童話は、お料理みたいなものだと思うようになった。腕のいいコックさんは、どんなに月並の材料を使っても、それを、たちまち独創的なすばらしい一品に仕上げるのだ。童話も同じこと。台所の野菜が歌をうたい、おなべがくるくる踊る話だって、できるのだ。
 私の生活の中で、童話と家事はたがいに調和し、助けあわなければならないと思うようになった。「両立させる」という苦しい言葉を、私は好きではない。
 家事も童話も、まだまだ一年生だけれど、これから努力して、どちらも磨きあげたいと思っている。
 
『まよいこんだ異界の話』(安房直子/偕成社)所収のエッセイ「童話と家事と」より

 安房直子(あわなおこ)さんというものがたりの紡ぎ手の存在を知ったのは、20歳代のはじめ、社会人になりたての頃だった。そのころわたしは、先輩編集者といっしょに『少年少女の生活日記』という日記帳をつくっていた。毎年10月に刊行の日記帳づくりは、季節労働である。日常のルーティーンワークである雑誌の編集に携わりながら、一時期、そちらの仕事を最小限にして日記づくりに借りだされるのだ。
『少年少女の生活日記』の著者は、その日記帳を手にしてつけつづける少年少女。だからほんとうは、書籍とはちがう。けれど、「少年少女の生活日記」は、その名を『 』に収めずにはいられないほど、なかみに手をかけた。詩のある毎月のとびらのページ——さまざまな詩人に、12篇の詩を選んでいただいた——にはじまり、各月に2つか3つの記事やおはなしを入れる。
 升目も罫線もない、真っ白な日記部分の両側には、「柱のことば」と名づけた、
ひとくちメモをつけた。日記への愛着が深まるような記事をと、文学、理科、数学、歴史、生活と、偏りのない「柱のことば」をと、ずいぶん苦心したものだった。しかし、ずいぶんといえば、それはずいぶんたのしい仕事であり、当時は気がついていなかったが、わたしにとって勉強でもあったのだ。
 その仕事のなかで、安房直子さんに出会った。相当にお忙しかったことと、
当時のお住まいの関係からだったろうか、お目にかかることはできなかったけれど、こころよく小さなおはなしをつくってくださった。おはなしを注文し、おはなしが届くというそのことが、ひとつのものがたりに思えるような、そんなつながりがそこにはあった。
 あのとき、「安房直子」のものがたりと出合わなかったら、わたしはいつその世界を知っただろう……。まことに心許ない。かの日、「安房直子さんにお願いしてみましょうよ」と思いついた先輩のおかげだ。おかげもおかげ。わたしはその後ときどき、「安房直子」の世界のとびらの前に急ぐようになる。安房さんのものがたりには、人づきあいのうまくない、社会との折りあいのつけにくい人物が少なからず登場する。そんなひとたちが居場所を得て、生き生きと動きだすさまが、つまずいてばかりいるわたしを幾度救ってくれたことか。いやいや、ほんとうは幾度というような回数めいたはなしではない。つねにその世界があることを意識していたからこそ、つまずいたって平気、そこへ行って——逃げこんで?——休めばいいと思えていたのだから。

 掲出の「童話と家事と」は、安房直子さんのエッセイである。
 これを読んで、勇気を得る読者の顔がありありと想像できる。わたしも、そのなかのひとりだ。
 ものがたりのイメージがあたまのなかに生まれても、ペンを執(と)ったとたん、それが露と消えてしまうもどかしさ。しかし、家のなかで無心に洗濯しているようなときに、ふと思いがけない一節がうかんで、すらすら短編がまとまったりするというはなしが描かれている。
 そうだ、そうだ。
 童話と家事とはつながっている。云い換えるなら、「ものを創りだす」ことと、「日日の労作」はつながっている。さらに云い換えるなら、それとこれとのつながりこそ、胸におさめておきたい、だいじな線。
 わたしたちはときどき、日日のことにあんまり忙しくて、ものを創りだす暇(いとま)もないなんかと、文句を云う。自分がいかに夢から遠い存在であるかと、嘆いてみせる。
 日日のことと、ものを創りだすこととは、たしかにそれとこれというそれぞれのかたちをとってあらわれる。それとこれ。あちらとこちら。けれどそれがつながっている、支えあっていることを信じることができたなら……。


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「安房直子」のものがたりのなかには、
床しいすがたで超自然のものが登場します。
とくに小人。
安房直子さんは幼い日、
家にあった木のラジオのなかに、
「小さいひとたち」が住んでいて、
話したり、歌ったりしているのだと信じていたのがはじまりで、
大人になってからも、小人を思う気持ちをもちつづけていたそうです。
結婚して、料理をするようになってからは、
ヨーグルトのなかにも、パンのなかにも、
ぬかみそのなかにも、小人がいて働いていると思わずには
いられなかったといいます。
……素敵ですねえ。
このたびご紹介したエッセイが巻末におさめられた単行本
『まよいこんだ異界の話』には、
お酒のなかに住む小人のものがたり「ハンカチの上の花畑」が収録され
ています
                    *
写真は、うちの台所にこの週末、置かれた瓶(かめ)です。
もとは、台所とは無縁の場所ではたらいておりました。
この瓶のはなしは、また、来週させていただくとしましょう。

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2011年5月10日 (火)

「ま」

 「まがさす」ということばがある。
 漢字で書くと「魔が差す」。魔が入りこむがごとく、不意にふだんは考えられないような悪念を起こす、という意味だ。漢字も意味もそうと知っていながら、このことばを思うときいつも「間が射す」というかたちが浮かぶ。魔というほど悪いものでない何か——間をとるというくらいの、機会——が、胸のうちに射しこんで、ひとに気づきをもたらす。と、なぜかそんなふうに受けとめたくなる。

 その日、いつものように、わたしは早早に床についた。
 玄関脇の部屋に寝にゆくとき、「きょうはちょっと遅くなるかな」と云って出かける長女の背中を思いだし、黄色いボールを上がり框(かまち)に置く。わたしが休むとき、まだ帰宅していない子らの、帰宅の合図のボールだ。さすがに中学生の末の子のボールはまだないけれど、成人した長女と二女の、黄色いのと黄緑色のとが、ある。おそい帰宅のとき、それぞれが「帰っています」の合図に、わたしの寝床に向かってそれを投げる——ほんとうは、そっと掛け布団の上にのせてほしいのだが——約束だ(「豪速球はやめてね」の巻参照)。
 早寝のわたしがひとしきり眠って、ふと目覚めたとき、掛け布団の上にボールのあるのをみつけると、安心する。わざわざ「帰ってきたかしら」とたしかめにゆかずにすむというわけだった。

 ぺたんぺたん。
 常とはことなる足音で目が覚めた。
(誰だろう……。河童でもやってきたかしら)。目覚めたついでにひと口お茶を飲みにゆく恰好で、覗いてやろう。
 部屋の扉をそっとあける。すると……、誰かが上がり框に腰をおろして、こちらに背中を見せている。
(河童?)
 そう思ったのは、ねぼけているせいでもあるけれど、こちらに向いた背中が河童の背中の甲羅のように見えたからだ(それに、わたしは河童が好きである。夢のなかと、ものがたりのなかでしか逢ったことはないけれど)。よく見ると、甲羅は、背中にぴたりと添ってつくられている背負い鞄なのだった。
「おかえりなさい」
 そこに腰をおろしているのは、長女だった。そう云えば、掛け布団の上には、長女の黄色いボールがまだのっていなかった……。声をかけても、長女は背中を向けたままでいる。
「どうかした?」
「ふふふ」
「……ふふふって」
「ころんじゃって、渋谷からタクシーで帰ってきたの。暗がりのなかではころばなかったのにね、明るい店のなかで階段を踏みはずした」
 アルバイト時代の友だち数人と飲みにゆき、ころんで捻挫をしたらしい。肩を支えて立ち上がらせると、痛む右脚をかばった体重のかけ方でしか歩けないのだった。ぺたんぺたん。ぺたんぺたん。

 酔って階段で足を踏みはずすなどとは、と思おうとするが、どうやらわたしは別のことに気をうばわれている。別のこととは、今し方長女が小さくふふふと笑いながらつぶやいた「暗がりのなかではころばなかったのにね」である。
 東日本大震災のあと、夕方電気をつけない生活をつづけている。手まわし充電の電灯のもとで料理をし、ろうそくの灯りのもと晩ごはんをとる。この家の誰も彼もが薄暗がりに慣れて、これまで、調理中に指を刃物で傷つけたり、食卓で何かをこぼすこともなく過してきた。階段を踏みはずすということもなかった。
 暗がりのなかで、身が自然に慎重さを生んだからだと思える。灯りの助けを借りずに動こうとすれば、足もとも手もともそれなりに緊張するし、何より目を凝らす神経がはたらく。
「ま」が「さした」んだなあと思う。魔というほどのものではないが、直接には長女に、そして、間接的にはわたしにも、「ま」は伝達する。

 長女には、速度をゆるめよ、と。
 わたしには……、目を凝らすことをおぼえた意味を悟れ、と。

5

昨年12月にやってきたポインセチアの紅子(べにこ)です。
いまでも、こんなに元気です。
同じ機会にポインセチアをもらった友人が、
紅子を見て、「うちのは、苞(ほう※)がすっかり落ちちゃったのに」
と云います。
友人によると、ポインセチアは夜、真っ暗ななかにいると、
苞も長く元気でいつづけるとか。
……ろうそく生活のおかげかもしれません。
※苞=基本的に、葉でも花でもないもの。


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朝顔(花色=白と青)、夕顔(=白)のタネを植えこみました。
ことしも、夏のあいだ朝顔カーテンになってくれますように。
そしてまた、12月まで花を見せてくれますように。
          *
朝顔も、夜、真っ暗ななかにいることで、
体内時計がはたらき、朝、花を咲かせるタイミングを
はかる植物です。

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2011年5月 2日 (月)

ものがたり

 里の、古い家だ。
 雨戸を開けようとすると、
「その仕事は、あとからやってくるおひとのためにとっておきましょう」といくぼーやさんが云う。
「いくぼーや」——そのことばを、最初に音で聞いたとき、漢字と結ぶことができなかった。それが「育暮家」だと知って、おおいに感心した。そうして、「育」、「暮」、「家」とならんだ3つの漢字をならべ替えても、「いくぼーや」の意味を思うことができるのだという説明に、わたしはもう一度感心する。いまでは、「育暮家」というのほど、組み合わせがよく、だんだんに深まってゆくことばはほかにはなあと思うまでになっている。

 育暮家さんは、この、里の古い家の守り人である。
「ガラスも拭いてもらいたいし、そうだ、薪割りも……」と云いながら、育暮家さんは、そわそわしている。あとからやってくるおひとに、あれもしてもらおう、これもしてもらおうと、そわそわしているのだ。おもしろいひとだなあ。あとからやってくるおひとというのは、お客さんなのにね。そのお客さんに、雨戸をあけてもらい、ガラス拭きやら、薪割りやら。その上、竃(かまど)でお昼ごはんのたけのこご飯を炊いてもらい、味噌汁もつくってもらうのだそうだ。どうなることやら。
 最初のお客さんがやってきた。やってきた順番に、まず雨戸を開けてもらい、つぎに女のひとふたりを廚(くりや)に案内し、育暮家さんは、ふたりのうち片方のだんなさんに、「薪割りと、囲炉裏の火のことを、どうか……」とたのんでいる。お客さんたちはうれしそうに「それじゃ、そうさせてもらいます」なんかと云って、ひと息入れることもせず、持ち場に散ってゆく。これまた、おもしろいお客さんだなあ。
 竃の煙突から細い煙が上がりはじめたころ、つぎつぎとほかのお客さんたちがやってきて、古い家のなかは18人の大人、2人の子ども、1人の赤ちゃんでいっぱいになった。
 わたしは、お膳の仕度をすることにして、棚から人数分の茶碗、お椀、小皿を出して、それを洗って拭く仕事にとりかかる。その仕事をしながら目を上げるたび、箒(ほうき)で座敷を掃いたり、拭き掃除をしたり、育暮家さん期待のガラス拭きをしているお客さんの姿が目に飛びこんでくる。2人の子どもは1人の大人と、庭の奥でたけのこを掘っている。
 廚から、ご飯の炊けるにおいが漂ってきた。

 そのうち、育暮家さんの奥さん——このひとも育暮家なのだけれど、区別をするために「みちこさん」と呼んでいる——が、何人かのお客さんに、上新粉と大きなボウル、木杓子をわたして団子づくりをはじめた。上新粉に熱湯を加えてこね、ちっちゃくまるめる。これは、午後のお茶菓子になるのだそうだ。若い夫婦のお客さんが、前の晩から水につけてあった小豆を鍋ごとわたされて、「あんこ係」になった。
「あんこづくりは初めてなんですけれど」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」というみちこさんの声が聞こえる。

〈昼ごはん〉
  たけのこご飯
 わかめ、玉ねぎ、油揚げの味噌汁
 かつおの角煮
 エシャロット(味噌を添えて)
 はじかみ(金山寺味噌を添えて)
 小さくて黄色いみかん

 質素で見事な昼ごはんのあと、また、みんなで片づけをし、午後1時過ぎ、卓を囲んでふたたび坐る。
〈話のひととき〉 ものがたりの朗読に耳を傾けたり。代わる代わる自分のことを話したり。……ひとの話を聞く。
 ときどきあんこを心配するひと、囲炉裏の火を気にかけているひとが、席を立つ。

〈お三時〉
 ちっちゃい団子6つ(あんこをまぶして)
 新茶(前の日、育暮家さんとわたしが摘んだお茶の葉を手もみにしたもの)

 話のひとときのなかで、聞いたものがたりのさいごのところを、皆で聞く。そして、なんて不思議な話だろうと、ため息をつく。
 誰も彼もため息をつきながら、でも……と思うのだった。でも、わたしたちのきょうも、たいそう不思議だったな、と。初めてのひと同士が出会うなり、一緒に働いたり、となり合って昼ごはんを食べたり。育暮家さんがつくった約束のなかに、この家にやってくるひとは等しく働き、この家を大事に使うというのがある。それがいかに大事で、なおかつ自然なことであるかを、たしかめ合った日。暮らしというのは、家というのは、あらゆる不思議とともにあるものと、思いだすことのできた日。
 子どもたちが掘り上げた、でっかいたけのこを抱えての記念撮影ののち、夕方4時半、さよならをする。

 ものがたりに登場のひとりひとりが、自分のものがたりへとそっと帰ってゆく。

 育暮家さんは、このあと2時間、里にのこった。消した火がほんとうに消えたことをたしかめるため。

                                   *

 以上、4月29日(金)、静岡県藤枝市にある里でひらいていただいた会の、報告です。企画してくださったハイホームス(建設会社)代表の杉村喜美雄さんこそが、「育暮家」の正体です。
 またいつか、あのうつくしい古民家で皆さんにお会いできたら、どんなにうれしいだろうか、と思っています。
 参加してくださった皆さんに、こころを寄せてくださった皆さんに、御礼を申し上げます。杉村さんをはじめ、育暮家・ハイホームスの皆さんにも。


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4月28日。
茶摘みをしながら、のぞむ里の風景です。

Photo_2
4月29日。
「『足りないくらいがおもしろい』サロン」が
ひらかれた「青野さんっち」です。
「青野さんっち」は、主に、
子どもたちの里山体験、竃でのご飯炊き、
民家の知恵を学ぶ家づくり・暮らしづくりの勉強会などに
使われています。
「青野さんっち」のある大沢は、葉梨川の上流にあたり、
上大沢と下大沢の二地区があります。
大沢の家家は、「がけ地近接危険住宅移転事業(藤枝市)」に
指定されています。
そのため、かつては70戸あった住戸が、現在は10数戸に
なってしまいました。
下大沢の一画に移築可能な土地を確保し、
壊す予定の家を譲ってもらってできたのが「青野さんっち」です。
育暮家さんは、古い家を再生にむけて解体し、移築し、よみがえら
せました。
その仕事には、多くの職人さんの志と技が結集しています。

育暮家さんたちが、祭事やしきたりを学びながら、
里の一員として「青野さんっち」を運営している様子に、
訪ねるたび感動させられます。
(撮影は、ハイホームスの太田順子さん)

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2011年4月26日 (火)

2階特設自習室

 2月の、ある週末。
 食堂兼居間に渾然(こんぜん)たる風景があった。ひとりはノートパソコンを睨んで仕事らしきことをし、ひとりは音楽を聴きながら裏紙を切りそろえてメモ用紙をつくり、ひとりは期末試験前の勉強をしている。
 見慣れた光景だ。子どもたちは自分の部屋をもっているが、そこではストーブは使わない約束だから、日射しのある時間を過ぎると、なんとはなしに居間兼食堂にやってきて、それぞれの作業と勉強のつづきをする。見慣れた風景というのは、いいものだ。先先(さきざき)、なつかしさと結ぶ約束ができている、というふうでもある。
 が、ときに、そんな見慣れた風景にふっと息を吹きかけ、目あたらしいものへと変化させてみたくなる。

 一方、こちらは2階のわたしの机のある部屋。
 食堂兼居間のある2階にある、もうひとつの部屋である。
 ここは書斎にはちがいないが、ちょっと書架の下段に目をやると、ピクルスやらママレードやら、何ものかになるのを待っている梅酒を漬けたあとの梅の実やらが、瓶におさまってじっとしている。この部屋が書斎なんだか、作業場なんだか、保存食置き場なんだかはっきりしないというふうになったらいいなあと、常日ごろ考えている。ここで働くわたしというひとが、雑多な、はっきりしない存在であるのだし。
 さてこの部屋は板の間で、畳に換算すると6畳間の広さだが、その面積に加えて北側と東側に出窓が張りだしている。面積と書いて、ちょっと鼻がふくらんだ。初めてこのことばと出合った小学生の時分から今日にいたるまで、少しも親しくなれなかった相手を、なんということもなくひっぱり出していることがこそばゆく、また密かに得意なのだ。面積。面積。面積。ひっぱり出せたということは、わたしの脳に面積という概念が棲んでいた証拠だもの。面積。面積。面積。もう一生分書いてしまったような気もするが。
 ところで、何の面積のはなしだったか。
 そう、わたしの部屋の面積——また書いた——だったな。
 いまこうして向かっている机からふり返ったそこには、部屋の床面積の半分以上があいて、ひろがっている。あいている、というのはわたしの気に入りだ。「がらん」と、殺風景が好みだから。
 この「がらん」を見て、ひらめく。
 ひらめいたわたしは、とっとと納戸へ入りこみ、奥のほうからキャンプのときに使う折りたたみ式の簡易テーブルを出して、わたしの部屋の「がらん」にひろげる。食卓から椅子1脚と、背もたれのない丸椅子1脚を借りてきて、置く。それらしさが足らないような気がして、国語辞典、漢和辞典、広辞苑をならべる。これだけで、たいそうそれらしくなった。
 それらしいという、それとは何か。ついさっき、居間にひろがっていた見慣れた風景を目あたらしいものにするためのそれ。わたしはここへ、自習コーナーをこしらえたつもりなのだ。だから、それらしいとは、自習コーナーらしさを指している。
 居間で仕事をひろげたり、手仕事したり、勉強するのもよかろうと思うけれども、もう少し神妙な、図書館の自習室のような場があってもいいような気がして。

「わたしの部屋に、皆さんが使える自習コーナーを設けました。どうぞ使ってください」
 一同、「何それ」という表情で立ちあがり、見学にやってくる。
「もう、きてもかまわない?」と、ひとりが云う。
「決まりはあるんですか?」と、もうひとりが云う。
「椅子、ふたつだね」と、またひとりが云う。
「どうぞ、いつでもいらしてください。決まりはですね……、音楽なし。食べもの? そうですね、飲みものは持ってきてもいいことにします。3人めになったひとは、椅子を持ってきてくださいな」

 目あたらしい風景は、こんなだ。
 宿題をする者が「ペン習字」をする者にそっと質問したり、書類をつくっていたはずの者がわたしの書架の本を読んでいたり。ときどき、「パソコン貸して」と机を追われてわたしが学習コーナーで手紙書きをするようなこともあった。
 困るのは、それぞれの荷物や帖面を置いたままにすることで、途中で「明窓浄几 置き勉禁止」(※)と書いた紙を貼りだした。

 開設時から、このコーナーは期間限定にしようと決めていた。このちょっと愉快なコーナーが見慣れたものに変わり、もとめていたはずの目あたらしさが消えてしまうのでは、つまらないと思えたからだ。
 春休みがおわる4月はじめには閉じるつもりだった。けれども、3月に東日本大震災が起こり、この特設自習コーナーがとつぜん切実な場となった。家にいるときはここにあつまり、作業や勉強をすることが多くなっていた。被災地を思う気持ち、余震への不安感を抱えている者同士、身を寄せあってそこにある、という風景だった。
 このテーブルをたたんで納戸にしまったのは、桜花もすっかり散った4月も後半のことである。

※明窓浄几(めいそうじょうき)
 明るい窓ときよらかな机。明るく、きよらかな(整理整頓された)机、書斎を指して云う。
※置き勉
 教室に教科書(その他の資料)を置くこと。学校からのプリントにも「置き勉はだめ。置いてよいことになっているもの以外は、家に持ち帰ろう」などと記されている。

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わたしの机から、ふり返って見た
「特設自習コーナー」です。
夏休みになったら、またこれを設けようかと
考えています。

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2011年4月19日 (火)

生きなおす〈引用ノート4〉

 「そなたは、世の中に完全なものなど、無いと思うてくれるか、わたしは、
  完全を願うたが、欠けてしまった、挫折してしもうた、
  今では、三斎どのの灯籠のことを思い出すたびに、早くも、完全をきらった
  その心が、見事に思われるのじゃ、
  ことごとくのものが揃う、手にはいる、などという完全な幸福は、どこに  
  もありはしないのだ、この世は、どこか欠けている、足りないものを
  恨むまいぞ、われらは欠灯籠よりも欠けていることを知っていなければならぬ、
  秀高、秀継家族(※1)も無事、会わずとても、ここに生きておることを喜び
  くれまするよう、くれぐれそなたも自愛してたもれ、
    豪どの
                                         秀家」
   『閉ざされた海——中納言秀家夫人の生涯』(中里恒子著/講談社文芸文庫)

 わたしが出版社に勤めていた時代、あらゆる原稿が、多く万年筆や鉛筆による手書きだった。ファクスというのもなかったから、原稿はいただきに、うかがう。駆けだしの仕事と云えば、だから、原稿とりである。あれくらい緊張する仕事もなかった。
 生きて動いている作家——この表現は失礼にあたるかもしれないが、まさしくそれが実感だった——の前で、当時携えていた礼節という礼節をかき集めてふるまい、原稿を押しいただくのが第一の緊張。原稿をしまった鞄を抱くようにしながらの帰路が第二の緊張。入稿は先輩の手によってされたが、初校(最初の校正刷り)の「読み合わせ」(※2)が第三の緊張であった。
 中里恒子さんの小説の「読み合わせ」も幾度したか知れない。「読み合わせ」は2人1組の仕事だ。原稿と、刷り上がったゲラ(校正刷り、校正紙)とにちがいがないかどうか、読んで合わせてたしかめる、校正の第一関門だ。

 ——たとえば、冒頭のは、こう読み合わせる。

(かぎ) そなたは (てん) よのなかに (よとなかが漢字) かんぜんな(かんぜんが漢字) ものなど (てん) ないと (ないが漢字) おもうてくれるか (てん) わたしは (わたしは仮名)(てん) かんぜんをねごうたが (てん)

 このように、原稿を読んでゆく、声にだして。もうひとりは、校正紙を見ている。
(てん)ばかり、やけに多い文章だと思った。ことに、話ことばをおさめた「 」のなかに(。)はひとつも存在せず、「 」のなかは必ず(、)でおわる。初めてそれに接したとき、先輩にそっとおしえられた。
「これが、中里恒子さんの原稿のかたちなのよ。作家の、この『型』は、どんな場合もそのままに。魂が宿ってるからね。さ、じゃ、読んで」

 ふと、「、」の打ち方にも格調を感じさせる「中里恒子」の小説を読みたくてたまらないような気持ちになった。こういうのは、記憶のなかにしまわれた本のならびが、ある1冊を押しだしてよこす一種運命的なものだ。
 しかも、あれかこれかということもなく、『中納言秀家夫人の生涯』がさしだされた。わたしがその名でおぼえていたこの本、もとは『閉ざされた海』という書名であったらしい(現在、全集には、『閉ざされた海』で収録されている)。主人公は、宇喜多秀家とその夫人豪姫、いや、島流しになる夫と残らなければならなかった妻の、海を隔てた絆であることを鑑(かんが)みれば、たしかにもとの書名のほうがしっくりする。

 ここから数行、あらすじを書かせていただくが、それを邪魔と思う読者におかれては、目をつむっていただきたくお願いする。
 前田利家の四女として生まれ、太閤秀吉の養女となった豪姫は、若き武将・宇喜多秀家に嫁ぐ。戦国の世の大名一家の結婚といえば、ほとんど政略的なもので、良人(おっと)はともかく妻にはほとんど選ぶ権利などない、非人間的なものが通例であったが、ふたりには同じ城中に暮らした幼な友だちという親しみがあった。幸せに満ちた十数年ののち、関ヶ原の戦いに破れ、秀家は孤島八丈島に流され、豪姫はひとり加賀の地にうつり住む……。

 冒頭の引用は、久しぶりに秀家が奥方にあてた便り——年数度の御用船で行き来する——の一部である。
 ここへ出てくる「欠灯籠(かけとうろう)」とは、千利休の秘蔵の灯籠のこと。天下一とも称されたこの灯籠を、太閤秀吉と細川三斎(※3)とに所望されたとき、利休は、わざと裏面を欠いて疵ものとし、秀吉の請いを逃れたのだった。自決の前に、利休はそれを三斎に贈ったが、三斎は自庭に据えてから、さらに、わらび手、灯口を欠いたという。三斎が、完全をきらって欠いたのだ。
 ものがたりのなかの、この便りのくだりは忘れていたが、まことに心情あふれる話だ。この胸にたたみなおさなければならない話でもある。
「わざと欠く」には及ばない。多くを求めるこころをおさめるだけで、めあてをどこに据えるかを見直すだけで、足りるように思う。「東日本大震災」を経験したわたしたちは、完全なるものの儚さをよく知る存在になったからだ。

 いつも思うことだが、読書にはどれほど救われるだろう。このたびのはまた、ありがたさの上に十重二十重の不思議がかぶさった。戦国の世のうたかたの栄華ののち、絶望、いや終焉とも思えるところから生きなおした宇喜多秀家の姿。長い歳月を加賀に埋もれて暮らすことになった豪姫——その後宇喜多秀家夫人へ、樹正院へと変わる——のこころに揺るぎなく在りつづけた、秀家とともに生きるという一途な思い。このふたつは、この時代をたいそう勇気づけるもののように思われて。

※1 宇喜多秀高、秀継
   秀家の長男と次男。父とともに島に渡る。家臣、下男、乳母のほか、加賀
   前田家の配慮で、侍医・村田道珍斎を伴い、一行13人。皆、島にて生涯
   をおくる。
※2 読み合わせ
   データ入稿が多くなったいま、「読み合わせ」の作業がどれほど行なわれ   
     ているか正確にはわからないが、おそらく稀少なものとなっているはずだ。
※3 細川三斎
   (細川忠興/1563−1646)戦国武将として多くの主君に仕えながら、細川
   氏を生き延びさせた。文化人でもあり、千利休に師事、『細川三斎茶書』  を 
     残している。夫人は、明智光秀の3女玉子(細川ガラシャ)。

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八丈島に流された秀家一行は、
村人をたよって、山へゆく者、浜へゆく者、
畑仕事をする者と、それぞれの好みで仕事を分担した。
秀家は、菰(こも/むしろのこと)を編むのを得意とした。
島では、持てるものは分けあうのが自然のことで、
村人は、魚でも貝でも、山のものでも、
秀家に差しいれる。

読書しているわたしのもとにも、
岡山県瀬戸内市牛窓から山のものが届いた。
わらびと、小さな筍と。
友人のこの心づくし、
「もっとも人間的な幸福」だと感じる。

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2011年4月12日 (火)

日々のしおり…4月11日(月)

 4月11日(月)
 ひと月がたつ、きょう。
「東日本大震災」が起きてから、ひと月。長かった……とも云えるし、あっという間だったとも云える。が、時の長短など、誰も考えてはおらず、ひと月の重みをそれぞれに抱えて立っているのが「いま」だという気がしている。

 夫が朝から仕事に出かけ、夕方もどってきた。
「震災後、電車に乗って出かけたのは2度めだったよ」と、夫。
 自宅の仕事場にこもって映画の編集作業をしていたからだが、そうか、電車は2度だったのか。 
「久しぶりにSuica(ICカード)をチャージして、社会のオール電化ぶりに驚いた。ぼくもだけど、みんな、慣れきってる……」

 ともに1958年(昭和33年)の生まれの夫とわたしは、おぼえている。
 何をおぼえているかといえば、電車に乗るときには駅の窓口で行き先を告げて切符を買い、改札口ではそれにぱちんとはさみを入れてもらったことを、である。バスには黒革のかばんを斜めがけにした車掌が乗っていて、回数券でも切符でもそこからとり出して、わたしてくれた。切符は、やはりぱちんだった。
 あれよあれよという間に電化がすすみ、わたしたちはパネルや、無人の改札口相手に、切符を買ったり、検札を受けるようになった。改札が無人になったとき、新聞である老婦人の投書を読んだ。そのひとは、出発の駅の改札口に切符をさしこんだが、切符はそのままにして電車に乗ったこと、そうして、到着の駅の改札口を(切符がないから)通過できなかったことを、書いている。
「電車に乗る前に改札に入れた切符は、行き先の改札に届いていると思っていました」と。
 この投書を読んで、「そんなはずないじゃないか」と笑うひとがいたとしたら、それは、過去の改札風景を知らない世代のひとだろう。わたしは、この投書に深く共感し、身につまされもした。昔を知っている者にとって、改札に切符が飲みこまれるというのなんかは、魔法に等しかった。

 ICカードというのにも、なかなか手が出なかった。とうとう使ってみようと決心したときには、滑稽な目に遭ったなあ。
 あれは何年前のことだったか。用事で出かける夫に買いものをたのむメモをわたした。夕方、夫は、たのんだモノを残らず抱え、おまけに西瓜をぶら下げて帰ってきた。
「いい西瓜でしょ」と、得意顔に網に入った西瓜を持ち上げて見せる。
「……西瓜?」とつぶやきながら、わたしはやっと気づく。
 スイカ(Suica)という名のICカードを頼んだつもりだったが、夫はスイカを西瓜と思って買ったのだ。この西瓜事件は、わたしのなかに、滑稽なものとは別の何かも植えつけた。その後また、しばらくICカードを持たずに、その便利さにも、無味な一面にも触れずに過したのだった。

 思わぬ滑稽な昔語りをしてしまったが。
 わたしは……、ICカードも、自動改札も、自動販売機もない時代を知っている。コンビニエンスストアも、スーパーマーケットもなかったころを生きていた。けれど、生まれたときからテレビ(白黒の)も、冷蔵庫(冷凍庫はない)も、洗濯機(脱水機はついていない)はあった。電化製品のまったくなかった時代は、知らないというわけだ。
 もっと云えば戦争を知らない。
 自分が経験していないことばかりは、書物や映像や、ひとの話によってしかすることができない。そして、いまほど経験というものの重みを感じたことはなかった。経験を手がかりに、「これから」をさがすという意味において。
 戦争を知る70歳以上の人びとはその経験をもとに、これからのすすむ道、生き方をさがしてゆくのかもしれない。1958年生まれのわたしは、わたしなりの経験をもとに……。子どもたちは……。子どもたちは、この時代の経験を胸に刻みながら、この日日のなか、さがしさがし生きてゆく。

                *

 3月11日から、ひと月をめざして「日日のしおり」を書いてきました。
 その思いは、まさに百度参り。できることがほとんどなかった日日にも、ひと日ひと日を綴ることを祈りとして過してきました。そうすることで、いくらか冷静でいることもできたのではないかと思います。
「日日のしおり」ということばは、末の娘の名「栞」から思いついたものです。現在13歳(中学2年)の子どもも、日日、「これから」をさがしながら生きています。この世に生まれてから10年と少しのこの存在が、いまのわたしと同じ52歳になったころ、どんな日本に……、どんな世界に……なっているか。託す思いもこめて、名前を貸してもらいました。
「日日のしおり」へのたくさんのおたよりにも、感謝しています。学びと、誓いとをここでたしかめ、交わすことができたこと、忘れません。
 ひと月たったので、ここに「日日のしおり」はたたみます。が、百日参りですから、百日、わたしの手もとで記録はつづけるつもりです。
 どうか百日めには、いまの苦難が、それぞれの解決の道筋をみつけていますように。……と祈りながら。
                             山本ふみこ  

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2011年4月11日 (月)

日日のしおり…4月8日(金)~10日(日)

 4月8日(金)
 昨夜、23時半ごろ、また揺れた。
(東日本大震災の)余震……?
 もう床について眠っていたが、揺れるなり目が覚めて、覚めるなりうろたえた。ここが揺れるのはかまわない。けれど、もう、東北地方と北関東は揺らさないでほしい。……と思ってうろたえたのである。揺れは、こちらで引き受けさせてください、と祈りながら、闇のなかでじっとしていた。

 けれど今朝、昨夜の揺れは宮城県で震度6強、震源地は宮城県牡鹿半島の東だと知った。今朝未明時点で、青森、岩手、秋田県の全域と、宮城、山形県の一部で停電しているらしい。先の地震で倒壊しかけた建物に、昨夜の揺れは、さらに打撃を加えた。
 かすかな揺れでも、彼の地の人びとにとって、それはどれほどの恐怖だろうか。自らを励まして立ち上がろうとしているこころを、どれほどがっかりさせただろうか。どうか、昨夜の分の睡眠をどこかでとりもどして、そして……、小さなやすらぎをみつけて……。
 さあ、わたしは仕事だ。
 このところ気がつくとこころが虚ろなものに占拠されている。虚ろは、今朝、さらにひろがっているけれど、なんとか踏みとどまっているのは、休まず書いているからだ。日常のルーティンワークをつづけているからだ。

 朝方、友人夫妻から電話。
 届けたいものがある、と云う。はて、何だろう、と思いながら、待つともなく待っている。
 あたまのなかに、明るいふたりの顔をならべたら、地震のあと、会うのは初めてだと気づく。
 そうして、ふたりは来てくれた。あふれるように花をつけた桜の枝を抱えて。庭の桜を切ってくれたのだ。これを届けてくれようとした思いは、ことしの春の思いである。夫妻とわたしたち夫婦の4人、男同士女同士てんでに話しながら、ひと月前のお互いとはちがうお互いになったことをたしかめ合っている。
 桜の枝を抱くと、湧く。つぎの春、つぎのつぎの春、つぎのつぎのつぎの……。

 4月9日(土)
 このごろ、生姜に凝っている。
 生姜すろうか、刻もうか、という台所での思案のほかにも、紅茶に生姜汁を加えたり、すりおろした生姜をさらしの袋に入れて湯船に沈めたり。
 冬のあいだは少しも寒さを感じなかった。冬といえばこんなものだろうと思っていたし、からだを動かせばすぐ、からだはぽかぽかとあたたまった。腰だけは冷やさないようにしているが、わたしはかなり薄着だ。起きだしてきた家の者たちに「お母さん、きょう、寒い?」と聞かれる朝でも、半袖でいたりするので、「あ、いい、いい。そんな恰好のひとに気温のことを聞いてもはじまらないや」と、云われる。
 配達のひとに呼ばれ、家の前に出てゆくときも、ぎょっとされることがある。「寒」という顔。それで、パーカーを腰に巻いておくことにした。外から呼ばれたら、急いでそれをはおって出る。腰のパーカーは、わたしの唯一の世間体かもしれない。
 それが、どうだろう。
 ことし、春がやってきたと思った途端、寒さを感じた。暖房器具を早ばやと片してしまったからでもあるだろうが、なんだか、やけに冷えるのだ。いろいろ考えて、生姜を思いついたというわけだった。
 何かにすがりたかったのかな、とも思う。

□生姜ごはん〈2人分〉
米(いつもの水加減をしておく)……………………1カップと半分
生姜………………………………………………………1片
酒…………………………………………………………大さじ1
しょうゆ…………………………………………………大さじ1
昆布………………………………………………………10cm1枚
①生姜の皮をむき、薄切りしてそれをせん切りにする。
②米の水加減から、水を大さじ2減らし(加える酒としょうゆの分)、そこに
酒としょうゆ、昆布を入れてひと混ぜする。
③②に、①をのせて、ご飯を炊く。
④米が炊きあがったら、ぬらしたしゃもじで大きく混ぜる。
※生姜の量は、好みでふやします。上記の生姜は、子どもの口にもやさしい
分量です。
※生姜の甘酢漬けをみじん切りにして、炊きあがったご飯に混ぜこむ生姜ご飯も、おいしいです。 

 4月10日(日)
 朝のうちに、うちで選挙権のある4人でぞろぞろ投票へ。
 投票所になっている小学校の校庭では、子どもたちがそろいのユニフォームを着て、野球の練習試合をしている。子どもたちの運動の風景に、しばし立ちどまって見入る。目の前の小さいひとたちのこころも、ひと月あまり前の出来事、その日からきょうまでのことを受けとめているにちがいない。感性を耕して、知恵深くあたたかい大人になっておくれね。
(わたしも耕し耕して、知恵深くあたたかいおばあさんになる。約束ね)。


Photo

ことしの春の、思い。
ことしの春の、さくら。

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2011年4月 8日 (金)

日日のしおり…4月6日(水)~7日(木)

 4月6日(水)
 新年度がはじまる。
 きょうは、末娘も始業式だ。いつもと変わりない白いブラウスに紺色のスーツの制服姿だが、どこかちがって見える。中学1年から中学2年になるそのあいだに、大震災は起こり、それは、この新年度の意味合いにぐっと重みを加えた。子どもたちのこころは傷ついてもいようけれど、どうか大震災の経験が、人格にあたたかみと叡智をもたらすことを祈りたい。 
 娘のはなしによると、登校したらまず、1年のときと同じクラスの教室に行き、そこで、新学年のクラス分けが発表されるのだそうだ。胸のなかでは、中学2年の1年間への思いが駆けめぐっているらしいけれど、口には出さない。顔だけ、やけに上気している。そういう様子を眺めさせてもらうだけで、新年度がわたしのもとにも降りてくる思いがする。
 進級もクラス替えもないわたしの新年度。そこはそれ、自分で「新」を紡ぐほかなさそうだ。そう、自分で。けれど、紡ぎたいことなら、いくらでもある。まわりを不快にさせ、いや、まわりだけではなくて自分自身を密かに悩ませる欠点、悪しき癖をなおすこともそうだし、いろいろの上達や、縁に結ばれた事ごとへの挑戦や。

 午後、呼び鈴が鳴った。
 降りてゆくと、門の前にN氏が立っていた。N氏は、わたしの数少ない男友だちのひとりだ。
「この酒を、ふたりに呑んでもらおうと思って」 
 と、瓶の包みをぐっとさしだす。酒は方便で、何かを告げるためにここへやってきたのだ、彼は。
「3月31日に店を閉めたよ」
「……」
「プー太郎になった」 
「お店、何年つづけたのだった?」
「……親父の代と合わせて、45年かな」
 一家で支えてきた商店が、途中でコンビニエンスストアになり、そうなったが故の苦心もかさねたけれど、昨年閉店を決めたらしいと、風のたよりで知った。けれど、ほんとうにあの店はなくなったのだな。コンビニエンスストアになってからも、部分的に商店時代の名残りの品揃えをつづけていた。それに、おばさんのつくる総菜は、近所の食卓をおおいに助けてきた。
 N氏は、これからのことはまだ決まっていないが、引っ越すことになるだろうと云った。いまはまだ語れぬことをいくつも抱えているらしく、ことば少なだ。彼がつぶやいた「梯子(はしご)をはずされた」ということばが、わたしの胸に刺さる。梯子をはずしたのは、時代の流れだろうか。N氏は、商売を、つづけたかった……?
「だけど、いつか、梯子をはずされたことも、よかったのかもしれないと思えるようにしたいと思うよ」
 玄関先での、10分ほどの会話だった。

 4月7日(木)
 けんちゃん。
 台所の流し台の上に坐って文句も云わずに働いてくれていたけんちゃんを、ひとりで抱き上げ、書斎の机の下に運んだのは、3月15日のことだ。大事なけんちゃんではあるが、おそらくこれまでのようにはもう、働いてもらうことができない。彼は……、けんちゃんは、食器洗い乾燥機であり、電気で動く。
「ごめんね。電気を使えない事態なの。けんちゃんには休んでもらわないと」
 けんちゃんに「ごめんね」と云ったあと、わたしはなぜか、家の誰にも告げずに、えいやっとひとりでこっそり彼を運んだのだった。かかわりというものの空しい一面を思い知らされ、それをことばにすることができなかったからだ。けんちゃんに助けられていた歳月をどう考えたらいいか、考えはじめると、気がふさぎそうだった。
 けんちゃんはそれから、ずっと書斎に隠れるように佇んでいる。
 しかしきょう、思いついたのだ。手もとに毎日がさっと集まってくる印刷物を分類して、ふさわしい場所にしまおうとして、ふと。
 印刷物の多くはぺらっとA4サイズ1枚の紙切れであるのに、わたしをときにぐりぐりと追いつめる。追いつめられた経験から、ほんとうに必要なのか、とっておいたほうがいいのか、あとでよく読もうか、と千千(ちぢ)に思い乱れて、杳(よう)として整理がすすまない。
 こうした印刷物は、仕事関係のものばかりでなく、子どもの通う学校から保護者宛ての資料、PTAの会報などもあって、自分がその内容を把握しているのかどうかいちいち不安になる。
「ING」の箱——進行中の事柄に関する印刷物を入れる——にかさりかさりと入れておくのだが、箱のなかの分類は芳しくない。
 新年度、学校からがさっと持ち帰ってきた印刷物を抱えながら右往左往しているときに思いだしたのが、けんちゃんの存在だった。もともと彼は、皿を1枚1枚区切って体内に収める仕組みをもっている。
 けんちゃんに、また、助けてもらおう。分類したファイルを引き受けてもらおう。先の仕事とはずいぶん異なる仕事にはなるけれど、わたしには、けんちゃんをほかすことはできないし、また、無職のままぼんやりさせることもできないもの。
 さあ、このあたりで筆を置こう。けんちゃんとの仕事が待っている。

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2011年4月 6日 (水)

日日のしおり…4月5日(火)

 4月5日(火)
 気がつくと、息を詰めている。
 仕事をしているときも。誰かと話しているときも。台所で剥いたり切ったり混ぜたりしているときでさえ、知らず知らず(息を)詰めている。
(あ、また詰めてる)と気づいて、自分を観察すると、そういうときは決まって首や肩に、胸に、力が入っている。一日のうち、かなり多くの時間、息を詰め、からだに力を入れて過していることがわかる。緊張の、連続だ。
 呼吸ひとつうまくできずに緊張しつづけているなんて……。現代人の悪癖のひとつだろう。
「あの日」からこっち、緊張の度合いが増したように思う。ますます呼吸が下手になり、息を詰めてばかりいる。詰めた分の息が、被災地のために使われるというなら、詰めた息にも価値があろうけれども、もちろんそんなことはない。こちらの消耗が激しくなって、こころやからだ、自分の過す時間など、いろいろのリズムが狂うばかりだ。久しくひくことのなかった風邪をひいたり、肩や腕が痛くなったのも、そのあらわれではないかと、思いはじめている。
 深呼吸。
 こういうときこそ、深呼吸。
 そうしてからだの力を抜いて考えをめぐらせば、もっとおおらかな知恵が生まれるかもしれない。——朝いちばんに、ふと気がついたこと。

 おととい、白菜のシチュウを大鍋にどっさりこしらえた。しなびかけた白菜を分けてもらったからだったが、白菜は、しなびたっておいしい。ろうそくの灯りの下、5人皆おかわりをして、つまり10皿分食べる。
 昨日は、グラタン。大鍋にまだたくさん残っている白菜のシチュウに、ゆで卵とほうれんそう、蒸し鶏を足して、焼いたのだ。表面にパン粉をふって。器は釜飯の釜だ。
 そして今朝。マカロニクリームコロッケを揚げて、弁当のおかずにする。昨日のグラタンソースに茹でたマカロニ(少し刻んで)とじゃがいもを加え、まるめる。小麦粉、とき卵、パン粉をつけて、じゅっと揚げたのだ。かたちこそいびつでへんてこだが、おいしくてちょっとたのしいおかずができた。
 このたびは、三変化(さんへんげ)だったけれど、白菜のスープからはじめて、途中枝分かれさせてカレー・コースもつくれば、五変化までいけたかもしれない。
 ろうそく——「置きっぱなし禁止」の約束で、もっぱら、ひとのいる食卓と浴室で使っている——の灯りは、不出来やら、ごまかしやらをそっと隠してくれる。へんてこな三変化の献立も、ほの暗い食卓の上で、存分に力を発揮してくれたような。

〈お知らせ〉
 静岡県藤枝市にて、小さなサロンをひらいていただくこととなりました。以前から、わたしが尊敬してやまないハイホームス(建設会社)の代表・杉村喜美雄さんの企画です。
 杉村さんは育暮家(いくぼーや)を名のって、家や暮らしを自分自身に問いかけようと、そっと確かに呼びかけておられます。杉村さんとハイホームスの皆さんが再生させた藤枝市の大沢地区にある古民家「青野さんっち」で、小さな会をひらきます。

日時:2011年4月29日(金)
    第一部…午前10時30分から午後1時(昼食つき)
     みんなでいっしょに竃でご飯を炊き、味噌汁をつくり(あとは
     漬けものや、地元の野菜でこしらえる小さなおかず)、昼食を。
    第二部…午後1時から午後3時30分
     わたしの話や朗読、みなさんとの質疑応答のひととき。
場所:大沢「青野さんっち」 静岡県藤枝市西方字笹畑1999−3
    ※カーナビで検索する場合は「青野さんっち」隣家の住所の
     「静岡県藤枝市西方2066」で実行。
集合:車の方は直接「青野さんっち」へ。駐車場あります。
    電車の方はJR藤枝駅から現地まで車で送迎(約30分)
    ※第一部から参加の方の迎え/JR藤枝駅南口 午前10時発
      第二部から参加の方の迎え/JR藤枝駅南口 午後12時30分発
        終了後の送り/JR藤枝駅南口 午後5時着
参加費:全部参加の方2000円(昼食代+お菓子代ほか)
      第二部から参加の方1000円(お菓子代ほか)
問い合わせ・申しこみ:ハイホームス(杉村さん)
     メールの場合  hihomes@tokai.or.jp
          電話の場合   054−636−6611
締切:4月25日 定員20名

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2011年4月 5日 (火)

日日のしおり…4月4日(月)

 4月4日(月)
「痛」
 この痛み、じつは10日ほど前からつづいていたのだけれど、病院に行くほどではない……と、思いたくて、耐えていた。
 でも、顔を洗おうと、こうして……、両手ですくった水を顔に近づけたとき、痛くて顔を洗うどころではなくなるに及んで、ああ、これは病院だと思い至った。右肩から、腕にかけての痛み。何でもないこともあるのだが、ふとしたときに、堪えがたいほどの痛みに襲われる。「痛」。
 病院の待合室の椅子の上で、(これがどんなにやっかいな病気でも……)と、自分に云い聞かせていた。大震災の、原発被害の、直接ふりかかる皆さんとともに耐えてみせる、と。
「そうですか。かなり痛みがあるのですね。それでは、まずレントゲンを撮りましょう。レントゲンを撮ったあと、また、ここへお戻りください」という医師のことばに見送られて、右肩から腕にかけての写真を2枚(裏表)撮る。
 ふたたび、名を呼ばれ、診察室へ。
「運動をはじめたり、何か、変わったことがありますよね」と、医師。
「はい。2月のはじめから筋トレをはじめまして。毎日30分というのを、つづけてきました」
「痛くなってからも……?」
「ええ。痛くなってからも」
 ちょっと得意げに。
 痛みをこらえて、時には唸りながら運動していた自分を思いだしながら、「ええ、そうです」と。
 医師は咳払いをし、ゆっくりこう云った。
「右肩に、傷があると思ってください。そこで、筋トレをつづけるというのは、傷をほじくっているようなものなんです。……休んでください」
「……」
 医師と、そばに立つ看護師が、笑いを堪えきれずに顔をゆがめている。えー? 笑われているのか、わたし?
 しょんぼり、家に向かって歩きながら、(どうして痛みをこらえてまで筋トレをつづけていたのかというとね)と、誰に云うともなく、つぶやきつぶやき。
(はじめたときは、自分の運動能力を上げ、からだをつくりたいという思いからだったけれど。「あの日」からは、がれきをこう、がっと持ち上げたり、お年寄りをおんぶしたりする自分をイメージして、鍛えていたんだもの)。
 だけど、だけど。ひとに云われる前に自分で云おう。
 阿呆か。

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2011年4月 4日 (月)

日日のしおり…4月1日(金)~3日(日)

 4月1日(金)
 ママレードをつくる。
 仕事がさっぱりすすまなくて、ほんとうなら机に向かっているはずの時間を、捧げて。
 ついさっきまでしようとしていた仕事がわたしにもとめているのは、ひとつ屋根の下に在る甘やかなものについて書くこと。編集者に云わせると、英語の「mellow」という感じだそうだ。わたしが、家族というものに、親子のあいだに、そして夫婦のあいだに期待しているのが、甘みではないことを自分でよく知っているのだが。けれどふと、自分が期待しているものを甘やかに書いてみたい……という思いが湧いた。
 わたしが期待するもの。それは、一見いびつに見えるものが放つ光だ。
 書こうとすると、それはなかなかにむずかしかった。それで、すごすごと逃げだして、ママレードづくりに精をだしている。夫の実家の庭に実った、素朴な夏みかんは、愛想こそないが質実剛健。そんな夏みかんを皮まですっかり食べようと思い、これまでも、実を食べたあと、皮がしなびてしまわないうちに刻んで干してきたのだけれど、とうとうママレードだ。

□ママレード(夏みかん)
夏みかんの皮……………………………………………3個分
夏みかんの実(なかの袋から実を出しておく)……1個分
砂糖………………………………夏みかんの皮の重さの60%
水………………………………………………………6カップ
①夏みかんの皮の内側の白い部分をこそげとり、うすく刻む。
②①をボウルに入れて水をそそぎ、ぎゅっと揉むように洗う。そして絞る。これを3回ほどくりかえす。
③②を鍋に入れて茹でる。煮立ったら湯を捨てて、もう一度水を入れて茹でる。
④こうしてくり返し茹でた皮を水洗いしてよくしぼり、ここ(ホーローの鍋)に夏みかんの実と、分量の水を加えて1時間以上置く(夜やすむ前にこうしておき、翌朝から煮てもよい)。
⑤このまま、30分茹でる(弱めの中火。ふたはしない)。
⑥砂糖を何度かに分けて加えながら20分煮る。この20分間は木杓子で混ぜながら、強めの中火で。火からおろして、さます。
⑦煮沸消毒した瓶につめ、ふたをして保存のための煮沸消毒する(この方法は、「来年、また会う日まで」を参照)。

 朝のうちに、手順①から④までの仕事をし、3時間ばかり夏みかんの実と水と合わせて置いておいた。
 それをゆっくり茹でたり煮たりしながら、わたしはガス台の前をはなれなかった。おそろしくぜいたくな時間を過していることを、おぼえつつ。でき上がりを口にすると、それはまっすぐなママレードだった。甘さのなかにほどよいほろ苦さが混ざっている。
 このほろ苦さが、好きだ。……と満足しながら、ここに逃げだしてくる前に机の前でしていた仕事のことを思いだした。(ああ。ママレードのほろ苦さを、原稿の上にも実現できれば……)。

 4月2日(土)
 夫が朝から、しきりにぶつぶつ独り言をつぶやいている。
 すれちがいざまに「◯◯◯……」、声をかけようとするときも「◯◯◯……」、仕事のとびら越しにまた「◯◯◯……」と、ぶつぶつが聞こえる。
「……何て云ってるの?」
「こうぶんしぽりまー」
「え?」
「こうぶんしぽりまー」
「それを、ずっとぶつぶつ?」
「そ」

 そのことばをつぶやいたとき、友人のシモダさんを思いだしたんだそうだ。シモダさんは芸術家だ。彼の描く絵は、いまや多くのひとに愛されていて、その絵を焼きつけたグラスや皿までできて、うちにも、それはある。シモダさんは「自閉症」で、ここ数年、夫が撮影対象にしてきた「アウトサイダー・アート」(※)の作家のひとりだ。
「最近、気がつくと、シモダさんの真似をしてるんだよね、ぼく」と夫。
 聞けば、シモダさんは、ひとつのことば——おそらく気に入ったリズムの、ことば——を、くり返しくり返しつぶやく。そして、それを真似してみると、気持ちがおちつくんだそうだ。
 他人のリズムに合わせなくてもいいんだと、思えるからだろうか。ふーん。
 さて、「こうぶんしぽりまー」とは、何か。「高分子ポリマー」。
 福島原発2号機の取水口付近にあるピット(立て坑)側面の約20cmの亀裂——ここから高い放射線量の汚染水が海に流出している——を特殊な樹脂等でふさぐ作業を実施するという。この特殊な樹脂がポリマーだ。吸水性のあるポリマーは、分子の網目がひろがることで体積の1000倍程度の水を吸収でき、紙おむつなどに使われている(毎日新聞より)。
 わたしたちに馴染みのある物質が活躍を期待されていることに、なんともいえない気持ちにさせられる。がんばって、こうぶんしぽりまー。

※アウトサイダー・アート
正規の美術教育を受けていない独学の表現者たちが、自分のために創作した作品をさす。1900年代はじめにヨーロッパで「発見」されたこのアートは、20世紀を代表する大芸術家たちに多大な影響を与えた。フランス語では「アール・ブリュット」と呼ばれる。21世紀に入り、日本でもさまざまな場所で「アウトサイダー・アート」の表現者が「発見」され、注目をあつめている。

 4月3日(日)
 昼過ぎから、散歩。
 きょうは、2月上旬の陽気とのこと。寒い。
 けれど、この寒さのなか、通りの桜並木が咲いている。桜のことを忘れていた身からすると、それは驚く光景だった。
 桜花は、不思議だ。
 いつも、咲くころの「とき」を察しているように思える。見上げると、桜花はそっと静かに咲きはじめている。この静かな花を手向(たむ)けたい「無数の人びと」を、数字などでなく、ひとつひとつ魂の重みで思いたい。

Photo
シモダさん=「下田賢宗(しもだ・たかひろ)」
「イクラ模様のパジャマが着たい」というシモダさんの
こだわりは強烈で、とうとう、自分で布にイクラ模様を描き、
縫ってつくっちゃった!
そのイクラ模様のパジャマの絵のついたグラスと、
つい最近、夫がもとめてきた、これまたシモダさんの絵皿です。

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2011年4月 1日 (金)

日日のしおり…3月31日(木)

 3月31日(木)
 3月がおわる。
 ふり返るのが恐ろしい。でも、ゆっくり首をまわして、うしろを……見なければ。忘れてはいけないことがある。確かめなければならないことがある。考えなおさなければいけないことも。
 その日のその瞬間を境に、すっかり存りようを変えざるを得ない目に遭ったたくさんの人びとのことを思えば、決して目を逸らすわけにはいかない。

 きょうは、決算日。
 2月のおわり近く、わたしは経済について考えていた。夫と自分が中心になって営んでいるこの家の経済についてだ。まったくはずかしいことに、この20年、わたしは家計簿をつけなかった。20年のあいだには、経済が潤沢でない日日があったのにもかかわらず。つけたほうがよかったことは、火を見るよりも明らかだ。では、なぜ、それをしなかったか。
「これ以上、仕事をふやしたくない」というのが、理由だった。
 約(つま)しく暮らしてきたつもりだ。が、「ほんとうに?」と問われたら、それを証明することができない。家計簿をつけていないのだから。
「ほんとうに?」と問うたのは、わたし自身だったのかもしれない。自分で自分に「あなたは、ほんとうに約しく暮らしているのか。だとしたら、それを数字で証明したらどうか」と。
 数字が苦手なわたしが家計簿をつけるとなると、つける前からこんがらかるのが目に見えている。けれど、24歳で主婦になってから10年ほどは家計簿をつけていた。それは、会社勤めで収入がはっきりしていた時代とかさなっている。わたしが家計簿をからはなれてしまったのは、独立してフリーランスの立場で仕事をするようになってからだ。収入の時期はまちまちになり、勘にたよって収支の辻褄(つじつま)を合わせてきたのだった。
 いんちきを混ぜながらも家計簿をつけていたころの、あの数字とのやりとり、こんがらかりは、なつかしい。「なぜ、そういう数が出てくるのよ」と自分で計算して出した数字に毒づくことも少なくはなかったけれど、しっくりとおさまって互いにうなずき合うときは、うれしかった。数字がぞろりとわたしを見上げ、「やればできるじゃないか」と云ってくれているようだった。
 よし、また、あれをやろう。……と決心した。数字との親睦をとりもどし、この暮らしの状態をみつめよう。

 わたしがまずしたことは、100円ショップに出かけていき、ファスナー付きの小型の袋7つもとめたこと。
 7つの袋には、それぞれこう記した。
① 食費・住の消耗品
② 衣服
③ 医療・衛生品
④ 交際・娯楽
⑤ 水道・ガス・電気・電話など
⑥ 新聞・本
⑦ 臨時費(交通費、こづかい、寄附・募金も)
※夫とわたしの仕事にかかる経費は、別の決算。

 つまりわたしは、レシート ―レシートの出ない八百屋では、買いものメモに自分で記して― を7つの袋におさめてゆく方式を考えたわけだ。毎日の(家計簿への)記入はせず、月末めざしてレシートを貯める(費目=袋別に)。……そうしてみようと思うんだけど、と相談したとき、夫の目が可笑しそうに見ひらかれたが、気づかなかったことにする。とにかく、できそうなかたちで、やってみないことには。
 さて、きょうの決算は、じつに愉しかった。愉しくこんがらかることができた。20年ぶりの決算を、この月にすることになろうとは。しかし、自分たちのこの月の暮らしぶりが、約しさが数の上にもあらわれていたことには、安堵した。
 この国の復興について、「こう節約ばかりしていては、経済が落ちこんでしまう」とする見方があることを、新聞で知った。なるほど経済は大事だと思う。しかし、「経済大国」と呼ばれていた日本に、わたしはもどらなくてかまわないのではないかと考えている。かまわないどころか、もう、そこは目指さないほうがよい、と考えている。
 ひとつひとつよいものを生みだし、約しくともよいものを選ぶ目をもつに至ったとしても、もう「経済大国」という名では呼ばれないだろうが、「土台頑強国」というのはどうだろう。経済にかぎらず。
 こんなえらそうなことを書いているわたしは、とにかく、決算をつづけよう。

7
7つの袋です。
今月も、つづけます(宣誓)。

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2011年3月31日 (木)

日日のしおり…3月30日(水)

 3月30日(水)
 今朝さいしょの驚き。
 末の子どもがパジャマのままあらわれて「熱があるみたいなの」と云ったこと。体温計をわたして熱を測るように云うと、体温計は「39度4分」の目盛りをさしてもどってきた。落ちつくために、「さんじゅうくどよんぶ」と、ゆっくりつぶやく。落ちつきついでに思いだしてみたのだが、このひとはこの1年以上風邪もひかず、元気でいた。
「部活は休まなくちゃね。病院に行って、少なくとも明日までは寝ていること。……たのしんで」
 そう云いながら、彼女の風邪のひとつの原因をつくったのは、わたしだろうか、と反省する。地震の起きたあと、家の暖房器具をすっかり片づけてしまったことを「ひとつの原因」だと思って。そうかもしれないし、そうでないかもしれないのだが、仕方なかった。
 病院での診断は、ひき風邪。インフルエンザではなかった。これで、ますます「わたしのつくった原因説」が大きくふくらんだわけだが……。仕方なかった。
 おじやを「ふたくち(2)」、すりおろしたりんごを「みくち(3)」食べてクスリを飲み、眠る。すっかり眠ってしまうまでのあいだ、うんうん唸っている。熱と闘っているんだな。

 きょうふたつめの驚き。
 ベランダのプランターの水仙が咲いたこと。
「ありがとう、わたしもがんばるね」

 夕方、末の子どもの寝室を覗くと、幾分すっきりした顔になって、『スラムダンク』(※)を読んでいる。けっこうだ。再三再四すすめてきた『スラムダンク』をやっと読む気になったこともだけれど、今朝「風邪をひいて寝ていなければならない2日間を、たのしんで」と云った意味をわかってくれて……。
「ね、どこまで読んだの? もうミッチーは出てきた?」
 そう尋ねながら、もううるうるっと目にほら、あの、涙があつまってきている。
「出てきてる、いま、ほら」と布団のなかから8巻がさし出された。
 あ、安西先生だ。「最後まで希望を捨てちゃいかん… あきらめたらそこで試合終了だよ」
 これ、紙に書いて貼っておこう……。

  最後まで
  希望を捨てちゃいかん…
  あきらめたら
  そこで
  試合終了だよ

 きょう3つめの驚き。
 晩ごはんのおかずのひとつに、夫がつくったきんぴらごぼうがならんでいたこと。きのうの晩、つくってみたそうだ。ごぼうのささがきができないから、「ごぼうだけ、さっと茹でてからきんぴらにしたんだけど、どうかな」「すごい!」

 きょう4つめの驚き。
 夫のこしらえたきんぴらごぼうが、とても美味しかったこと。

※『スラムダンク』(井上雄彦著・集英社 ジャンプ・コミックス)全31巻
 この漫画のことは、何度も何度も書いてきたので、「またか」と思われる読者も少なくないと思います。バスケットボールの漫画ですが、バスケットボールにまったく縁のないひとでも、たのしみ、元気づけてもらうことができます。
 とにかく14年前、小学6年生だった長女の枕元に『スラムダンク』全巻をならべて去っていったサンタクロースには、とても感謝しています。

Photo
「ありがとう」の、水仙です。

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2011年3月30日 (水)

日日のしおり…3月29日(火)

 3月29日(火)
 団子をいただいた。
 甘いモノは、ほんの少し口にするだけで、じゅうぶんにしあわせを感じさせてくれる。が、それは、一度にたくさんは食べられないという意味でもあって、 甘味と自分とのあいだの儚(はかな)さを思っていた。
 最近、それはちがうのではないかという考えがあたまをもたげている。摂る量は少なくとも、甘味との関係は決して薄くはないのではないか、と。
 現に——。友だちが送ってくれたあんぱん。熊谷のははが煮て持たせてくれた「黒豆」。自分でこしらえたおからのケーキ。こうしたモノたちに、これまで気づかなかったやすらぎを、おぼえるようになっている。
 きょうはきょうとてこの団子だ。また、やすらぎがやってきてくれたな。——そう思った。
 黒ごまの串団子である。
 箱をあけてみると、団子が、そこへ埋もれていると云っていいほどたっぷりの黒ごまと和三盆の和えごろも。ひと串に3つさしてある団子をひとつだけもらって、すっかりやすらいだ。この一期一会。この「少し」との出合い。それが、わたしとの関係に濃密をよんでいる。
 さて、濃い煎茶とともに、いくつもの口に配り分けられたあと、黒ごまの和えごろもがたんと残った。
(これは、ほうれんそうのごま和えにするしかないな)と、ほくそ笑む。
 ここまでお膳立てのごま和えなどこしらえたことがないから、ほくそ笑むのも道理である。しょうゆを足し足し、味をみながら和えごろもをのばすように練ってゆく。ひとつ和えごろもの転身としては、目を見張るものがある。

 オレンジページのNさんが、朝日新聞・文化面に載った「加賀乙彦」の「つぶやき」(の記事)をファクスしてくれた。わたしが加賀さんを好きなことを知ってのことだろうけれど、何よりNさん自身のこころに響いたらしかった。「再建という希望が残った 大震災 老人のつぶやき」と題されたこの文章を、読まれた方も多かろうと思う。読みだしてすぐ、驚く。加賀さんが81歳になっておられ、しかもことし1月半ばに心臓病で倒れ、4週間入院しておられたのを知ったからだ。
 そうして、ペースメーカーの調子を診てもらうため出かけた病院から帰ろうと、外に出たとき地震にあわれたということだ。16年前の阪神淡路大震災のときには避難所を巡り、ボランティアの医師として働いた加賀さんも、このたびの災害の巨大さに呆然とするばかりだったと書いておられる。しかし、戦争中の都市爆撃の被害と残酷、広島・長崎の原子爆弾の大き過ぎる被害を、加賀さんは知っている。知っていて比較するも、たとえば原発の破壊を復旧し、救命活動に励む人びとの献身や、ボランティアとして働く人びとの熱意は、戦争中の軍国主義の横暴と「まるで」ちがって、日本の未来は明るい、と加賀さん。
 もっともわたしの胸に残ったのは、この記事のさいごの1行だ。

  これが病気でなにもできない老人のつぶやきである。

 加賀さんの「つぶやき」はしかし、光に顔を向ける方法を静かに示している。 

 病気の根を抱えるわたしの友人も、云っていたっけ。
「人一倍元気だったら、向こうに行ってボランティアをするという選択もあると思うけれど、人より元気がない身としては、行っても何もできないどころか足手まといになるし、ここでできることをしながら、静かに見守るしかないなあと思うのよ」
 おだやかな決意は、そっと波となって復興を押してゆく。

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団子つながりの、ほうれんそうのごま和えです。
おいしく、たのしく食べました。

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2011年3月29日 (火)

日日のしおり…3月28日(月)

 3月28日(月)
 きょうは、熊谷の夫の両親に自分たちの顔を見せ、わたしたちのほうでは顔を見にゆく日。
 出かける前にしておいたほうがいいあれやこれやを考えながら床についたせいか、3時20分に目が覚めた。たいてい目が覚めたときに「えいやっ」と起きてしまうことにしているけれど、それが3時台だと……、話がちがってくる。3時は、わたしにとって、まだ夜だからだ。目が覚めたとき、時計の短針が「3」を指していたら、起きてしまうのを、よす。
 けれど、きょうみたいな日は、べつだ。夜にはちがいないけれど、起きてしまおう。
 机に向かって、1時間仕事をする。弁当をふたつこしらえ、朝ごはんをつくり、晩ごはんのカレーを仕こむ。それから筋トレとヨガも。
 3時台が夜だという証拠に、とても暗いし、とても寒い。手まわし充電の小さいライトを連れて歩き、かじかんだ指先をこすり合わせる。しかし、この不思議な時間は、わたしにきょうという日の価値を告げていた。きょうひと日分の、ありがたみを。

 熊谷のちちとははの顔は、元気な顔だった。夫とわたしの顔を見て、ふたりがどう思ったかはわからないけれど、縁側の日差しのなかにのどかな時間が流れていたことは、わかった。
 ちちが「そうだそうだ」と思いだしたように云って、大きな袋を運んできた。なかからとり出されたものは……、ちり紙。
「このちり紙は、母が亡くなる日の午前中、自分で買ってきたものなんだよ。束になってこう、たくさん重なったのを2本下げてきたんだ。医者に行った帰り道、町で買ったのをね」
 そう云って、ひとつかみわたしにくれたのだった。
 ちちの母が亡くなったのは34年前。だから、わたしの手のなかにあるこのちり紙もまた、34年前のだ。ちり紙のことをわたしに手わたしてくれたちちも、ことしの1月、80歳に。
 なんというちり紙だろう……。
「あなたは、このちり紙のこと、知っていたの? お父さんがこれを持ちつづけていたってことを」と、こっそり夫に尋ねる。
「知らなかった。おばあちゃん(ちちの母)は心臓が弱くてね、それでとつぜん心臓発作を起こして、この庭で倒れたんだよ。思いが残っていたのかな、親父には。ちり紙を持っていたなんてね」
 ちちが34年間持ちつづけていたちり紙、きっとわたしも持ちつづけることになるだろう。とても、使う気になんかならないもの。何のために使わずに持つかといえば——。それは、ちり紙の価値とありがたみをおぼえるため、そしてちちがそれをとくべつなモノとして手わたしてくれた意味を忘れないため。
 どうやら、いつもより早くはじまったきょうは、なんでもないように見えていたものの価値とありがた味をわたしにおしえる日であったらしい。

 帰る前、畑のほうれんそう、小松菜、ブロッコリ、長ねぎ、白菜、のあいだを歩く。かの地の(作物の)きょうだいが、辛い目に遭っていることを彼らが知ったら、どう云うだろう。たぶん、何も云わない。もの云わぬ存在を悲しませるのは、誰?


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これが、その……ちり紙です。
昔は、こういうちり紙が70~80cmもの高さに
重なって売られていました。
ちちの母は、それを両手に下げて帰ってきたのですね。
家で使う大事なモノとして。

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2011年3月28日 (月)

日日のしおり…3月25日(金)~26日(土)

 3月25日(金)
 水道水に「国の基準値を超えた放射性物質」が含まれる地域があるというニュース。わたしの住む東京都武蔵野市の水道水にも配水されている金町浄水場の水から、そういう値が出ているという(24日現在)。ただし、それを摂らないことにしようというのは、1歳未満の赤ちゃんに限られるとのこと。うちには、その存在がないから、あわてずさわがず、水道水を摂っている。
 ここであわて、さわいだら、きょうまで暮らしてきた甲斐がないように思える。いま、「甲斐」の二文字を持ちだすことが不謹慎だとしても。

 無口な日日がつづいている。
 まず、町が静かである。
 わたし自身も、これまでの3割方無口になっているような気がする。たとえば「いまは、云えない」というような心境を、そのまま吐露(とろ)する場を、自分でつくれるようになっている。ひとに問われても「聞かないでほしい」と云えるだけの覚悟をもっている。……と、思える。
 以前なら、わが胸のここにある「云えない」「云わない」思いを自ら踏みつけて何かしらのことを云い、「聞かないでほしい」を軽くごまかして、聞かれる前に何かしらのことを答えていたのだったが。
 無口な日日はそして、察するこころを生んでいるようでもある。

 3月26日(土)
 朝から、夫と、娘のうち家にいた2人とともに、てくてくである。町町の様子、角角の気配、人びとの佇まいを目の縁(ふち)にためながら。
 被災地の皆さんにこの様子を、この気配を、この佇まいをお目にかけたとしても恥じないだけのものが、ある。ある、と云うのはおこがましくとも、そこここに、恥じないだけのものが芽生えていますと、知らせられそうに思える。

 長女26歳の誕生日会。
 ほんとうのその日は、もうすこし先だけれど、今夜。
 末娘がつくった紙の輪飾りを天井からつるし、ろうそくで演出を。と思ったら、ろうそくは、いま、晩ごはんの定番だった。
 昨日夫が豆腐屋でもとめてきたおから……。これでケーキをこしらえることを思いつき、今朝、日の出とともに焼き上げた。どうか、おいしくできていますように、と念じ、隠しておいた。

おからのケーキ

材料〈直径24cmのリング型〉
おから(豆腐屋でもとめる)………………………………250g
小麦粉………………………………………………大さじ3杯強
ベーキングパウダー……………………………………小さじ1
卵黄…………………………………………………………4個分
砂糖……………………………………………………………80g
レモン…………………………………………………………1個
卵白…………………………………………………………4個分
砂糖(卵白用)…………………………………………大さじ3
バタと小麦粉(ケーキ型に塗るため)………ほんの少しずつ

つくり方
①小麦粉とベーキングパウダーを合わせて、ふるっておく。
②ケーキ型にバタをぬり、小麦粉をはたく。
③レモンの皮をすりおろし、果汁をしぼる。
④卵4個は、卵黄と卵白に分け、卵黄は中くらいのボウルに、卵白を大きいボウルに入れる(ボウルに水気のないように)。
⑤ひとつ泡立て器を使う場合は卵白を、卵黄より先に混ぜる。卵白、しっかり泡立てて砂糖(大さじ3)を混ぜておく。
⑥卵黄に砂糖(80g)を入れてよくよく混ぜ、レモンの皮と果汁、ほぐしたおからを加える。ここに、ふるった粉も加えて混ぜる。
⑦⑤の卵白に⑥を少しずつ加えて混ぜ(練らないように)、型に流し入れる。
⑧160〜170℃にあたためたオーブンで35〜40分焼く。
※型から出し、好みで粉砂糖をふっても、泡立てて砂糖を加えた生クリームを添えても。

1
おからのケーキ。
しっとり、さっぱり、なかなかおいしく
できました。

 3月26日(土)
 朝起きだして、動きまわるが、寒くてたまらない。
 サンドウィッチをこしらえ、仕事に行く子らをおくり出したあとは、からだの動きが鈍くなってゆく一方だ。
 歯をくいしばっている。この2週間あまり、くいしばってもくいしばっても、まだくいしばり足りないように思って、暮らしてきた。この単純な精神構造の主には、歯をくいしばることしか思いつかなかったからだ。が、ほんとうは、それとは異なるこころの働きに期待してもよかったのではないか。もっと……、おおらかなこころの働きに。
「風邪じゃないの? 暖房器具をすっかりしまって、昨日薄着でいたから」と、夫。
 そんな簡単なことにも気づかないでいた。寒いということにさえ気がつかずに、気がつきかけても目をつぶって。
 思いきって、午後から布団にくるまって過した。いろんな夢を見た。夢のなかでちょっと泣いたような気がする。この国のいまの被災の悲しみに、自分自身が抱えるうまくいかなさに。けれど、さいごには、俳優の「大竹しのぶ」——もちろん、舞台や映画テレビで観るだけの存在——とふたり乗りの飛行艇で空を飛びまわり、怖かったが無事着陸したところで目が覚めた。
「大竹しのぶ」に対してわたしは、こころ柔らかくも肝が据わっているという印象をもっている。斯(か)くありたい思いが、夢にそのひとを招いたか。からだを起こしながら、こころをつよく保ち、堂堂と生きようと、と誓っていた。寒気はもう去っていた。

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2011年3月25日 (金)

日日のしおり…3月23日(水)~24日(木)

 3月23日(水)
 髪を切りに、となり町までてくてく。
 この町内から出るのは、震災後はじめてのことだ。道行くひとの、いでたちがちょっと変わったような気がする。運動靴。リュックサック。そして誰もがいつものこの時期よりも厚着だ。
 そういうわたしも、久しぶりにリュックサックを背負って歩いている。運動靴はいつものことだが。荷を背負うと両手があく。この手でできることには限りがあるけれど、何かしたい、手をあけておきたい気持ちが、わたしにも荷を背負わせたものらしい。

 美容院の店内は静かで、静かだと思ったのは、蛍光灯をつけずに窓からのひかりだけで保たれているからだ。なるほど、過剰な灯りというのは、饒舌なものだったのだな。わたしの髪をひと月に一度心配してくれ、手入れしてくれる美容師のMさんは、「あの日から、暮らし方が変わりました。たとえば……」と、話す。
 節電のため18時までの営業(これまでは21時)になったため、毎日夜は家で過していること。ふたり暮らしのお母さまが、それをよろこびながらも、「あなたに夕食をつくると、つい食べ過ぎて太ってしまった。こんな時期なのに」と話していること。計画停電に不便を感じるのは自分だけで、お母さまはその時間にはさっとブレーカーをおとし、なんということもなく過していること(昼間の停電時には、お父さまのお墓まで散歩だそうだ)。
「早く帰るかわり、お客さまの予約がこなせなくて、休みはないんです。それでも、こういう暮らし方もできたんだなあと思えます」

 3月24日(木)
 朝、着替えをして鏡の前に立つと、なんだかおかしい。白いブラウスの衿もとに、下着のシャツ(ババシャツ)が見えている。こんなところにババシャツにあらわれてもらっては、困るのだけどね。シャツの裾を引き下げたり、ブラウスの肩をつまんで引き上げたりするも、ババシャツは居座ったまま。
「うしろ前なんじゃないの?」と、悪戦苦闘の背中に声がかかる。声の主は二女だった。そんなはずない、と思いながら、セーターを脱ぎ、ブラウスも脱ぐと……、「ほら、見事にうしろ前!」と、二女、笑う。
 今朝のこの、なんでもないような失敗が、わたしに何かをおしえている。何かとは、はっきりわからないけれど、おぼえておこうと思った。

 英文翻訳の授業へ。
 新宿まで中央線に乗る。電車も空調が切ってあり、ちょっと薄暗い。中吊り広告が、ほとんど下がっていない。皆、厚着。ハイヒールの足も、見えない。
 せんせいが、「落ちつかなく、大変な時期ですけれど、こういう時間をもてるしあわせに感謝したいですね」と云われる。……ほんとうに。
 課題のなかで手こずらされた「could believe」。文章の前後の流れから、どう考えても「信じることができない」と訳したいところなのに、否定文になっていない……。
 その正体が、明らかになる。この場合の「could」は、仮定法としての「could」だった。「you could believe」は、だから、信じようと思えば信じられる、信じられないとは云いきれない、というような意味になる。曖昧(あいまい)なようでありながら、その心情のニュアンスをかなり正確にあらわしているともいえる云いまわしも、わたしに、何かをおしえているようだ。これも、きょう受けとった合図。

 新宿からの帰り道、Kさんといっしょになる。Kさんは足が不自由なので、いっしょのときには、なんとはなしに腕を組んで歩くかたちだ。いろいろの苦労を、やさしさと辛抱強さ、そしてそして教養とでくるんで——はね除けるのではなくて——生きているKさんの越幾斯(エキス)が、組んだ腕から伝わるような気がして、うれしい。はじめは、腕を組むのが照れくさかったが、いまでは自分から腕をとって組む。越幾斯ほしさに。
 Kさんといえば、ホームに電車が来ていると、とにかく乗る。たとえそれがKさんの家の最寄り駅までは行かない電車であったとしても、とにかく。
「なるべく、家のそばまで帰ってしまっておきたいの」が口癖なのだった。いま、そのことばが冴え冴えとわたしの胸にも映るのだ。


 

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2011年3月24日 (木)

日日のしおり…3月20日(日)~22日(火)

 3月20日(日)
  ぽかぽかと暖かい朝。
 午前10時、末娘のテニス部の友だちが遊びにやってきた。震災後、部活動も停止になって、時間と気力と体力があまっている模様。その時間・気力・体力、近い将来、被災地復興のためにつかってもらうからね。つかってもらい方を考えるのも、わたしたち大人の道である。さて。
 大学の入学式や、新年度のはじまりも5月になるという話だ。延期はいいが、大学生として、1週間ずつでも被災地のためになる働きをしてくださいな。そしたら、大学の「単位」をあげましょう。……と、ここでこっそり大学教授みたいなことを述べている。ところで。「ためになる」というのは、むずかしい課題だ。
 テニス少女たちに、おむすびをこしらえる。ひじき、根昆布、茎わかめ、とろろ昆布、めかぶ、あおさ、もずくなど10種類以上の海藻が入ったふりかけを炊きこんだご飯で。気力と体力、何より浄らな精神温存のための、願かけのおむすびだ。わたし、『ヘンゼルとグレーテル』の、痩せっぽちのヘンゼルを太らせて食べようとした魔法使いのおばあさんみたいかしら……。それでも、かまわない。ときに、恐ろしい女にだってなって、がんばるさ。

 昼過ぎから、夫とふたりで散歩。
 小金井公園まで歩く。桜の枝がピンク色に染まり、モクレンが咲き、大好きなユキヤナギもあふれんばかりに花芽をつけている。こういう景色を、動植物のいのちを、いまはゆるりとは眺められない。かと云ってうれしくないわけではない。ひりひりしながら、うれしがっている。
 帰り道、空にひこうき雲を見た。大きく交差しバッテンを描いた雲。こんなひこうき雲を見たのは初めてだ。
 何がバッテンなのだろう。いや、「×」(かける)という意味だな、あれは。はなれた場所のアナタとワタシの心根、働き、願いがかけ合わされて、驚くようなことが起こるという……。

 分厚いパーカー。
 霜降りのグレーで夫の気に入りだが、長いこと着てシミがいくつもついたから、とうとうボロ布に……と思いかけていた。シミのところにボタンをつけて、隠す。シミなんかは隠してもよし、シミのあるのを誇るもよし。
 まだしばらく着てもらい、買い換えの費用を義援金に。こんなふうにいきたい、長く細く。

 3月21日(月)
 晩ごはんを食べながら、「この10日間、肉をすこーししか食べていないんだけど、気がついてた?」と、子どもたちに尋ねる。「気づかなかった」「へえ」という返事。(「いつも、そうは食べてないけどね……」と云った者もある)。
 買いものになるべく行かず、乾物中心のおかずでやってきたからだ。
 きょうは、ぎょうざだ。いろいろな野菜と豆やひじきの煮もの、それにひき肉もちょっぴり入っている。からだをあたためるため、生姜とにんにくをたっぷり加えた。
 夫が手まわしで充電する小さなライトの弱い光のもと、それを焼いている。みんな、薄暗がりのなかの仕事がうまくなったなあ。

 3月22日(火)
 ……忘れていた。
 ほんとうは忘れていたわけではなのだけれど、こういうときだから、忘れてしまってもいいかなーと、思いかけていた。英文翻訳の課題のはなしだ。忘れてしまってもいいかなーというのは、甘えだ。課題につかう時間と労力は、自分の勉強のためのものだけれど、それを忘れてしまってもいいかなーという甘えは、いまというときにはふさわしくない。だいたい「こういうときだから」という思い方を、都合のいいときに引っぱりだすのは、ふさわしくなさを超えて卑怯である。
 朝から、机にしがみついて辞書をひきひき奮闘。おわったのは昼もだいぶ過ぎたころだったが、なんというか、筋肉痛のような感覚がある。筋トレのあとよりも、もっと。
 課題はエッセイで、ひととひとのあいだのことを大事にしながらゆっくり暮らしている人びとについての話だった。訳しながら、これはこれは、時宜にかなっていること……と、驚く。いまのわたしにとって、「ゆっくり」と「急ぐ」のバランスのとり方が、もうひとつの課題でもあるように思える。


2

友だちが、
「思いがけず東京の町中でとれた」というフキノトウを
届けてくれました。
こういうやさしいものを見るにつけても、
冷静さとあたたかい気持ちの両方をもっていなければ、
と思わずにはいられません。 

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2011年3月23日 (水)

日日のしおり…3月17日(木)~19日(土)

 3月17日(木)
 感情にひきずられ、こころもからだもなんとなく力を落としているような気がする。こうして無事なところにいながら力が落ちていくとは、なんというむなしさだろうかと反省する。
 被災地を思って悲しみ、苦しみを分かち合いたいとねがうのは理(ことわり)、けれど、気分だけで終始するのでは何にもならない。気分の落ちこみは、自分にできることがみつかったときに、できるそのことを阻(はば)みもするだろう。

 ことし2月のはじめ、自宅で筋トレとヨガをはじめた。毎日ひとりで、細細とつづけている。が、「あの日」からはその運動をそーっと、そしてうしろめたい気持ちでしてきた。
 やーめた、やーめた。やめるつもりは運動ではなく、そーっとと、うしろめたい気持ちである。こんな運動なんかは元気よく、せっせとやろう。うっすらついてきた筋肉を、こっそり褒めてやりつつ、励ましつつ。
 運動をはじめたのは、中学生のころから変わらなかった体重が、あれよあれよという間に2キロほどふえ、ふえたままちっとも元にもどりそうにないことにむっとしたからだ。ふえた2キロという数字に対して、(なんだよ、おまえ!)という気持ち。
 考えてみると、運動には縁なきわたしを何十年もやってきている。小学生のころ、唯一得意だったのが球技で、バスケットボールやドッジボールに燃えた。けれど小学校卒業とともに、その世界が終わる。してみると、40年ぶりの運動世界ということになるだろう。おそるおそるはじめてみて驚く。からだのかたさ、バランスのとれなさ、筋力のなさに、愕然、呆然とする。けれど、10日もつづけるうち、10日前にはつらかった運動が難なくできるようになっていたり、そればかりか、気持ちよく感じられるようになっている。わたしをむっとさせていた2キロの体重のことなんか、もうどうでもよくなっていた。
 ろうそくの光のなか寝転び、腰を手で支えて両脚を天井に向けて上げていたりすると、われながら可笑しい。この可笑しさも、いまのこころを支える。

 夫がよろず屋で、卵を買ってきた。卵さまさま。納豆もさいごのひとつ(3パック入り)を買ったという。見ると、九州からの、これまでお目にかかったことのない納豆。納豆や卵がごちそうと思えるのは、不便のもらたす恩恵だ。

 3月18日(月)
 寒い。
 寒いが、ストーブは片してしまったし、何とかしのがなければ。
 大好きな『小さい魔女』(オトフリート・プロイスラー作 大塚勇三訳/学研)のものがたりのなかに、こういう場面がある。「やきグリ売り」のおはなし。冬のあいだ、家の暖炉のこしかけに坐りこんで過していたある日、小さい魔女は「運動して、いい空気をすわないといられないわ!」と思い、「外へ出かけよう!」と決心する。

   小さい魔女は、一まい、また一まいと、スカートを七まいかさねてはき
  ました。それから、大きな毛のスカーフを頭にまきつけ、冬の長ぐつをは
  き、手袋をふたつかさねてはめこみました。こうして身じたくをかためる
  と、魔女は、ほうきにとびのって、ピューッと、えんとつからとびだしま
  した。

 小さい魔女は、お金をもたずにピューッと出かけたのだった。そういうところも、なんだかいいなあと、わたしには思える。さて、はなしを先にすすめよう。町の広場に、小さな鉄のストーブと屋台が出ているのが見えた。やきグリ売りだ。ストーブの釜からクリを焼くいいにおいが立ちのぼり、小さい魔女の鼻をくすぐる。焼きグリ売りの男は、小さい魔女に、とくべつ、ただで焼きグリをふるまった。「こんなにさむさがひどくちゃ、あんたも、あったかいものをたべてもいいよ。ハクション!」
 小さい魔女は、焼きグリのお礼に……、何をしたか。男のからだの冷たさ、こごえを消し去ったのだ、魔法をつかって。
 愉快なのは、小さい魔女が、焼きグリ売りにしたのと同じことを自分にすることを、まるで思いつかなかったところだ。つまり、自分のために魔法を使わず、スカートを7枚もかさねてはいたり、手袋を2つはめたりしていたというわけ。こごえながら家にもどった小さい魔女から、焼きグリ売りのはなしを聞いた、相棒のカラス、アブラクサスに指摘されなければ、小さい魔女はいまでも、冬がくるたび7枚のスカートで外へ出かけていたことだろう。
 わたしは魔女ではないからして、寒さよけの呪文など唱えられはしない。けれど、下着をかさねたり、セーターを着こむことはできる。着ぶくれてまるくなったひとたちが、家のなかをころんころんと動いているのなんかは、素敵だ。わたしは、くつしたを2枚はいた足を室内履きにつっこみ、セーターの上にダウンベストを着こんだ。
 焼きグリがうらやましくなって、何かこしらえたくなる。クリはなし、ええと。おお、そうだそうだ。

□ご飯のお焼き
用意するもの……………………冷やご飯、小麦粉、しょうゆ
なかみ……………………………漬けものや野菜、しらす干し、肉類など何でも。
・好みの「なかみ」を細かく刻む。
・冷やご飯に、「なかみ」を混ぜ、しょうゆを加える。
・小麦粉と水(加減しながら少しずつ加える)を加え、手で混ぜる。
・せんべいのように平たくして、油をひいたフライパンで焼く。
・片面が焼けたら、フライ返しでかえしてもう片面も焼く。

 3月19日(土)
 昨夜、床に入ってから、(あ、わたしにも使える魔法があったわ……)と思いついた。
 わたしにも使える魔法は、その昔祖母からおそわった唐辛子の魔法だ。
「こうしてくつしたや手袋のなかに、唐辛子を1本入れておくと、あたたかいのよ」
 へえと思ったが、実行したことはない。つぎ、寒い日がめぐってきたら、ためしてみるとしよう。足の指がもぞもぞ唐辛子をこわして、タネが出てくると困るから、あらかじめタネをとっておいてもいいだろうか。
 きょうはしかし、幾分、気温も上がっている。

 新聞で、岩手県陸前高田市の市街地の写真を見る。震災翌日(12日)のものと、震災後1週間(18日)の、2枚の写真だ。ここは、津波の被害の大きかった地域である。海の色に染まったかのような1枚めの青色の写真に対し、2枚めはがれきと道があらわれた茶色い写真だ。水が引いたことが見てとれる。
 青いのと茶色いのと、2枚の写真を眺めているだけで、胸が締めつけられる。ここに生き、ここに暮らしていた大勢は、いま……。地震だけだったなら、これほどの被害にはならなかったのだと、あらためて気がつかされる。いったい、津波とは何なのか。東日本大震災は、地震・津波・原発事故という三重(みえ)の苦悩をはらんでいる。

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2011年3月22日 (火)

日日のしおり…3月14日(月)~16日(水)

 3月14日(月)
 朝起きて、新聞のことを思った。
 いま、被災地でもっとも頼りになるのは新聞とラジオだろうか、と。同時に、毎日新聞への連載日が明日だということを思いだした。いつも、掲載の火曜日の11日前の金曜日に原稿をわたし、さし絵を速達で送ることにしている。そういうわけで、明日の掲載分の原稿はとっくに新聞社に届いているわけだったが……。明日の掲載はなくなるかもしれないけれど、とにかく、いまの気持ちを書いて、できるならさしかえてもらおう。ひとりで、机に向かってあたらしい原稿を書こうとすると、パソコンの画面がよく見えない。
 泣いているのだった。この部屋でひとりきりのわたしになり、緊張がほどけたものらしかった。泣いている場合じゃないんだけどね、と自分を叱りたくもあり、泣きなさいな、と許したくもある。泣きながら書いた原稿を、新聞社に送っておく。

 食卓に、一枚の紙切れがひらりと置いてある。中学1年の末娘のテストだった。
 「日本の都道府県の名前」
  右の日本地図中、1〜47の都道府県名を答えよう。
 赤いペンで「47 満点です good」と書いてある。めずらしい満点のテスト。「47」という数字が、胸に迫る。47がそれぞれ試練のときを生きている。被災した地、直接の被害が及ばない地、試練の大きさと意味合いは異なっても、この小枝のようにも見える日本の47(1都2府1道43県)が、端から端まで軋(きし)んでいる。悲痛なうめき声を上げている。いま、もっとも大事な数字かもしれない、47は。

 朝刊で、今回の震災に名前がついたことを知った。「東日本大震災」。もうひとつ、福島の第一原発爆発事故のこと。これは、もちろん震災の影響によって起こったのにはちがいなくても、別筋にて受けとめなければならない事態のように思える。爆発にともなって漏れた放射性物質が広範囲にひろがるということになれば、「被ばく」の心配が濃くなってゆくからだ。
 震災で発電所が停止し、原発も停止(自動停止)するなか、東京電力が地域別に電力を止める「計画停電」を、昨夜とつぜん発表した。
 夫が買いものに行くというので、わたしも追って急いで靴を履く。外の様子を感じたかったからだ。しかし、出かけてみるまでは、「計画停電」が町の様子を変えるなど、想像だにしなかった。わたしたちの行き先は、家から徒歩1、2分の八百屋とよろず屋だったが、肉が少しほしかったので、肉屋まで足をのばすことにした。するとどうだろう、肉屋のあたりが混みあっている。どうやら、肉屋からほど近いKストアと、大型のスーパーS——あろうことかこの2つはとなり合っている——に向かう混雑であるらしい。
 大型店Sの前には自転車が山と停められており、店内をのぞくとレジに、長い長い列ができている。となりのKは小型店なので、入店が制限されているらしく店の外にひとがならんでいる。備蓄か。ほんとうに?
 きゅっと胸が縮んで、ふたりして無口になり、とぼとぼ帰宅。帰りに八百屋で大根と文旦に似たでっかい柑橘を、となりのよろず屋でサラダ油を買う。

 3月15日(火)
 しばらく乾物中心のおかずをつくろう。
 そして、こういう日日にもたのしみは必要だから、と、黒豆を水につけた。黒豆を煮ようとするこころも、食べようとするこころも、等しくたのしみなものだ。こういうものをひと粒ひと粒箸でつまんで口に運ぶしあわせというのは、日本人が大昔から知っていたこと。
 よろず屋に行った夫が、牛乳と卵、それに納豆がなかったと云う。牛乳がないとなると、ヨーグルトをつくれなくなるかもしれないが、まずまずたいてい大丈夫だ。
 ヨーグルト。これは、昨夏、近所の友人から分けてもらったタネでせっせと毎日つくっている。友人はお子さんたちも独立し、夫婦ふたりになってから武蔵野市もごく近所に越してこられたが、知り合ったのは、ここからはなれた英文翻訳の勉強の場でだった。昨夏、この友人——字はちがうがおなじ文子(ふみこ)さんだ——が、夫君とともにニューヨークへ旅することになった。
 旅の計画をうらやましく聞いているさなか、ふと、「ヨーグルト、お好きかしら」と、尋ねられ、「ええ、ええ」と答える。「子どもたちも好きなのですけれど、買ってくるのがちょっと大変」
「うちはタネでつくっているんだけどね、もらっていただけないかしら。そうしてね、旅行から戻ったら、すこしタネをくださらないかしら」
 たのしい話だった。分けていただくことが、預かることにもなるというわけだ。すぐと話が決まり、文子さんご夫妻の出発の前々日、マンションにうかがうことになった。「これからうかがってもよいでしょうか」と電話すると、「いまなら主人が家にいるから、ちょうどいいわ」という返事。なんと、ヨーグルトの世話は夫君の役目だそうで、お世話係からの説明が必要とのことだったのだ。ますます、たのしいこと。
 初めてお目にかかるだんなさまは、ため息をつきたくなるほど穏やかな紳士で、タネからヨーグルトをつくる段取りを、ていねいにおしえてくださる。うちがヨーグルトのタネの宿になると決まってすぐ、うれしさからもとめておいた専用のガラスの器を手提げから出すと、「これは、用意がいい」と褒められる。 
 ヨーグルトのタネは、たちどころにうちに定着。ニューヨークと、カナダへも立ちよって帰ってこられたご夫妻のもとに、無事ふた匙もどすこともできた。そういうヨーグルトだったけれど、温度の低い場所をさがして置けば1週間くらい菌は生きられるはずとおそわっていたし、牛乳の不足くらいで騒ぎたくなかった。
 それにしても文子さん、どうしているだろう。

「あの日」から、夕方は電気をつけずにろうそく暮らしをしているが、きょうは、家じゅうのストーブ——居間のガスストーブと、夫とわたしの仕事部屋のデロンギ(電気ストーブ)と——を片づけた。こういうのは、願かけの一種。こちらの分の熱量が、必要なところへ移っていくようにという……。

Photo
ヨーグルト製造のための道具です。
ふた匙のタネ(菌)にこの容器ほぼ1杯の
牛乳(400ccくらい)で、毎日つくっています。
あらためて、牛乳に「ありがとう」を。

 3月16日(水)
「計画停電」はやってこなかった。
 待っているが。

 連日、地震と津波の被害を受けたかの地で、救援活動が行なわれている。また、不気味に白煙を上げている福島の第一原発の消火や使用済み核燃料の冷却のための作業もつづいている。どちらも危険で、覚悟なしにはできない活動である。
 津波による何百人という数の犠牲者を、いっぺんに目の当たりにしなければならない苦悩。被ばくの恐れのあるなかの原発の消火、冷却作業の苦悩。その心身の痛みに対して、すくなくとも感謝の声を上げ、声援の気持ちを向ける必要がある。こちらでは、救援者の苦悩を、するりと被災地の状況にすり替え、重みを減らして聞いているが。

 きょうは、高野豆腐を肉のようにすることを思いつく。
 高野豆腐を水にもどしてよくしぼり、油で揚げる(※)。鍋にだしと砂糖、しょうゆ、塩、酒を入れて煮立て、揚げた高野豆腐を入れる。いまあるさいごのたまご3つを茹でて、いっしょに煮含めることにした。ゆで卵を半分に切って盛りつければ、黄身の色がきれいだろうかと思って。
 おいしかった。が、ろうそくの食卓では、ゆで卵の黄身の色はよく見えない。
※油っぽいと思えば、ざるにならべて、熱湯をかけて油抜きしてから煮てもよい。

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2011年3月18日 (金)

日日のしおり…3月11日(金)つづき~13日(日)

3月11日(金)つづき
 夫の顔は穏やかだったけれど、いつになくうろたえていた。
 その目を釘付けにさせているテレビ画面には、わたしがこれまで、映画や劇画でしか見たことのない光景がある。——津波。
 東北地方の太平洋沿岸が、いきなり襲われたらしかった。津波(つなみ)の3文字から連想していた事ごとを、はるかに超えた状況。声も出なかった。映画館で地震に遭うという稀有(けう)な体験を報告しようと早足で戻ったのだったが、それどころではない。まったく、それどころではなかった。
 テレビ画面を凝視しながら呆然としている自分に気がついて、とつぜんひな人形を仕舞うことにした。常ならばもっと早くに仕舞うところを、ことしは何とはなしにもうすこし、もうすこしと日延べしてきた。けれど、お雛さま方に、この状況をくわしくは知らさずにおきたいという思いが湧いた。これから先、どんなに過酷なことになっていったとしても、来年、またお出ましいただくころにはおだやかな日日がもどっているように、あたたかな日差しのなか坐っていただけるように、と。
 はっと我に返った夫も、それを手伝ってくれた。ひな人形のことをしてもらうのは、これが初めてである。余震に、お雛さま方がかたかたと揺れる。家のなかのあちらこちらに飾った3姉妹とわたしのひな人形を片し、居間の隅に箱を積み上げる。そうしてしまってから、仕舞うその日、お雛さまに供することにしている蕎麦(そば)を、忘れたな、と気づく。
 手を動かしていたくて、いきなりひな人形を片してはみたものの、きょうばかりはあたまのほうが、なかなか手のしたがっていることに追いつかず、どこかちぐはぐな仕事になった。そしてその、ちぐはぐの狭間に、親しい顔が浮かんでいる。
 気仙沼のあの一家——小学校6年生をかしらに3人の愛らしいお嬢さんがいる。昨年、すばらしく美味しい秋刀魚を送ってくだすった友人のお父さま。その方もたしか、気仙沼の漁師だった。仙台に住む先輩。岩手県の友人の実家。そうそう、福島にも友人がいる。
 お顔は知らぬ大事なひとたちも、大勢、被害を受けているのだろう。わたしの本の読者。ささやかにつづけてきたブログを通してやりとりのあるひとたち。考えているうちに、胸のなかの気がかりが鉛のように重くなってゆくのがわかる。祈りたかった。が、祈り方がわからない。何をどう祈ったら、祈りになるのか。

 17時ごろ、徒(かち)で公立中学校に通っている末娘が帰宅。「怖かった」と、わたしに駆けよる。地震のとき、4階の音楽室で卒業式にうたう歌の練習をしていたそうだ。どこかでガラスの割れる音がし、音楽室からもどると教室の大型テレビが落下していたという。「きっと、図書室の本も落ちて散らばっていると思う。行ってはいけないと云われたから、見てはいないけど」
 夕方、あたたかい具だくさんのつゆをこしらえた。そこにそば蕎麦をつけて食べるように。地震によって、電車もバスも、東京の交通はすっかり停まってしまった。勤め先にいる長女と二女は、どうやって帰ってくることやら。もしかしたら、きょうは帰れないかもしれない。どちらにしても、こうしてつゆがあれば、蕎麦さえ茹でれば、晩ごはんにも、夜食にもなるだろう。
 それに、お雛さま方にも、こうして箱ごしにはなったけれど、蕎麦を供することができたもの。
 21時過ぎ、二女が新宿から(距離にして約15キロ)徒で、長女が23時、築地から(約30キロ)自転車で帰宅。

3月12日(土)
 4時半に目がさめる。寝ていたのかそうでないのかわからないような闇を通り抜けてきたけれど、少し眠ったらしい。めざめたとき、大変なことごとが起きたという重たい記憶が、あたまのなかに詰まっていた。
 おそるおそる、配達された新聞の折り目をつかんで持ちあげる。「大地震」、「大津波 死」の文字。新聞をひろげてみると、「大地震」と見えた大見出しは、「東北で巨大地震」だった。「大津波 死者・不明多数」、「宮城震度7  M8.8  国内空前」の見出しがならぶ。
 震災。夢なら、よかったのに。夢ではなかった。
 テレビをつけると、どこもかしこも震災のニュース。報道のひと誰も彼も、顔をこわばらせている。テレビのこちら側にいるわたしたちが、まだ知らないことをもう知っているという顔。それなのに得意そうでなく、つらさのまま固まってしまったような顔。
 二女の勤め先の新宿の百貨店が、休業となる。元旦だって休まないというのに。

 長女が、晩ごはんにカレーをつくると云いだす。何かしないではいられないのだなあ。手を動かしたいのだなあ。台所で、手だけではなく、妹たちを手伝わせながら口もさかんに動かしている。
 昨夜から、電気をできるだけつけないで暮らしている。晩ごはんの仕度も、食べるときも、あと片づけも、ろうそくの灯りで。
 できあがったカレーは、辛いというより苦かった。カレー粉を、いったいどのくらい入れたのだろう。辛ーいという顔、ろうそくの灯りが隠してくれた。

3月13日(日)
 考えてみたら、昨日のわたしはどうかしていた。
 新聞をひらいてはため息をつき、テレビを見てはため息をつき、結局、しかけた仕事にも手がつかなかった。そうして、子どもにカレーをこしらえてもらい、辛いとかなんとか思ったりしているうちに、もう休むよりほかなくなって。
 こんなことではいけない。それで今朝は朝から、できることを片端からしてみている。テレビも休んで、ラジオにした。
 おちつこうというときは、台所だ。干鱈(ひだら)を水につけてもどし、塩漬けのたけのこを水につけてもどし、切り干し大根を水につけてもどす。こうもどしてばかりいるのなんかは、やっぱりどうかしているかもしれないけれど、水につけてしまえば、相手はもどる。もどってしまったら、料理してしまわなくてはならない。自分を料理へと追いこみたかったからかもしれない。
 ほんとうは、ことをもとにもどしたかったからか。しかし。起きてしまったことのなかで、行く先をさがしながら生きていかなければ。
 最初にもどったのは切り干し大根。 

 火を使わず、ちょっと辛味の即席漬けをこしらえた。

切り干し大根  ……………………………100g
合わせ調味料
 しょうゆ………………………………大さじ3
 コチュジャン…………………………大さじ1
 一味唐辛子…………………………小さじ1 
 砂糖…………………………………大さじ1
 にんにく(みじん切り)………………小さじ1
 生姜(みじん切り) …………………小さじ1
 長ねぎ(みじん切り) ………………大さじ3
 ごま油………………………………大さじ2 
 白ごま(炒りごま)  …………………大さじ1

①切り干し大根は30分ほど水につけてもどし、もみ洗いする。
②手でぎゅっとしぼって、合わせ調味料で和える。手でよくよく和える。
※ここににら(長さ2cmに切って)を適宜、生のまま和えても、おいしい。

Photo
ろうそくの食卓です。
干鱈のシチュウ、バタライス。

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2011年3月17日 (木)

日日のしおり…3月11日(金)

 東日本大震災が起こって、じき1週間。
 あの日を境にいろいろのことが変わりました。これから、もっと変わるだろうと思います。「変わる」には、「失う」ということも含まれ、すさまじい痛みをおぼえますが、痛みのなか、これまでもち過ぎていた物欲やら、過剰だった便利好みやらは、手放してしまいたいという思いをつよくしています。
 過酷な状況のなか、できるだけ静かにおだやかに暮らそうという「いま」を記録してみようかという気になりました。
「日日のしおり」。変わり目の記録です。もうひとつには、変わり目の誓いです。
 大震災の起きた3月11日を1日めとして、ひと日ひと日綴ってゆくつもりです。もしかしたら呑気に映るかもしれませんけれど、そのくらいの調子をめざして、まずはひと月書いてみたいと思います。
※平日のみですが、できるだけ毎日更新する予定です。

3月11日(金)

 毎年3月も10日を過ぎると、なんとはなしにこころがざわつく。東京大空襲(1945年3月10日)や、地下鉄サリン事件(1995年3月20日)のことが胸に迫るのだ。東京大空襲のときには、わたし自身この世に生を受けていないけれど、周囲の大人が語るのを幼い日から幾度も耳にした。サリン事件のときはすっかり大人で、このおそろしい無差別テロの報道を実時間で受けとった。
 桜の開花の待たれる、どこか朧(おぼろ)なこのうつくしい季節がめぐってくるたび、どうか無事にここをわたらせてください、と祈るかまえになる。

 ……そうあらためて思う、道の上だ。
 毎日新聞社の友人が送ってくれた映画の券をとり出して見たのは、今朝のこと。(そろそろ観なければおわってしまうわ)と思いながら。調べてみると、おわってしまうのがきょうであることがわかった。あたまのネジを締めあげて——そういうつもりで、という意味だが——午前中にせっせと原稿を書いた。締めあげれば早くできるかというと、そうでもないのがつらいところだが、きょうはなんとか仕上がったので、それを待ってくれている相手にパソコンでぴゅーっと送った。つぎに大急ぎでそばを茹で、大急ぎで長芋をすりおろし、早口で夫を呼んで、昼ごはんだ。
 こうして13時過ぎに靴を履いて、道の上にいたのだった。向かうは隣町の小さな映画館。この映画館をわたしはとても愛していて、そこまでこんなふうにてくてく徒(かち)でゆけることを、ありがたく思っている。とはいえ出不精だから、年に3、4回しか行きはしないのだけれど。
「毎日かあさん」の最終日。間に合ってよかった。この映画の招待券を送ってくれた友だちの好意も、仕事で縁浅からぬ毎日新聞に、長く長く連載されている「毎日かあさん」(西原理恵子作)への思いも、むなしくしないですみそうだ。そう思いながらてくてくを速める。
 映画がはじまった。ここ東京都武蔵野市は原作者の西原理恵子さんの地元でもあり、「毎日かあさん」熱はかなり高いから、もっと混雑しているかと思ってきたが、この回はさほどでない。
 映画のなかで西原さんの役を演じる「小泉今日子」がたのしそうなのが印象的だ。このひとは、演技を通して家族体験を得てゆける存在なのだろうなあ。夫である「鴨志田穣」役の「永瀬正敏」も、相当にこの役に入りこんでいる。こうした演技者を眺めながら、わたしはおかしなことを思いだしている。
 小学校6年の数か月のあいだだけ、役者願望をもったことがある。中学進学のため入学願書の証明写真が必要になって、同級のYちゃんとKちゃん、それぞれの母親たちと一緒に、町の証明写真の自動販売機(スピード写真)に出かけていった。当時、スピード写真は出はじめでものめずらしく、異様に緊張していたことをおぼえている。写した4枚の写真が正方形の印画紙のなかにコマわりになって、自動販売機から出てくるなんていうのは、どう考えても不思議でならなかった。当時4カット1枚のそれがいくらだったかわからないけれど、わたしは、まず、4枚同じ顔では「もったいない」と思った。
 もったいないから1枚めだけは入学願書にふさわしい真面目くさった表情にしたが、あとの3枚は、笑顔、横向きのすまし顔、あっかんべえの顔で映った。
YちゃんとKちゃん、わたしと、それぞれの手もとにできあがった証明写真がそろった。「あら、ふみこちゃん、表情を全部変えたのねえ」と、誰かのお母さんが驚いたように云う。もったいないからと、わざわざ別の表情をつくったのはわたしだけだったらしい。YちゃんもKちゃんも、わたしの写真を見て「へええ」と笑っている。このとき、誰かのお母さんが「ふみこちゃんは、大きくなったら女優になるといいわ」と云ったのだ。「……」
 帰り道、母にむかって「じょゆうって何?」と尋ねる。「女の俳優さんのことよ。岸田今日子さんみたいなひと」母は高校時代、俳優の「岸田今日子」と同級で親しかったのを知っていたから、すぐとわかった。(岸田今日子さんみたいなのかあ……)と。それから中学に上がるまでの数か月間、女優を志望していた。母も、ちょっとそんな気でいたらしく、「こんど岸田さんに会ったら、話してみようかな」というようなことを云いながら、かすかにはずんでいたのだった。が、もったいないという理由で、写真撮影のとき4種類の顔をつくったというくらいで、役者への道は拓けなかった。拓けかけたことすらなかった。
 岸田今日子さんが、急いでこの世から旅立ってしまったものだから、その話をしそびれてしまった。「あはは。その道じゃなくてよかったんじゃないかなあ」と、あの魅力的な低い声で云ってほしかった。
 そんなことを久しぶりに思いだした。わたしが演技にかかわっていたとして、「小泉今日子」のようにも「永瀬正敏」のようにも役柄を生きられなかったのにちがいない。ああよかった、と、何がどうよかったんだかわからないため息を、わたしは映画館の暗がりのなかで、ひとつついたのだった。
 そのときだ。画面のなかで、アルコール依存症から抜けだしきれなかった鴨志田さん役の「永瀬」が、家のなかで大暴れしている。座席から腰が浮いた。(大暴れの感じを、このごろは「なんとかD」とか云ってこんなふうに演出するのか、それにしちゃあ「なんとかD」のメガネかけてないけど……)と思ってふりむくと——わたしはこの回の客のなかで、もっとも前に坐っていた——ひとが皆映画館の扉にむかって走っているのが見えた。そしてやっと、地震だと気がついた。(途中なんだけどな。きょう、最終日なんだけどな)と思いながらひとり居坐るわたしの頭上に、天井の塗料がはがれているのか、ぱらぱらと何か落ちてきた。後部座席の上からは、コンセントにつながった何かの線が、宙づりになっている。
 映画館のひとの対応がおちついているのが、やけにまぶしい。この映画館に3つあるホール(スクリーン)のうち、いちばん大きいホールからは、ぞろぞろひとが吐き出されてきている。第83回アカデミー賞で、作品賞、主演男優賞(コリン・ファース)など計4冠を獲得したばかりの「英国王のスピーチ」を観ていたひとたちだ。
 ステッキをついた老紳士が「それにしてもずいぶん揺れましたな。ちょうどいいところだったんだが……」と、くやしそうにつぶやいている。その肩についた、どうやら落下物体であるらしい粉のようなものを払いながら「また、すぐご覧になれますよ。ほら、あちらで招待券を配りはじめているようですよ」と云っているこのとき、わたしにも、老紳士にも、震源地でのおそろしい状況など想像すらつかなかった。とうとう地震が東京にきたな、という感じをもっていたのだった。が、それは大きなまちがいだった。
 帰り道。時計を見ると、15時を少しまわったところだった。なんとなくあたまがぼうっとしている。映画を観きれなかったことや、もっと大きい揺れがきたとして……という考えや、家の者たちそれぞれの居場所などがぐるぐるまわっている。家まであと7、8分というところで、道がぐわんと揺れた。ああ、まただ。道路沿いの家の玄関を、ひとが怖怖あけて顔をのぞかせている。

 家では夫が居間でひとり、立ったままテレビを見ていた。
「津波が……家を、船を、押し流してるんだ」

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2011年3月15日 (火)

あいて!〈引用ノート3〉

 

萎縮しない。増長もしない。
              出典わからず。

 先週決めたばかりだが、ひとから「好きな花は何ですか」と尋ねられたら、「ゼラニウム」と答えることにしたい。
 ひとによっては、何かの機会にわたしに花を、という際の参考にしようと聞いているのでもあろうから、好きな花がゼラニウムでは困るだろう。あれは鉢花だし、およそ花束とは無縁の存在だもの。それに、ほんとうは好きな花なら、もっとほかにある。
 けれど、そこをおしてゼラニウムと答えたい。
 なぜか。わたしがゼラニウムという植物に、ずいぶんと世話になっているからで、なんというかもう、頭の上がらない相手なのだ。植物にふれていたいと希って、いろいろの花を身のそばに置こうとするけれど、その世話には苦心が要る。ただ水をやるというのでも、わたしにとっては苦心のうちだ。繊細な相手なら、1日水をやり損なっただけで萎れ、復活に時がかかったりする。わるくすると、そのままぐっと具合のわるいほうへ傾いて、この世から消えてしまう。
 ゼラニウムの丈夫なこと。水なんかはかえってやり過ぎないほうがいいくらいだし、しばらくほおっておいても枯れないばかりか、萎れさえ見せない。もともと、白花のをベランダの手すりに居てもらっていたのだけれど、丈夫さを見こんで、このたび、その数をふやすことにした。

 ここで、以前、ゼラニウムのことを書いたことがあるのを思いだして本をひっくりかえしてみたら、あったあった。ゼラニウムが和名では「天竺葵/てんじくあおい」というのだと書いてある。忘れていた。そうして、当時のわたしは、ゼラニウムを、丈夫で育てやすいが、ほんとうはプライドの高い花なのかもしれないと見ており、いまだ(ゼラニウムに)手が出ない、と気弱に佇んでいる(『おいしいくふう たのしいくふう』所収/オレンジページ刊)。
 そんなことも忘れて、いつのまにかしれっとゼラニウムをもとめていたというわけだ。
 ただ、ゼラニウムと暮らしはじめて、その金属的とも云えそうな青い香りが無性になつかしかったことはよくおぼえている。その香りに包まれて遊んだ日のことが、鮮明によみがえる。わたしはそれを、祖父母の家の庭で嗅いでいた。花の香であることも、ましてやそれがゼラニウムのものであることも認識していなかった。ただ、記憶のなかに棲みついていた不思議な香り。ああ、ゼラニウムだったのかと知った日、そういえば、ベランダでひとり涙ぐんだのだったなあ。
 やっとはなしは現在にもどるけれど、ともに暮らす植物をひどい目に遭わせたくないという理由から、そして、わが手間がなかなか植物に向けられないというもうひとつの理由から、ゼラニウムの数をふやす。これで通年花をたのしめるし、植え替えもそうはしなくてすむということになった。
 こうしてゼラニウムという花が、わたしの相手としてとても安定した存在になっていることがわかる。

 さて。冒頭の「萎縮もしない。増長もしない」とことばは、美容院で髪を切ってもらっているときに、膝の上にひろげた雑誌にみつけた。老眼鏡なしに文字を読むことのかなわなくなったわたしは、美容院では、雑誌の写真だけを眺めている。けれど、このとき、雑誌にいまや国民的人気グループになった「嵐」の「二宮和也(にのみやかずなり)」の写真をみつけて、人知れずときめき、こっそりケープのなかの手提げから眼鏡をとりだして文字を拾ったのだった。
(なになに……?)と、小さくつぶやいて。
 二宮さんのことを、彼と親しい俳優の「高橋克実」が、こう評していた。「ニノ(二宮さんの愛称)は、どんな相手に対しても萎縮しない、増長もしない」と。ほほお、と感心して、こんどはこっそり鉛筆と手帖をとり出して「萎縮しない。増長もしない。ニノ」と書きつけておいた。

「萎縮しない。増長もしない」という対になるふたつのことばは、以来、わたしのなかに居すわって、ときどき、わたしに向かって呼びかける。「ほらほら、アナタも萎縮しない、増長もしない、で、ゆくんじゃなかったのかい?」というふうに。
 わたしなんかは、この年になっても、ひとという相手にたいして萎縮しがちである。萎縮していたかと思うと、妙なことをきっかけに増長してしまうらしく、それで痛い目に遭う。いつしか「相手」ではなく「あいて(痛)!」になる。あいてててて、である。
 こんなふうにはじめは、ひとが相手になる場合にこのことばがすっとあらわれてきたのが、最近は、いろんな相手に対して当てはまることがわかってきた。たとえば、お金。たとえば、あらゆる仕事。
 とくにお金のことでは、かなり萎縮している自分に気がついてぎょっとした。いつかそのあたりのことが書けるといいのだけれど。

 そこへいくとゼラニウムは、誰に対しても萎縮しない、増長もしないという姿勢だなあと思わされている。それが、ゼラニウムの頑丈さだという気がして、ますます頭が上がらない。

Photo
このたび、あたらしくやってきてくれた
ゼラニウムです。
花色は、サーモン系のやわらかいピンクです。
この場所の担当者が、旅の仕事でいなかったあいだ、
ビオラたちの世話がゆき届かず、株を弱らせてしまいました。
(ごめんね)。
そこで、丈夫なゼラニウムに、バトンタッチ。
(末永くよろしく……)。 

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2011年3月 8日 (火)

成功願望

「主婦。エッセイスト」
 と、書いてある。

 わたしの肩書きだ。
「プロフィールをこちらで書きましたから、確認してください」という依頼文が添えられている。赤ペンを握りしめて、まず「エッセイスト」というほうを、「随筆家」になおす。
 昨年の後半から、「エッセイスト」だったのを、「随筆家」と変えることにしたからだ。どうして変えたか。じき連載5年めを迎えようとしている毎日新聞の短いエッセイ——「山本さんちの台所」毎週火曜日——が、促したものだった。
 4年間毎週、13字詰め70行という分量を書いてきた。文章を書く仕事をはじめたのは20歳の年だし、定められた分量をぴたり数どおり書くのなんかは、お茶の子なのだ。しかし、わたしの手もとでぴたりと書いたつもりでも、新聞の組みの都合で、どういうわけか1行あふれることがある。それも、少なからぬ頻度で。書き上げた文章を1行削るというのは、苦痛である。削ろうとすると、それまでとるに足らない語句だったものがとつぜん存在価値を主張し、地味な接続詞がぴりりと持ち味を醸しだす。「ワタシを削るなんて、そんな殺生な」と文句を云う。
 そういうことがたびたびあったものだから、いつしか、1行分の填補(てんぽ)を欲するようになってゆく。そこで目をつけたのが、この欄の最後の2行だ。
 その1行めには「(エッセイスト)」が、左どなりの2行めに「=イラストも筆者」が、どんと居座っているのだった。じっと睨んで考え、2行を1行に減らす案が2種類思い浮かぶ。
「エッセイスト。挿絵も筆者」というのと、
「随筆家。イラストも筆者」というのと。
 結局、後者を選んだのは、なるべく(なるべく、だ)カタカナを使わずに文章を書こうと心がけている自分の仕事を、これからは漢字で呼ぼうという決心からだった。
 13字詰め1行のことで、何をそんなに……と思われるかもしれないが、あらたな1行の出現のおかげで、期待していた以上にわたしは楽になった。どんなものでも、限り、制限というのは、不思議だ。

 さてしかし。
 わたしがここでお話したいのは、「随筆家」、「エッセイスト」のことでも、幅を利かす小さな1行のことでもない。メールで「確認せよ」と送られてきたプロフィールの、「主婦」というほうの肩書きのことなのだ。
 自分のプロフィールの肩書きとして、「主婦」と書いてあるのを見たのは、初めてだった。それを見た途端、長年、埋もれていた労作を認められたひとのような心持ちになった。……うれしいねえ。
 こういうふうに書いて送ってきてくだすったのが、働き方研究家の西村佳哲(※)さんだったから、うれしさも一入(ひとしお)だった。わたしというひとの働きとして、「主婦」という立場を大事に考えて、職業のほうの名前よりも先に書いてくだすった。あとで、西村さんから「主婦のほうは削られるかと思いました」と云われたけれど、まさか、そんなことはしない。

 それからというもの、自分の「主婦」という肩書きについて、ときどき考えるようになっている。「お、うれしいねえ」で終わりではつまらないような気がした。
 つい先達て考えたのは、「成功」についてだった。主婦としての働きと、もの書きとしての仕事をこうしてならべて眺めながら、(後者の成功は望んでいないけれど……)というはっきりとした感覚が立ちのぼってきたのである。
 もの書きとしての成功は望んでいないけれど、主婦としては成功願望がある。
自分の書いたものがどのように受けとられ、どんな働きをするかは、もうもう、なりゆきにまかせきりたい思いがつよい。それより何より、自分が一所けん命、祈るようなこころで書きつづけたいのが、願望だとも云える。
 一方、主婦としては、なんというか、1週間単位ほどの区切りの成功をめざしているような。「ひと日ひと日の成功めざして」と書くほうが恰好はつくと思うのだけれども、昨日のうまくいかなさを、きょう明日で挽回しようという連なりで暮らしている身に、「ひと日ひと日」は重過ぎる。「成功」が、めあてに向かってゆき、何かを達成することだとしたら、わたしはこの家とのかかわりをやり遂げたい。
 誤解を怖れず書いてしまうが、それによって得たい富もある。得たい富とは、家からの、家の者たちからの信頼である。

※西村佳哲(にしむら・よしあき)さんの最新刊『かかわり方のまなび方』(筑摩書房)は、とてもおもしろく、考えさせられる本でした。


Photo_2
先週見ていただいた、新旧交代の写真の、
これはつづきの1枚です。
このひとの胴体の金属部分に、
なんとはなしに寒寒しさをおぼえて、
こんなことをしました。
ボンドで麻のひもをつけたのです。
まだ、ボンドが乾ききらないうちに撮影したので、
糊のあとが見えますが、2週間ほどもたったいまは、
それも乾いて落ちつき、いい具合です。
ただし、子どもたちには、笑われました。
「どうして、こういうことを思いつくのかね、お母さんは」
「それでさ、思いついたら、どうでも実行するからね」

その理由こそが、
わたしの主婦としての「成功願望」だと云ったら、
わかっていただけるでしょうか。 

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2011年3月 1日 (火)

別れの記

 毎日、どのくらい辞書をひくだろう。
 かなりひく。何かを読んでいるとき「これは」ということばの前に立ちどまり、原稿用紙1枚書くのにもしげく辞書にあたる。
 それは……、ものを知らないからでもあるけれど、辞書のおもしろさを知っているからでもある。
 仕事にあきると、ときどき、頬杖をついてぼんやりと辞書をめくる。これは、「ひく」ではなくて「読む」だろう。辞書を読んでいると、なんと云っても(へえ、そうだったか)という発見が多いのだけれど、ぷっと吹きだすようなこともある。辞書にはそれぞれ顔があり、おそらく編纂の皆さんの個性があらわれるのだ。そういうわけで、ひとつ辞書だけを使っているとおもしろみが広がらないから、何冊か持ってひいたり読んだりするわけだ。

 今し方、「とうとう、」と書きはじめて、これはこれはと思った。とうとうなどというつよい副詞を出だしにして、いったいわたしはどこへすすもうとしているのか。書こうとすることは、はじまる前に定まっているかというと、じつはさっぱり定まっていない。それなのに「とうとう」なんかと置いてみてしまって、軽い衝撃を受けている。それで、辞書をひいたのだ。
 すると、どうだろう。「とう−とう」というのが13もあらわれた。だーっと「とうとう」ばかりがならぶ。ひらがなの「とうとう」はひとつきりで、これは、モノを軽く打つ音の意。ほかは丁丁、東塔、偸盗、登登、滔滔、蕩蕩、瞳瞳、鼕鼕、鞺鞳、疾う疾う、到頭、等等と、「丁」のほかは、やたらと画数の多い漢字がならぶ。
 このなかで、わたしがさがしていた「とうとう」は、「到頭」だ。ついに、とか、結局、さいごに、という意味の、とうとう=到頭なのである。これまで、何度も何度も「とうとう」と書いてきたのに、それが漢字でも書けるなどとは考えたことがなかった。もしかしたら、一度くらい辞書にあたったこともあったかもしれないけれど、記憶にとどまっていない。
 かつて記者時代に、漢字が多いと紙面が黒っぽくなり、むずかしそうに見えたり、込みいった印象になるから、原稿を書くときは「かなを多く」とたたきこまれている。漢字をひらがなにすることを、「ひらく」と云うのだが、先輩のことばにならって、ひらきにひらいていたら、なんだか、ひらきっぱなしになった。それに、ひらくことにばかり熱心になっていたおかげで、漢字が書けなくなってしまった。いや、これは、都合よくこしらえた言いわけだけれど、ともかくわたしは一度も副詞の「とうとう」を漢字で書いたことがなかった。

   とうとう、別れのときがきた。

 わたしは、そう書こうとして、(あれ、とうとうって?)と立ちどまり、辞書をひいたのだった。そこから、何冊も辞書にあたって、「到頭」に感心し、(へえ)だの(なんだ、そうか)だのを連発していたものだから、いっこうに先にすすめなくなってしまった。もうちょっとそんなことをつづけていたら、とうとうやってきた別れが、誰と誰との別れなのか、忘れてしまったことだろう。

   とうとう、別れのときがきた。
   これまで30年近くいっしょにやってきて、別れのやってくることなど、
  考えなかった。ずっとともにあって、足りないところを補いあいながら、
  この先もゆくのだろうと、決めつけていた。
   わたしとて、いろいろの別れを経験しているが、これもまた、ひとつの
  別れの経験として数えなければならない。
   ことわっておくがわたしは、別れをしまいだとは考えていない。関係が変わ
  る意味だと受けとめたい。だから彼とのことも、そういうふうに……。


Photo

わたしが「とうとう」別れたのは、
写真左側の魔法瓶(アラジン)です。
30年近くいっしょにいて、彼にはその前にも仕事歴が
ありましたから、相当の年齢なのです。
ことしになって、なかのガラスの一部が壊れました。
ほんとうにありがたい存在でした。
道具としたら、こういうのを「死」と呼ぶことに
なるのだと思いますが、この世とあの世に分かれても、
わたしたちは、ともに過した歳月を忘れずにいるはずです。
そして彼は、わたしに
あらゆる道具とのつきあいかたを、
おしえつづけてくれるでしょう。

後任は、右側の水筒です。
これも、うちに来てから18年ですが、
いま、はりきって仕事をしてくれています。

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2011年2月22日 (火)

互い

 3階のみまわりにいく。
 まるで寮母のようだな、と思ったりする。ま、寮母にちがいないのかもしれないと、また思いなおして、暗がりでちょっと笑う。ふふっ。

 3階の子どもたちの部屋を見てまわるのが、夜やすむ前の約束になっている。約束と云っても、自分とのだけれども。この家は、もちろん家庭ではあるし、3階のひとたちとわたしとは母娘なのだけれど、だんだん寄宿舎のようになってゆくなあ。そして、そうなってゆくことをたのしく感じている。たのしさついでに、こわもての——イギリスのものがたりに登場するような——寮母や、舎監のような佇まいでいこうかしら。
 今夜は、長女がまだ帰宅していない。およそ女ぽっい要素のないその部屋に足を踏みいれ、思いついてワードローブをひらき、貸したままのセーターを取りかえす。「着るのはいいにしても、こうもかえってこないというのはさ」と文句を云い、云いながら、ベッドカヴァの上に投げだされるように置かれた板のようなものに気づく。……なんだろう、あれ。

  Aへ
  おかえりなさい。
  湯たんぽ、わたしのところです。
  取っていいよ(わたしが寝てたら、ね)。
  おやすみ。
                 Sより

 板だと思ったのは、段ボールの厚紙だったからで、そこへ文字のほかに、三日月と星、手だかつばさを羽ばたかせている3羽の鳥のような、でも耳のある生きもの、この家の誰にも似ていない愛らしい寝顔の絵が描いてある。
 ああ、湯たんぽのことか。
 以前にも、どこかに書いたことのあるこの家にひとつきりの湯たんぽ。あるとき、出先でみつけた「段段畑に穴ひとつ」となぞなぞで云うところのブリキの湯たんぽを、わたしはほくほくと3つもとめようとした。そのほくほくへ向かって、夫が「ひとつにしたら」と云ったのだった。寒い季節、毎晩毎晩3つの湯たんぽを仕度する手間はいかにも大変、と夫は咄嗟に考えたらしかった。わあ、湯たんぽ。とばかりにあとさき見ずに走りだそうとしていたわたしに、「ひとつにしたら」は、ブレーキをかけることとなる。
 あとさきを見ない上、融通もきかないわたしは、しばし「3つないなら、1つあってもしかたがない」という考えにとらわれる。それを見越して夫は云う、もう一度。「ひとつにしたら」
 その年の冬から1つの湯たんぽを使って、ことしで10年めくらいになるのではないだろうか。夫の云うとおり。わたしには、1つの湯たんぽが精一杯の仕度だった。
 湯たんぽは、3人の子どものうち、その夜もっともふさわしい足もとにさしこまれることになった。仕事で帰宅がおそくなるひとの足もとへ。しょんぼりさんの足もとへ。試験ちゅうの中高生の足もとへ。卒論にとりくむ大学生のあしもとへ。といった具合に。
 さて、立春から半月のあいだが、東京のもっとも寒いときのような気がする。夜ともなると、つよい冷えこみがぞろりと降りてくる。今し方みまわった3人の部屋も寒く、湯たんぽは切実な存在に思える。寒い季節のさいごのところを過している3部屋のあいだで、湯たんぽの使い方に、あたらしいとり決めができているらしかった。足もとから足もとへと、一夜のうちに湯たんぽが移動するという……。あの板のようなのは、長女にあてて末の子どもが書いた置き手紙だった。

「互い」というのは、このくらいの感覚で在るのがいいなあ、とひそかに感心す。この家が、だんだん寄宿舎のようになってゆくたのしさという感覚も、そこらあたりに生じるもののような。


Photo_10

こっそり、撮ってみました。
これが3階の「寮生」の、置き手紙です。


Photo_11

撮影がすんで、やれやれと思っていたら、
ベッドカヴァがもこもこ動くではありませんか。
なかから、このひとが出てきて、びっくりしました。
「いちご」はひとではないですけれど、猫の身で、
このうちの寮母のような存在です。

この写真は、オマケでもありますが、
寮母「いちご」の近影でもあります。

             *

「うふふ日記」をまとめた4冊めの本が、できました。
親しい皆さんには、めずらしくないかもしれませんが、
本には、ちょっとあたらしいことも加えました。
手にとっていただけますれば……幸いです。
あ、書名を書き忘れました。
『足りないくらいがおもしろい』です(オレンジページ刊)。

さいごになりましたが、御礼を申し上げます。
「うふふ日記」も、このたびの本も、皆さんの
おかげで生まれたのですから。

山本ふみこ

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2011年2月15日 (火)

目立たんところ 〈引用ノート2〉

 わたしはおつゆをつくるとき、利尻の最高のおこぶを煮やさず、つけだしにする。そうすると、おだしがおこぶくそうならないからである。そして、そのあと、おこぶは塩こぶにするように刻んで、赤はらのように乾いたちりめんじゃこといっしょに、佃煮にする。赤はらというのは、おなかに赤い子を持ったおじゃこで、これも高級品。
 だし殻のおこぶをいただくために、赤はらを買い、お酒もみりんも使うて、たく。それはひとつも惜しいことはのうて、それを当たり前としている。
「へえー、おこぶのだし殻まで食べますのんか」
 京都を知らないお人は、なにを食べさされるかわからんと思い、いやいやと手を振らはる。けれど、これは最高のおこぶやからできるので、安もんのだしこぶにしたらなんぼとろ火でたいても、硬うて食べられない。これはぜいたくである。
          『しまつとぜいたくの間』(大村しげ著/佼成出版社)
                    ——「目立たんところのぜいたく」より

 先週ぜいたくの話を書いたあと、頭のなかがこんがらかって弱っていた。
 従来考えられていたぜいたくが、わたしのなかでだんだんにちがったものへとずれていったあたりから、こんがらかりがはじまっていたらしい。ずれはじめのそこで、それを「ぜいたく」と呼ぶのをやめ、別の名前をつけてやればよかったのかもしれない。
 某出版社の編集者が以前、「この本に出てくるぜいたくや節約は、山本さんが考えているのと、似ているような気がします」と云ってすすめてくれた本のことを思いだした。そのころ、節約をテーマに本を書くことになっていたので、ヒントになれば、とその本を運んできてくれたらしかった。
 けれど、実際、書きはじめようというとき、ひとさまの本は読めないものだ。ヒントという風がそよぐ本となれば、なおさらだ。
 自分のなかに生まれそうになってまた消え、消えたかと思うとふとあらわれたりというひらめきを、もとめながらひとりきりで歩いていくしかないからで、わたしは、その本を、「INGの箱」(『片づけたがり』P43参照)の底のほうにしまったきり、忘れてしまった。
 その本のことを、1年以上たったいまごろになって、思いだしたのだった。
 読みはじめてみるととまらず、一気に読んでしまった。大村しげさんの京ことばに誘われて、こちらの口のそばまで京都のことばがのぼってきそうな気配である。
 そして、ぜいたくということで、すっかりこんがらかっていたわたしの頭のなかの整理もついている。どこへ自分の価値を置くかだな、と思いあたる。
 同じ随筆(「目立たんところのぜいたく」)のなかに、大村さんが、大事に長いこと着た羽織を上っ張りにしようかと思案する話が出てくる。はじめは、無地の着物だった。色が焼けてきたので染め替えてしばらく着て、また染め替えて羽織にした。これもおこぶの話とおんなじで、もともと一越(ひとこし)の上物を買ったからできたことだという。
 一越って何だ?と思って、辞書をひいたら、「一越縮緬(ちりめん)」の略だとわかった。一越縮緬がまたわからないから、また辞書をひく。どうやら、緯糸(ぬきいと/織りものの横糸)をより多く織りこんであるものらしい。そのため、一越はふつうの縮緬より皺(しぼ)が、細かい。

 目立たんところということは、ひとがどう見るかなんてことはないのに等しいのかもしれない。自分とモノとの命の共有。さあ、さあ、さあ、さあ、どこまでともにゆけるだろうかという……。
 つまり節約していたつもりが結果としてそれがぜいたくだった、ということも少なからずあるというわけだ。頭のなかで、考えをこねくりまわしていると、いかによき本に出合ったとしても、またこんがらかりそうだ。きょうはこのあたりで失礼して、わたしもだしこぶで佃煮をこしらえてくるとしよう。
 こしらえてみて、もう少しいいおこぶを買ってもいいかなあと考えるのなんかは、じつにぜいたくな話ではないだろうか。


Photo

先週の手ぬぐいにつづいて、
「わたしのぜいたくⅡ」ということになるか、と。
書斎の机で、仕事をはじめるときに1本香を焚きます。
これは白檀の線香(「いかるが」/鳩居堂)なのですが、
甘みのないところ気に入って、長いこと愛用しています。

Photo_2
香類は、机のすぐ左側のひきだしに入れています。
このひきだしに手をのばすたび、云い知れぬ気持ちに
なります。
それが、ぜいたくなときめきでもあり、
仕事に向かう覚悟でもあるように思えます。

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2011年2月 8日 (火)

ぜいたく

 白いシャツブラウスが好きだ。
 それに気づくのには、ちょっと手間が要った。ある日——わたしは22歳だった——ひとから「白ばかり着ないで、花柄なんかも着てみたら、どう?」と云われた。白いシャツブラウスを好きだと自覚する前だったから、「そんなもんかなあ」と思った。そしてまた、云われただけだったら聞き流したかもしれないけれど、花柄をすすめてくれたのは職場の先輩で、先輩は親切にも大振りの花が咲きみだれる模様のブラウスをわたしに贈ってくれたのだった。
 それは、上等のブラウスだった。
 先輩の好意を受けるという畏れおおさ、上等を贈られたという責任感から、わたしはときどき、ええと週に一度くらいはそれを着て会社に行った。そのたび、先輩はちょっと笑った。かっこいい大人の女性だったから、「それ、いいじゃない?」とか、「着てくれてるんだ」なんてことは、面と向かって云わなかったが、かすかに、とてもかすかに目を弓形に曲げるのだ。
 自分が白いシャツブラウスを好きだと気がついたのは、そのころ。花柄のブラウスをプレゼントしてくれた先輩を尊敬していたし、その目が弓形にやさしく曲がるのを見るのはうれしかった。が、花柄がからだに貼りついている日はなんだか落ちつかなく、その気分はわたしに白いシャツブラウスを恋しがらせた。
「それ」に気づくのは、「それ」を失ったとき、「それ」から逸れたときなのだなあ。……と知った。

 白いシャツブラウスみたようなことは、その後もしばしば起きた。自分の好みに、半世紀以上も生きてきたいまもまだ、あたらしく気づかされることもあるのだから、すごい。
 一度気づくと、つまり、白いシャツブラウスが好きだとわかると、安心してその道を行ける。職場の先輩から花柄のブラウスを贈られた若い日、わたしは40歳になったら、毎日きものを着て暮らそう、と思っていた。ところが実際40歳になってみると、きものを着るというのとはほど遠いわたしだった。きものを着る生活、というのも、どこかで拾ったイメージだったのだと思う。
 わたしには白いシャツブラウスがあった。白いシャツブラウスとデニムは、40歳のわたしを、相当に勇気づけた。
 それからまた10年以上が過ぎたいまは、もうきものを着るイメージは持っていない。そのかわり(?)いつまでも、白いシャツブラウスとデニムという道を安心して歩ける自分でありたいと希ってはいる。

 自分にはぜいたく志向はないつもりだけれども、白いシャツブラウスが好きだと考えたりするのは、ある種とてもぜいたくなのかもしれない。そうして、約(つま)しさとぜいたくというのは、背中あわせなのではないか。
 約しさのなかに、ぽっと浮かび上がるたのしみ、好みのことを、ぜいたくと呼びたいなあなどと、わたしはこっそり考えている。


Photo
これも、わたしのぜいたくだなあと思います。
手ぬぐい。
ことしの干支のうさぎと、自転車のを
あたらしくもとめました。


Photo_2
ぜいたくといえば、
手ぬぐいの衣更(ころもがえ)をすることも、です。
台所の棚のいちばん上の段に、こうして、
季節外の手ぬぐいをしまっています。


Photo_3
お雛さまの柄の手ぬぐい。

こんな風に、壁に貼りつけても、
おもしろいかなあ、と。

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2011年2月 1日 (火)

驚くべきこと

 つい先日のことだ。
 書棚の隅にある黒い背表紙と目が合った。
 そこには、ただ「ふ」と書いてある。
 おもに、いただいた書状やカードのようなものを入れておく、箱型のファイルだ。そういえば、しばらくなかを見ていない。
 20数年前にこの箱を用意して、なかに書状をためてきた。かなり厳選してためてきたつもりだったが、ふたを持ちあげてみたら、なかにはぎっしり紙の仲間が詰まっている。とつぜん、なかみに対する興味が、湧く。

 書斎の床にぺたんと坐り、なかみを出してはならべていく。
 かつて親しくしていた仕事仲間からの誕生日カードや、いまは亡きひとからの手紙など、月日のうつろいが目の前に迫ってくる。なんと、なつかしいことだろうか。
 少し前のわたしなら、この場面で、なつかしさよりも先に心寂(うらさび)しさを感じたことだろう。かつて親しくて、いまつきあいがなくなった相手。当時はこの世のひとだったが、いまは亡い相手。そういう存在をかなたに透かしながら、さびしさよりも、この世で出会うことができた縁(えにし)を思っている。なつかしいとは、縁の重みだ。
 そんなことを考える一方で、手は、ひとりでに仕分けのようなことをしている。トランプを配るときのように、目の前にいくつかの山ができていく。
 山のとなりに、1通のお手紙がぱらりと、頼りなく残った。墨痕あざやかな差出人のお名前をじっと見る。(……ええと、ええと)。額に指をあててみても、天井近くを睨んでみても、あたまを抱えてみても、その名の主の姿も浮かばなければ、出会った場面も思いだせない。この箱にしまったのだから、わたしにとって大事な、うれしい便りだったことはまちがいない。それなのに……。
 まったく驚くべきことだった。
 驚くべきはわたしの記憶力の乏しさなのか、それとも、跡形もなく消えてしまったそのひととの縁なのか。
 そっと封筒から便箋をひきだしてみると、そこには「あなたは感性のするどい方とお見受けしました。するどさ故に生きにくい面もあるでしょうけれど、どうかよく生きてくださいますように」というようなことが書かれていた。
 当時はもっていたのかもしれないするどいほどの感性に関しては、まったくどこへ置き忘れたものかという気にさせられるけれども、そういうものをもっていると評価を受けた事実と、なにより「よく生きろ」という励ましを、あらためて受けとろう。憶えていることのかなわなかった不思議なひとからの便りを、こうして胸におさめなおす。

 さて。
 縁の重みをたしかめながら、多くの書状を束にして処分する。このこともまた、いまのわたしには心寂しくもはかなくもないのである。モノをよすがとせずとも、わたしのなかに存在は刻まれ、そのこころは映っている。


Photo_2

記憶というものの不確かさを思うにつけても、
モノは、手放さないかぎり残るのだと、
おしえられました。

ことしのはじめ、柚子の皮を干しました。
たくさんの柚子を、なんとか使いきりたいと、
そして、できるなら香りを残したいとねがって。
それも、常温で保存したいと思いました。

・柚子を半分に切って、なかみをくりぬく
(これは、酢のものの酢として使うほか、
 さらしの袋につめて何度か分の柚子湯に)。
・柚子の皮をせん切りにする。
・ざるにひろげて、天日干しにする。

からからに干し過ぎたかもしれませんが、
水にもどして使うこともできるでしょう。
うれしいことには、香りがそのままなのです。

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2011年1月25日 (火)

……かたちをなしてゆく。

 昨年のこと。
 クリスマスがもうじきやってくるというころ、アメリカのクリスマスについて書かれたエッセイ〈CHRISTMAS TIME〉(※1)を読んだ。……かるく読んだ、と書いたのは偽りで、辞書をひきひき、額に汗して訳したのだった。
 12月に入ると買いものリストをつくったり、シュトーレン(※2)をいくつか焼いて冷凍したり、クリスマスツリーを飾ったりする様子がいきいきと綴られている。
 そうして、この一節に出合った。

  Day by Day, the holiday takes shape and form.
  日ごとクリスマスは、目に見えるかたちになってゆく。

 この日以来、「take shape and form」(かたちをなしてゆく。 目に見えるかたちになる)という成句が、わたしのなかに棲みついてしまった。ふとしたときに、「take shape and form」とつぶやきつぶやく。
 エッセイに描かれた準備の過程のよろこびが、こころからはなれない。
 目に見えるかたちというのは、云ってみれば「結果」である。この場合はだから、クリスマスという結果に向かっていろいろの準備をし、心づもりをし、働くというわけだ。けれどこういう云い方もできはしないか。いろいろの準備が、心づもりが、働きの連なりが、あるなりゆきに到達するのだと。到達した地点を、クリスマスと呼ぶのだ、と。

 考えてみると、 人生は過程の連続だ。
 わたしたちは、それを忘れかけている。エレベータに乗りこんで一気に建物の高層階に上ったり。超特急の旅をしたり。ものを注文して翌日受けとったり。そういうことに慣れるうち、いつしか、あらゆる過程が抜け落ちてしまったようだ。結果ばかりを追って。大急ぎの結果をほしがるようになって。
 過程の値打ちを思わないなら、人生などなくていいことになりはしないか。
はじまり(生)と結果(死)があれば、それで……。

 たとえば、こうして原稿を書くのでも、3、40分で1本(原稿用紙6枚ほどだろうか)書いてしまえることがあるかと思うと、1日じゅう机の前に坐っていても、1行も書けないこともある。すらすらいく日、それはうれしい。早く仕上がって幸運だったなんかと、考えはする。けれども、そういう日ばかりではまったくもってつまらない。すらすらの日も、てんでだめな日もあって、わたしは仕事をするうれしさを感じられる。それはわたしが、幸運にも、ひと足ひと足の過程の値打ちを知っているからだ。この幸運は、原稿1本が3、40分で書けてしまったときの幸運などとは、およそ異なる種類のものだ。 
 それにだいいち、てんでだめだった末の「できあがりもの」の、いとおしさといったら。

 日日のくり返しのなかで生きるわたしたちが、ひと足ひと足のことが生きるよろこびに深く結びついているのを知らないなんてことがあったなら、それはとんでもない話だ。
「take shape and form」(かたちをなしてゆく。 目に見えるかたちになる)
 かたち、目に見えるかたちは、ひと足ひと足の先にそっと置かれるもの。

※1〈CHRISTMAS TIME〉
 アメリカのフードライターの第一人者であるマリオン・カニンガムによるエッセイ。『Christmas Memories with Recipes』 (25人のエッセイとレシピが収録/©1988 by Book-of-the-Month Club,Inc)に収められた1篇。

※2 シュトーレン(独/stollen)
 ドイツの菓子。生地にドライフルーツやナッツを、バタを練りこんだパンで、かなり重く、日持ちがする。欧米で、クリスマスを待つひと月のあいだ、これを薄く切って一切れずる食べる習慣ができている。


Photo_4

目に見える……ということから、ふと思いついて、
こんなのを撮ってみました。

――写真左から
・カーテンレールに、何かを吊るすとき用いる木製フック。
・「いちご」の毛繕いブラシ。
・蠅たたき。
・ミニモップ(これに古タイツをかぶせて使う)。
・緊急時の殺虫剤(できるだけ使わない誓いのもとに)。

これらが、目に見えないところ(けれども、すぐとり出せる)
に置いてあります。さて、それはどこでしょうか……。



Photo_6

こたえは、テレビのうしろです。
フック(粘着)で、ぶら下げてあります。

分厚いアナログテレビなので、ぶら下げるのに、
とても具合がいいのです。

「いちご」は、ことしに入って、よくテレビを
見るようになりました。
このときは、画面に珍鳥が映っていました。

(さて。あまり大きな声では云えませんが、
さいごまで「アナログ」でいこうか、と考えています。
切り換わったときどうなるか、見てみたくて。
仕様もないことばかり考えて……) 
  

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2011年1月18日 (火)

生への祈り 〈引用ノート1〉

 あらゆる登場人物に、同情される面がある、そんな小説を私は書きたいと思っています。善と悪とに人間をわけてしまい、悪人をばったばったと切り倒して恥じないような、そんなおそろしいドラマや小説が沢山ありますが、私には無縁な世界です。
 どんな人にも、その人の立場と、切なる生への祈りがあります。悪人を愛する、それが私の理想です。
      『犯罪ノート』(加賀乙彦著/潮出版社)——「〈悪人〉を愛する」より


 昨年まで月1度、「本のなかの暮らし」と銘打って書いてきたのと、ことしのこれと、どこがどうちがうのかと訊かれたら、何とこたえようかと考えている。
 ひとつには、本ばかりではなくあらゆる印刷物、ふと耳にしたどこかの会話、ラジオや映像のなかから降ってくる声からことばを拾いたいというつもりがある。そして、昨年は日本の作品(書物)という約束を自分のなかにつくったのだったが、そこからも自由になろうとしている。

 第1回として、〈引用ノート〉という題名の一部をもらった『犯罪ノート』からの引用をと思いつく。『犯罪ノート』は「加賀乙彦」のエッセイ集である。書こうとして書けなくなったとき、主題がどうにもみつからないとき、わたしの手は知らず知らず「加賀乙彦」の本にのびる。これほど卑近(ひきん)なことを書いているくせに書けなくなったりし、主題までもみつけられないのかと驚かれるかもしれないけれど、卑近も高遠も、短編も長編も、エッセイも小説も、主題と構成の必要なことに変わりはない。
 自分の関心がどうしてこうも、犯罪や犯罪者、死刑や死刑囚に向いていくものかわからないが、放っておくとそちらにこころが向いている。それはまるで、一日の仕事を終えると、足が自然に台所に向いていくのとほとんど同じ感覚だ。思うに、犯罪と自分が無縁でないこと、誤解を怖れず云うなら、少しのきっかけで自分が犯罪者にならないともかぎらないと考えているからだろう。
 そして、その思いは、わたしの暗部にではなく明部に宿っている。あきらめではなく、希望に近い場所で光を放っている。
 犯罪と自分が無縁でないこと、少しのきっかけで犯罪者にならないともかぎらないという立場で、やっとのことで犯罪に関わらずにいて、なんとか犯罪者にならずにいるわたし……(現在のところ)。そうしたぎりぎりの場所に立って、子どもたちに向かって「殺してはいけない」と云って聞かせるわたし。
 ひとりの人間のいのちは、どこまでも守らなければならない。
 どんな事情があってもひとを殺してはならないと、大人は胸のなかで誓い、誓っているだけではなく、つぎの世代の人びと、子どもに伝えなければいけないのだと思っている。

 うちにやってくる、ひと以外のいのちについても、わたしはおおいに翻弄させられる。死なせてはいけない、死なせてはいけないと、あわあわあわあわ。
 それに暮らしを重ねていると、無機質だと思いこんでいたモノたちにも、魂の宿っているのを知るようになり、またあわあわするのだった。はたしてモノたちははじめから魂をもっているのであろうか。つきあっていくうちに宿ってみせるのだろうか。

*『犯罪ノート』は、すでに絶版になっています。図書館(おそらくは書庫に所蔵)にはあるはずです。『宣告』(上中下巻/新潮文庫)も、おすすめしたい1冊。


Photo

昨年12月に、いただいたポインセチアです。
驚くようなピカピカの紙に身を包んで、
うちにやってきました。
それを脱がすと、白いプラスティックの鉢が
あらわれました。
そのまま飾るわけにもいかず。
こんな袋を着せて、飾りました。

そうして「紅子(べにこ)」と名づけました。
「紅子」のいのちを守ることにも、
責任を感じています。
あわあわあわあわ……。


Photo_2

年が明けてから、「紅子」を
着替えさせました。
末の子が書き初めをしたときにできた、
しくじりを1枚もらったのです。

 

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2011年1月11日 (火)

すき間

 久しぶりに、それを見た。
 お訪ねしたお宅での、それはなんというか、とんでもなくなつかしいひととの再会のようだった。通された応接間の飾り棚の上に置かれた、ガラスの陳列ケース。昔は、どこの家にも、こんなのがあった。
「なつかしいですね」と思わず口にすると、「古くさいでしょう? こういうものを処分できないのが、わたしたちの年代ということかしら。蒐集でもない、装飾でもないんです。ただただなつかしいというだけで」と、目の前の老婦人は笑う。その目が、ガラスケースのほうに向けられたのを機に、わたしも、しげしげとそこを見ている。古くて、おもしろいものがある。
「あら、恥ずかしい。高価なものもめずらしいものもないのよ。お土産屋さんで選んだものばかり」
「あ、これ、うちにもありました。淡路島のたこ壷。行かれたんですか、淡路島」
「ええ、ええ。子どもたちが小学生だった時分、海水浴にね。あそこは、いいところだった……。震災のときは、だから、とても胸がいたみましたよ」
 わたしも、たこ壷を模したその置きものが、気に入りだった。うちのガラスのケースのなかには、それがふたつならんでいた。それは、父が兵庫県に単身赴任していた時代に、2年つづけて淡路島に連れていってもらい、1年めも2年めも、それをもとめたからだった。高さ6センチほどの小さな置きもので、つぼからたこが頭を出している。その顔がじつにユーモラスで、いい。婦人が云われたように、わたしも淡路島が好きだったのだと思う。
 わたしが育った家の陳列ケースには、たこ壷のほかには、通天閣や東京タワーの模型のようなのや、北海道の熊の置きもの(熊が鮭をくわえている、定番の)が飾られていた。こうした旅先でもとめた置きものや民芸品のほか、拾った石や貝殻なんかも入っていた。

 こういういう陳列ケースを、とんと見なくなった。
 実家には、いまもあるにはあるが、納戸のたんすの上にのっていて、当時はたしかに放っていた晴れがましさは失せている。
 記念品や土産ものの感覚が変わってきたのだろうか。
 けれどこういうモノは、つまりなつかしいモノたちは、いまだってあるのに決まっている。それをどこへ飾るかという、飾り具合が変化してきたのだ。ごたごた飾るのを避けて、道具として使えるものを選ぶ向きもあるし、きっぱり買わないといった向きもあるだろう。
 記念品や土産ものをどうするか、というのは、その家の片づけ具合に相当の影響があるように思われる。あちらこちらに置いたため散らかるくらいなら、いっそ昔のようにガラスの陳列ケースにおさめたほうがいいという場合もありそうだ。
 さて、記念品、土産ものに対するわたしの考えはこうだ。
① 持ち過ぎないようにしよう。
② まるきり持たないのはさびしいから、少しは持っていいこととする。
③ 持ち方、置き方は考えること。漫然とは持たないぞ。

 というわけなので、わたしも、じつはいろいろ持っている。
「アナタ、誰?」とか、
「そこで、何してるの?」とか。
 わが持ちものに向かって、そういうことを云わずに暮らしたいとは希っているので……、一応……、考えて持っているつもり……だ。
 ちょっと歯切れがわるくなってきた。
 それもそのはず、わたしだって、なんというか「?」(はてな)と首をかしげそうになるモノのひとつやふたつ、ほんとうは持っている。
 たとえば……。
 たとえば、食器棚の奥にひっそりと立っている素朴で、うつくしいこけし。これは、その昔好きだった男(ひと)が、秋田からお土産に買ってきてくれたものだ。文鎮として活躍しているのでもなければ、(こけしに見えていて)じつは胡椒挽きだという存在でもなく、正真正銘のこけし。ワイングラスをとり出すとき目を合わせるほか、ゆっくり向きあうこともない。こけしの蒐集の趣味もないので、ほかに仲間もなく、それはひとりひっそりそこにある。
 ……もう30年? そうだ、もうそんなに時がたってしまった。
 さて、わたしにこれを持ちつづけさせているのは、昔の甘やかな記憶だろうか。よき思い出であるのにはちがいないけれど、こけしの力を借りなくとも、その記憶はわたしのなかにそっと置かれている。……そっと。それならばなぜ、持っているのか。
 このようなモノの持ち方もあるにはあるんだという、わたしのすき間。それがけっこう慕わしかったりする。


Photo

子どものつくったモノというのも、なかなか手強いです。
わたしは、傑作だけを残して飾り(あるいは使い)、
そうでないモノには、
「捨ててしまったほうがいいよ。傑作の値打ちまで下がるからね」
と云って、ほんとうにあっさり処分します。
子どものほうでも、自分から「これは傑作」とか、
「これは捨てていいほう」と云うようになりました。
われながら、
いやな、困った母ちゃんだなあ……と思います。

写真は、二女が小学校の低学年のころ
ワインのコルク栓でつくった人形です。
わたしの書架の守り神のような存在。


Photo_2

こちらは、長女が、中学の修学旅行先で
焼いた皿です(京都/清水焼き)。
「白くて、さかなの絵なら、使ってもらえるかと思ってね」
とのことでした。
すまないねえ、と思いながらも、
うれしく受けとり、うれしく使いつづけています。

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2011年1月 4日 (火)

少しずつ

 少しずつ物忘れがすすんでいるのか、自分で云ったことを、云ったそばから忘れてしまうことがある。このあいだなんか、話しながら可笑しくなってあはは、あははと笑ったのはいいが、なぜ笑っているのか、途中でわからなくなってしまった。「あれ? あれ?」と云いながら、まだ笑っている。困ったものだなあ、と思う。
 ことしは、大事なことは忘れないうちに書きつけておこう、と考えている。書くばかりだと、それにたよって脳がなまけるのだそうで、だから、書いておきながら脳にも書きつける努力をしよう。

 というわけなので、ここに、ことしの大きな道筋を書きつけておく。

「小さいことを少しずつ」

 これが、ことしのめあてである。
 このことばをみつけてくれたのは、「うふふ日記」の世話役であるオレンジページのNさん(編集者歴20年)だ。Nさんは、無駄話のなかでわたしがふと口にした「小さいことを少しずつ」を、「いまのそれ、『小さいことを少しずつ』って、とてもいいですねえ」と、拾いあげてくれた。
 何日かたって、Nさんからメールが届く。

「ドリトル先生」の「ドリトル」のつづりご存知でしょうか。
「Dolittle」、 つまり「Do little」。
「役立たず」とか、
「役に立たない人間」とかいうことだそうですが、
わたしには、これが、
「ほんの小さいことをする」(冠詞がついていないから、文法的にはちがうでしょうが)と読みとれてしまいました。
「Dolittle」が、このあいだのお話の
「小さいことを少しずつ」に通じる気がして、
うれしかったのでした。
2011年は、「ドリトル先生」でいきましょう!

 Nさんが「……でいきましょう!」と云うからには、そこには仕事の「テーマ」も含まれていることになる。やれやれ。と、思いかけたけれども、なにしろ「ドリトル先生」だ。この愛すべき人物の背中を追って1年過すのはわるくない、と思える。
 2011年の暦に、「ドリトル先生」と書きこんだ。

 わたしが「ドリトル先生」を好きなのは、その慈愛に満ちた人格、ユーモアいっぱいの発想と見事な行動力もさることながら、その冒険ものがたりが日本に紹介されるまでのいきさつにもこころをつかまれているからだ。ヒュー・ロフティング(作・絵も/1886—1947)が書いたこのものがたりの翻訳は、「井伏鱒二(いぶせますじ)」。けれども、元の元は、「石井桃子」で、「このお話(『ドリトル先生アフリカゆき』の原書をさす)があまりおもしろかったので、じぶんひとりで楽しむには、もったいなくなり、御近所に住んでいらっしゃる作家、井伏鱒二さんのところへ伺っては、ドリトル先生の筋書をお話したものでした」というのが、ことのはじまりだ。
 その後、このものがたりを日本の子ども達にも紹介したいと希(ねが)って、石井さんは「井伏鱒二」に翻訳をたのみこんだ。「井伏さんはおいそがしくて、なかなかやってくださいません。そこで、待ちかねた私は、下訳(したやく)をして井伏さんのところへおとどけしました。井伏さんは、その原稿を持って何度か旅行に出られ、ながいことかかって、すっかりしあげてくださいました」
「ドリトル先生」をわたしたちが知るようになるまでの道のりは簡単でない。石井桃子さんが出合って出版の志をかため、井伏鱒二さんが苦心して翻訳し、戦争もはさんで、ほんとうにやっとのことだったのである。そうしたいきさつも、わたしには「小さいことを少しずつ」だと思える。
 決してひとりではできない事ごとを、いろいろの助けも借りて、少しずつ重ねていく。そういうふうにありたい、ことし。

 おや、わたしはこのたびのこの話を「少しずつ物忘れがすすんでいるのか」なんて書きだしている。少しずつかさねた結果、もっとも馴染んだのが物忘れだったということがないように。

*文中の石井桃子さんのお話は、『ドリトル先生アフリカゆき』(岩波少年文庫)の巻末に紹介されています。


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そうして、ことしはまた、
ここからはじめたいと思います。
食卓です。

昨年、夫の大叔母が、長らく裁縫の作業台として
使っていたものを食卓にしました。
この古びた感じ、誤解を怖れず云うならばおんぼろさが、
わたしたちの好みにぴったりでした。


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ほら、表面はこんなです。
ルレットの「あと」。
粉ものがこの「あと」に入りこむと、大変です(笑)。

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2010年12月28日 (火)

『星の牧場』(庄野英二・作)  本のなかの暮らし〈12〉

 ゆうべねるまえにリスがやってきて、モミイチの耳に顔をすりつけたり、毛布にはいっていっしょにねたのは、夢であったのかな、とふしぎな気がした。
 わきの下になにか小石のようなかたいものがあるので、とりだしてみると、あおいまだじゅくしていないかたいクルミであった。
 こんなクルミが——と、おもったひょうしに、モミイチはすぐにそのわけがわかった。きっとリスがゆうべモミイチの毛布のなかにねむらせてもらったお礼に、おいていったのだとおもった。そうおもうと、モミイチは愉快になってきた。あおいクルミをゆびさきでつまみあげてながめながら、ひとりでわらいだしてしまっていた。
                       『星の牧場』庄野英二作(理論社フォア文庫)

 目の前の小さなコルクボードに「モミイチ」と書いた紙切れが貼りつけてある。
「モ・ミ・イ・チ」
 それを見るたび、胸のなかに小さな渦が巻く。せつなさ、さびしさ、なつかしさ、たのしさが混ざりあって縦長にくるくると。つむじ風だ。とてもかすかな、やわらかい吹き上げなのだが。
「モミイチ」を貼りつけてからひと月あまり、気がつくとその4文字をじっと見ていた。

 ことし、月に一度、「本のなかの暮らし」というテーマで、本のことを書いてきた。和書にかぎることと、選書はなりゆきですることだけを決めて、ゆるゆると書いてきた。不思議だったのは、ほんとうに不思議だったのは、本が、むこうから「わたしではいけませんか?」というように静静とあらわれることだ。
 第1回めの『けい子ちゃんのゆかた』(庄野潤三)のときから、文庫が書架からせり出してきた。せり出してきた背表紙と目が合うなり、庄野潤三さんのことを書きたいと思った。12冊の本のバランスなどは、まるきり考えなかったけれども、そしていわゆる新刊はここへはやってこなかったけれども、わたしは、ことしという年を終えようとしているいま、その12作品の連なりに慕わしさを感じている。選書などと云っているものの、ほんとうは本が、昔のよすがをたよりに訪ねてきてくれたといったような塩梅だった。ただ、1月に「庄野潤三」を書いたとき、12月には「庄野英二」を書こうということだけは、決めた。「庄野英二」(1915—1993)は、「庄野潤三」(1921—2009)の兄である。きょうだいだからどうだと考えたのではないけれど、わたしにとって、ふたりの作家の読みものは、道標(みちしるべ)なのだった。

 モミイチは、『星の牧場』の主人公だ。
 戦争から記憶の一部を失って故郷の牧場帰ってきたモミイチ。彼の耳には、戦場で別れた愛馬ツキスミの蹄(ひづめ)の音が聞こえる。その馬蹄(ばてい)の音は、聞こえるはずのないものだった。
「ツキスミ ツキスミ ボクの馬だ」
 山奥での、モミイチとオーケストラを編成しているジプシーたちとの出逢いによって、このものがたりのもっともたのしくて不思議な世界観がひらけていく……。

 そのこころには、つねにかなしみがあったけれども、モミイチはいつもやさしく、愛をもっていた。
 戦地にいるあいだにも、愛を失わなかった。このものがたりを読むたび、そのことの意味が胸に迫る。モミイチのひととなりは、どこまでもうつくしいけれど、そこへ虚しさをもたらしたのは戦争である。モミイチの虚しさは、同時に戦争の虚しさだと思う。
 戦争は、やさしい青年を虚にし、多くの人格から愛を失わせる。
 どんなときにも愛を失わないことの尊さと、戦争の虚しさを、わたしたち読者は、このものがたりのなかをそぞろ歩きながら、微笑みながら、学ぶとも云える。

               *

 さて、これがことしさいごの「うふふ日記」です。
 読んでくださったことに、まず御礼を申し上げたいと思います。どうもありがとうございました。
 来年は、ここへご紹介したモミイチのように素直に——というのは、読み返すたび、自分のヒネクレが恥ずかしくなるからです——書いていきたいなあと考えさせられたりしています。「本のなかの暮らし」はこれでおわりですが、来年は「引用ノート」というのを書いてみるつもりです。
 あらゆる本、製品の説明書や商標(ラベル)、放送、はたまたふと耳にした会話を引用して、何か書けたらなあ、と。

 ともかく。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 佳い年をお迎えください。 


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『星の牧場』には、
「ハチカイのクラリネット」(はちみつ)や、
「ジャムつくりのフルート」の話がでてきます。

ものがたりのなかに出てくる
花畑をじゅんぐりにまわってとるはちみつや、
いろいろな花屋やくだものをあつめて、
はちみつとまぜて、煮つめて作った
めずらしいジャムやマーマレード、
食べてみたいなあと思います。

毎朝、
自家製のヨーグルトに、はちみつやジャム、
くだものを混ぜて食べています。
そのとき使う匙を、最近、
こうして食卓にだすことにしました。

ところで、これって、
こういう向きのさし方がいいのでしょうか。
それとも……。


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それとも、こうして柄を上にして
立てるのがいいのでしょうかね。

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2010年12月21日 (火)

思い出?

「あのときはたのしかったねー、ふんちゃん」
「うんうん、流星見たり、それから」
「流星? っていうか、バタがどろどろに溶けて、みんながバタまみれになったよね」
 笑いながらそう云うのは、年若いわたしの友だちで、その昔、一緒に伊豆でキャンプをしたときのことを思いだしていたのだった。かれこれ17、8年前のことだから、彼女Tちゃんは小学生、わたしは30歳代まんなかか。わたしにとって、それが初めてのキャンプ体験だった。
 テントを張ったのも、寝袋に入って眠ったのも初めてだったが、外で暮らすというのはやけにたのしいものだなあ、としみじみ思った。家でしている事ごとを外でしているだけのような気はするものの、やけに呑気に、やけに愉快に過したのだった。そんな記念すべきキャンプのいちばんの思い出を、Tちゃんは、朝ごはんのとき、バタがどろどろに溶けた場面だと云う。
(えー、それが、いちばんの思い出?)と、思う。
 夜中に起きだして、流星を見たことは……?
 Tちゃんも大活躍の、晩ごはんの肉じゃがづくりは……?
 おぼえてないのか。
(ま、いいけど)。
 ひとの記憶は、ほんとうにまちまちだ。
 ことに子どもの記憶は、大人のそれとは、思いがけないほどことなる。おぼえておいてもらいたいことなんかは、ほとんどおぼえてはおらず、しくじりや滑稽だったことをいつまでもおぼえていたりして。

 そういえばわたしだって。
 母の思い出というと、へんてこなことが真っ先に浮かんだりする。へらっと思いだすのはこんな場面だ。
 戸袋にひそんでいたクマバチに刺されたときのあわてた様子——左手の中指を刺されて腕まで腫れあがったのだから、あわてないはずないのだけれど——とか。何とどうまちがえたのだかウィスキーを生のまま飲んで、いきなりばたんと倒れたところとか。
 わたしとはちがって、つねに落ちついていて、道を踏みはずしたりしない母であるのだが。いや、だからこそ、わずかしかない失態と、そのときのめずらしい表情をこころに描きたくもあるのか。
 娘たちは、どんなふうにわたしを思いだすだろうかなあ。
 何を思いだそうと、かまわない。
 何も思いださなくても、かまわない。
 もしかしたら彼女たちは、しくじりと滑稽だらけで、いつもあわててばかりいるわたしの、めずらしくも的確な判断だの、滅多に見せない落ちつきはらった様子だのをときどき思って笑うのかもしれない。

 何を思いだそうと、かまわない。
 何も思いださなくても、かまわない。

 そう考える頭の片隅で、そのじつわたしは考えるのだ。
 くたびれはてた生活者たるわたし、へたばりかけた仕事人たるわたし。くずれ落ちたわたしがときどきたしかに存在することを知ってもらいたい、と。そうして、できることなら、すべてを打遣(うっちゃ)って、休むわたしも。
 そう、たくみに休むというのが、来年のわたしの、最重要課題だ。


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ことしうちにやってきた「タジン」の置き場所。
ガス台下のひきだしです。
このところ出番が多かったタジンが、
ひさしぶりに、ここで休んでいます。

道具にも、ひとにも、休養は=「たくみに休む」は、
必要だと思います。ね。

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2010年12月14日 (火)

キミと。

(それ、どうするの……かな)
 と、思いながら盗み見ている。
 進展らしきものが見られないと、
(まさか、そのままにするんじゃないでしょう……ね)
 と、じっと睨む。

               *

 朝ごはんに、卵を割って落とし、焼く。目玉焼きだ。
「わーい」という、歓声があがる。
 目玉焼きを焼く側も、なんとなく「わーい」だ。目玉焼きという、祭りの気運が降りてくる。
 それぞれの好みのかたさに卵を焼きあげ、つるんと皿の上の野菜の上にのせる。さて、どうなるかとしばらくは見守るが、そのうちに、祭りのつぎの段取りが気になってくる。 
(それ、どうするの……)
 と思いながら盗み見る、皿を。
 ことが捗捗(はかばか)しく進まないときは、「ちょっとぉー」と、鳥が鳴く声で合図を送る。
(まさか、それ、そのままにするんじゃないでしょう……ね)
ということばをなんとか飲みこみ、じっと睨む、皿を。
 気になって気になってしかたがないのは、誰かの皿にのこった、目玉焼きのキミ。名残りの、キミだ。
 そら、そのトーストで、その皿の上の肉で、つけ合わせの野菜で、名残りのキミを拭きとるように、さらってちょうだいよ。すーっかり、きれいに。

 目の前の皿の上の、名残りのキミだの、ソースだの、汁だのが気になって、おちおちその場にいられない。そこが、いちばん大事なところでしょう……という気持ちだ。自分が、子どものころはどうだったか。そこがいちばん大事で、しかもおいしいとは、考えなかったな。だんだん、そういうわたしになっていったというわけだ。
 目玉焼きを、名残りのキミまで食べ尽くすというのは、なかなかいい関係のつくり方だと思える。
 キミと、わたし。
 互いが縮こまらず、だからといって増長もしないという関係。こういうのが、ひととの関係にも実現するといいのだけれど。

 今朝、末の子どもの皿に目玉焼きの名残りのキミが残った。うしろ髪引かれているらしいその背中に、「あとは、引き受けた」と声をかけ、そういうこともあろうかと、こっそり焼いておいた食パン半枚をとりだす。
 うひひ。ちょっと意地汚くもあろうが、かまうもんか。

 

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目玉焼きは、
卓上用の、こんな小さなホットプレートで。

大きなホットプレートは持っておらず、
焼き肉やお好み焼きには、すき焼き鍋を使っています。
たこ焼き器は、ひとつ持っています。

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2010年12月 7日 (火)

ちょっとしたこと

 男気のある女(ひと)が好きだ。
 なよなよとなんかはしていなくて、しゃきっとしているが、こまやかな波動をもっている。こんな女がいたら……、ええと、眺めているだけでしあわせというものだ。
 自分もそういう女に近づくべく、ずっと努力してきました。ということだったら、話はずんずんすすんでいくのだけれど、その話はここでおしまい。わたし自身がそれにはほど遠い存在だからだ。
 けれど。
 話をここでおわらせるわけにはいかない。自分のことでは語れなくとも、他に助けをもとめることはできそうだ。そういえば……。あるある、とっておきの話が。

                         *

 その手もとが咲いていた。
 爪のひとつひとつが、紅(くれない)に染められいるのだった。その華やぎはしかし、饒舌ではなく、しんとしずまりかえっていた。
〈なんてきれい〉そう思った途端、こみ上げてくるものがあり、目の縁がくわっと熱くなる。
 きれいに染められた爪を見たくらいで、と自分でも可笑しかった。

 この夏、先輩格の友人が大怪我をした。
 それは思いがけないほどの大事(おおごと)で、そのひとは入院もして、自宅に戻ってからも、リハビリテーションに通った。困るのは、右腕の怪我だったこと。あらゆる不便を強いられることになって、思うに、彼女は、生涯で初めて仕事を一時休み、ある時期は、まったく思うにまかせぬ退屈をも経験したのではないか。
 このひとこそは、紅色の爪の主である。
 また、ここへ書いた「男気云云(うんぬん)」にもあてはまる人格で、友人ではある(つもりだ)が、いつも遥かにまぶしく眺めつづけてきた。怪我のために、その姿を眺めることができなくなってしまったときには、わたしの生活から一気におもしろみが失せた。
 けれども彼女は、前のようにはまだ動かない右腕をかばいながらもたちまち仕事に復帰し、わたしも、ときどき彼女のことを眺めるおもしろみを生活のなかにとり戻した。

 紅い花びらのような爪を見たのは、彼女が仕事に復帰してから、ちょうどひと月たったころのこと。その静かな装いに、ひたむきな所作が透けて見えた。まだ完全ではない右手で左手の爪を塗り、右手をかばうことに疲れているであろう左手で右手の爪を塗る。
 紅の爪は、装いとしたら、ちょっとしたことだ。しかし——。身のまわりのことは、そして暮らしのことは、ちょっとしたことの連なりなのだと、そのことはおしえる。
 このひとを眺めてたのしいという理由のひとつは、ちょっとしたことの連なりの、きらめく様子でもあったのだ。
 古いモノを素敵に着こなす知恵、古いモノと新しいモノの組み合わせ方、自分の好みを大事にする覚悟——バスケットシューズなんかを、かっこよく履きこなす——を、この友人から盗んだ。眠りかけていた古いモノをひっぱり出してきて、ちくちくとんとんやって起こしては、好んで使うようになったのなんかは、まさにその影響だ。

 さてわたしは、男気のある女(ひと)が好きだ。
 なよなよとなんかはしていなくて、しゃきっとしているが、こまやかな波動をもっている。こんな女がいたら……、ええと、眺めているだけでしあわせというものだ。
 そして、女のたのしみ——少女趣味と呼ばれる類のことでも——をわかるような、あるいはわかろうとするような、男が好きである。


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ことし、眠りから覚めたものといえば……。
その昔「やえばあ」から北海道土産におくられた
「優佳良織(ゆうからおり)」(北海道手織つむぎ)の
バッグです。
ショルダーバッグだったことが、近年、眠りに陥らせた
原因と気づいて、肩ひもを短く縫いこみました
(また、いつか、長く戻すこともできます)。
いままた、あちらへこちらへ、
わたしに同行してくれています。

「やえばあ」(もとの、お姑さん)も、
わたしにちょっとしたことの連なりの値打ちを
おしえてくれたひとりです。  

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2010年11月30日 (火)

『色の手帖』 本のなかの暮らし〈11〉

朽葉(くちば)
落ち葉のような色。▷くすんだ赤みの黄。▶近世以降の「茶」に相当するもので、「赤朽葉」のほかに、黄色みの「黄朽葉」があった。

*「源氏物語」〈紫式部〉—野分「いときよらなるくちはのうすもの、いまやう色の二なく打ちたるなど、ひきちらしたまへり」(11世紀前)
*「偸盗」〈芥川龍之介〉「十七八の若侍で、これは、朽葉色の水干に黒鞘の太刀を横たへたのが」(1917)
*「埋葬」〈立原正秋〉「朽葉色の琉球紬に洗い髪の姿が私には眩しかった」 (1971)
              『色の手帖——色見本と文献例とでつづる色名ガイド』
                     (小学館/編集=尚学図書・言語研究所)

 わたしの書架には、いろいろの本がある。数は、多くない。どうしても手もとに置きたいものと、置く必要のあるもののほかは、読んだあとすぐとひとに譲ったり、古書店に運んでしまうからだ。
 小説、随筆、児童書、ヤングアダルト、歴史書、評論、料理書、図録そのほか、ほんとうにさまざま。本の、ジャンルというのだろう、これは。そうして、小説ひとつとっても、これを細かく分けてみせる方法がある。純文学とエンターテイメントという具合に。そしてエンターテイメントをまた……。
 ジャンル分けには用心している。誤解をおそれず云うなら、ジャンルは考えないようにしている。読者として考えたいのは、自分がどのように読んだか、ということに尽きると考えているからだ。もっと云えば、そのときの自分がどのように読むことができるかということになるだろう。
 その意味で、ひたすらに「読んでいくと」、驚くような場面で、作品やことばの輝きに触れることができる。子どもたちの作文や詩、商品に添えられた説明書、ひとが話す数行のならび、たより(ここへ届く皆さんからの「コメント」も)などに、それはたしかにあらわれる。
 つい、理屈をこねくりまわしてしまった。わたしのなかにある、ジャンル分け、分類を踏み越えて、ただひたすらに相手と向きあいたい思いは、時としておさえ難く、胸のなかにひろがる。あるときは、哀しみをともなって。

『色の手帖』を思いだせたことが、うれしい。
 ある色に接し、(この色は何だろうか)と思うことができ、さらに書架に手をのばしてこの本を引きだして、目の奥にのこる色に近いものをさがすということのできるときは、わたしはちょっと……澄んでいる。澄むなどと、驕(おご)った云い方かもしれないけれど、ものを見ようとする胸のここに、対象をそっと尋ねる気持ち、不思議がる気持ちがあるという意味だ。
 きょうまた、ひとつの色をこの本のなかにさがした。
 間もなく師走がやってこようというなか、いまなお咲きつづけている朝顔の花の色。朝、勿忘草色(わすれなぐさいろ)に咲くけれど、夕方には、殷紅色(あんこうしょく)に変わる。花は、寒くなるにつれ、翌日のひと日咲きつづけるようになったが、そのときには、殷紅色がもう少し赤みを増す。この色は『色の手帖』にはみつからないが、紫と紅のあいだに、たしかに在る色だ。

 この本には、色の説明とともに、その色の登場するさまざまな文献が引用されている。それがまた、なんともいえず、おもしろい。そういうわけで、これまで何度も、この本をひとに贈ってきた。
 若い日、ひとりの友人から、色覚の一部に障碍のあることを打ち明けられたことがある。「日常生活に支障はないんだけどね、ときどき、色というものは、自分が見ているのより、ずっと複雑で豊かなんだろうなあ、という気のすることがある」と、そのひとは云った。わたしは、うんと考えた末、この本を、『色の手帖』を、彼女にも贈ったのだった。


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『色の手帖』です。
写真のこの本は、
20年以上も前の古いもの(昭和61年初版)。
現在は、『新版 色の手帖』が出ています。


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きょうみつけた、
もっともうつくしい「色」は、これです。
銀杏(いちょう)。
緑黄色(りょくおうしょく)とか、
カナリヤ色とか、そういう色だろうかなあ、と
『色の手帖』を眺めながら、思うのです。

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2010年11月23日 (火)

ことしの新入り

 じき師走がやってくる。
 誰も彼も、師走と聞くとかまえが変わり、11月なんか目に入らなくなる。ことにおしまいのほうは。
 わたしは、踏んばる。11月のうちは、決して師走ッ気をださずにいたいと思っている。それなのに、世のなかはもうとっくのとうにクリスマスに衣替えし、年賀状の話、歳末なんとかの話、おせち料理の話でもちきりである。わたしの腰も、ふっと11月から浮きかける。

 浮きかけたせいなのだろう。ひょっと、ことしをふり返ってしまった。台所で。(ことしも、ずいぶんたくさんの時間、ここに立っていたなあ)と、考えている。ここにいるときは、いつも忙しかったけれど、いつもこころはやすらかだった。
 夜、火の気のない台所につっ立っていると、この場所の誰も彼もが、ことし1年間、わたしを存分に助けてくれたという感慨が湧く。
「ありがとう、皆さん」
 そう云いながら、とうとうわたしにも師走ッ気が出てきてしまったのを知る。あわてて踏んばりなおそうとするけれど、ありがとうという思いまで片づけてしまわなくてもいいだろう。
 戸棚のとびらをひらいて、なかを見わたす。皿たち。茶碗たち。椀。丼。小丼。コップ。「おやすみなさい、みんな」そう云いながら、とびらをとじる。
 ひきだしをあける。箸や匙たち。フォーク。ナイフ。いろんな小器具。小皿と蕎麦ちょくも。「また、明日の朝」ひきだしをおさめる。
 鍋の戸棚、茶器の戸棚、大皿の戸棚も。あけたり、しめたり。
 このなかに、ことしここへやってきたものが2つ(種類)ある。

 ひとつめは皿。
 長細くて、3つに分かれるともなく分かれている、白い皿だ。隣町の店でこれを見たとき、いっぺんに気に入り、5枚もとめた。モノをふやすことにためらいをもたないではなかったけれど、この皿はとくべつだった。自分の台所仕事を、この皿が「わかりやすく」してくれるような気がした。
 もうひとつは、タジン鍋——「タジン」はアラビア語で「鍋」の意。日本では、タジン鍋と呼ばれる。
 いまをときめく、へんてこなかたちの鍋である。生まれは、モロッコの砂漠地帯。砂漠で貴重な水を少量しか使わず、素材のもつ水分を、鍋のなかで効率よく対流させるという。このタジン鍋が、わたしの野菜料理に変化をつけ、レパートリーもふやしてくれそうだな、とひらめく。
 それには、置き場所をつくる必要がある。鍋を収納するガス台下のひきだしをひっぱり出すと、がらがらだ。がらがらは気に入りだけれども、ここへ新入りを招くのもわるくないだろう。そう思った。

 新入りたちは、思ったとおり、いや、それ以上にわたしを助けてくれた。そうして、食卓の上に風を吹かせた。この風は、よどみかけていたものを吹き飛ばし、くたびれた何かも払ってしまった。

 あたらしいモノを迎えいれるのには、勇気がいる。モノを減らしたいと希い、暮らしを縮ませはじめようかというわたしにとっては、高いところから飛びおりるほどの思いきりが要った。
 けれど、減らすばかりがいいわけではないのである。
 新入りをやわらかく迎えいれて使いこなそうというのは、古くなっていくモノを大事にするのとは味わいこそちがうけれども、同じ道の上のことだ。


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長細くて、3つに分かれるともなく分かれている、白い皿。
これに3種類の野菜料理をのせ、
ほかに主菜、ご飯と汁、
という献立は、わたしにはわかりやすく……。
仕度しやすいのでした。
結局3枚買い足して、現在は計8枚持っています。


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タジン鍋。
野菜たっぷりのおかずが、
短い時間でできるのです。
驚きの調理器具。

これは「オレンジページ」でもとめました(通販)。

       *

「自分の仕事」を考える3日間
というフォーラムに参加します。
2011年1月8日(土)~10日(月・祝)
奈良県立図書情報館


2日め(1/9)13:30~話します。
くわしくは、
www.library.pref.nara.jp
をご覧ください。

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2010年11月16日 (火)

変わり者たち

 膝上何センチというスカートのときは、やけにスースーした——ズボンばかり履いているから——し、肩パットの入った上着のときは、肩がいかって「鉄人28号」になったような気がした。友人たちには、アナタに必要なのは、肩パットじゃなくて胸パットよね、と云って笑われるしまつ。
 若いころの流行の話なのだ。ふり返ると、あそこらあたりからゆっくり時間をかけてはみ出してきたような気がしている。流行のことばかりではなく、わたしというひとの有りようについても、だ。そして、とうとうある日、自分のことを「変わり者」と思うことにしようっと、と決めたのだった。

「変わり者」とは、性質や言動が普通とはちがったひと。変人奇人のことである(参考/岩波・広辞苑)。ほんとうは、わたしという自分をずっと生きてきているわたしには、自分が変わり者だとは思えない。それはまあ、自分を中心に見立てての話のすすめ方であるにしても、だ。しかし、それじゃあ「普通」ってなんだ? と考えはじめると、とまらなくなる。これまた「広辞苑」のお世話になってたしかめるなら、①ひろく一般に通じること。②どこにでも見受けるようなものであること。なみ。一般。
 おお、むずかしい。なんだかやっぱり、「普通」という見方は好きになれない、というところに行きつくようだ。なぜ「普通」ということばに、神経をとがらすのか。そのくらいのことを、胸におさめきれないことが恨めしい。
 けれど、「普通」であろうとするがためにがまんしたり、自分の(あるいは、ひとの)何かを押さえつけるとしたら……、それはいやです、というのにほかならない。みんなとおんなじ、というのもなんだか落ちつかない。ひとことで云うなら、天の邪鬼ということになるわけだけれど。
 自分を「変わり者」呼ばわりすることにしたことは、よかった。初めて「変わり者よ」とそっと呼ばわってみた日から、わたしは自分の意見や好みが少数派であることに愕然としかかるときも、それを選択したのがどうやらひとりきりだと気がつくたび、(ま、変わり者だからしかたないか)と気楽に考えるようになった。友だちが少ないことも、(ま、変わり者だから……)でカタがつく。つまりわたしにとって、自分で貼りつけた「変わり者」の商標がどんなにか便利だったわけなのだ。

「変わり者」「変わり者」とくり返し書いていたら、台所のほうで大きな音がした。これを書いているきょうは土曜日で、家にいる誰かが、何かしようとしているらしい。こっそり見に行くと、長女が床に落とした鍋を拾い上げているところだった。あわてているらしい。
「何をあわてて?」と聞く。
「とつぜん、料理をしたくなったの。材料、片端から使っていい?」
 とつぜん、料理をしたくなるというとき、決まってこのひとは、こころに憂いを抱えている。このたびも、仕事でうんざりするような目に遭ったらしい。仕事というものの一面にこびりつく憂いのタネは、できるだけ早いうちにこそげてしまわないといけない。
 それを、台所にこもってひとりのびのびと、好きなように料理することでこそげ落とすことができるのを発見したことは、じつにたのもしい。
「だけど、ろくな材料はないわよ」
 あってないようなわたしの計画だけれど、食材は金曜日の夜までにだいたい使いきることにしている。「買いものに行ったらどうなの?」と云うと、それはしない、という返事。家にあるものでいろいろつくってみたいそうだ。
(買いものに出たくないということなんだろうね)と思いながら、目の前に、使えそうな材料を、全部ならべてみせる。じゃがいも3個。玉ねぎ1個。にんじん1本。長いも10cm。白菜1/8個。長ねぎの青いところ1本分。豚ひき肉150gくらい。鶏もも肉1枚。ツナ缶1個。ベーコンのかたまりマッチ箱大。玉こんにゃく10個。卵5個。干ししいたけ2枚。牛乳500cc。
 その山をうれしそうに眺めながら、娘がつぶやく。「普通って何だろうね、お母さん」
「え」
「わたしの考えや思いつきは、突飛らしいよ。『普通』にもどって、そこから出直せって。これ、しょっちゅう云われることなんだけどね」
「あのさ、自分を変わり者だと思っちゃうといいかもしれないよ。ま、とにかく。この材料で何がつくれるかね。たのしみにしてるね。ばいばい」
 わたしは少しあわて、台所に娘をのこして書斎にもどった。
(あのひとも「普通」とたたかってたんだなあ)と、驚く。うっかり、身近にもうひとり変わり者をつくりかけたけれど、よかっただろうか。 
 しかし、変わり者になってしまえば、モノとのつき合い方が見えてくるはずだ。たとえば、目の前に積まれた材料をどう料理するかなど、とても「普通」の感覚でしきれるものではない。


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変わり者の料理です。
奥の左から、
・鶏のにんじんと長芋巻き
・ハンバーグ
・玉こんにゃくと茹でたまごの煮もの
手前は、
・ポテトサラダ


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そうしてこれが、
いろいろ入ったチャウダーです。

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2010年11月 9日 (火)

つぎのこと

 眠くて眠くてたまらないことがある。

 それは時期、というもののようで、ある日がさっと束になって落ちてくる。
 それが落ちてくると、「やれまた、きた」と思い明らめて——あきらめるのではなく、はっきり認めて受け入れる——なるべくたくさん眠るように心がける。
 もともと眠るのが好きな質(たち)だ。
「眠る時間も惜しい」とばかりに、1日睡眠3、4時間で活動するひとを見ると、つい、こう思いかける。住む世界がちがうのかしらん、ちがう種類の(属の?)人間なのかしらん、と。いや、わかっている。ちょっとちがうだけだと、ほんとうはわかっている。
 ちがいはちがいとして、意固地にならずにそれぞれの生き方をすればいいのだと悟ったのは……、さて、いつだったろうか。

 眠くて眠くて……の時期は、「一度動きをとめて、つぎのことにそなえる」必要のあるときに、めぐってくる。そうわたしは、受けとめるようにしている。
 その時期には、必要最低限のことしかせずに、仕事と仕事のあいだにも眠り、眠りと眠りのあいだには用事をし、という塩梅だ。こんな風に、さもなんでもないことのように話せるようになる以前、つまり、その癖のようなのをそれと自覚する以前は、自分をなんという「なまけたがり」かと恥じていた。
 これは困ったことになった。こう「なまけたがり」で「眠りたがり」では、定職にはつけないのではないか、と思った。しかし、20歳の年から約10年、出版社の編集部に勤めた。その10年間をふり返っても、なんだかやっぱりよく眠っていた。眠さが募ると、会社の小さな個室にこもって、くーくー眠る。

 電話が鳴る。
 電話の呼びだし音ほどきらいなものもないけれど、眠っているときに聞くそれは、もう……。
 黒電話の重たい受話器を持ちあげる。
「すみません。急ぎの用件だったもので」
 わたしがここにこもっているのを唯一知っている同じ部の後輩が、切羽詰まった声でささやく。
「うん」
「ダイニッポン(インサツ)から電話で、急ぎ連絡がほしいそうです」
「わかった。ありがとね」

 家にいてひとりで仕事をするようになって数年がたったころ、ああこれは、もしかしたら「なまけたがり」ではなくて、時期ものなのかもしれないと気づいた。わたしはそう眠ってばかりはいず、仕事もして、約束の仕事は期限内に納めているからだった。だんだんに、それがわたしの「一度動きをとめて、つぎのことにそなえる」であるらしいことも、わかってきたのだった。
 ともかく。眠くて眠くて……の時期がいつ頭の上に落ちてくるかわからないから、そうなる前に、できることはしてしまおうという心づもりも生まれた。心づもりをひとところに集めて、一気に用事を片づけようという算段だ。

 だらだらとわが性癖について書かせたのは、木杓子だ。
 わたしの部屋の書架の、本と棚板のあいだでじっとしていたはずの3本が、「『一度動きをとめて、つぎのことにそなえる』時期の必要について書いてくださいよ。わたしら、じゅうぶんそれをさしてもらって、また動きだそうというんですから」と云った。
 これまた、わたしの手もとのさもなき話だけれども、だいどこの、ご飯のしゃもじ、カレー専用の木杓子(カレーの黄色に、存分に染まってもらっていいように、専用)、万能木杓子の3本をあたらしくした話をおぼえてくださっている方があるだろうか。ことしの1月のことだ(ブログへ)。
 その3本は長く、長く働いたからくたびれていた。が、わたしは、それを捨てられずに、書斎に持って入って、書架のすき間にさしこんでおいたのだった。3人は、「ここは、どこか」「こんなところが、あったんだなあ」「なあ」と、しばらくのあいだ、ささやき交わしていたが、その後すっと眠ってしまった。

 その3人が目を覚ました。
 3人は、覚めるといきなり、「以前とは、ちがう仕事をはじめることにしました」と、口口に云ったのである。
「一度動きをとめて、つぎのことにそなえる」とは、いったい何だろう。
 ひとによって、そのやり方はまちまちであるらしい。

Photo
元カレー専用の木杓子は、
夫の仕事場で働いています。

夫への頼みごとを貼りつけて、
黒板のすみっこに置いています。
頼みごとを、何度も何度も口でするのは
うるさいですし。
(けれども、ときどき夫は頼んだことを忘れます)。

黄色に塗った(アクリル絵具を使いました)のは、
「ちょっと目立つ」を期待してのことです。
ちょっと……ね。

※玄関とびらのちょうつがいの具合がおかしいので、
 点検を依頼しています。


Photo_2
元万能木杓子は、こうして……。
子どもたちの部屋のある3階への階段上、
共有の衣類と下着をしまう開き戸のなかに、
吊るしました。

3人の子どもの誰ともなく、頼みたいことを
貼りつけています。

※クスリ屋の前を通りがかるひと、ついでのあるひとに、
 買いものを頼んでいます。

もうひとつ、
元しゃもじは、
移植ごてに転身するべく、準備ちゅうです。
先のほうを「それ」にふさわしいように、
削っています。


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2010年11月 2日 (火)

時間のもてなし

 いろいろのことに区切りがついていたのだと、思われる。
「さてと、」とわたしはつぶやいて、つぎのことを探している。
 自分のすることに「だと、思われる」はおかしいと思うのだけれど、小さなめあてめがけて動きまわる身であってみれば、動きをとめて、「さてと、」とつぶやくことが、なんだか、可笑しくもうれしくもあったというわけだ。
 いろいろのことに、かすかな区切りがついていたのだと、思われた。

 そういえば……、と思いだす。
「衣更(ころもがえ)を手伝おうね」と長女と約束していたのだ。そうしてその日曜日、区切りのついたからだを運んで、「じゃ、はじめようか」という話になる。ふたりで腕をまくるが、衣類の数が少ないせいだろう、衣更は、ものの30分でおわった。
「あっけないほどだったね」
 と云うわたしに、
「ほーんと、お出ましいただくほどのことは、なかったなあ」
 と、娘も云う。
 そんなやりとりをしながらワードローブの扉を閉めようとしたとき、奥のほうに手提げの紙袋が見えた。
「なあに? あれ」
「ああ、それはねえ……、凧の糸」
 凧と云えば、2年ほど前、長女宛てに大きな凧が送られてきたことがあった。
 見たこともないほどうつくしくて、それは、ちょっと恐ろしげな和凧だった。仕事で使ったものを、「ほしい!」と手を挙げて譲りうけ、自分で荷造りをして送ったのだと云う。ある日、近くの公園——原っぱのような公園で、凧揚げや模型飛行機の大会なども開かれることがある——に、それを揚げに出かけるのを見送った。
「あれ、揚げたんだった?」
「揚げたの、揚げたの。なかなか揚げられなくてね。とうとう揚がったんだけど、馴れないふたりで操っていたものだから、下ろすときに糸を巻けなくて、こんがらかったままなの。ほらっ」
 そう云って紙袋をひろげると、そこにおさまっているのは、落ち葉がからみついたもじゃもじゃな凧の糸だ。
「あらま」
「2年も、このまんま。えへへ」
 見れば、とても丈夫ないい糸だ。糸の端をさがしてみる。あった、あった。これこそまさに糸口、などと思っている。それにしても、たいそうなこんがらかりで、ちょっとやそっとでほどけるものではなさそうだ。けれど、それをはじめた手が、もうもう、とまらぬ。
 これをするのより、もうちょっと実りのありそうないくつかの仕事を頭は考えつくのに、手は頓着(とんじゃく)しない。考えついたそのことをするなら、「したらいいでしょう」といった塩梅で、そのじつ、手本人はいっこうにとまる気配がないのだった。
「しかたない」と、まことに都合のいいことばで場をつなぎ、手につられたわたしの全身は、とうとうぺたんと床に坐こんだ。いけるところまでいくらしい。
「えー? ほどくの?」と、驚いて声を上げていた娘も、いつしかわたしのとなりに坐っている。
「あ、こっちの端もみつかった」

 糸と一緒にこんがらかり、そして少しずつほどけながら、ふたりでならんで糸を巻く。さいごのさいごのこんがらかりを解決したときの気持ちと云ったら……。
 しかし、時計を見て驚いた。午後6時半。
 3階の長女の部屋へと上がってきたのが12時半。え? すると……わたしたちは、6時間もここに坐りこんでこれをしていたというのか。
 時間の費やし方として、6時間の費やし方として、それがどうであったかなどと考えることはなかった。気持ちはそのとき、すっと晴れ上がっていた。
 わたしと娘は、その日、時間にもてなされていた。いや、時間をもてなしていたのかもしれない。


Photo

これが、ほどきながら巻きに巻いた
(6時間がかりで)凧の糸です。
芯のなかに、娘と巻きながら話したことについて、
かかった時間のことなど、記しました。
いつか、この糸を使うとき、
それを読んで、笑えるといいなあ、と思います。


Photo_2

大きな大きな和凧です。
お友だちとふたりでようよう揚げたとき、
原っぱに、拍手が湧いたそうです。

娘は、自分の部屋の壁に、
これを飾っています。

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2010年10月26日 (火)

「石坂洋次郎」 本のなかの暮らし〈10〉

 私、罰が当ったんですわ。米俵のように横肥りした身体を、あの細い高いかかとの婦人靴をのせて歩こうなんて、もともともと無理なことだったんです。第一、滑稽なだけで、ちっとも似合いはしませんもの。私って、柄にもない生活に憧れていたんですわ。私は「若人の友」に写真が出るような、貧しい織物工場の女工にすぎない。したがって私は、派手な身分の人達の派手な暮しを憧れたり真似たりしないで、たとえそれがどんな貧弱なものであっても、私自身の生活をきずき上げていかなければならないのだ。——長い間床につきながら、私はしみじみとそう考えこんでしまったのです。
         「婦人靴」/『石坂洋次郎集』(日本文學全集46/新潮社)所収

 わが読書歴をふり返るとき、決して忘れてはならない作家の存在、それが「石坂洋次郎」(1900−1986)だ。さかんに読んだのは、中学高校時代だった。
 その後もときどき、その名を思いだすことはあったけれど、大人になってからは読み返すこともなくなっていた。それは、この作家の作品の連なりが、自分の青春とかさなる上に、疑似体験というほどの一面をもっていたため、照れくさかったからではないかと思う。つまり、そのくらい、若いころ共にあった「本たち」だった。
 そういうわけで遠のいてはいたけれど、書店を歩きまわるようなときには「本たち」の背表紙をさがし、場の話題が本に向かっていくときには「本たち」の書名をならべていたりした。「若い人」「何処へ」「青い山脈」「石中先生行状記」「乳母車」「陽のあたる坂道」「あいつと私」「光る海」……。
 けれども、書店に「本たち」を見ることがなくなり、「本たち」を語るひとに出会わなくなっていた、いつしか。さみしかった。さみしいというより、これはいけない、と焦燥をおぼえた。

 ところで、あんなに持っていた「本たち」を、わたしはどうしてしまったのだろう。おそらく、「本たち」を知らない友人たちに、押しつけがましくももらってもらったのだろう。このたび、図書館に出かけていき、「本たち」を探す。残念なことに、そこでもなつかしい背表紙をみつけることができず、「本たち」はみんな、図書館の書庫にしまわれていた。わたしが選んだのは『石坂洋次郎集』。館内のコンピュータによる検索では、収録作品はわからなかった。それを書庫から出してもらう15分のあいだ、わたしは図書館の隅っこの椅子に腰をおろして、本の運命、文学の変遷について、ぼんやり考えていた。「これはいけない」と、ひとりで力んだところで、運命は変えられず、変遷も止められはしないけれど、わたしはよき読者でありたい。
 そういう思い方を、わたしにおしえたのが「石坂洋次郎」の「本たち」だったかもしれない。

 15分後、貸し出しカウンターで受けとった『石坂洋次郎集』を開くと、そこには、代表作「若い人」と、短編の「やなぎ座」、「草を刈る娘」、「霧の中の少女」、「婦人靴」だった。興味深かったのは、これらが「亀井勝一郎」(※文芸評論家/1907−1966)による選であったことだ。
 わたしは、ここで、慕わしい短編「婦人靴」(1956年)に再会した。「婦人靴」は、貧しい靴屋の徒弟のものがたりだ。又吉は、親方とふたり、うす暗い店に坐って、はき古した靴の修繕に明け暮れていた。6年もすると、修繕のみならず、あたらしい靴つくりもひと通り身につけ、親方にとってなくてはならない片腕として、月給も2千7百円もらうようになっていた。たのしみといえば、映画スターや流行歌手のグラビアのたくさん載った娯楽雑誌「若人の友」を読みふけることだった。
 ある日、「若人の友」の投書欄を通じて知り合った女性との文通がはじめる……。
 又吉も、ペン・フレンドの美代子も、お互いに自分の貧しい生活を隠したやりとりののち、とうとう待ち合わせをして会うようになる。表題の「婦人靴」とは、又吉のつくったハイ・ヒールのことで、それを又吉は美代子に贈るのだった。
 わたしには、ふたりの背のびがまぶしい。そうして、身につまされる。そんなのは、こうしていい年になったわたしだって、ついすることがあるし、身の丈にも、こうと定めた「わたし自身の生活」にも、てんでそぐわぬことをしたりする(息抜きなんぞと、名前をつけて)。
 それにしても、背伸びの末に書いた掲出の美代子の手紙と、それに対する又吉の返事の、なんとすばらしいことか。この明るさ、正直こそが、わたしの青春時代を照らしていたのだなあ、と胸が熱くなっていく。

 選者である「亀井勝一郎」は、「本たち」のなかから4篇を選んだことに関して、巻末、こう記している。

 私がこれらの作品を好むのは、どんな意味でもそこに気どりがないからである。庶民への愛などと、正面きってふりかざす気持ちが全然ないからだ。謙虚に読者に奉仕しようとする心の所産である。そしてこの四篇には、どれにも付焼き刃ではない郷土色がある。

 謙虚に読者に奉仕しようとするする心。わたしには、これが、文学の灯(ともしび)だと思える。

※亀井勝一郎
 彼の墓の入口には、「歳月は慈悲を生ず」と刻まれた碑が建っているそうだ。そのことばに、わたしは深い共感をおぼえる。


10

なかなか咲かなかった、朝顔の青花が、
10月14日、初めて咲きました。
それからは、毎日、花を咲かせてくれます。

思えば、種を蒔いた5月のはじめからきょうまで、
朝顔には、たくさんのよろこびをもらいました。
この、もの云わぬ友人たちに、どのくらい慰められて
いたことでしょう……。
こうしたことの値打ちを、受けとめることのできる
生き方をする……というのが、
わたしがきずき上げたい、「わたし自身の生活」です。

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2010年10月19日 (火)

来年、また会う日まで

 いつもならとうにサヨナラを告げている時期なのに、ぐずぐずと、別れをのばしてしまった。
 サヨナラしなくては。そうでなければ、このまま冬を越すことになってしまう。ちらと、(サヨナラを云わずに、このまま冬を越して、まずいことは何か)という考えが、頭をもたげた。理屈をこねようとする回線が、ぴんと張る。が、失敗。
 来年、また会うときのときめきを失うのは、困る。こういうものを失って、平気でいられるようになったら、あれもこれも平気だということになって、つまりその、つまらなくなりそうだ。
「サヨナラ、きゅうりさん」
 わたしは、自分の胸に向かって、そう告げた。

 さあ、サヨナラの準備だ。
 野菜はここで、と決めている八百屋のおかあさんに「まがったきゅうりを15本ばかり、お願いします」と注文する。これを、八百屋のおじょうさんが市場で仕入れてきてくれる。
 おかあさんは「昔は、仕入れていましたけどね、いまは、求めがなくなっています。まがったきゅうりを何になさいますので?」と云う。「ピクルスを漬けようと思って……」
 きゅうりとは、毎年、9月の終わりにサヨナラする。サヨナラと云っても、その年の分の別れのことで、翌年の4月の終わりには、また会えるのだ。それを何度も何度もくり返してきたのに、毎年、9月の終わりがくるたびに、(サヨナラを云わずに、このまま冬を越して、まずいこととは何か)とかいう考えが浮かぶ。結局、サヨナラをすることは決まっているのに、こうして、つい、ぐずぐずするのは……。それは、わたしがきゅうりを好きだからだ。
(しかし、ことしはぐずぐずし過ぎ)と反省したとき、暦の数字と目が合った。
 10月10日。
 こりゃあ、いい。そして、もひとつはっとして、手もとの紙に書いたのだ。 「’10.10.10」
 この愉快な数字のならびを、瓶のラベルに書いて貼りつけられるように、急いでピクルスを漬けようと、決心したのだ。
(まったく子どもみたいだ)。

 八百屋のおかあさんが手渡してくれた「まがったきゅうり」は、たいしてまがってもいなかった。いまは、こんなのが「まがったきゅうり」なんだな。ひろげた新聞紙の上に積むと、きゅうりへの思い——恋心のようなものだと云える——の合唱が起こったような気がして、照れる。
 まがったきゅうりが、「わけあり」ということなら……、と、それをごしごし洗いながら、考える。ひとも、自分を「わけあり」の存在と思えたなら、いわゆる常識をくつがえして、ものごとを考えてみるというようなことができやすくなるなあ、と。
(まがったきゅうり……。まがったわたし……)。

 ピクルスは、2日間かけて完成した。1日めは、塩になじませるための時間、本漬けと瓶詰めが2日めの仕事だ。(云っとくけど……ピクルスを漬けたのは、別れがたかったからじゃない)と、わたしは自分に向かっていいわけをする。
 冷蔵庫を頼らず、常温でできる漬けものと保存食を、これからの人生の練習にしたい、と考えついたのは、ほんとうのことだ。

 とうとう、きゅうりに向かって、これを告げる。
「サヨナラ、きゅうりさん。来年、また会う日まで」 



  Photo

わけあり、という、 なんだか知らないけど慕わしい集団。


Photo_3

すごーく酸っぱいのと、少し酸っぱいのと、
2種類漬けました。

長く保存するときは、
①瓶を煮沸消毒し、
②なかみを詰めたあと、いま一度消毒します。
②の方法は――
・なかみを詰めて、ふたをする。
・そのふたを、ちょっとゆるめる。
・これを蒸し器にならべて、蒸気が上がってから、中火にして15分間蒸す。
・ふたをきっちり閉めて、さらに15分間蒸す。
・少しさましたあと、水につけて(冷たい水をときどき
 注ぎながら)、よくさます。

※漬け汁はもう一度使うこともできますし、
 ドレッシングにすることもできます。

書斎の書棚の下の段を片づけ、
そこにピクルスや、梅酒を漬けたあとの梅でつくった
煮梅の瓶詰めをならべました。
だんだん書斎が、作業部屋のようになり、
貯蔵庫のようになるとうれしいなあ、
と思ったりしています。

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2010年10月12日 (火)

のびちぢみ その2

 ひきだしがからっぽになるということは、ありそうで、そうはない事態だ。
 わたしにとっても初めてのことだった。ひきだしから、納まっていたモノを全部だして、ほこりをはらって隅隅まで拭うようなことなら、したことがある。それに、あるひきだしの中身を、すっかり別のモノと入れ替えたこともある。
 が、このたびのように納めたモノが自然に減っていき、ある日すっかりなくなって、ひとつのひきだしが役目を全うするところを見たことはなかった。役目を全う、すなわち、からっぽだ。
 そうして、このかっらぽを前に、わたしは、わが暮らしがちぢみはじめたことを悟ったのだった。決してモノをたくさん持ちたい質(たち)ではないし、実際、そうは持っていないつもりでも、この25年ばかりのあいだには、じわりじわりと暮らしはのびて、ふくらんだ。いったいどこまでのびるのか、と、ときどき不安にかられて、持ちものの見直しをすることはあったけれど、結局ちぢみはせずに、のびていた。

 こうして、とつ然「ちぢみはじめ」に立ったわたしは、この地点を忘れないために、2つのことをしたのだった。

 夫と子どもに向かって、こうささやいたのが、1つ。
「持ちものを、半分に減らしなさいな」

 からっぽになったひきだしの、これからについて思いめぐらすことが、1つ。

                 *

1)「持ちものを、半分に減らしなさいな」
 なぜ、そんなことをささやこうと思ったのか、じつのところ、よくはわからない。夫はわたしとともにちぢんでいけばいいわけだが、子どもたちは、まだのびもちぢみもはじまってはいない身の上だ。
 そうにはちがいないけれど、モノを持つことに、そしていつしかモノがふえていくなりゆきに馴れてほしくなかった。ひとつモノを使いつづけたり、あるときは修繕したり、何より、ふやそうというとき立ち止まるひとであってもらいたい、と。
 それを伝えるのに、なぜだか乱暴にも「持ちものを、半分に減らしなさいな」と告げていた。3人はそれぞれ、「なにそれ?」「ふぁーい」「へ? わかった」という、あいまいな反応を示した。
 ささやいて、耳だか胸だかに注ぎこんでおくのが目的だから、それでよしとした。
「なるべく捨てないで、減らすのよ」

2)からっぽのひきだし
 忽然(こつぜん)と姿をあらわした、からっぽのひきだしを見たとき、このまま、つまりからっぽのままでおくのもわるくないと、思った。家のなかに、こんなからっぽがふえていくのだとしたら、「ちぢみ」が進んでいる証拠だもの。
 けれど、「忽然」から10日ほど過ぎた日のこと、わたしは再びささやいていた。こんどは自分自身向かって……。
「持ちものを、半分に減らしなさいな」
「え、わたしも?」
 と、ささやき返す。
 やれやれ、これじゃあ、子どもたちのあいまいな反応と少しもちがわないや、と気づいて、ちょっと顔が赤くなった。
「持ちものを、半分に減らしなさいな」
「あい」
 と、自問自答をやりなおしながら、はっと思いつく。
 このひきだしに、近い将来、この家から独立していくであろう子どもたちに託すモノを、そろそろしまうことにしよう、という思いつきだ。それは、末の子どもの「やがて身につけるであろうモノ」の後釜(あとがま)として、坐(すわ)りがよいようにも思えた。
 まずは食器の類をと思って、ちゃぶ台の上にならべた。数こそ半端だけれどちょっと上等なコップや皿。一時(いっとき)さかんに使った弁当箱。子どもたちが幼い日、おやつ用だった皿。などなど……。
 新聞紙にくるんで、ひきだしに納めた。
 つぎは、花瓶や布あしらいのモノたちを見てみるとしよう。

                *

 これがからっぽになる日も、きっと不意におとずれるのだろう。


Photo_2

「ちぢみ」の、はじめの一歩です。

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2010年10月 5日 (火)

のびちぢみ その1

 9月のある日、うちのなかの、ひとつのひきだしがからっぽになった。

 そのひきだしは、出し入れ頻繁(ひんぱん)、しかも決して小さくはないひきだしだ。「あら、からっぽ」と気づいたときには、だから……、とても驚いた。
 それは、末の子どもの「やがて身につけるであろうモノ」をしまう、ひきだし。この子が、うちにやってくるとわかったとき、つくった場所だ。ふたりの姉のおさがりだけではなしに、友人たちからのモノ、先を見越しての頂戴物を、ここへしまった。
 おむつカバーや、産着、帽子手袋の類から、よそいきのワンピース、はたまた、「これを着るのなんかは、まだまだ10年から先の話だわ」という衣類まで、このひきだしにはつねにぎっしりモノがつまっていた。
 ことし9月、ジャージの上下をもとめてこのひきだしを引いたところ、そこにはもう、ジャージしかない。
 それをとり出すと、ひきだしはからっぽになった。
 思わず、とり出したジャージをまるめて、両腕に包んだ。ついこのあいだ、このくらいの大きさだった末の子どもが……という感傷がこみ上げた。不覚にもそういう気持ちがゆらり立つほどの、からっぽぶりだった。

 若いころ、中高年の生活に関する仕事をしたことがある。思えば、ずいぶん方方(ほうぼう)施設や病院を取材し、年を重ねたおひとに会った。年を重ねた存在を、高齢者と呼ぶのがよいか、老人と呼ぶのがよいか、迷った揚げ句、できるだけ括(くく)った呼び方をしないことに決めた。しかし、必要なときには、高齢者と書くことにした。
 この取材は、1冊にまとまっている(※1)。「介護保険」がスタートする数年前のことで、だいぶ古い話をしているが、読み返してみると、自分の仕事と暮らしの原点が、ほの見える(とはいえ、自書を読み返すのは、かなり手に汗握る冒険である。勇気をふるって、ところどころ……読んだのだ)。
 この本を書きながら、これだけは忘れないでおこうと、胸に刻んだことばがある。
「のびちぢみ」ということば。
 お話を聞いたM氏は、こころ豊かな、愉快な視点をもつ「理学療法士」(※2)だった。過去、仕事上で遭遇した事故が、その豊かさと、愉快な視点をつくっていると思われたけれど、ここでは省略する。
「家は固定したものでない、と考えるといいと思いますよ」とM氏は云った。
 ごく手短に云うなら、こういうことである。
 ふたりで生活をはじめたところに、子どもができて家族がふくらみ、こんどはその子どもたちがそれぞれ独立して、またもとのふたりに戻る。
 M氏の考えは、家族が「のびちぢみ」するのに合わせて、家ものびちぢみしなければ……というものだ。
 これはもちろん、ふたりの生活には、台所と居間兼食堂、それにトイレと浴室といった、ごくコンパクトな居住空間だけで足りてしまう、というような住まい方の話。けれどそれだけではなく、意識の話だとわたしは、思った。

 末の子どもの「やがて身につけるであろうモノ」をしまうひきだしが、不要になったとき——不要になったのは、成長して、これから先身長がのび、足が大きくなったとしても、赤ん坊の時代から今日までのような著しい変化はなく、先を見越したおさがりもなくなったからだ——「ちぢみはじめ」だと感じた。
「ちぢみはじめ」に立ったそこでは、さみしさといった感傷は湧かず、自分がそれを認識できたことへのよろこびだけがあった。

 ちゃぶ台ひとつで暮らしはじめたころを、思ってみている。さっぱりとしていただけでなく、それは、うつくしいと呼んでよい佇まいだった。
 さて、あのあたりに戻れるだろうか。

※1『老後を楽しく暮らす家』(建築資料研究社)
※2理学療法(士) 物理療法(士)ともいう。電気、温熱、水などを用いる物理的な手段による治療法。理学療法士=略称PT。身体に障碍をきたしたひとの動作能力の回復をはかるため、治療体操やマッサージなどの医学的リハビリテーションを行なうひと。


Photo_2

ちゃぶ台も、だいぶ古びてきました。
大きさを測ってみたら、昔のまんまの
直径80cm。
「昔のまんま」は、あたりまえですね……。

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2010年9月28日 (火)

『見知らぬ妻へ』(浅田次郎著)  本のなかの暮らし〈9〉


「そうだな。じゃあ、一緒に行こうか」
 夫の差し出した掌を握りしめて、房子は軽々と立ち上がった。
 足元から花が巻き上がった。
 団地のなかぞらにふわりと浮き上がったとき、房子は住み慣れた部屋を振り返って、ひとこと、「さよなら。ありがとう」と言った。
               「うたかた」/『見知らぬ妻へ』(浅田次郎著・光文社文庫)所収
 

 「孤独死」ということばを聞くようになったのは、いつごろか。さやかには憶えていないけれど、その呼び方に馴れる以前のかすかなとまどいについての憶えなら、ある。とまどいながら、「孤独死」と、何度もつぶやいた。このことばを最初に使ったひと、この呼び方を受けいれた多くの人びとは、おそらく、「孤独」と「死」を忌む存在なのだろうな、と思いながら。
「孤独死」と呼ばれるようになったそれは、あるひとがひとりで死を迎え、その死がしばらくのあいだ誰にも知れないという事態のことだ。
 ひとり暮らしの老人に「孤独死」は、多いらしい。著名人のなかにも何例かあり、それとわかると大騒ぎになる。大騒ぎは、彼(か)のひとの生前の活躍に向けてのことでもあるから仕方ないとしても、その最期を「可哀想」と、「気の毒」と、呼ばわることを仕方ないとは思わない。

 孤独を愛する人物、孤独が不可欠な生き方を選んでいる人物にしてみれば、ひとりで死を迎え、それがある期間、ひとに知られぬままになることなど、あってあたりまえだと、わたしには思える。
「孤独死」ばかりではない。ひきこもり。登校拒否。なんとか障碍。なんとか症候群。いろいろのマイノリティ(少数派)。似通った現象や、事態を分類し、ひとつ呼び方を定めるやり方から、わたしは始終はぐれる。分類して具合がいいのは、整理整頓の分野だけで、あとは、散らかしておけばいいのに、などとこっそり考えたりする。
 どんなことも、ひとつひとつのことだもの。
 それがどういうわけでそうなっているのかを、ひとつひとつ見ることもしないで分類し、刺激的な名で呼ぶのに馴れてしまうのは、困りものだ。
 ああ、どこかに、ひとりきりの死の肩をもつような作品はないかなあ、と思って、さがすともなくさがした。
「浅田次郎」の短編集にめぐり逢ったときは、だから、しみじみうれしかった。
 冒頭の引用は、「うたかた」という短編の結びだ。ひとりの老女が選んだ死のものがたりは、やさしくて、うつくしくて、せつない。
 死も、ひとつひとつの死なのだ、と、こころから思えた。

 そうは云っても、とひとは考える。
 残された者たちが困らないようにしなくてはいけない。死後しばらくの、「しばらく」が三日を過ぎるのは……。死に関し、事件性を疑われるのは、よろしくない。
 ……そう考えるなら、考えたなりの備えをすれば、いい。
 備えもできぬまま、本意とはことなるかたちで、突然、ひとりきりで迎えることになった死のことも、わたしは尊びたいけれど。
 そうして、どうしてもこう思う。

 ひとりきりの死も、わるくない。


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夏のおわり、これをベランダで発見したときの
うれしさは……。
昨年10月にもとめたミニシクラメンが、
ことしまた、
青青と葉を茂らせたのです。

これもまた、ひとつの生だと、
思いました。

花が咲いたら、また、お知らせします。


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葉っぱが、つぎからつぎへと、
生まれています。 

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2010年9月21日 (火)

「和解遅れる」

 卵が、はじまりだった。
「パンケーキを焼いてあげるね」と云ってしまってから冷蔵庫を見たら、卵がなかった。牛乳が少しあったので、卵のないことには目をつむって、パンケーキを焼く。
 卵ばかりでなく、冷蔵庫の野菜室もがらがらだ。しかしこちらは、じゃがいも、玉ねぎ、カボチャがあるから、まず大丈夫だ。

 金曜日に、夫とけんかをした。
 この場合、「けんか」という説明は、だいぶ正確さを欠いており、ほんとは、わたしが「噴火」したのだ。ときどき、何かの拍子で、たまったものが噴火する。
 あまりためこまないように、つまり大きく噴火しないように気をつけているつもりなのに、1年に1度か、どうかすると2度もわたしは噴火する。噴火の元としては、いささか口幅ったいけれど、噴火について論じるのはやめにして……、事後へと話をすすめたい。
 噴火後、ほんとは数分でけろっとしてしまったわたしに比して、夫のほうは、仕事部屋に籠(こも)って考えこんでいる。「けろり」と「籠り」とは毎度のことで、わたしのもとにたちまちやってくる事後が、夫のもとには数日たってからやってくる。
 それはそうだ。いきなり目の前で噴火が起きれば、事態を飲みこむだけでも、それなりに時間がかかろうというものだ。
 わたしのほうは、滞りがちだった家の仕事のいくつか——これが噴火のきっかけになっていた——をちょっと改革し、子どもたちの協力もとりつけて、翌朝は、ますますけろっとしていた。
 その日は休日で、子どもたちは皆自分の予定に向かって出かけてしまい、家のなかには夫とわたしがとり残されたが、夫は仕事部屋から出てこない。仕方がないから、わたしは友人が気仙沼から送ってくれた秋刀魚のうち5尾を南蛮漬けに、8尾を佃煮にした。

 卵のないのに気がついたのは2日めの朝で、わたしは、食糧が不足に傾きはじめたことに気がついた。夫が買いものを担当してくれている八百屋と万(よろず)屋——わたしたちはそう呼んでいるが、近所の、小さなマーケットのことだ——からの物資が滞っているのだった。
 八百屋も万屋もうちからは徒歩1分という場所だけれど、わたしがかわって買いものに行くのは、なぜかうまくないような気がした。そも、夫に買いものを頼めない事態を招いたのはわたしなのだし。いつまでつづくかわからないが、数日の不足を凌(しの)ぐことにしよう、と決めた。
 けんかをする前の2日間、買いものをたのまなかったので、卵のほか、焼き海苔、バタ、ぬか漬けにふさわしい野菜たちといったようなものがなくなり、ほんとうはほしかったが、がまんした。

 がまんは、なんだかたのしかった。
 まだまだいける、もっといける、とつい考えてしまう。
 ぬか漬けのことでは、カボチャを漬けることを思いついた。カボチャは、友人がくれた1つと、夫の実家の畑からの2つの、計3つある。
 ある程度の厚みをもたせて漬け、一昼夜漬けておき、とりだしてからうす切りにした。これが、これが、美味しいのだった。

 3日目の夕方、台所へ行くと、卵と牛乳、焼き海苔、きゅうり、大根、小松菜が置いてあった。
 それを見て、不足をたのしみたいあまり、和解が遅れたことに気づいた。これを書き上げたら……、あやまってこよう。

 夫は、ぬか漬けのカボチャを、好きだろうか。

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素朴な素朴なパンケーキです。
表面はこんなですが、なかなか美味しい……。

〈材料〉
薄力粉……………………2カップ
ベーキングパウダー……大さじ1
卵…………………………1個
砂糖………………………1/2カップ
牛乳………………………1カップ
塩…………………………ひとつまみ
サラダ油…………………適宜

〈つくり方〉
①薄力粉とべーキングパウダーをふるう。
②ボウルに卵を溶き、砂糖を加えてよく混ぜる。
③牛乳と塩を加えて混ぜる。
④ふるった粉たちを入れて、混ぜる(←タネの完成)。
⑤フライパンを熱し、サラダ油をうすくひき、タネを
 まあるく流し入れる。弱火にて焼く。
⑥表面にぷつぷつ穴があいてきたら、返して焼く。
※熱いうちにバタをのせ、はちみつを添えて……。
※タネのなかにバナナやりんごを刻んで加えると、
 おいしいボリュームが出ます。その場合は、牛乳を
 足して、すこしタネをゆるめます。
※すりおろした人参、じゃがいも(うす切り)、
 ほうれんそう(刻んで)をタネに加えて、
 「しっかり主食」にすることもあります。
 サラダと、ソースを添えて。
 〈ソースの一例〉
 マヨネーズ+ヨーグルト+にんにく(すりおろして)+塩こしょう
※「あしたはパンケーキにしよう」と思いついたら、前の晩、
 タネをつくっておきます。


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かぼちゃのぬか漬け、きれいでしょう?

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2010年9月14日 (火)

青いカボチャ

 とうとう、夏もおわりに近づいている。
「厳しい夏だったなあ」とつぶやきながら、ふと、この台詞、どこかで聞いたことがある、と、思った。けれど、すぐには思いだせず、(いったい、どこで聞いたのだったか……)、と頭の隅で考えつづけた。
 夫の実家からカボチャが届いたのを見たとき、聞いたのではなく、読んだのだ、と、わかった。
『長い冬』(※1)
 ローラ・インガルス・ワイルダーのシリーズ(※2)第六巻『長い冬』のさいごに出てくる台詞だった。このシリーズを初めて読んだのは遠い日のことだが、この本の魅力に気がついたのは、それほど遠くない日だ。この一家のもつ、生きる力の値打ちを、ほんとうにはなかなかわからなかった。
 熊谷(夫の実家)でできるカボチャは、白っぽい色をしている。それでもう、じゅうぶんに熟しておいしいカボチャなのだけれど、見たところが白いので、いつも、なんとなく若さ=青さを連想させる。それで、わたしは「ローラ」の「かあさん」のアップル・パイを思いだしたのだった。
 この話の種明かしをしてしまってもいいものかどうか……まようけれど……。

                        *

 持ち前の勘で、その年の秋の様子が常とはことなるのを感じとっていた「とうさん」は、冬の仕度に余念がない。そんな「とうさん」を励まそうと、「かあさん」は云った。「ローラ、畑へ行って、まだ若い青いカボチャをひとつとっていらっしゃい。パイを作るから」
「青いカボチャのパイなんて、聞いたことないわ」と云うローラに向かって「かあさん」は、「わたしだって聞いたことないわ。でも、やってみなければわからないでしょう?」と答えた。
 パイ皿の上のパイ皮の底に、ブラウン・シュガーとスパイスをひろげる。その上に、青いカボチャのうす切りをいっぱいに敷きつめる。酢を注ぎ、バターのかけらをのせ、最後に上皮をかぶせた。パイの縁(ふち)にひだを寄せて、できあがり。
 パイは見事に焼けたのだ。
 その日の夕食のあとで、このパイの三角にとがったところをフォークで切って「とうさん」が、口に入れた。
「アップル・パイだ! いったいどこでりんごを手に入れたんだ?」

                        *

 青いカボチャでパイをつくると、アップル・パイのように焼き上がることが、たとえもし、わたしに想像できたとしても、それを実行にうつす勇気はなかったと思う。せっかくの苦心が実らなかったときのことを想像したり(「せっかくの苦心」などというのは、なまけものの常套句)。罪なきパイ生地を道連れにするのは忍びない……と考えたり(もっともったいないことを、平気でしているくせに)。
 そういう勇気は、どんなときでも、暮らしをたのしもうとする気概から生まれるものだろう。かなり、つよい覚悟だという気がする一方で、ただ頑強というよりも、しなうようなつよさだと思える。

 さて。
 とうとう、今朝のラジオで「猛烈な暑さも、きょう限り」という予報を聞いた。今夜からは熱帯夜でもないという。ほんとに? しかししかし、暑さにうんざりしきっている聴取者の耳に向かって、一時しのぎの情報でもあるまい。
 そうして、おそるおそるつぶやいてみたのが、くだんの「厳しい夏だったなあ」だったわけだ。
 カボチャのおかげで『長い冬』を思いだしたわたしは……急いで書棚からそれを探しだして、夢中で読んだ。読み終えると、わたしの経験したのなんかは、厳しくも何ともない夏に思えた。この本のなかは、吹雪につぐ吹雪、もう吹雪だらけの冬だった。さいごには、蓄えていた食糧も底をつき、皆、目も落ちくぼむほどやつれて(わたしなんかは、体重計に乗ってみると、あろうことか夏のはじめのときよりも、2キロ近くも重くなっている)、餓死する者のでる、一歩手前だった。
 このものがたりは、まるで断食していたような冬のあと、インガルス一家と、友人のボースト夫妻とで、「5月のクリスマス」を祝う場面で終わる。七面鳥や、白パン(バタをつけて!)、グレーヴィーソースをかけて食べるジャガイモ、砂糖衣のかかったケーキやパイ、クランベリーのジェリー。ほんとうにおいしそうだ。

 ——わたしの夏は、どうだっただろう。
 ただ、自分の分を少し堪えただけの、文句と愚痴の多い夏ではなかったか。少しでも、心身をつかって暑さに立ち向かうことができていたなら、うれしいのだけれど。

※1 『長い冬』
 ローラ・インガルス・ワイルダー作 谷口由美子訳/岩波少年文庫
※2 ローラ・インガルス・ワイルダーのシリーズ
 第1巻『大きな森の小さな家』 第2巻『大草原の小さな家』 第3巻『プラム・クリークの土手で』 第4巻『シルバー・レイクの岸辺で』 第5巻『農場の少年』 第6巻『長い冬』 第7巻『大草原の小さな町』 第8巻『この楽しき日々』 第9巻『はじめの四年間』 第10巻『わが家への道』(第1−5巻 福音館書店の「インガルス一家の物語」1~5、第6−10巻 岩波書店の「ローラ物語」1~5)

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白いかぼちゃです。ポタージュにしようと、思います。

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2010年9月 7日 (火)

持たない生活③ 本末転倒

 「いちご」(うちに暮らす14歳の、猫)のからだを洗った。
 滅多には洗わないけれど、こちらがそろそろ洗ってやろうと思うと、何かが伝わってしまうらしい。あちら=「いちご」は、すれ違いざまふっと目をそらしたりする。
 なにせ、「いちご」は、濡れるのを嫌う。たいていの猫はそうらしいけれど、ほんとうのところ、わたしには猫全般について語る資格は、ない。「いちご」のほかを知らないし、生命体に個性があることは、人間(ひと)で学習している。
 おそらく猫にだって、風呂好き、水好きはあるのにちがいない。

「いちご」は、濡れるのを嫌う。自分でこぼした水を踏むのだって、嫌(いや)らしい。「あらら、濡れちゃったあ」という素振りで、あわてる。
 それでもからだを洗ってやろうと思いたち、実行するのは、うちでは二女だ。楽ではない上に、相手に少しもよろこばれない仕事を、どうしてしようと決めているのかわからないが、彼女が「そろそろ、洗う」と云うと、わたしが「そうか」と思い、そわそわする。それを「いちご」に気取られて、知らんぷりされたりするというわけだった。
 からだを洗ったあとの「いちご」を受けとり、ごしごし拭いてやるのは、わたしの役目だ。
 専用のシャンプーを用い、二女が浴室の洗い場で「いちご」を洗っているとき、わたしは外でじっと待っている。バスタオルを、ぎゅっとにぎりしめながら。
 なにかにしがみつかずにはいられなくて、ぎゅっとバスタオルを。
 なぜといって「いちご」が、あんまり叫ぶからだ。
 日頃たてたことのない甲高い声で叫ぶからだ。
 にぎりしめていたバスタオルをひろげ、濡れそぼった「いちご」を受けとる。もぞもぞしてはいるが、観念しているらしく、「いちご」はおとなしくバスタオルにくるまった。

「いちご」は専用のバスタオルを2枚持っているけれど、この家には、ひと用のふだん使いのバスタオルがない。
 バスタオルがあった時代はある。子どもが小さい時分にはあったのだ。小さな子どものからだを、大判のバスタオルで包んでやるというのが、やけに愉しかったこともおぼえている。
 しかし、末の子どもが小学生になり、しばらくたったころ、バスタオルをよしてしまった。よしたのは、わたしの考えだった。大人のわたしも、そして子どもたちも、「これ」がないと「それ」ができないというようなことを思ったり、思うだけではなくて口にしたりするようになってきたのがはじまりだった。
 子どもたちまでそういう考えをもつに至ったのは、やっぱりわたしが、だんだん「便利」なことに、「じゅうぶん」に、馴れてきたせいだと思った。
 そうしてわたしは、バスタオルをよしたらどうなるか、と考えたのだった。自分で云うのもおかしいけれど、いかにもわたしの考えそうなことではあった。

「どうしてかというとね」とわたしは、説明する。
 どうしてかというと、入浴に関わるすべてを、1枚のタオルで賄(まかな)えるひとになってもらいたいのよ、と。
 ときどき、変わったことを云いだす母親に馴れてもいるので、一同「変なの」という顔はしたものの、してみることにしてくれた。浴室で使ったタオルをきつくしぼって湯上がりに使う者もあるし、浴室ではタオルを使わず(ナイロンのボディ・スポンジを使う)湯上がりに使う者もある。
 早いものでそれから7年あまり、うちにふだん使いのバスタオルがないという状態は、つづいている。

 バスタオルといえば、客用の白いバスタオルが2枚、子どもたちの学校行事用の、いわばよそいきが1枚、水泳用が3枚、「いちご」専用のが2枚あるだけだ。
 ひとは持っていないが、猫の「いちご」は持っているというのなんかは、本末転倒かもしれない。家のなかに本末転倒を置くことを、ちょっとおもしろがるというのが、わたしのやり方でもあるかな。

 そういえば、わたしが育った家では、バスタオルのことを、「湯上げタオル」と呼んでいた。「湯上げタオル」という呼び方、よかったなあ。
 持たないとか云っているくせに、呼び方にこだわるというのは、これまた本末転倒かもしれないが。


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「いちご」と、「いちご」専用のバスタオルです。

 

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2010年8月31日 (火)

『新源氏物語』(田辺聖子著)  本のなかの暮らし〈8〉

 「ならぬ。これはただ、いささかの物の報(むく)いなのだ。——この地で身を捨てるなどと考えてはならぬぞ。私は位にあったとき、過失はなかった。しかし知らぬ間に犯した罪の、つぐないをするためいそがしくて、この世を顧みるひまはなかったのだが、そなたが痛々しく不幸に沈んでいるのを見るに忍びず、海に入り、渚(なぎさ)に上って、やっとここへ来たのだ。——ほんとうに疲れたよ。このついでに帝(みかど)にも奏すべきことがあるから、都へいそがねばならぬ」
と仰せられて、立ち去られた。

『新源氏物語』(2)/(憂くつらき夜を嘆き明石の人の巻)(田辺聖子著・新潮社)所収

 『源氏物語』は、「田辺聖子」で読んだ。
 そればかりでなく、古典文学の多くを、「おせいさん」(=「田辺聖子」の愛称)の力を借りて繙(ひもと)いた。助けなくしては、味わえなかったものばかりだ。
 わたしの書架の『新源氏物語』(1〜5)の2冊めの掲出のくだり(台詞)に、古い付箋が貼りつけてある。はじめてこの『新源氏物語』を読んだ31年前、わたしが貼ったのだ。読んでいてこころつかまれる数行に出合うと、傍(かたわ)らの付箋に、知らず知らず手がのびる。付箋を持たずに読書する羽目に陥ると、落ちつかない。癖だといえば、それにちがいないけれど、好きな本ともなると、何度も何度も手にとって読み返すわたしにとって、頁に貼りつけた付箋は、行く道を照らす灯火でもある。
『新源氏物語』こそ、ほんとうに数えきれないほど読み返したけれど、そのたびに、この付箋がなつかしくてたまらないような気持ちになるのだった。

 帝ご寵愛の姫君との恋ということになれば、命がけであり、それはまさしく事件だった。その恋をめぐって、朝廷内に渦巻いた黒黒としたものに巻きとられかけ、光源氏(以下、源氏)は都落ちを決心する。謫居(たっきょ)の先は須磨である。その昔、在原業平卿(ありわらのなりひらきょう)が罪を得て須磨に流されたという記憶が、源氏に須磨を選ばせたようだが、ともかく、彼は、流罪を申し渡されるやも知れぬ状況のなか、先手を打って都落ちを決めたのだった。
 海辺から引きこんだ山中に、住居(すまい)はあった。
 3月、その数日、雨風と雷鳴がつづいた。不思議な嵐だった。住居の居間につづく廊に落雷するも、源氏は堪えに堪えていた。疲れからひとときまどろんだ彼のもとに、亡き父院が立たれたのだ。
「悲しいことばかりがあり、この海辺で命を終わろうと存じております」と訴える源氏にむかい、院が仰せられたのが、引用の部分である。
 このくだりは、若いころからわたしを惹きつけてやまない。「知らぬ間に犯した罪の、つぐない」というのは、厳しいことばだ。が、罪のつぐないというものは、誰かにさせられるものではなくて、自らそれを生きることだとおしえられたような気がして、また、それが励ましに思えて、こころが晴れる思いがした。
 ひとは、知らぬ間に、罪を犯すというような存在だが、だからこそ謙虚に生きよ、と院は諭している。悲しいときには、つぐないができると考えて、それを甘んじて受け、そのときを受けよと云われているのだ、と思えた。

「田辺聖子」には、こうした古典翻訳、歴史小説のほかに、評伝、おもしろい小説や随筆など、山脈のような著作がある。それらに、どんなに力づけられたことだろうか。わたしの胸のなかには、いつも「日にちぐすり」ということばがあって、それも「おせいさん」におそわったものだった。月日の経過が、きっとその傷みを癒すという意味のことばである。

※『新源氏物語』は新潮文庫になっています(上中下巻)。


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皆さんと枝豆、枝つきの枝豆のおはなしを
交わしているさなか、
友人から「これ」が届きました。
長野県で「援農」をつづけてきた友人からの、
思いがけない贈りもの。
大事に茹でました。

お、おいし!


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それから、山のようなみょうがも。
ほしいなあ、と思っていたみょうがです。
もう一度、みょうがの酢漬けを
つくりたかった(=食べたかった)のです。

夢がかなうってこと、あるんだなあ……。
このたびは「それ」に気づけてよかったなあ、とも
思いました。

〈みょうがの酢漬け〉
みょうが…………………………………20個
酢………………………………………100cc
砂糖……………………………………大さじ2
塩………………………………………小さじ1/2

①みょうがを掃除して、よく洗う。笊(ざる)の上で熱湯をまわしかける。
②調味料を煮たてて、みょうがを漬けこむ。
※2日めから食べられます。

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2010年8月24日 (火)

夏のべんきょう

 そういえば、枝豆を見なくなった。
 いや、それは正しくない。枝豆は見るが、枝つきのを見ないということだ。以前——といって、どれほど以前のことなのか、わからなくなっている——は、夏になれば、町の商店のならぶあたりで、枝豆を抱えたり、ぶら下げたりするひとを、いくらでも見た。それで、ああ、枝豆食べたいなあと思いだすのだった。
 母が枝豆を掲げて見せれば、弟でもわたしでも、どこかに坐りこんで新聞紙をひろげ、その上で枝から枝豆の莢(さや)をはずした。昔は、いまのキッチンばさみのようなのでなく、もっと無骨なはさみで切ってはずした。母はそれを「料理ばさみ」と呼んでいたけれど、ほんとうはあれ、小振りの花切りばさみだったのかもしれない。
 それはともかく。
 いまや、枝豆は、たいてい莢だけの姿で袋に入って売られている。枝豆を枝からはずすというひと手間がなくなったのは、さて、よかったのか。そのおかげで、楽しているのだろうけれど、枝豆のありがたみも、薄れたようだ。食卓の上で、幅を利かせていたはずの枝豆は、何となく頼りなげに見えるもの。ごちそうだったのに、枝豆。
 楽するために、ひと手間省いても、省いた分面白みが消える。……そういうこともある。

 この夏はほんとうに暑かった。
 過去形で書いてみたところで、まだまだこの暑さはつづくらしい。涼しい日がめぐってきたら、思わずじわっと涙ぐんでしまいそうだ。
 今夏、何度かへたばりかけた。ちょっと無理をしたせいで体力が落ちていたところに、この暑さだ。仕方なかった。そういう仕方なさのなかで、わたしはいくつか、べんきょうをしたのだった。そうでなくても夏は、過去を思わされ、重たいものをくり返し受けとめなければならない季節だ。宿題、自由研究ということばが夏、精彩を放つように、老いも若きも何とはなしにべんきょうさせられる。

 枝豆のこともべんきょうだったし、暑さを凌(しの)ぐ、そのやり方も学んだ。わたし——もしかしたらわたしたちは、と云ってしまってもかまわないかもしれない——は昨今、暑さやら、疲れやら、空腹やらといった、「不足」ともいえる状態を一足飛びに解決しようとしている。いつからそうなったのか、それは定かではないけれど、何かが抜けて落ちているわけなので、味わいがない。
 エアコンのスイッチを入れてがーっとばかりに冷やせば、まずまず暑さは解決するが、ちょっとうちわで扇(あお)いでみたり、涼しい場所をさがしたり、が、抜けている。そういえば、枝豆も、茹でたあと、うちわで扇いでさましたものだった。忘れていた。水にさらしこそしないものの、このところ、茹でたら茹でたままにしていた。

 体調がいまひとつで気力がからだの真ん中に集まってこなかったある日、わたしはなんだか、哀しかった。体調はそんなでも、しなければいけない仕事が積まれていて……。それでいて、したい仕事には手がつかないような気がして……。そんなとき、枝豆を枝からはずすようなこと、茹であがった枝豆を笊(ざる)に上げて、うちわで扇ぐようなことをしてみたくなった、不意に。
 居間兼食堂の、南側の窓ガラスを拭いてみた。これは、このところ、わたしがしたいしたいと思っていたほうの仕事だった。しようと思ってはじめてしまえば、できるのだった。調子づいて、西側のガラスも、東側のも、台所のも、と思いかけて、それはよした。少しずつがいいのだ、と思いなおす。
 こんなことが、どんな風に効いたものか、気力がもどりかけたのがわかった。もどるきっかけをつかんだという感覚だろうか。そしてそして、涼風が吹いた。それはどうやら、窓ガラスが透きとおったからだった。

 ひとつひとつ。
 それも少しずつ。
 そういう積み重ねで、乗りきっていくことを、どうしてだか忘れてしまい、また思いだしたというのが、この夏のべんきょうだった。


2010

前(発芽の頃)に、お目にかけた朝顔。
葉は繁って、早早(はやばや)日よけになってくれましたが、
花はなかなか咲かなかったのです。
8月8日に初めて1つ咲きました。
これは、そのときの写真です。
その後は毎日、4~10くらい咲いています。
今朝は12咲きました。
いまのところ、白ばかりですが、青もいずれ咲くでしょう。
――と、思います。

朝顔に毎日寄り添うことが、
わたしのこの夏のしんどい一面を支えてくれました。


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下から見た朝顔の様子です。
すずめがたくさんやってきています。
すずめたちは、元気です。
暑くても、雨降りでも。


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末の子どもの宿題につきあって、
東京・上野動物園に行ったとき、
不忍池(しのばずのいけ)で、
睡蓮の蕾に出合いました。

この写真を、皆さんへの、
残暑御見舞いにかえて……。

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2010年8月17日 (火)

応接間

 ……そういえば、応接間があった。

 わたしが子ども時代を過ごした家にもそれはあって、そこには、ソファと小テーブル——これが、いわゆる応接セットだ——に、ピアノが置いてあった。
 ソファは、長椅子1本、ひとり掛け2個、背もたれのないスツール1個という構成。ピアノは黒のアップライトで、上部には縁(へり)にふさのついたゴブラン織りのカヴァがかかっていた。
 床は木質で、南側の2畳敷きの絨毯のひろがりの上に応接セットがのっかっている。小テーブルの上には、莨(たばこ)入れの箱と灰皿が置いてある。
 そうそう、この部屋のガラス扉のある作りつけの戸棚には、『エンサイクロペディア・ブリタニカ』全30巻がおさめられており、それは、わたしの秘密の遊び道具だった。持ち重りのするどっしりとしたそれを引きぬき、ページを繰っていきながら、空想の相手に内容を説明するという遊びをした。なにしろなかみは、べったりと英文であったから、何を書いてあるのかは想像するほかなく、ということは何を想像してもかまわないというわけだった。
「あなたの悩みごとへの答えが、このページにぎっしりと書いてあるのですが、むずかしい内容である上英語なので、わたしがかわって説明します」
 という具合に遊んだり。
「それ」をラジオの台本に見立て、その日1日24時間ずっと、この台本ですすめるというつもりの遊びもした(のちに24時間テレビというのが出てきたとき、「お、パクられたか」と思った)。
 そういうのを、ソファの陰にかくれて、やった。わたしにとって、この上もないひとり遊び、とびきりの「場」だったのである。

 応接間にひとがやってくるなんてことは、滅多になかった。わたしのところにやってくる学校の友だちは、お客さんにはちがいなくても応接間に通されることはなかった。母の友だちだって、近所のおばさんたちだって、家にやってくれば、居間の座卓でお茶を飲むのだった。
 休みの日に父が、本を読んでやろうというようなとき、なぜか応接間の長椅子に坐らされた。そこで、父が読んでくれる『メアリー・ポピンズ』や『ドリトル先生』に耳を傾けた。思えばあれは、わたしにとって初期の文学体験だった。音で聞いた日本語は、しゅるしゅると染みこんでいく。
 そして、あの応接間のおごそかさも、子どものわたしに何かを植えつけた。

 わたしが中学に上がるころ、その家は壊され、建て替えられた。
 そのとき、応接間が消えた。うちばかりではない、日本の家屋から、応接間はたちどころに消失したのである。

 ……そういえば、応接間があった。
 と、わたしの懐旧の念を掻きたてたのは、電車である。
 電車に乗るたび、この国は、いつから「外(おもて)」で、これほどゆるむようになったのか、と思わされる。電車内で化粧をする、携帯電話で通話する、ものをわしわし食べる場面には、何度も遭遇しているが、決して見慣れることはできない。が、それらを見るときには、驚きが支えになったり、あるいは、何らかの事情があるのかもしれないという風に、ポイントを切りかえることができる。わたしには、むしろ、なんでもなく乗客になっている人びとの佇まいが、恐ろしいのである。
 多くのひとが、家の居間や自室でくつろぐときと大差なきくつろぎようで、そこに在るのが恐ろしいのだ。居間や自室ではなくして、せめて……と考えたとき、浮かんだのが応接間だった。
 ……そういえば、応接間があった。
 同じ、家のなかというのでも、せめて応接間に居るときのように、かすかな緊張をもち、膝と膝のあいだをつけてソファに腰かける感じをもって、電車内に在ったなら……。

 何のために、あれはあったのかと、首をかしげつつ思い返すことの多い応接間も、ひとにたしなみをおしえるせんせいであった。——の、かもしれない。


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子どものころあった応接セット、
とても好きでした。
色は、深いブルーだったと思います。
セットのうち、ひとり掛けの椅子1つがいまあったなら、
よかったなあ。
あれに腰をおろしたら、
いい考えが浮かんだのじゃないのかしらん……。

その夢はかないませんでしたが、
さきごろ、夫の仕事部屋に、大きな大きなな黒板が
やってきました。
亡くなった伯母(洋裁を生涯の仕事にしていました)の形見です。
写真の絵は、
伯母の、さいごの(80をいくつか超した頃の)デザイン。


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黒板の隅っこに、毎日、
日にちと、へんてこな標語を書かせてもらっています。

(万年「日直」というわけです)。

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2010年8月10日 (火)

ワルプルギスの夜  

 侵入者の手口というのは、すごい。
 謀(はか)りしれないものがある。
 どんな風にすごくて、どんな具合に謀りしれないかというと、侵入された側が気がついたときには、もう、侵入者の顔などしておらず、長くそこにいたというほどの存在感を放っていることだろう。
 そこへいくと、わたしには、侵入の才はない。
 まず、出かけるときの腰が、おそろしく重い。
 理由らしきものができても、すぐとは出かけようとせず、その理由を自分に向かって云い聞かせる。
「それなら、出かけていくしかなさそうね」
 のろのろと、出かける理由を風呂敷に包む。その包みを後生大事に抱えもって靴を履く。
 よそに行くというのが、年年億劫(おっくう)になっている。子どものころは好きだったのだが。夏休みなど、届けものをしたり、いろいろの用事に出かける母にくっついて出かけていきたがったものだった。子どもには関わりのない用事にわたしを連れていくなど、母にしたら、ずいぶんめんどうだったにちがいない。
 それが、いつの間にか出不精になっている。
 それでも、ええと、どこまですすんでいたのだったか。そうそう、風呂敷包みを抱えて……、出かけていき……、「ごめんください」という挨拶の上での侵入、いや訪問となる。

 そういえば、侵入者たちは「ごめんください」を云わない。
「どなたさまで?」というのへの返答もしない。こちらの脇や目なんかは、するりと抜け、すっと入る。そうして、いつの間にか家でくつろいでいるという運びだ。
 だいいち、多くの侵入者は玄関からはやってこない。

                          *

 どうやら、それらは一味(いちみ)であるらしかった。
 とはいえ、互いに連絡をとり合ってのことではなく、とにかく、入りこんでしまおうという一点において共通の認識をもつ一味。
 わたしの子ども時分には、そんな一味はなかった。やってくるようになったのは、高度成長期の中頃だ。居間でも見かけたし、机のあたりに居るのを目撃するようになる。
 その輩(やから)は、出先で、かばんに入りこむようなのだ。と云っても、やにわに飛びこんでくるわけではなく、つかまされ、つかんだ手がかばんに——なんとはなしに——それを押しこむという仕儀(しぎ)。
 それなら、もらっているんじゃあないか、と云われそうだが、もらう、とは、少しちがう。一方的に渡される。もらっているかと見えるのは、いつしかそれが、つかまされる側の習慣的な仕草になっているからだろう。

 輩というのは、ポケットティッシュ軍団だ。

 街に立つ配り人に手渡されるポケットティッシュ。相当の数だ。ポケットティッシュの使用量は、ひとによってまちまちだとしても、その消費を、街でつかまされるモノでまかなっているひとも、少なくはない。——というほど。
 家から出る頻度の多くないわたしにしたって、外を歩けば、かなりのポケットティッシュをつかまされる。
 そこには、広告がはさまっている。広告のなかみによって、つかます相手を選んでもいるらしく、同行の娘は手渡されたのに、わたしは渡されないといったポケットティッシュもある。
 まったくのところ、しぶといなあ。これの「使い途と置き場所」について考えないといけないなあと、わたしはつくづく思わされる。

                          *

 ある夜。
 この輩を家のあちらこちらから集めてきて、食卓の上に積み上げてみた。
 魔女たちの「ワルプルギスの夜」(※)の薪みたいだ。
 そう、これが4月の終わりの日だったなら、マッチをすってこれに火をつけ、焚き火のまわりを、ぐるぐる踊るところだ。
「ワルプルギスの、よーるー」
 かたちも厚みもまちまちなこれを剥(む)いて、ティッシュペーパーだけにする。わたしは、これに火をつけたりなんかしない。

 なぜなら——。
 ここは、腕の見せどころ。
「使い途と置き場所」について考えるのだ。さて。
 なんでもなく見えることが、そのじつ、ちっともなんでもなくないことを、証明するとしよう。

※ワルプルギスの夜
 ワルプルギスの聖なる記念日(5月1日)の前夜、魔女たちがブロッケン山(ド
 イツ中部のハルツ山地の最高峰)に集まって祝祭をおこなう。

〈参考文献〉
『小さい魔女』(オトフリート=プロイスラー作・大塚勇三訳/学研)
(……なつかしい。子どものころ、大好きだった本です)。


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写真〈上〉は、かたちのそろったポケットティッシュを
しまうひきだし(階段のおどり場)。
〈下〉は、かたちのそろわぬポケッットティッシュを
入れるひきだし(このたび「使い途と置き場所」を決めたのは、
こちら/台所のすみっこ)。油をひくのに使ったり、
葉ものを拭いたり、涙をぬぐったり(!)に使います。

          *

「毎日新聞」火曜日(生活家庭欄)に連載の
「山本さんちの台所」が、1冊の本に
なりました。『朝ごはんはじまる』(毎日新聞社)
という本です。
どこかで、手にとっていただけますれば幸いです。

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2010年8月 3日 (火)

『ボッコちゃん』(星新一著)  本のなかの暮らし〈7〉

 穴は、捨てたいものは、なんでも引き受けてくれた。穴は、都会の汚れを洗い流してくれ、海や空が以前にくらべて、いくらか澄んできたように見えた。                 

 その空をめざして、新しいビルが、つぎつぎと作られていった。

 ある日、建築中のビルの高い鉄骨の上でひと仕事を終えた作業員が、ひと休みしていた。彼は頭の上で、
 「おーい、でてこーい」
 と叫ぶ声を聞いた。しかし、見上げた空には、なにもなかった。青空がひろがっているだけだった。彼は、気のせいかな、と思った。そして、もとの姿勢にもどった時、声のした方角から、小さな石ころが彼をかすめて落ちていった。
 しかし彼は、ますます美しくなってゆく都会のスカイラインをぼんやり眺めていたので、それには気がつかなかった。

         「おーい、でてこーい」/『ボッコちゃん』(星新一著・新潮文庫)所収

「星新一」は、預言者だ。——と、わたしは思う。
 初めて読んだのは中学生のころだが、そのとき、「迫真」と感じた多くの「ものがたり」が、いま、「迫真」を超えて「現実」になっている。その軌跡を、この目で見てしまった、というわけだ。
「星新一」というひとは、人物像は描かずに、人間と、人間が織りなす社会とを丹念に描く作家だった。中学生のころに読んだ作品の多くは、昭和30年代に書かれたもので、それは、わたしが生まれた時代、もっと云えば戦後10年から10数年というころのことである。あのころも、じゅうぶんすごみは感じていたけれど、いまは、氏は二度か三度はタイムマシーンに乗って、現代を見たことがあるのにちがいない、と考えている。
 見学したくらいで、未来と過去のあいだはを紡ぎきれるものではないけれど、
なかには、糸筋の見える存在もないとはいえず、そのひとりが「星新一」だったと思われる。

 ひと月一度書くことを自らに課した「本のなかの暮らし」のひとつに、「星新一」の本についてもきっと、と決めていた。さあ、書こう、今月こそ書こうと思いながら、さまよった。さまよいながらも、なぜだか、自分の幼い記憶を手がかりしたいという方針だけがはっきりしていた。
 記憶の的を「星新一」にしぼると、まず、「ボッコちゃん」、つぎに「殺し屋ですのよ」が浮かんだ。3つめ「おーい でてこーい」、4つめ「神」。
 この4篇のなかから、引用にふさわしい——恐ろしさという観点から——ものを選ぶことに決めた。

 さて、冒頭の引用は、「ものがたり」のさいごのところだ。なんとものどかな情景ではあるが、だからこそ、ほんとうに恐ろしい結末といえるだろう。それにこの結末は、はじまりを生む結末なのだ。主人公は「穴」。この穴には、あとしまつに困るありとあらゆるもの、ほんとにありとあらゆるものが捨てられた。捨てたのは、これまたありとあらゆる人間たち——。
 つくりっぱなし、やりっぱなしの人間たち。
 自分たちのしていることがどんなふうに未来につながるかを見ようとはしない人間たち。
 あとしまつについて考えない人間たち。
 こうした人間の姿を、「穴」は浮き彫りにする。
 驚くのは、この「ものがたり」が、1958年に書かれていることだ。

 初めて読んだとき、わたしは何を考えただろうか。いま考えれば、当時、すでにこの国は、かなり危ういところにあった。第二次世界大戦のあと、復興はすすんで平和が訪れていたかに見えていたけれど、開発と発展のムードが蔓延(まんえん)し、誰も彼もが少しずつ足を踏みはずしかけていた。すべては大人の責任だったと云いたいが、子どものわたしもまた、踏みはずしに加担していた。甘んじて、そういう方向性の暮らし方をしていたのだった。
 無邪気な加担少女は、それでも「星新一」の「おーい でてこーい」を読んで、ある種の危惧(きぐ)を感じた。自分たちが、あたりまえに思っているものの未来が虚(うつ)ろになりはじめた予感のようなもの、を。

 同じ予感でも「神」のほうは、あたりまえに使うもののもつ、危うい一面を示唆(しさ)していた。たとえばこの世の機構がコンピュータに頼り過ぎるようになっていく道筋が、描かれていた。ただし、この「ものがたり」は、子どものわたしに予感というほどのものは抱かせなかった。コンピュータや機械ということに、疎(うと)かったからだろう。

「星新一」という存在を、預言者と決めつけておきながら、わきまえが足らないようだけれど、氏は、預言者であって語り部であった。——と、云いたい。
 これこそは、文学。
 預言が際立ち、おもしろ過ぎというわけで、つい見逃される向きはあるのだが、これは、日本を代表する文学作品だ。

 しかし、ある夜。思いがけないことが起こった。装置がしだいに薄れてゆくのだ。存在がぼやけつつある。
                  「神」/『ちぐはぐな部品』(星新一著・角川文庫)所収

 加担少女は、わけのわからぬまま——面白さに笑いながら——このくだりを暗記し、記憶にこびりつかせていたのである。


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わたしには予言はできないけれど……。

ひとが本を読むことを忘れないうちは、
たとえかすかでも、
光が、いろいろの可能性が、
ありつづけるだろうと思うのです。
過去に学ぶことが、一ツ。
想像力を耕すことが、一ツ。
知ろうとするこころの育ちに、一ツ。
まだまだほかにも、読書の理念はありましょうけれど、
ともかく、「読む」ことは大事。――と、考えます。

先日、図書館の前庭の木陰で、
犬を連れた姉弟(おそらく小学校高学年)の、
読書の光景をみつけました。
このへたくそな絵は、その様子を思いだし思いだし
描いたものです。
この光景こそ、未来への希望の証だと思えました。

          

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2010年7月27日 (火)

持たない生活② おなじみ

  ……あち。
 夜だというのに、気温はいっこうに下がらず、熱気は居座ったままだ。
 暑さのなかでも、茹だるそうな、というのは、こういうことを云うんだとわかった。扇風機がやけになって、唸り声をたてて首を振っている。そこにいる誰もが、部屋のなかの熱気をかき混ぜているだけだと考えていたけれど、それを口にする者はなかった。賢明だ。
 また、そこにいる誰もが、これはもう、エアコンを入れたらいいのじゃないかと、考えてもいたはずだった。
 ところが。
 夜のページは、いきなりめくれた。

 つぎのページは、大粒の雨が数滴屋根を打つ音ではじまった。つづいて、いきなりの風だ。それも突風。網戸の目をおしわけて吹きこんできた。
 ガラガラ、ガシャーン。
 これは、西の窓から吹きこんだ突風が、鍋ラックの上からやかんを落とした音。やかんは落ちて、体内にたくわえていた水を床に撒きちらした。なぜやかんが?
 突風は突風としても、やかんは半ば意志をもって落ちたように見えた。床にころがったやかんと、ふたと、こぼれた水、それをみつめたまま、しばらくじっとしている。
「ダイジョウブ?」
 誰かが、やかんに向かって云った。
「ドシタノ?」
 と、別の声が云う。これも、やかんに向かって。
 ほんとだ、わたしもそれが云いたかった、ドシタノ? と。やかんは、それには答えず、床の上で口を一文字に結んでいる。云いたいことはなくはないが、口にはしないと決めた、という佇まいか。
「ドシタノ?」と、もう一度、ニュアンスを変えて、訊く。——そっと。
 やっとのことで、やかんを抱きおこし、ふたを……。あ、ふたについたつまみのまわりの部分が割れて、散らばっている。
「ケガ、シテルジャナイ」

 やかんをかかえて、ごしごし磨く。磨くの、久しぶりだ。いろんなことのしわ寄せが、こんな、なじみの道具にいくのは、わたしのどこかがねじれている証だ。
 ふたのつまみは、突起部分が無事だったから、事なきを得た。

 夜、床に入ってからも、やかんのことを考えていた。
 やかんが家にやってきて、何年たつのだろう。
 20年くらいだろうか。
 台所用品として、やかんはどうしたって必要だと考えたからもとめ、しかし、もとめたときには、これほど長くともに暮らし、ともに働くことになるとは思わずにいた。歳月というものの、無我夢中の側面を見る思いだ。その側面に寄り添って、こちらもまた、知らずと無我夢中だったわけだが。
 これからモノをそろえていこう、選ぼうという若いひとたちに、この歳月の無我夢中を、つまりあっという間の時の経過を、伝えておいたほうがいいだろうなあ、などと考えているうち、いつしかまどろむ。
 まどろむ道の途中で、はっと、思いついたのである。
 数日前、やかんの見える食堂兼居間の椅子の上で、わたしは道具のカタログをめくっていた。そうして、なかに鍋としても使えるやかんというのをみつけて、「へえええええ」という、意味ありげな声をだしたのだった。とはいえ、「へえええええ」には、たいした意味があるわけではなかった。ただ「へえええええ」だったのだが。
(アレ、キカレタナア)と思う。

 気づかぬうちに、薄情な仕打ちをしたものだ。いや、気づかないのが、そも、薄情のはじまりといえるだろう。
 やかんは、わたしに捨てられる、と考えたかもしれない。
 こちらは、捨てたりなんかするもんですか、と思っている。
 しかし、道具、ことになじみの道具が、こちらの心変わりを疑いたくなるような日常の些細(ささい)な変化について反省するうち、やっと眠りにつくことができた。

 朝起きたら、「『アナタ』ノホカニ、ヤカンヲカンガエタコトナドナイ」と、やかんに、はっきり告げよう。

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こんな薄汚い、ボロ靴をお目にかけること、
ごめんなさい。
これは、
長女が小学校に上がるときにもとめた、
わたしの学校用の上履きです。
保護者会、面談、いろいろの会、PTAの用事の際、
学校で履いてきました。
19年使い、まだ現役です。

これも、
こんなに長く使うことになるとは想像もしなかった、モノ。

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2010年7月20日 (火)

フトンジ

 いわば、間に合わせだった。
 とつぜん必要ができて、わたしはぽん、と家を飛びだした。
 ドコデ、ソレハ、カエルカ。ドコデ、ソレハ、カエルカ。
 と、口のなかで唱えながら、道の端(はた)を半分走る速度で歩いている。

 急ぐ勢いにつられ、書き損ねたが、ソレハのソレとは敷布(シーツ)である。時は、わたしが家に、まだ客用の寝具を持たなかったころだ。とつぜん泊まり客ができたが、夏のさなかのこと、敷き布団や夏掛けはこちらのをまわすとしても、せめて、敷布は清清(すがすが)しいものを用意しようと、走りでたわけだった。
 駅にほど近い大手のスーパーマーケットの2階へと駆け上がり、目的のモノをさがす。が、それが流行(はやり)でもあったのだろうか、過剰なモノばかりで、驚く。ドコデ、ソレハ、カエルカ、と唱えながらも、売り場がみつかりさえすれば、簡単な買いものだと高を括(くく)っていたのだったが。ならんだもののなかから、何でもない白の敷布を選べばすむはずだったが。
 ところが、そこに、何でもないのがない。花模様や縞、レースあしらい、色のもの、という具合に、売り場全体が咲き乱れている。咲くのはかまわないけれど、白無地というもっとも清楚で、もっとも何でもないモノを忘れてもらっては困る。間に合わせをねらって家を飛びだしてきたけれど、どうにも間に合わない。間に合わせ、一時しのぎという考えを、ひきはがされた思いもする。
 今し方駆け上がった2階から、とぼとぼ下りた足は、しかし、つぎの行き場を知っていた。この地の住人になってから、まだ一度か二度しか行ってみたことのない、裏通りの商店街だ。あそこにはたしか、古い布団屋があった……。

「ごめんください」
「いらっしゃい。何をお見せしましょうか」
 お見せしましょうか、とは、洗練された挨拶と、感心しいしいたしかめた相手は、人形、それも博多人形のようなきれいなおばあさんだった。襟元に1枚布(きれ)をかぶせた白ブラウスに、茶の柄のスカートというモダンな拵(こしら)えで、ことに、スカートの着慣れてモダンな様は、滅多には見ないほどのものだった。わたしの目がスカートに吸い寄せられたのに気づいたおばあさんは、「お目がいきましたね。おかしなスカートでございましょう? フトンジなんですよ」と云った。
「フトンジ。……ああ、布団地、ですか」
「ええ」 
 わたしは、敷布を買いに来たことも、急いでいることも忘れて、スカートに魅入っている。狐につままれたような気持ちもある。それくらい、好きなスカートだった。
 はっと我にかえって、「敷布を」とやっとのことで云えば、おばあさんは、こともなげに真っ白い敷布を、3種類ならべて見せる。
「この季節なら、こんな揚柳(ようりゅう)のものもありますけれど、通年お使いならば、この、何でもない木綿のシーツがよろしいでしょうね。何でもないと云うのは、基本的な、という意味ですが」
「その、基本的の、何でもないのをいただきます」

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さき織りのバッグです。
底、持ち手は、何だと思いますか?

畳の縁(へり)です。
これをつくったのは、わたしの友人ですが、
その「手」を思い、
畳の縁の生まれ変わりを思い……。

デザイン:小林良一(スタジオGALA)
制作:藤堂真理(つくりっこの家)
             〈敬称略〉


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2010年7月13日 (火)

持たない生活① くるま

 まわりのつよいすすめもあったにはあった。
 が、何より自分自身が、そうするものだという風に思いこんで、挑んだのだ。資格というのにも、かすかなあこがれをもって。
 あれは、あれは、もう30年も前のことだ。仕事が終わってから、資格取得のため、せっせと自動車教習所に通ったというはなしである。
 なあんだ、と思われた読者も多かろう。なぜといって、自動車の運転免許を取得しているということ自体がめずらしいことではなく、ほとんどの家に自家用車がある時代だもの。

 わたしも、その昔はときどき自動車を運転した。そうしていて、ただの一度もたのしいと思ったことはなく、自分にふさわしくないことをしているという気にさせられてばかりいた。
 その、ふさわしくなさは、運転技術のことだったろうけれど、自分の気質が、この世の道路事情のなかでのくるまの操(あやつ)りに向かないことを、思い知らされつづけてきてのことでもある。
 たとえば。
 くるま同士、あるいはくるまとひとのあいだで、道を譲(ゆず)りあう場面がある。道の上では、ありがたさ、申しわけなさなど示す余裕もなく、また、交通の筋道から見ても、それより大事なことがあるわけなのだった。二の次、三の次のことに心をもっていかれやすいわたしは、運転しながら、どうにも割り切れぬものをもて余すようになっていく。本筋で生きていないのだな、わたしは……と情けなく思うこともしばしばだった。
 30歳代のなかばのある日、とつぜん、すっぱりくるまの運転はよそうという決心が宿った。その宿りが、自然なものだった証拠に、そのときわたしは、安堵に近いものを感じていたのである。そうして、決心したからには……、運転免許証を返上しなければ、と考えるまでになっていた。
 いろいろ調べてみると、免許は返上しなくとも、「更新」をしないままにしていればいいということのようだった。夫にだけは、決心を伝えたけれど、ほかへは黙っていた。
 とうとう、運転免許が流れてしまったとき、「ああ、これで、資格というものを一切持たぬ自分になったなあ」と思った。そんなもの、なくても平気さ、とは思わなかったが、ちっともない、すっかりもたない、というのも、なんだかわたしらしくていいじゃないか、という風な、馴染みの思考が顔をだしてきて、心細さを吹きはらった。

 それから何年かが過ぎて、夫とわたしとのあいだで、「自家用車、必要だろうか」という相談が持ち上がった。きっかけは……、思いだせない。思いだせないが、やはりとつぜん、気がついたのだった。当時住んでいたマンション敷地内の駐車場(を借りてまで)にとめていた自家用車、半年に3回しか乗っていなかったことに、だ。
 やれやれ、なんて貧乏ったらしい、とわたしは思い、夫も同じように考えたらしかった。ものを持たないことは少しも貧乏ったらしくないけれど、使わないものを持っているというのはまさしく貧乏ったらしいと、わたしには思える。
 しゅっとして細おもての黒いくるまには、愛着があったけれど、手放すことに決めた。千葉県の、あたらしい持ち主のもとに落ちついたという書類が届いたとき、くるまのしあわせと無事を祈った。
 その後、まる5年、自家用車を持たないで暮らした。
 ときどき、用途に合わせてくるまを借りることはあったが、年に10回を越えることはなかった。夫とときどき、「よかったんだよね」、「よかったんだよ」と話し合ったのは、黒いくるまがなつかしかったからでもあるけれど、夫の仕事にくるまが必要になっているのではないかと確かめる気持ちもあった。
 必要になるときがきた(いまから2年前のこと)。
 夫は、もう一度、くるまをもってもいいかなあ、とおそるおそる云ったものだ。わたしよりも、このひとの決心——自家用車をよすという——のほうが、ずっと切実だったんだなあ、と感じた。
「いいと思うね」

 夫ときたら、すごくおもしろいくるまをみつけだしてきて、それを連れて帰ってきた。そのおもしろさは、すごーくオンボロというのと、すごーく安いというのと。そして、いろいろ不思議な工夫がほどこされているというのもおもしろかった。これは、前にこのくるまに乗っていたひとが、このくるまをとても大事にしていたことを能弁に語っていた。そのことが、くるまを守っているらしい気配もある。
「オンボロだねえ」
「うん、9万キロ走っているからね。2年間の車検付きで15万円だったんだ」
「それ、安いの?」
「うん、安い。こんちき号(※)って云うんだ」
「そういう名前がついてたの?」
「さっき、ボクがつけた」   

 自家用車をよしたり、また持つことになったり、それがすごーくオンボロだったり、こんちき号という名前だったりするところ、じつに愉快。

※こんちき号
 この名の由来はコンティキ号(Kon-Tiki)。ノルウェーの人類学者で、探検家のトール・ヘイエルダール(1914-2002)は、古代のアメリカとポリネシアのあいだに交流があったという説を立証するため、大型の筏(いかだ)をつくった。この筏=コンティキ号は、古代においても入手できる材料のみを用いてつくられたのである。1947年4月、ペルーを出航、102日後にツアモツ諸島のラロイア環礁に達する。航海距離は4300マイル(およそ7000km)。

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1階にある夫の仕事場と、
「こんちき号」を停めているスペースとは、
つながるともなくつながっています。
夫はときどき、ここで新聞を読んだり、
タバコをのんだり、考えごとをしている模様。
わたしも、やってみました。
「こんちき号」で読書、です。

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2010年7月 6日 (火)

はだし

「人生にも、梅雨のような時期があるのですね」
 という書き出しのお手紙だった。
 梅雨のように、とはどういう意味なのか、じめじめとした感じをさすのか、それとも、一度入ったら、明けるというそのときまで明けないことをさすのかと思いながら、先を読んだ。
 綴られたなかみは、こういうことだった。

 ことしのはじめに、2つちがいの姉とけんかをした。姉とは気心が知れており、おぼえている限り、けんからしいけんかをしたことなどなかった。それがどうしてけんかになったのか。
 あれよあれよという間にひきずられ、心づけば、気まずいお互いがそっぽを向いて、立っていた。

                            *

   けんかの原因、それは「はだし」なのです。昨年から保育園に通うよう
  になった長女(3歳)のはだしをめぐって。
   保育園では「はだし教育」というのを実践していて、子どもたちは通年、
  はだしで過すのです。
   はだしは、子どもたちの骨の発達、土踏まずの成長につながり、足裏を
  刺激することによって脳にもよい影響があるのだそうですね。
   子どもたちは1年じゅう、つまり寒い寒い冬にも、はだしで過します。  
  わたしも、はじめはびっくりしました。
   どんなに寒い日にも、はだしというのは、幼い子どもにとってどうなん
  だろう、と心配になって。でもわたしは、思いきって、ほんとに思いきっ
  て子どもをはだしで過させました。
   まわりの目というのが、思いのほかきびしかった……。これにもびっく
  りしました。年配の方たちからは「小さい子どもに、かわいそうじゃないか」
  と非難され、虐待の一種じゃないかとまで云われたこともあります。
   でもまさか、姉にまであんなにとがめられるとは。はじめは「おや」と
  思っても、それなら一丁やってみようと決めたわたしを、無条件に応援し
  てくれるものと思っていたのに。

                          *

 ああ、なるほど、と思った。
 すぐとは思いつかないまでも、それと似たようなことなら、いくつも経験したり、見聞きしてきたような気がする。いつもは仲のいい姉妹のあいだが、ふとねじれてしまったそのいきさつも、わたしにはなんだか容易に想像できる。

 それにしても、おもしろいのがはだしである。
 はだしはいいなあ、と、胸のなかで叫んだ矢先のお便りだった。ことしは、春先に、寒い日がつづいたので、くつしたを脱いでみてはまた履き、今度こそはだしに、と考えてまた、くつしたをさがし……というのをくり返した。しかし、やっと本格的にはだしの季節がめぐってきて、わたしは、はだしでいることのよろこびを、噛みしめていた。
 はだしになると、足の裏が、床の感触をじかにつかまえる。もう少し、さらっとしていてほしいなあと、最初に感じたのも足の裏だった。
 なかなかくつしたを手放せなかった——足放せなかっただろうか。うふふ——はだしの足の裏に報いるために、床をごしごし水拭きする。すると、もう、心地よくて、足の裏はうれし気にため息をつく。
 わたしも通年はだしで過せば、通年床拭きに励めるかもしれないが。
 せめてはだしでいる——おそらく10月まで——半年のあいだ、足裏を刺激して脳によい影響を与えるとしよう。

 さて、くだんのお手紙のむすびである。

                           *

   けれども梅雨は明けました。
   姉とは、仲直りいたしました。はだしのことは、もちろんわかってくれ、
  自分がどうかしていたと、云ってくれました。なんだか、けんかしたかっ
  たみたい、とも。そう云われてみると、わたしにも思い当たることがあり
  ます。けんかをしてみたいという思いは、わたしのなかにもあったのです。


1

ただいま、
「くつした雑巾」(水拭き用のくつした)の
試作をしています。
両足「これ」を履くのは、
ちょっとあぶないような気がするので、
片足ずつ履いて、床を拭くという考えです。
向かって右(a案)の「くつした雑巾」は、縫って、ひっくり
返しています。
ここまでしなくていいのではないかと思って、
左(b案)のを考案しました。
(わたしは考えただけで、試作は二女)。


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ことしは、
「くつした雑巾b案」を改良して、
いろいろつくってみるつもりです。
写真は1枚ものですが、2枚重ねで縫うと、
頑丈になり、ごしごし拭けるところまで、
わかってきました(7月1日現在)。

段ボールは、型紙です。

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2010年6月29日 (火)

『小僧の神様』(志賀直哉著)  本のなかの暮らし〈6〉

Aは変に淋しい気がした。自分は先の日小僧の気の毒な様子を見て、心から同情した。そして、出来る事なら、こうもしてやりたいと考えていた事を今日は偶然の機会から遂行出来たのである。小僧も満足し、自分も満足していいはずだ。人を喜ばす事は悪い事ではない。自分は当然、ある喜びを感じていいわけだ。ところが、どうだろう、この変に淋しい、いやな気持は。何故だろう。何から来るのだろう。丁度それは人知れず悪い事をした後(あと)の気持に似通っている。                       『小僧の神様 他十篇』「小僧の神様」(志賀直哉著・岩波文庫)

 東京神田の秤屋(はかりや)に奉公している仙吉。この小説は、仙吉が鮨(すし)をそっとおごられる話である。よくあるような話でもあり、反対に、いや、ありはしないなあとも思える話で、しかし、なぜだかふとした場面でたびたび、「ああ、これは『小僧の神様』だ」と思わされる。
 いいことをしたつもりのあとで思わされ、人間業(にんげんわざ)とは思えぬ何かに遭遇したときも思わされる。
「志賀直哉」(1883−1971)と聞けば、遠くはるかな時代の作家で、いまの自分たちの生活とはかけ離れた存在、関わりのない創作だと決めつけてしまいそうになるけれど。否、否、否。この世界を、創作を知ろうとすることは、「いま」を探りなおすことにもつながっていくようだ。忘れていただけで、なくしたわけではないものを、たしかめたり。見えないだけで、ここにこうして在るじゃあないか、と思い返したり。いろいろの意味で『小僧の神様 他十編』は、かんかんと、こちらに響く。
 何より鮨をおごられる仙吉のこころも、それをしたAという紳士のこころも、じゅうぶんにわかりそうに思えることが、わたしには、うれしいのだ。うれしいという以上に、まずまず安心、という気がする。
 昔もいまも、ひとというのは、ひとに対する思いをこんなにも繊細に紡いでいるのだ。そうでありながら、いまのわたしは、そういうところを隠そうとしたり、どうやら恥じたりして、素直に思い返しにくくなっている。人間関係の上では、さっぱりと、大胆に、何でもない顔で行き過ぎるのがスマートであるというのは、流行(はやり)だろうか、何だろうか。どうでも、わたしには、自分が素直であることを潔(いさぎよ)しとしない癖がついている。

 仙吉には「あの客」が益々(ますます)忘れられないものになって行った。それが人間か超自然のものか、今は殆ど問題にならなかった、ただ無闇とありがたかった。彼は鮨屋の主人夫婦に再三いわれたにかかわらず再び其処へ御馳走になりに行く気はしなかった。そう附け上(あが)る事は恐ろしかった。
 彼は悲しい時、苦しい時に必ず「あの客」を想った。それは想うだけである慰めになった。彼は何時(いつ)かまた「あの客」が思わぬ恵みを持って自分の前に現れて来る事を信じていた。

 そう考えて生きている仙吉の「健気」。「あの客」なるAの「神経」。
 その両方は、わたしの励みになっているのだった。
 同時に、わたしの神様が、いきなり何かをもたらしたとき、それを素直に——恵みと思って——受けとれるように希っている。


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ある日とつぜん、
鯛が愛媛県宇和島から届きました。
(友人からの、思いがけない贈りもの)。
びっくりしました。

いろいろのことが、頭をよぎりました。
その日のうちにしてしまわないといけない事ごと。
晩ごはんを食べる、頭数。
いつどんな風にさばこうか。など。

全長45cm。
立派な鯛です。
「小僧の神様」だと思いました。
これは、「いま」のわたしにもたらされた「恵み」だと。
何も考えず、書斎と台所を行ったり来たりしながら、
その日、「恵み」のなかで過しました。


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まず昆布〆に。
これは、夕飯のときの姿です。


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あら煮。


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潮汁。


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鯛のそぼろ。

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2010年6月22日 (火)

貧しい話、約(つま)しい話

 貧乏まっさかりである。

 この春、NHKが満を持して放送している朝の連続テレビ小説の話だ。
 不人気に苦しんでいるらしいときも、どうも脚本に問題がありそうなときも、子どもの頃から、この時間帯は、朝の連続テレビ小説を見てきている。見るともなく見ていたこともあったけれど、とにかく。
「連続テレビ小説」という名前も、その時間帯に15分間ずつの連続ドラマ、という設定も、わたしにはおもしろく思える。テレビ小説のなかの人生も、こちらの人生もどちらも安穏とはいかず、いろいろあるなあと考えたりするわけだ。
 それに、ひょっと家事やら、ものを食べる場面やらが映るときには、なんだかわけもなく気持ちが入る。

「ゲゲゲの女房」。
「水木しげる」の女房殿のものがたりなのだそうで、しげーさん(※)贔屓(びいき)で妖怪好きのわたしはときめきをおぼえながらも、それだけにまた、怖怖見はじめたのだった。
 水木せんせいも、1960年代には貧乏を経験されていたのだなあ、としんみりする。同じ胸でしかし、「このころの貧乏は、うつくしいなあ」とも思うのだ。少なくとも水木せんせいと夫人の布美枝さんの貧乏には、品格が感じられる。大変なのにはちがいないけれど、貧しさに打ちのめされず、どこかでかすかに楽しんでさえいる様子がある。だから、眺めているわたしたちは、その貧乏に憧れに近いものを感じるのだ。

                          *

 さて、今朝の回。
 水木せんせい、くだもの屋の店先で足をとめると、「バナナ。さいごに喰ったのは、いつだっただろう」とつぶやいた。そうして、おっ、と何かを思いついた顔になる。こちら側でわたしは、何? 何を思いついたんですか? とうろたえて、沸く。
 つぎの場面で、水木せんせいが家のちゃぶ台の上に新聞紙でくるんだものを置く。なかみは、バナナ。布美枝さんは、熟れ過ぎて皮が真っ黒になったバナナを見て驚く。「腐ってるんじゃないですか?」
「いいから食べてみろ」と促され、おそるおそる口に運び、また驚く。「おいしい!」
 水木せんせい、くだもの屋で、腐る一歩手前のバナナを100円に叩いて買ってきたのだ。

                          *

 そういう場面を見せられているこちら側の食卓にも、バナナがのっていたのである。黄色くてきれいな、きれい過ぎるとも云えるバナナ。当時バナナが贅沢品でもあったことと、黒いバナナ——おまけに、水木せんせいが戦地でバナナに救われた話まで——と。いったい、これをどう胸におさめれば、ふさわしい悟りを得られるのだろう。

 現代の貧乏と、当時の水木せんせいのお宅のようなのと、同じ困窮(こんきゅう)でも、なかみがだいぶちがうような気がする。いまのは……、借金がかさんでいくとか、ローンの返済が苦しいとか、子どもの学費がふくらんでいるとか。それでどう困るかと云えば、食べられないわけではなくて、余裕がないという話だ。そういう困窮は、ほんとうの貧乏ではない。「貧乏(仮)」くらいの状況か。
 まさしくそんな類(たぐい)の経済の困窮を、わたしも経験している。子ども時代、不自由なく暮らさせてもらったおかげで、困窮はめずらしくもあり悲壮感はなかったものの、そこをどう切り抜けたものか、知恵のほうもまた、薄かった。
 第一期の困窮は、母子家庭の時代にやってきた。母子家庭になるのと同時に出版社を辞めたりするからそういうことになるのだと、ひとからも云われたし、自分でもわかっていたのだが、そうしたかったのだからしかたがない。あのとき、わたしは生まれて初めて「約しく暮らす」こころを持ったのだった。
 第二期の困窮は、わたしと夫の仕事具合が思わしくなかった時期である。あのときの困窮、大学生の子どもを抱える身にはかなりこたえた。
 が、二回——いまのところ——の困窮は、わたしの暮らし方に、楔(くさび)を打ちこんで過ぎていった。楔と云うからには、あれである。車の心棒にさして車輪が抜けないようにするものだったり。もの同士をつなぎ合わせるものだったり。
 暮らしの楔、そりゃ、なんじゃ。
「おもしろがり」ではないかと思う。
 約しく暮らそうとすることなんかおもしろいものかと、困窮を経験する以前のわたしなら、うそぶいたことだろう。うふふ。そのおもしろさのなかには、こんなのもある。

 約しさのなかで贅沢が際立つ。

 この話は、いずれまた。

※しげーさん
わたしの気に入りの本『のんのんばあとオレ』(講談社漫画文庫)に登場のしげる少年を、「のんのんばあ」——水木せんせいに絶大な影響を与えた人物——は、そう読んだ。


2010

ことしの梅仕事、終了しました。

梅シロップ 梅3kg分(瓶2本)
梅酒 7kg分(瓶7本)

梅酒を漬けては、階段にならべていたら、
たのしくなってきました。
こういうのこそ、
「約しさのなかで際立つ贅沢」だと
思えます。

昨年つくり過ぎて、まだあるので、
ことしは梅干しを休みました。


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「困窮」についてひとこと。
自分にはお金の勉強が足らなかったという
反省があります。
皆さんは、そんなことないと思いながらも、
1冊の本(ムック)をご紹介します。
「お金のきほん」(2010ー2011年増補改訂版)。
じつは、この本、わたしの本をつくりつづけてくれている
Nさんによる仕事(編集)です。

先日、この本をじっくり読み、感心しました。
そうして、もうちょっと早くこれを読みたかったなと
思いました(Nさんは、「50歳からのお金のきほん」というのも、
つくっています)。

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2010年6月15日 (火)

みどり

 ツカレタ、と呟いてみる。
 もう一度呟く。
 こんどは、クタビレタ、と。

 気づかぬうちに疲労していることがあって、それは、ともかくうっかりしているからなのだが、こんなうっかりは返上しないといけない。それでときどき、「ツカレタ」、「クタビレタ」と呟いて、たしかめるようにしてみているわけだ。
 呟きとしては、たのしい類(たぐい)のものではないけれど、これで少しは気がつくようになった。
 気がついてどうするか。若いころは、長めの睡眠をとれば疲労から立ちなおることができたのに、このごろのは、そういうことではなおらない。——ような気がする。
 もう少し、込みいった風に疲弊(ひへい)しているのだった。

 何かが不足している。
 何だろう。
 静けさ。ビタミン。ぼんやり。
 と、つぎつぎ考えていく。なんだか、ごろんところがりたくなる。この家では、子どもたちしかいわゆる寝台を持たないので、ころがる先は、主(ぬし)のいない3階の寝台。気に入りは、末の子どもの寝台だ。この子の部屋にはまだ幼さがあって、誰かの休息を引きうけてもかまわないというくらいの甘さが残っている。四畳半のこじんまりした部屋で、南の窓からは空が見えて。その寝台にころがれば、空のなかにころがるも同然という身の上になる。
 ここでこっそり。そうしよう。
 窓の向こうに、朝方干した洗濯ものがひるがえっている。気持ちのよい眺めだ。干したのはわたしで、干し具合もなかなかよろしい。そのひるがえりを眺めながらぼんやりしていると、こういうことで不足していたものが満ちるかもしれないという期待が湧く。そして「クタビレ」が消滅するかもしれない、と。  
 ところが、だ。
 まだ、ちょっと足らないものがある。
 ころがりからなおって、2階の居間兼食堂に下り、狭いベランダにならんだ鉢植えに目をやる。すると、足元からぴくんと上がってくるものがある。おやおや上がる、上がる。
 みどりだ、みどりだと気づく。こんなにわずかな「みどり」なのに。
 そうして、ここへもう少し「みどり」をと思いつき、思いつくなり靴を履いて、隣町の大きな園芸店にむかって歩きだしたのだ。
 ハーブを植えてみようという算段。みどりだ、みどりだと、行きの道も帰りの道もはずんでいる。こういうのが「当たり」ということだろうし、「命中」なのだと思う。

 そういえば、これまで「みどり」という名前のおひとに、ずいぶんと出会ってもきた。ひらがなで「みどり」、カタカナで「ミドリ」。漢字だと「緑」、「翠」、「美登里」。たしか従姉(いとこ)の子どもが「美鳥」だったはずだけれど、あれは意味がちがうのだろうか。そうそう、緑子(みどりこ)さんという方もあった。
 なんにしてもいい名前だなあ、とあらためて感心する。

 晩ごはんをつくりはじめる時間をすこうし過ぎてまで、その日、わたしは「みどり」をさわっていた。

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それからひと月半。
ハーブたちは元気に育っています。
目やこころに効くばかりでなく、
台所でも活躍してくれています。
うれしい「みどり」。


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昨年「フウセンカズラ」にしてもらった日よけを、
ことしは「朝顔」にしてもらうことにしました。
どうか、うまくいきますように。

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2010年6月 8日 (火)

「あっち」と「こっち」

 「木下順二」の『夕鶴』を調べなおしたそのつづきで、民話を読みふけってしまった。「ツブむすこ」「こぶとり」「わらしべ長者」「瓜コ姫コとアマンジャク」「ききみみずきん」「彦市ばなし」……。
 読んでいると、民話にこめられた夢やあこがれ、こうあれかしと願う気持ち、ひと日ひと日のつとめをなさんという心がけが、伝わってくる。読まれる時代によっては、そこにこめられていたはずの、目には見えないものが薄まっていくのかもしれない、それはいかにもつまらないなあ、と思わされる。

 ある日のこと。
 めんどうな頼まれごとをした。
 めんどうなのには慣れているから、そういう場合は、文句を云う暇(ひま)に、さくさく片づけてしまうのがいいということも知っている。が、このたびのには、めんどうの上に「めちゃくちゃ」な感じがのっかっていた。
「めんどう」と「めちゃくちゃ」にのしかかられてはたまらない。と思いながら、ふと、「こぶとり」———一般的には「こぶとりじいさん」という呼び名で知られているかもしれない———のものがたりを思いだした。

                        *

 むかしむかし、右の頬に大きなこぶのあるじいさまがおった。
 ある日じいさまが、木を切りに山深く入ったところが、とつぜんはげしい雨に降られてしもうた。大木の幹に大きなうろをみつけて、そこへもぐりこんで雨宿りをした。夜になり、雨風はやんだが、闇のなかをうちに帰ることもできない。夜ふけになって、じいさまが潜んでいる木のまわりに、赤鬼青鬼が100人ばかりもあつまってきて、酒を飲み、踊りをはじめるではないか。
 その囃子(はやし)のにぎやかさ愉快さに、じいさまは思わず、むろのなかから舞ってでた。鬼たちはびっくりした。しかし、じいさまの踊りのおもしろいことといったら。
 夜あけ近く、鬼の親方はじいさまに「今夜ほどおもしろかったことはない。じじい、きっとまたこいよ」と云い、その約束の証として、じいさまの頬についている大事そうなこぶをねじりとってしもうた。
 さてじいさまの家のとなりに、もうひとりじいさまがおって、このじいさま、左の頬に大きなこぶがついておった。右の頬にこぶのあったじいさまに鬼にこぶをとってもろうたという話を聞くと、自分もこぶをとってもらおうと山に入った。しかし、となりのじいさまは、自分が踊りをできないことを忘れておったのだなあ。その踊りは、踊りともいえないようなものだった。
 まずい踊りに腹を立てた鬼は、このじいさまの右の頬に、預かってあったこぶをなげつけた。となりのじいさまは、右と左と両方の頬に、こぶのついたじいさまになってしもうたのだ。

                        *

 というのが、「こぶとり」のものがたりだ。
 どうしてこれが浮かんだものだろうか。
 ……わたしに「めんどう」と「めちゃくちゃ」とをごたまぜにしたものを投げつけてよこしたのは、鬼ではないが、鬼みたような存在である。
 こぶとりのじいさまは、当然ながらはじめは鬼を恐がっていたのだが、うろから思わず舞いでてしまったあのときには、恐ろしいはずの鬼を信じていたのじゃないだろうか。無意識のうちに親しみも抱いた。
「こぶとり」のおはなしの「そこ」が初めて見えた。
 さて、わたしも。
 鬼を信頼してみたらどうなるか。

 鬼、いや、わたしの相手を信頼して、なんとか持てるだけの親しみもかき集めて、いまのわたしの都合を話してみた。踊るわけにはいかなかったので、訥訥(とつとつ)と話す。その結果、わたしは、「めんどう」からも「めちゃくちゃ」からも解放されたのだった。わたしが「それ」をする必要が消え去って、無罪放免。こぶがとれたじいさまよろしく、晴れ晴れとしたものだ。
 こんなこともある。
「あっち」——このたびは、民話だったなあ——で起きているひとごとが、じつは「こっち」に生かせるわがことになるというようなこと。
 遠い話だと思っていることが、近くの、もっと近くのもしかしたら自分の話になったり。
 無関係だと決めていることが、決して無関係ではなかったり。


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「無関係」に見えるモノが、思いがけないところで働く、
ということ、家のなかにもたくさんあります。
たとえば、これ。
文房具の、紙を束ねるのに使う「リング」が、
いろんなところで活躍しています。
たとえばチェストのなかでは、ベルトかけに。

机のひきだしのなかで、
いろいろな大きさの「リング」が、出番を待っています。

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2010年6月 1日 (火)

『夕鶴・彦一ばなし』(木下順二著)  本のなかの暮らし〈5〉

つう——
 与ひょう、あたしの大事な与ひょう、あんたはどうしたの? あんたはだんだんに変って行く。何だか分らないけれど、あたしとは別な世界の人になって行ってしまう。あの、あたしには言葉も分らない人たち、いつかあたしを矢で射たような、あの恐ろしい人たちとおんなじになって行ってしまう。どうしたの? あんたは。どうすればいいの? あたしは。あたしは一体どうすればいいの? あんたはあたしの命を助けてくれた。何のむくいも望まないで、ただあたしをかわいそうに思って矢を抜いてくれた。それがほんとに嬉しかったから、あたしはあんたのところに来たのよ。         『夕鶴・彦一ばなし』「夕鶴」(木下順二著・新潮文庫)

 「木下順二」(※1)が2006年10月30日、92歳で亡くなったとき(訃報は、死後ひと月たって明らかにされた)は、大きな1本の樹がたおれ、目の前に虚ろな平原がひろがったようだった。
 若いころ、勤めていた出版社で、2度か3度お見かけしたことがある。初めてのときは、戯曲『子午線の祀り(しごせんのまつり)』(河出文庫)を「文藝」に発表されたすぐあとだったと思う。額にかかる髪を、頭を軽く振ってはらう仕草は、なんとはなしに少年を思わせたが、瞳の奥に宿る光にはただならぬものがあった。ほんとうに、大きな1本の樹のようだった。
「あなた、『子午線の祀り』を観にゆかない?」と、編集部で2年先輩の友人に誘われ、当時から腰の重かったわたしにはめずらしく、ふたつ返事で「ゆく」と答えた。当日、東京国立劇場に行ってみると、わたしの席は、編集長と、20年も先輩のMさんにはさまれていた。友人は、急な仕事で来られないという。「なんて窮屈な」と、若かったわたしは縮み上がったが、幕が上がるや、そんな思いなどどこかへ飛び去ってしまった(1979年初演。演出・宇野重吉ほか)。『平家物語』を翻案した作品で、舞台は平家滅亡の壇ノ浦、主人公は新中納言知盛だ。「群読」でものがたりは語られていく。日本語の確かさ、うつくしさが、こつこつと胸底を叩いた。
 そうして、こつこつは、いまもつづいている。そんな気がしてならない。あの日からわたしは、「木下順二」という樹の木陰で、日本語を思っていたようなものだ。
 この世からその存在が消えたからといって、何もかもが消滅するはずはないけれど、「木下順二」が亡くなったときには、たしかに、目の前に虚ろな平原の広がりを見た。あれは、いつまでも木陰に安穏としていてはならないという、示唆であった。——と思っている。

 いつか『子午線の祀り』の話を長長と書き連ねてしまったが、このたびは『夕鶴』なのだった。
『夕鶴』を、『子午線の祀り』においても「影身の内侍(ないし)」という重要な役どころを担った「山本安英(やすえ)」(※2)に演じさせるため、「木下順二」は書いた。——と云われている。新潟県のあたりに伝わる民話をもとに書かれたが、ともかく、『夕鶴』の作者は「木下順二」である。
『夕鶴』の、冒頭に引用の数行だけでも、そっと声に出して読んでみると、「つう」の哀しみが滲(にじ)む。日本語のうつくしさとともに、それが沁みてくるのがわかるはずだ。

 ときどきわたしは、自分の身から羽根を抜いて織っている「つう」の姿を想像する。そして、恥ずかしいことに——ごくたまにではあるけれど——「わたしだって、身から羽根を抜いて……」と思いかけることがある。しかし、その恥知らずの思い方は、すぐと打ち消される。
「つう」は報いを望んでなどいないのだ。そこへいくと、わたしなど、ぜんぜんだもの。世のなかにならって、小さい欲望をくつくつ煮ているようなのだもの。
『夕鶴』には、楽しいふたりの暮らしが僅(わず)かしか語られず、数頁もめくればたちまち「つう」のこころが沈んでいく。
 村人に唆(そそのか)され、「おかね」を気に入ってしまった「与ひょう」も、本来無償のひとである。「えへへ。つうが戻って来て汁が冷えとってはかわいそうだけに火に掛けといてやった。えへへ」というような人物だ。

 最近考えている。
 世のなかにならって生きるのでない道を考えてはいけないのか、と。「与ひょう」のようなひとが、世にならったところで、決してうまくいきはしない。現に——という云い方は、おかしいかもしれないが——「おかね」をちょっと気に入っただけで、それまでもっていた静かな、そして楽しい暮らしも、うつくしくやさしい女房も失うことになって。
 けれどもまた、世のなかにならう、とはどういうことだろう。
 もっと云えば、世のなかとは何だろう。
 自分はたしかに世のなかに参加し、自分はたしかに世のなかをつくっている。そうにちがいない。だから、世のなかは、自分の一面でもあるはずなのだ。
 けれどけれど、踏ん張らなくては。いつしか、自分の存在が、かかわりなきかに思える——そして、ことばもわからないひとたちのいる——そんな遠き「世のなか」にからめとられぬよう。
 そういえば……。また『子午線の祀り』の話になるけれど、ある深遠なる詞であはじまり、また締めくくられる。結びは、こうだ。

そのときその足の裏の踏む地表がもし海面であれば、あたりの水はその地点へ向かって引き寄せられやがて盛り上り、やがてみなぎりわたって満々とひろがりひろがる満ち潮の海面に、あなたはすっくと立っている。
   

※ 1 木下順二(1914 – 2006)
劇作家。評論家。
東京生まれ。東京帝国大学文学部英文科でシェイクスピアを学んだ。第二次世界大戦中から民話を題材とした戯曲を書く。49年、『夕鶴』を発表。著作は『神と人とのあいだ』『おんにょろ盛衰記』『オットーと呼ばれる日本人』『ぜんぶ馬の話』ほか、多数。シェイクスピアや、イギリスの民話集の翻訳も多数におよぶ。
※ 2 山本安英(1906 – 1993)
新劇女優。朗読家。
「築地小劇場」の創立に参加、第一回の研究生となる。1965年「山本安英の会」を主宰。「夕鶴」は1949年初演以来1986年まで37年間(公演数1037回)、「山本安英」ひとりがが「つう」を演じている(「山本安英」の死の4年後、「坂東玉三郎」が演じた)。著書は『おりおりのこと』『女優という仕事』ほか。


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踏ん張ろうと考えて、最初に思いついたのが
これでした。
もやしのひげ根をとる。

こういう仕事は、
無償のこころでしているかもしれないなあと
思えて……。

〈お知らせ〉
三越エコキャンペーン
第2回「束(つか)見本フリーノートチャリティ」(6月2日―8日)
役目を終えた束見本をフリーノートとしてチャリティ販売 (1冊200円~)。 

※束見本とは、実際と同じ用紙にてつくった製本見本のこと。

このキャンペーンのイベントとして、
6月5日(土)に、小さな「トークショー」が開催されます。
「作家が語る日本の自然と環境」
進行:田中章義(歌人・詩人・作家)
ゲスト:山本ふみこ
会場:日本橋三越本館1階 中央ホール
日時:6月5日(土)
   12:30~ 14:30~の2回

おついでがありましたら、ちょっと覗いてください。

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2010年5月25日 (火)

気づきの「風景」

 箒目(ほうきめ)が立っていてね、そのすがすがしいことと云ったら、という話を聞いていたので、香川県高松市に行った折りにはきっと出かけようと決めていた。
 1日3回、決まった数のひとを案内することになっており、見学と見学のあいだには、そこのひとたちがていねいに箒目を立てるという話だった。出かける前に、往復はがきで申しこみをしておくというのにも、惹かれた。
 それほどの念の入れようなら、さぞすごいものを見せてくれるのだろう、とは、多く現代(いま)の心の模様である。けれどわたしには、箒目の値打ちも、往復はがきのも、慕わしい。どちらも、時間と手間のかかることをあらわしていて、どうにもなつかしく、愉快なのだ。

 高松市内からタクシーに乗りこみ、牟礼(むれ)という、四国のかたちの北東あたりの、こちゃこちゃと入りくんだあたりをめざしてもらう。「『イサムノグチ庭園美術館』(※)ですか。聞いたことはあります。だいじょうぶ、行けるでしょう」と、若い運転手の心もとない返事にもかかわらず、20分ほどで到着した。
 そう、目的の箒目は、「イサムノグチ庭園美術館(The Isamu Noguchi Garden Museum Japan)」にある。地図で見ると、少し行けば海だが、あたりは山の気配に包まれ、緑が際立っている。
 少し手前で車を降り、受付に向かって歩きながら、20年前、「イサムノグチ」がイスラエル美術館のために設計した「ビリー・ローズ彫刻庭園」を訪ねたときのことを思いだしていた。
 当時、荒野に現代アートはなんて似合うんだろう、と感心したのをおぼえている。「わたしは、『イサムノグチ』も、荒野も、大好きだ」
 あのとき見えなかったものを見、あのときとは異なる感懐を、わたしは抱けるだろうか。

 さて、「イサムノグチ庭園美術館」の受付で、お百姓がかぶるようなつば広の麦わら帽子を貸してもらい、時間がくるまでじっと待つ。呼ばれたので、しずしずと歩きだす。
 なるほど、地面の細かい土には、竹箒で掃いたあとが、そろってのびている。箒目の大事なことが、そっと伝わる。そっとである。
 作業蔵。屋外展示。展示蔵。「イサムノグチの家」。彫刻庭園。見たところは、なにもかもさりげなくて、こちらに準備がなければ、そのなにもかもを見逃してしまいそうな佇まいだ。
 そうでありながら、圧倒的なものが寄せてくる。
 箒目も、石も、彫刻作品も、そこにあるすべてのもの、空間も、風も、木木も、すべてがふさわしくそこにある。

 ふと、自分を思いだした。
 ああ、そうだった、と思った。

 暮らしに直結のわたしは、箒目の上をそっと静かに歩きまわりながら、10日あまり前にした自分の衣更のことを思っていた。本来、自分がこうと決めていたのでないものが、いくつも混ざっている。あれも、ちがう。これも、ちがう。
 ふさわしいというのは、自分のことでもあり、相手(この場合は、モノ)のことでもあるのだった。そして自分と相手の話になる。

 悔やむ気持ちをひろげながら、胸のなかはすっきりとしている。思いだし、取り戻せそうな気がした。

※ イサムノグチ(1904ロサンゼルス – 1988ニューヨーク)
英文学者で詩人の野口米次郎と、作家レオニー・ギルモアとのあいだに生まれ、少年期は日本で育つ。渡米して彫刻家を志し、アジア、ヨーロッパを旅して学んだ。パリで彫刻家ブランクーシの助手をつとめる。ニューヨークに居をさだめ、肖像彫刻、舞台美術をへて、環境彫刻やランドスケープ・デザインにまで幅広い活動を開始。戦後は日本でも陶器作品や、和紙を使った「あかり」のデザインなどを行う。(「イサムノグチ庭園美術館」リーフレットより抜粋)

20100525

「イサムノグチ庭園美術館」では、撮影ができません。
あとから思いだし、思いだし、屋外展示のなかの「ひとつ」を
描いてみました。
石というものを、初めて見たような心持ちになりました。
向きあって、しばらくそのままでいました。

玄関口から覗いた「イサムノグチ」の家(丸亀の豪商の屋敷をうつした
住居)にも、衝撃を受けました。
余計なもののひとつもないその様子が、目に焼きついています。

          *

〈本のなかの暮らし 5〉は、次週に。

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2010年5月18日 (火)

見劣り

 不思議な春だった。
 何か云いた気な様子で、すぐとは暖かくならなかった。

 おもしろかったのは、桜だ。
 なんて律儀な、と思った。
 その明るさ、うつくしさからは連想しにくいけれども、桜は生真面目であるらしい。寒寒としたなかに、ちろっと訪れた温(ぬく)みを機会にほころび、つぎの温みでまたほころび、そうして、ほぼ例年通りに咲いてみせた。
 太古から、ひとの世に咲き、愛(め)でられてきた桜の、ひとへの義理立てという面もあるのだろう。
 咲いたはいいが、ゆるむこともならず、凍りついたように咲きつづけた桜を見上げて、すまないような気がした。

 いつもなら春の気配を感じると、つい心はやるわたしも、ことしばかりは、衣更(ころもがえ)をなかなかできなかった。やっとそれをする気になったのは、5月に入ってからだ。
 書斎でもあり、ときに家事室にもなるわたしの部屋に、大小3種類の衣装箱を置いて、わたしはさくさく衣更をした。3種類とは、こうだ。三女とわたしのブラウス、Tシャツ、セーター、ワンピース、スカート、パンツ類。下着、くつした類。寝間着類(衣類の少ない夫のは、ひきだしの前後を入れ替えるだけ。上の娘たちのは、それぞれで)。
 衣更は、すぐに終わった。あらかじめ洗濯(一部クリーニング)もしておいたし、衣類そのものが多くない。終わった、終わった。ちょっとした違和感が残ったけれども、ともかく。

 2週間後、ある風景のなかで、はっと気づく。
 あのときの違和感は、ここ数年、いまのわたしが本来の自分から逸(そ)れていることからくるものだったことを。衣装箱のなかみが、それを、わたしにつきつけていたことを。
 衣装箱のわたしの衣類は、なんというか、饒舌になっていたのだ。花模様やら色ものやら。もう少し簡素に調えていたはずだったのに、いつの間にこのようなことになったのだろう。
 どうやら——。見劣りしないように、というこころで、わたしは衣類を持つようになっていたらしかった。いったい何に比しての見劣りなのか、いくら考えてもわからなかったが。
 先(せん)にも、こういうことはあった。
 うちに遊びにきた友人が「この家、生活感がないね」と云ったそのひとことに、囚われたのがはじまりだった。生活感とは何だろうか、と悩みながら、無意識のうちにごたごたとモノを置いたのである。
 息がつまりそうになった。そうしてやっと、こういうのは自分から逸れた暮らし方だと、気がついたわけだった。

 さて——。
 わたしにはっと気づかせた「ある風景」のはなしは、来週また。


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この春、あたらしくした客用スリッパです。
前のは、ずいぶん長く働いてくれました。
これとも、長く一緒に暮らせますように。

さて、このスリッパ、サイズが2通りあります。
大きめのものと、普通サイズと。
そのちがいは大きいものではなく、どれがどれだか
わからなくなるのは目に見えています。
大きめのものに、印をつけることにしました。
若い頃に使っていたブレスレットを使いました。
こういうことは、暮らしのなかの急所だと、
わたしは思います。 
 
 

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2010年5月11日 (火)

めでたきこと

 田植えの時期というのは、まちまちだ。
 埼玉県熊谷市にある夫の実家のあたりの田植えは、6月上旬と、かなり遅いのだ。
 なぜ遅いのか。
 二毛作(麦と稲)で、麦の場から稲の場へのうつりの作業のせいだろうか。麦の気配を土から消し、稲を待つばかりの土にするのに時を要するからだろうか。
 夫に尋ね、かえってきた答えは「二毛作も田植えの遅い理由にはちがいないけれど、水のこともある」というもの。思いがけない答えだった、田のことの少しもわからないわたしにとっては。
 田には、水が要る。
 その水を、どこから引いてくるかというと、川からである。熊谷のあたりは、荒川から水をもらうことになる。
 その昔、稲作には水争いと洪水がついてまわっていた。
 雨が少なくなると、川の水が少なくなる。そんななか、上流の堰(せき)で水をとってしまえば、下流の堰では水がとれなくなってしまう。水は、高いほうから低いほうに流れていくわけだから、本来、低いほうから順にとってせき止めていかなければならないということだ、なるほど。 
 反対に大雨が降れば、川の水がふえて洪水になり、堰が壊されて堰そのものをつくりなおさねばならなくなる。これも、なるほど。

 熊谷に水をくれるあたりの荒川では、大正時代に堰をととのえ、下流から順に取水することとした。
 そういうわけで、荒川流域の山寄りに位置する熊谷の取水は遅くなり、それで田植えも遅くなるのだった。
 お百姓——このことば、とても好きだ——にとっての、こうした「あたりまえ」に感心する。この歳になってやっと知ったのであったとしても、感心できることはめでたい。

 前置きが長くなったが、わたしは5月のはじめに、もうひとつ、めでたい目に遭った。熊谷の家で、田植えの準備をちょこっと手伝うことができたのだ。ほんとうにちょこっと。
 それは田植機専用の稲の苗床に、土を入れる作業だ。こういうところが農業のきびしさおもしろさだと思うのだが、適当に土を入れておけばいいというのではなかった。土の分量が決まっている上、表面をならして平らにしておかなければならない。わたしは夫と向かい合って、それをする。
 義母(はは)は門の前にビニールシートを敷くと、苗箱をはさむように両脚を前に投げだして坐り、手順を見せてくれる。土をすくい入れて、その表面を専用のものさしみたいなものでならすのだ。ははときたら、前屈の姿勢になって、楽楽その作業をこなしていく。これが、わたしにはむずかしかった。からだがかたいからだろう、前屈しても、苗箱の表面全部をならしきれない——苗箱のむこう岸に手が届かない。
 そこで考えた。
 この作業、立ってしたら楽なんじゃないだろうか、と。納屋からお誂(あつら)え向きのケースをふたつ持ってきて重ねて置き、その上に苗箱をのせて……。土も袋から出さずに、袋からすくいとったほうが具合がよさそうだった。
 夫とふたりで、ささやかな工夫を重ねながら、思いついた工夫を自慢し合いながら、1時間半ほどで、150個近い苗箱に土を入れることができた。

 工夫って、楽するためにするものなんだな、と、ある意味では「あたりまえ」ともいえることに気づいて、めでたがる。


1

苗箱に土(すでに有機肥料がいい塩梅に
混ざっている)を入れ、苗床の準備を。
ほら、立ち仕事です。



2

土の表面を平らにならします。
土の量は、かなり育苗に影響があるそうです。
絶妙な量をさぐり当てるまでに、年月もかかったとか。



3

作業がおわりました。
こうしてできた苗床に稲のタネを植えつけるのは、
5月半ば。
ますます、米が、ご飯がありがたく思えます。

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2010年5月 4日 (火)

「しゅわれ」

 何のことにせよ、忙しさに身が覆われ気持ちがあせりだすと、決まって夢にねずみが出てくる。驚くほどの大ねずみ、尻尾も長い元気者が、夢のなかを駆けていく。
「ああ、またみてしまった」
 わたしは、目を覚ます。

 ねずみとわたしには、縁があるのかもしれない。
 学生時代もおわりのころの話だが、ひとりで6匹のねずみと戦いながら8人分の料理をするという羽目に陥ったことがある。春休みのたのまれ仕事で、わたしは料理当番だった。
 古い家に入ると、何やらごとごととモノがころがるような音がする。ねずみだなと思った。
 狭い台所で立ち働いていると、目の前をするするとねずみが走る。物置の奥から、古いねずみ捕りを探しだし、3つ仕掛けたが、それですぐに解決するはずもない。現にねずみは、わたしの視線の先をこれ見よがしに走り抜けていく。仕方がないので、もうもう、鍋ぶたを盾にしながら、料理をこしらえようという構えである。その状況に、ねずみをどう思うか、などとは一切聞かれていないのだった。怖いなどと云っている間もなかった。とにもかくにも、気がかりなのは衛生だ。
 ———きょう1日働いているひとたちのお腹に、まともなごはんを納めないといけないの。たのむから、あっちに行って。
 使う鍋をごしごし洗い、すべての器具類を煮沸しながら料理は、なかなか先にすすまない。わたしは何をつくったのだったか。

 ご飯。
 野菜の味噌汁。
 豚肉のピカタ(下味をつけた肉や野菜に小麦粉をまぶし、とき卵をからませてソテーしたもの)。
 人参グラッセ。
 粉ふきいも。
 たくあん。

 学生時代の、わたしの洋風料理の領域といえばこれだった。うろ覚えだが、大きなまちがいはないはずだ。
 その日、無事に———誰のお腹具合もわるくすることなく———晩ごはんを仕度することができた。翌日はまた朝ごはんをこしらえるわけだったが、朝になると、ねず公たちは、もう1匹残らずいなくなっていた。どこかに逃げ去ったものもいただろうけれど、夜のうちにねずみ捕りに3匹かかった。わたしはひとりで防火用水にこれを沈め、讃美歌の「主われを愛す」(プロテスタント系の学校だった)を歌った。
 1番から4番まで歌った。諳(そら)んじている讃美歌が「主われを愛す」(讃美歌461番)だけだったからだが、「しゅわれをあいす」のことばの連なりが、その語の意味を超えて———超えているというよりも、届ききらずに、だろうな———わけのわからないものを飲みこんでくれる存在に思えていた。つまり「しゅわれ」という何かだ。
 若かったわたしは、「しゅわれ」にすがるしかなかった。
 あの日の体験は、わたしにわけのわからなさを植えつけるのに、じゅうぶんなものだった。目の奥には水のようなものがたまって、いつ、それがあふれ出すかわからないといった感覚もある。
 助けて、「しゅわれ」。
 ねずみの生きる都合を踏みにじって捕え、こうして防火用水にねずみ捕りごと沈めている自分が、儚(はかな)く思えてならなかった。
 3匹沈めたあと、またねずみ捕りを仕掛けて休み、朝みると、また3匹かかっていた。これをまた、こっそり沈め、「しゅわれ」を歌う。「しゅわれ」の1番には「われ弱くとも 恐れはあらじ」というところがある。弱くはないが———ねずみと戦ったあとだったから———恐れはあるよ……と、思う。
 あのときからだ。わたしは、ねずみと云うと、こんがらかっていくようになっている。
 ねずみとわたし……。
 ねずみと人間(ひと)……。

 先週夢のなかでねずみに遭い、ついこんなはなしをしている。およそねずみ的な存在にも無頓着でいてはならないと、夢のねず公たちは伝えているのか。ねずみも、何かをおしえているのだ、と?

                         *

 そしてこれは一昨日。
 ひとりでてくてく歩いていたら、茂みからシマヘビがあらわれた。うつくしいシマヘビだった。最近、自分がヘビ好きだということに気がついて、友だちに、
 ———どうもわたし、へびが好きみたいなの。
 と、打ち明けたばかりだ。
 そこへ、シマヘビ。なんだかありがたいような心持ちになって、わたしは久しぶりに「しゅわれ」を思いだす。

Photo
文中に登場した煮沸(しゃふつ)
――殺菌――好きな仕事です。
空き瓶ができると、こうしてぐつぐつ10分間。
煮沸のあとは、布巾をひろげた上に瓶をふせて置き、
自然に乾かします。

本来煮沸は、瓶になかみを詰める直前に
するものですが、
うちの空き瓶は、こうして出番を待っています。
ジャムや保存食の場合は、直前にも煮沸しますが、
ちょっとしたものを入れるときは、そのまま詰めてしまいます。

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2010年4月27日 (火)

『行きつ戻りつ』(乃南アサ著)  本のなかの暮らし〈4〉

 ―人生なんてね、石段をゆっくり登り続けるようなものなのよ。最後まで登ってみなきゃ何が待ってるか分からないし、見えてくる景色だって変わるに決まってるんだから。
 どきりとした。彼女は思わず立ち止まって自分の周りを見回した。静寂だけが辺りを包んでいる。今は、波の音も聞こえなかった。
 あれは、いつのことだったろう。息苦しささえ覚えながら、彼女は目まぐるしく考えを巡らせた。小言や説教は、しょっちゅうだった。だが確かに以前、一度だけそんなことを言われた記憶がある。
 ―いつでしたっけ? ねえ、お義母(かあ)様。
                      『行きつ戻りつ』(乃南アサ著・新潮文庫)

 旅が好きだ。
 「たび」と聞くだけで、はずむ。
 いわゆる旅の、多いほうではないのだけれど……。
 そも、旅というものの定義はどうなっているのか。
 広辞苑にあたってみると、「住む土地を離れて、一時ほかの土地に行くこと。旅行。古くは必ずしも遠い土地に行くことに限らず、住居を離れることをすべて『たび』と言った」とあった。
 なるほど、「住む土地を離れて」か……、と得心する。
 それでわたしたちは、休暇を利用して旅行、以前から行ってみたかった旅館に泊まる、というのこそを旅だと考える。そういうのも旅にはちがいないけれど、そういうのでない旅もある。
 そういうのでないほうの旅をしていることに、ひとはときどき気づかずに、つまり、出たことも帰ったこともわからないままでいることがある。
 「ああ、あれは旅だった」と、あとで気づいて、旅の日日を思い返したりする。「住む土地を離れて」ではなく、「常の自分を離れて」ということか。

 『行きつ戻りつ』は、「乃南アサ」の旅のものがたり集である。
 そこにはかぐわしい旅の風景がひろがっていて、それだけで、わたしなどは、じゅうぶん旅をさせてもらえるのだけれど、描かれているのは人生行路の、ある側面ともいえる。
 秋田・男鹿(おが)。熊本・天草。北海道・斜里(しゃり)町。大阪・富田林(とんだばやし)。新潟・佐渡。山梨・上九一色(かみくいしき)村。岡山・備前。福島・三春。山口・柳井(やない)。福井・越前町。三重・熊野。高知・高知市。
 12の旅先を著者は選んで、事情を抱えた妻たちを旅立たせている。「乃南アサ」が自ら12の旅をしている証拠に、まこと風景が真に迫っている。風景が真に迫るなどとは、作品に対してかぶせることばとしては並に過ぎるが、迫るのだから仕方ない。
 登場人物が抱える事情が、旅先の風景のなかで風景に変わり、迫ってくるというわけだ。事情を抱えず生きているひとなど、この世にいはしない。「わたしは抱えていない」と云いきるひとがあったなら、「そこのところが、あなたの事情です」と伝えなければなるまい。そうして『行きつ戻りつ』の12のものがたりはたしかに、それぞれの胸に迫るのだ。
 このものがたり集を読んで、サスペンス(あるいはミステリー)において文学世界を切り拓いてきた著者にめずらしい作品、と思った方もあるかもしれない。純文学やらエンターテイメント(?)やらという分類に対して懐疑的なわたしは、各方面の都合がこしらえている分類などは蹴飛ばして、「乃南アサ」の人物の観察の深さと、それを描く筆力について、くどくど語りたくなってしまう。
 読み手の「場」と「こころのありよう」によって、受けとるものの、味わうものの異なり具合といったら、もう。

 冒頭の引用は、「姑の写真」という最初のものがたり、姑と嫁の秋田県男鹿への旅のくだりだ。前に2度読んだとき、素通りしたものかもしれないけれど、このたびははっとして足を止めた。ひとは、いつでもひとと向きあうことができる、願いさえすれば、とおしえられたような気がして、救われたのである。

 

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「旅」というと、旅支度です。
「旅支度」というと、うちの者たちは、まず
「布のふくろ/かばん」のひきだしから、ふくろもの、
大風呂敷を出してきます。

ふくろものは下着入れや、
風呂に行くときのかばんになります。
その他の衣類は大風呂敷(90×90cmの大きさに縫ってある)
に包みます。

     *

〈お知らせ〉
つづいて、ひとつお知らせを。

★第8回「さぬきの食卓会議」
ゲスト・乃南アサさん
「自分の取り扱い説明書を書くとしたら……」
(案内人/山本ふみこ)
2010年5月13日(木)
開場:18:30/ 開演:19:00(21:30終了予定)
料金:5000円(ワンプレートディナー+ワンドリンク付き)
会場:高松丸亀町壱番街4階エアリーレストラン ルーチェ
お申しこみ:087-822-2203(ルーチェ)
* 現在の〈さぬきの食卓会議〉シリーズは今回でひと区切り。
またカタチを変え、「まち」と「ひと」をつなぐイベントとして再開する予定です。
* 定員になり次第締め切らせていただきます。

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2010年4月20日 (火)

なんだ、こりゃ

 風景だったのだ、と思った。
 友人のことなのだが、ひとに「風景」をあてはめるのがふさわしいかどうかと迷いながら、それを伝えてみたのだった。

   わたしにとって、アナタとコウタクンは、大事な風景でした。風景なん
  て、と思わないでくださいね。
   それは……、
   そこにあるのがあたりまえで、
   ときどきどうしても眺めたくなり、
   好き、ということなわけですから。

   大事な風景が、なくなるわけではないけれど遠くなってしまうことは、
  かなり困ることです。目の前に、ぽっかり穴があいて。

                 *

 この春に転勤で群馬県に越していったひととわたしは、子ども同士が保育園、小学校と同級だったというつながり。保育園と学校で顔を合わすというだけのお互いだったが、そのことが「かけがえない」と思えるお互いでもあった。
 息子のコウタクンがまた、じつにおもしろく——わたしはこっそり「ハカセ」と呼んでいた——学校での発言や行動の端端(はしばし)を娘から、いつもたのしく聞いた。ハカセは読書家だったが、そういうところにも感心していたのだった。
 そんなとき、用事ができた。
 それは、ことし3月に卒業した小学校の残務で、その連絡をひき受けたわたしは、卒業のあと転居したひとたち4人のあたらしい住所に郵便をだすことになった。4人のなかにはハカセの名前もあって、ああ、手紙が書ける、とはずんだ。
 先方からは、すぐと「連絡受けとりました」という返事が届き、そこには、数行の近況——ハカセが、ジャージにヘルメットという出で立ちで自転車通学しているとあった——が添えられていた。ファクスだった。「送信テストのため、ファクスで送らせていただきます」と記されている。
 わたしは再度はずんで、「受信もテストしてください」と、こちらの近況——娘はぶかぶかの制服姿で、てくてく通学と——をファクスで送信。
 翌日、こんどはパソコンにメールが届く。このメールに対する、わたしの返信が、掲出の「風景」の一文だ。

 この春、もっともさびしかった事柄が静かにすくすく変化していくことに、驚く。わたしは、思わず「なんだ、こりゃ」と呟いた。この、思いがけなくもやさしい展開に、しみじみすることすら忘れ、はずんだこころで「なんだ、こりゃ」だったわけである。


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コートをクリーニングに出そうと思って
ポケットのなかを確かめたら、
こんなものが出てきました。

「なんだ、こりゃ」です、まったくのところ。


Photo_2

広げてアイロンをかけたら、こうなりました。
末の子どもが、小学校の科学遊びクラブで、
玉ねぎの皮でしぼり染めをした、ということです。

コートのポケットから出てきた思いがけないモノは、
わたしを驚かせ、いろんなことをおしえてくれました。

さて、このしぼり染め、何にしましょう……。 

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2010年4月13日 (火)

なりゆき

 その朝は4時前に目が覚めた。
 ゆとりのあるはじまりになるな、とうれしかった。目の前にするべきことが積まれており、よし、と自分を励まし、起きあがる。
 ところが、どうも躓(つまず)くのである。

 猫の朝ごはんを仕度するとき、足元の水をひっくり返す。
 冷蔵庫のなかで、豆乳が容器からこぼれだしている。
 パソコンに複雑な用件、それも急いで返答する必要のあるメールが届いている。
 前の日に、誰かがどこからか持ち帰ったらしい花束が———大花束だった———とりあえずバケツに入れてある。

 ゆとりだと計った分の時間が、水浸しの床を拭き、豆乳だらけになった冷蔵庫内を掃除し、頭を掻き掻きメールの返事を書き、花を3つの花器にいけることで消えてしまった。そういうわけで、日課の朝風呂をと浴室に向かったとき、時すでに6時。やれやれ、ちょっと急がないと。

 浴室に一歩足を踏みいれて、驚く。
 室内が、光であふれている。
 その光は、西側の窓からやわらかく静かにすべりこんできた。
 朝日である。
 湯船にからだを沈めながら、畏れ入る。
 こうして光のなかにあることが、自分にはふさわしくないように思えて、なぜか頼りない心持ちになる。なにしろ朝からあわただしく動きまわって、ここへやってきたときも、やれやれなどと呟いていたわたしだ。
 それでも、光のなかでじっとしている。
 数分後、光は他(ほか)へうつっていき、浴室は少し薄暗い、いつもの朝の佇まいにもどっていた。
 ふとアンデルセンの『絵のない絵本』を思いだす。貧しい若者の部屋を、夜ごと月が覗きこんで、その晩かあるいは前の晩に見たことをあれこれ話していくものがたりだ。雨や雲にはばまれて、月は、毎晩訪ねてこられるわけではなく、訪ねてきても、わずかな時間しか部屋にはいられない。けれどもそのものがたりには、ありとあらゆるものごとの本質が含まれている。
 わたしにも朝日(太陽)が何かを語りかけていったようだ。

「ここへわたしは、ほんの2分か3分ほどしか光を運んではこられないのです。やってこられる時間も毎日ことなります。……よく会えましたね。驚くほどいくつものことが重なって、会えたんですねえ」

 すべては「なりゆき」なのだった。
 この日目を覚ました時間も、躓きと思えた事ごとも、「なりゆき」。
 そういえば以前、「なりゆき」ということばを好きだった。ただし、密かに好きでいた。
「なりゆき」が好きなどと云えば、受け身が過ぎると、とくに仕事の仲間たちにあきれられてしまいそうで。けれども、「なりゆき」が、思いがけないものを生みだすところを、幾度も幾度もこの目で見てきたのだ。「なりゆき」を好きだったし、信じてもいた。
 いつしか忙し癖のついてしまったせいだろう、忘れていた。

「なりゆき」の不思議。
「なりゆき」のおもしろさ。

 それを朝日は告げ、思いださせてくれた。

 
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「なりゆき」のお話をしたあとで、
こんどは「あとさき」の話を。

写真は砥石です。
昨年の暮れに浅草の刃物店でみつけてもとめました。
小学校のPTAの卒業委員の仕事も忙しくなってきた時期で、
これを、その役目の、自分への「褒美」としようと思ったのです。
このたび、やっとこれをおろしました。
褒美を先にもとめておくなどとは、話が「あとさき」になるにも
程があるでしょうか……。

            *

セラミック中砥
(205×75×25mm)Bester♯1200
2,800円也。
 

 
 

 

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2010年4月 6日 (火)

忘却に

 ——あのころのこと、もう思いだしたくない。
 と、その女(ひと)は云う。
 ——……。
 ——あのとき、わたしはどうかしていて、それで……。
 ——……。
 思いだしたくないというのなら、その話、「あのころのこと」はしないでおこう、というのがわたしの考えだった。そも、わたしは「あのころのこと」がどんなことだったのかを、知らない。
 だから相づちも打たなかった。

 いつのころからか、ひとは記憶を崇拝するようになった。
 ものごとをおぼえこみ(記銘)、記憶として保存し、そうしてそれを呼びだす(想起)ことに躍起になる。ごたごたと記憶ひしめく頭を首の上にのせて、そこからいい具合に記憶を引きだせたなら、拍手喝采。
 もちろん、記憶がわるいわけではないけれど、忘れることをまるで尊ばなくなったのは、困りものだ。
「おぼえている」と云えば感心されるが、「忘れた」と打ち明ければ軽蔑される。「おぼえている」と「忘れた」には同等の値打ちがあるのではないかなあ。わたしは、このごろ、ますますそう考えるようになっている。
 部屋の片づけとちがって、これとこれは「おぼえておく籠」に、そしてそれらは「忘れる籠」に、と、明らかな分類のできにくいのが記憶というものだ。
 忘れたと思っていたことが、時を経て、何かの拍子で思いだされる。
「あら」
 そういうことも少なくはない。「あら」と思って向き合った記憶を、なつかしく眺めるか。「いやあねえ、こんなこと思いだしたりして、わたしったら」と肩をすくめるか。どちらになるか、自分で決めておけぬ範囲もある。
 しかし、このことはきっとおぼえていようという決心、これはここで忘れてしまおうという決心の必要な場面というのがありはしないか。

 ——あのころのこと、もう思いだしたくない。
 と、その女(ひと)は云う。
 ——……。
 ——あのとき、わたしはどうかしていて、それで……。
 ——……。忘れたい、の?
 ——そう、忘れたい。忘れたいんだ、わたし。
 ——わたしに話してから忘れることにする? それとも、話さずに忘れることにする?
 そのひとは、目を伏せて考えている。
 しばらくそうしていたが、いきなり頭を上げて首を左右に振った。
 ——話さない。話さないで忘れる。
 ——そうか。それじゃ、忘却に乾杯。
 ——乾杯。

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「忘却」と云えば……。
先頃、こんなことがありました。
長女の誕生日の日、
当人が仕事で帰りがおそくなるということだったのです。
そういうことなら、お祝いは、また今度ね、と。

そしてわたしは、誕生日のことを、
すっかり、きっぱり忘れたのでした。
ところが、どうしためぐり合わせか、
早く帰宅できることになったから、さあ、大変。
その日のおかずを、なんとはなしに豪儀にもりつけて……。

・赤魚の粕漬け(焼)
・ほうれんそうのサラダ(ベーコン)
・塩鮭(焼)
・きんぴらごぼう
・きゃべつの味噌蒸し
・ほうれんそうのごま和え
・山うどのきんぴら


Photo_2

すっかり忘れたりしてはいけなかったなあ、と
反省しました。
同時に「誕生日ケーキ」を思ったのです。
長女の好物の卵焼きを、こんな風に。
(25は、年齢です。四半世紀も共に歩いてきたわけです)。

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2010年3月30日 (火)

『富士日記』(武田百合子) 本のなかの暮らし〈3〉

 夕方から陽が射してくる。管理所で小麦粉、ミツカン酢、パイナップルと桃のかんづめを買う。計三百七十円。
 夜 やきそば(キャベツ、牛肉、桜えび)。
 私は一皿食べたあと、二皿めを食べていたら、急にいやになって、残りは明日の犬のごはんにやることにする。「百合子はいつも上機嫌で食べていて急にいやになる。急にいやになるというのがわるい癖だ」と主人、ひとりごとのように言ったが、これは叱られたということ。
 夜は星空となる。遠くの灯りと星とは、同じ位の大きさにみえる。色も似ている。
 この頃、やきそばやお好み焼きをするので、桜えびを沢山使う。今日納戸の整理で出てきた、かびた桜えびに熱湯をかけてざるにとり、夕方西陽のあたっているテラスに出して干してみた。
       『富士日記』武田百合子著(上中下 3巻/中公文庫) 


 どうしてこの本がこれほど好きなのか、とときどき、自分の胸に向かって問うてみる。問うても問うても、結局「好き」という以外、わかることはない。
 たとえば、あのとき。
 末の子どもを授かったとき、つわりで1週間のあいだに7キロも体重が減ってしまい、一時入院ということになったあのときだ。入院するなり、たちまち元気になって、出されるごはんもうれしく食べ、とにかく本が読みたくてたまらなくなった。検診にきてそのまま入院が決まったこともあったし、何より読書をたのしめる元気がなかったので、本を持たずにいたのだったが。
 病院の売店には本が置いてなく、仕方がないので「入院のしおり」というのをすみからすみまで読んで、暗記してしまった。病院の赤電話から夫にたのんだのが『富士日記』の上中下3巻だった。すでに読んでいたが、ああ読みたい、と喉から手がでていた。
 13年前のはなしだ。
 当時、病院のベッドの上でつけていた日記には、こんなことが書いてある。

                 *

『富士日記』をもう一度、ひらいている。上巻では武田泰淳氏がとても元気で、缶ビールをどっさり飲み、わかさぎのフライやうなぎ、カニコロッケなど、どしどし食べている。それがうれしくて、にこにこ読んでしまう。

                 *

 この本は、「武田百合子」(1925−1993)が夫で作家の「武田泰淳」(1912−1976)と過した富士山麓での13年間を記した日記である。武田百合子さんの文体は、「天衣無縫」ということばで評されることが多く、そうにちがいないのだろうけれど、とわたしは思う。天衣無縫という、それもひとつの技巧なのではあるまいか、と。
 技巧ということばがふさわしくなければ、天性の腕前(うでまえ)ではどうか。この腕前を一途に鍛える感性。その純度は云うまでもないけれど、魅惑的な毒と残酷が潜む。
 芸術家、文筆者が欲してやまぬ「毒」と「残酷」——わたしも、ほしい。いや、ほんとう云うと、かすかには持っているつもりなのだが、感性のゆるみが、その出現を阻(はば)むことが少なくない。

 1963年(昭和63年)の暮れ近く、富士山麓に建った山小屋に、翌年の晩春から通いはじめ、それから東京と山を往復する暮らしになった。日記がはじまった当初は、泰淳氏も記している。
 地元のひとたちとの交流、自然の変化、散策、買いもの(品物と値段が記してあるのも、おもしろい)、食べたもののこと。こんなになんでもないことの連なりを、どうしてこれほど好きなのか、というわけである。
 しかしたとえば、「コンビーフ茶漬けって何? 食べてみよう」と思ったり、「三時に、パンにマヨネーズをつけて食べる。牛乳ゼリー。主人『バターより味があるし、するする塗れて面倒臭くなくていい』と言う」(下巻)とあれば、つい真似してやってみたくなる。

 暮らしというもののもつ、まばゆいほどの独創性をひたすら、ひたすら追いかけたくなる。

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◯月△日
朝ごはんに、必ずつける味噌汁。
主食がご飯のときはもちろん、パンでも、
麺類(そばのときもある)でも、お粥でも、必ず。

先日、買いものにでた折り、大振りのカップをみつけた。
「ああ、これ、パンのときの味噌汁にいいかもしれない」

朝食の時間はそれぞれずれるから、2つ買う。

杯(さかずき)や、香港で買った小振りの湯呑みも、
使おうと思いつく。
ちょっとの味噌汁、というときに。

     

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2010年3月23日 (火)

不足好き

 先達て、子どものころの荷造りのはなしのくだりで、わたしは「じゅうぶんよりも、不足のほうがおもしろい」と、書いた。
 何気なく、すっと書いたのだったが、もしかしたらこれは、わたしの暮らしの指針のようなことばではないのか、と、いまごろになって思わされている。
 不足に思いを寄せることを「節約」と云ってみても、「エコ」と呼んでみても、結局は、足りないのが好きなのだと思う。

 けれども、そのことに、なかなか気づけなかった。
 自分のことを、じゅうぶん志向で、贅沢好きなんじゃないかと考えていたのだ。自分へのそうした評価を、どこでどんな風に植えつけたかはわからない。おそらくそれは、おそろしくぼんやりとした思いこみだった。
 時を経るごとに、自分をみつけていく。

 ああ、あなたは、不足を好きなのですね。
 足りないことをおもしろいと考えるひとなのですね。

 昨日のこと。
 友人が「卒業式、もうすぐね。何を着るの?」と云うので、揚揚(ようよう)として答える。「とりまぎれて準備してないと思ったんでしょ。したよ、しました。ブレザーにチェックのスカート」卒業式とは、末の子どもの小学校の話である。
 友人は、胸の前で小さく手を振りながらことばを重ねる。
 ——ちがうちがう、あなたの話。何を着るの?
 ——え? わたし?
 ——とりまぎれて、準備してないんでしょ。
 そう云って、友人は笑う。
 考えていなかった、自分の着るもののことなんて。……大変!
 家に帰るなりわたしは、自分のワードローブを開いてうなる。何を着よう。黒いパンタロンをとり出してみながら、そうだ、とひらめく。このパンタロンの上に娘の黒いミニのワンピースを着て、以前、ひとから贈られた不思議な細い帯を巻こう。友人が尋ねてくれなければ、卒業式の朝までとりまぎれつづけていたかもしれない。やれやれだ。

 こんなふうにちょっと気の張る場での服装を考えるようなときや、その日そのとき特別な何かが入用になったとき、すわ買いもの、とは考えない。そのこころは、買わず、ふやさず仕度したい、である。納得のいく拵(こしら)えが、買わずふやさずできたときは、楽しい。

 そうなのだ、「じゅうぶん」は、わたしを楽しませない。少しでいい、不足を埋めるために働かせてほしいというような心持ちがふっと湧くのだった。
 そして、自分の「不足好き」に気づくまでは、この楽しみの前を素通りしていたわけだった。

1
チェックのスカートです。
長女、二女、途中友だち、とこれまで
長きにわたり、用いられてきました。
「卒業式に、このスカート?」と思いましたが、
「制服風」(なんちゃって制服)がはやっているそうですね。

まんなかの子どもが、裾を切って、上げておいてくれました。
「上を折って履くと、ウエストまわりが
ごろごろするから」と云って。
こういう手が加わっただけで、古いスカートが、
いい風に見えてきます。不思議。


Photo

こちら、わたしの仕度です。
ワンピース+パンタロン+帯。
帯の飾りのひとつをはずして、首まわりに止めようか、と。
帯を腰骨の少し下に巻くのがポイントかなあ、と
考えています。
ほんと、寄せ集めだけど、この組み合わせは、
まずまず気に入りました。

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2010年3月16日 (火)

がらん

 ——みんなのうちと、うちんちのいちばんちがうところって……。
 と、末の子どもが何気なく云ったのは、いまから3年前のことだ。どきりとした。何を云いだすのかしらんと思いつつ、おうむ返しだ。
 ——みんなのうちと、うちんちのいちばんちがうところって……?

 ——れいぞうこ。
 ——へ?

 冷蔵庫?
 聞けばこういうことだった。
 お友だちの家に遊びに行き、何かの拍子にそのお宅の冷蔵庫のなかを見てしまった。「よもやアナタ、勝手に冷蔵庫を開けたんじゃないでしょうね」と問いつめるも、そういうことではないらしい。
 お友だちのお母さんがおやつを出してくださるときに、見えたんだとか。そして、目に飛びこんできた冷蔵庫の扉の向こうには、驚きの光景がひろがっていた。
 ——食べものがぎっしり入ってるの。お菓子もジュースもたくさん。
 子どもは、うっとりとした表情で、云う。

 そうかそうか、と可笑しくなる。
 うちの冷蔵庫のなかはといえば、「ぎっしり」どころか「がらん」だもの。
 子どもは、よその「ぎっしり」を見て、うちの「がらん」を、さぞ儚(はかな)くもさびしくも思い返したことだろう。
「けれどねアナタ、冷蔵庫もそうだけど、食糧を溜めこむことが、お母さんの安心にはつながらないのよ」と、末の子どものうっとりをもみ消すように、云う。
 献立と材料をすり合わせるという、緻密(ちみつ)な台所生活を送っているわけではないからえらそうなことは云えないけれど、「持ち過ぎれば使いきれない」というのが実感だ。
 缶詰も、乾物も、買い置きの調味料も、それぞれ決まった場所(かご、ひきだし)におさまる分しか持たないことにしている。
 ときどき、雑誌やテレビでおいしそうなものをみつけて、作り方を書きとったりすることもあるけれど、そこにわたしが持っていない調味料が登場したとしたら……、買わない。なぜといって、たとえ買っても、その1回きりしか使わないことが目に見えているからだ。こういう場合は、ない知恵をしぼって代役を立てたり、「それ」がなくてもすむやり方を考える。

 冷蔵庫も同じで、わたしには「ぎっしり」を使いきれない。「ぎっしり」の奥からは、なんだかわからないが佃煮らしきもの(?)、珍味らしきもの(?)が出てきて、そのたびぎょっとさせられるのに決まっている。
 そういえばその昔、冷蔵庫の野菜室の下のほうから、ビニール袋に入った緑色の液体が出てきたことが、あったなあ。
 ……なんだろうこの緑のものは。……ええと、ええと。
 ——きゅうりだ(がっくり)。

 そういう苦い緑色の記憶があるからこそ、自分の守備範囲を知ることもできたわけだろう。その範囲の広くないことは、ほんの少し哀しかったが。
 常連の居場所は、すべて決まっている。おかげで、ここ十何年間は、怪しいモノにも、それが何だったか思いだせないようなモノにもお目にかかっていない。
               *
「ぎっしり」にあこがれるアナタの気持ちもわかるけど、わたしは「がらん」しか、守りきれない。許してね。
 そして、アナタの目からは「がらん」としか見えないかもしれないこの台所には、じつは10日間、家にとじこめられても食べるものに困らないだけの蓄えがあるんだ。ほんとよ。
 とじこめられる日はこないほうがいいのにちがいないけれど、もしもよ、もしもきたら、「がらん」が底力を発揮するところを、見られるよ。


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冷蔵庫のなかには、定番の容器が、
時としてカラッポで入っています。
「ゼリーのジュース」という名札を下げているペットボトル。
これは、ゼリー(冷蔵庫のなかの、定番ちゅうの定番)を
つくるためのジュースの容れものです。
1ℓ入りジュースをもとめたとき、1単位500ccでつくれるので、
残りはこのペットボトルに入れておくわけです。

右の容器は、ドレッシング専用の瓶です。
同じモノが3つあります。

ここでも、プラ板が活躍しています。


Photo_2
これは、油っぽいものを冷蔵庫に入れるときの
座布団(瓶や缶のフタ)です。
冷蔵庫の掃除は、そうたびたびはできないので
(したくないので?)、こういう座布団が威力を発揮します。
キッチンペーパーを四つ折りにしただけの座布団だって、いいのです。

写真右は、
長ねぎの青いところを刻み、オリーブオイル(サラダ油でもよい)に
漬けたもの(冷蔵庫の定番/万能のタレです)。
どんな風に万能かというと、野菜(生でも、茹でたものでも)の上に
これをかけ、しょうゆをちょっとたらすというのがドレッシングの
働きをするのです。
その他、炒めもの、焼飯にも活躍します。
万能でも、秘伝でも、ちょっと油気が瓶の底にまわりますから、
座布団が必要になります。

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2010年3月 9日 (火)

思いがけないがんばり

 子どものころから、荷物を持つのがきらいだった。自分の部屋は散らかし放題だったくせに、出かけるときには、どうしたら荷物を少なくできるか、荷物を軽くできるか、そういうことばかり考えていた。
 持つか持たないかと迷うときには、持たないほうにしたし、困ったら、持っている誰かに貸してもらえばいいや、と思った。じゅうぶんよりも、不足のほうがおもしろかった。

 そんなわたしが、どうして持つことにしたのだか、思いだそうとしても思いだせないものがある。
「期待」。
 時代の影響もあるだろうし、そうでなくても生真面目な ― 生真面目と四角四面は、ふたつで一組である場合が多い ― 人生観をもつひとがやけに多い、そんな環境で育った。そうした環境に育ちやすいのが、「期待」だ。そうして、気づかぬうちに、自分に向けられた「それ」を抱えこんでしまった。
 思わず抱えこんだ「期待」は、といえば。
 宛行扶持(あてがいぶち)の服装。にこやかな挨拶。はきはきとした受け答え。こんなものにはじまり、気がつけば、目の前に引かれた線のように細い道をはみださずに歩くことを期待されるようになっていた。「女の子だから」という理由で、勉強のことはそれほど期待されなかったけれども。何よりほんとうは「女の子だから」というのが何かの理由になるのなんて、ばかみたいだ。
 それがどんな風にばかみたいか考えるゆとりも、自分がへんてこ好みだということに気づく暇(いとま)ももてなかった。「期待」を背負い、一本の張りつめた綱の上に、わたしはたったひとり立っていたからである。
 いつもの荷造りのときみたいに、「これは要らない」と云って、自分の部屋の戸棚にでも押しこんでしまわなかったのは、なぜなのかな。

 たぶん、「期待」にちょっと、こたえてみたかったんだろうと思う。結局、あまりこたえられなかったが。こたえられる項目が、ほんとうに……、ほんとうに少ししかなかったのだもの。

 おくればせながら、わたしは学んだ。
「期待」はときに、重過ぎる。
 そしてときに、ひとから自由を奪う。

「期待」という名の荷物を投げだしたのは、30歳をいくつか過ぎたころだった。「やーめた」とこころで叫び、そしてこの先自分も、自分の価値観を主体にして、ひとに期待するのはよそうと思った。
 そう誓ってみると、わたし自身にはひととして「こうあれかし」という確固たるものも、目標のようなものも、ないのに等しいことがわかってきた。こりゃいいや、と思った。
 子どものころ、荷物を少なく、と、いや、できれば手ぶらで、と考えていたのは、わたしの本質なのかもしれなかった。

 さて、わたしにはもうひとつ、学ぶべきことがあった。
 たとえ期待されても、そしてそれがどんなに大きくて、自分に向けられる「期待」として見当ちがいだとしても……。そっとまたぐかくぐるかして、すたすた歩いてしまえばよかったのだ。そも、「期待」がわるいわけではないのだし。

 こうして朝から、昔のことを思いだしたり、「期待とは何だろうか」と考えたりしているわたしの目の前に、風変わりな山がある。子どもたちがそれぞれ学童クラブに通っていたころ、雨が降って外遊びができないような日につくった「プラ板(ばん)」の山だ。
 透明プラスチックの薄い板に油性ペンで絵を描き、オーブントースターで焼いてつくる札のようなもの。穴をあけてひもを通したそれが、ざくざくあるのだ。きっと、ときどきとり出し眺めては、こころ和ませてもらうんだろうな、と思いながら空き箱にためたのだった。ところがこのプラ板、和みを超えて、たちまち大活躍するようになる。
 旅支度の衣類を分類する(1日め、とか2日め、とか。あるいはまた、「下着」とか「タオル類」とか)印として使ったり、調味料や酒類の名札にしたり。いま、こうして目の前に山になっているのも、また新しい使い道ができたからだ。
 初めて見たときには、プラ板がこれほどがんばるとは思わなかった。まったく期待していなかった、と云ってもいい。

 人生には、期待しないほうがうまくいくことも、ある。

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すでに、いろんなところで働いている仲間の
残りの、……いえ、出番待ちのプラ板たちです。


Photo_2

こんな風に、働きます。

 

 
 

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2010年3月 2日 (火)

別れ

 たてつづけに、戦争に巻きこまれた子どもが過酷な日日を生き抜く姿——西アフリカが舞台のものと、ハンガリーが舞台のものと。前者はドキュメンタリー、後者は小説——を、本で読んだせいだろう。ある日とつぜん、運命が激変するという有り様(よう)が胸に貼りついた。

 過酷な日日のなか、子どもたちは強くなっていかざるを得ない。本のページをめくるたび、子どもたちは強くなる。強くならなければ生きていかれないことを思い知り、まず「冷静さ」を身につけ、それを「冷徹」へ、ついには「冷酷」へと育てていく。痛みも、悲しみも、恐怖も、失望も、もう恐れたりはしない、と覚悟を決めるのだ。
 過酷な状況のはじまりというのがすごい。
 わたしが読んだ本は2冊とも、主人公の子どもたちは、最初の数ページあたりまでは愛する親きょうだいと、比較的平穏な暮らしをしている。そこへ戦争が襲いかかり、いきなり、ほんとうにいきなり、愛する者と別れ別れになってしまうのだ。さよならを云う暇(いとま)もなければ、励ましのことばをかけ合う機会もないまま、家から引き離されて、自分であたらしい居場所をさがさなければならなくなる。
 このような読書のあとは、わが身に置き換え、現在の暮らしがいったいいつまでつづくだろうか、という儚(はかな)いこころになる。爆撃もない、略奪もない、欠乏もないいまの状態を思って、あわてて感謝の念をかき集める。
 しかし、この時代のこの国にあっても、何が起こるかはわからない。どんな運命が降りかかるか、先のことは一切知らされていない。気がつくと、「別れって、経験したことある?」と、わたしは声にだし、誰ともなしに問うていた。

 ——あるある。ときどきお箸が1本なくなったりするもんね。
 と云う者。
 ——お母さんが、掃除の途中で、おもちゃを壊したことあったでしょ。あのときはとつぜんの別れという感じだったよ。
 と云う者。
 こちらは、戦争という概念で話しはじめていたから、ずっこける。ずっこけながらも、ああ、ここには、過酷な別れを経験した者はいないのだ、としみじみする。

 箸の話は、ほんとうだ。
 箸は2本を1対として1膳というわけだけれど、その1本が、ほんとうにときどきなくなる。そのたび、わたしは、うちに暮らしている小人さんが箸を持っていってしまったんだなあと考える。これじゃなくて、あれを持っていってほしかったと思うことはあっても、「必要なら、しかたないなあ」とあきらめる。1本残ってもどうしようもないから、小人さんに「こっちも使って」という気持ちで、夜中にそっと残った1本を台所に出しておくが、それが持っていかれることはない。
 ——いえいえ、1本でじゅうぶんですから。
 と、いつまでもそこにある1本が語る。それにしても、小人さんは、箸を何に使うのだろう。柱か。寝台か。細かく切って、いろんなモノにしているのかもしれないな。

 もうひとりが恨みがましくつぶやいた、掃除の途中でわたしが壊したおもちゃのこともおぼえている。はたきをかけていて、本棚からはたき落とし、それだけならいいが、落ちてきた「それ」を踏みつけ粉砕してしまった。数日ののち、その顛末(てんまつ)を打ち明けあやまったけれど、追いつかないものが残った。なんだか、やけに大事なおもちゃだったらしい。

 ……いったい何の話をしているのだろう、わたしは。
 そう。戦争での別れは過酷で、家のなかでの別れは過酷でない、ということだとしても、別れはやっぱり別れなのだと思う。
 別れは何かを残す。いまだ過酷な別れを経験したことのないわたしも、あらゆる別れに注意深く向き合うなら、そこから得るもののあることだけは、知っているつもりだ。
 別れが、生きる力を生み、そして生きることへの愛おしさを育てる、と。


1

2月のある日。
食器洗い乾燥機「けんちゃん」が、故障しました。
すぐ修理を頼みました。
やってきてくれたおじさんは、「工場で見てみます、
もう寿命かもしれないなあ」と云いながら、
けんちゃんを連れて行ってしまいました。
ことばをかけることもできないまま……。

胸にぽっかり穴があきました。
けんちゃんがうちに来てくれる以前の食器洗い、
食器拭きを、みんなでせっせとしました。
「けんちゃん」



Photo

10日後、けんちゃんは帰ってきました。
(ノズルとセンサーをとりかえたそうです)。
うれしかったです、それはもう……。

「お帰りなさい」のたれ幕をつくりましたよ。

このたび、「別れ」を考えるよう促してくれたのは、
けんちゃんでした。
 

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2010年2月23日 (火)

『東京タワー』(リリー・フランキー) 本のなかの暮らし〈2〉

   ボクは四十歳になろうかという今でも、箸の持ち方がおかしい。どう間  
  違っているのかといえば、文字で説明できないくらい、おかしい。おまけ
  に、鉛筆の持ち方もかなりおかしい。どう間違ったらそんな持ち方になる
  んだというくらいにおかしいのである。
   しかも、それぞれがおかしいことを、ボクはかなり後まで知らなかった。
  オカンがちゃんと教えなかったからである。
  「なんで子供の頃、いちいち教えんかったんね?」。ボクが聞くとオカンは
  言った。
  「食べやすい食べ方で、よか」
   とても、ざっくりしているのである。
   ところが、こういう局面では細かく、厳しい。
   小学生の頃、誰かの家でオカンと夕飯を御馳走になったことがあった。
  家に帰ってから早速、注意を受けた。
  「あんなん早く、漬物に手を付けたらいかん」
  「なんで?」
  「漬物は食べ終わる前くらいにもらいんしゃい。早いうちから漬物に手を
  出しよったら、他に食べるおかずがありませんて言いよるみたいやろが。
  失礼なんよ、それは」

   (中略)

   ある程度大きくなって、人の家に呼ばれる時は、オカンに恥をかかせな
  いようにと、ちゃんとした箸の持ち方を真似てみたりするのだが、オカン
  はあまりそういう世間体は気にしないようだった。自分が恥をかくのはい
  いが、他人に恥をかかせてはいけないという躾だった。

                   『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』
                           リリー・フランキー著(扶桑社)

 まあ、なんと長長と引用したこと。
 月に一度書くつもりの「本のなかの暮らし」で、楽をしようとしているのか? わたしは。まあ、そういうことになるだろう。前回は庄野潤三さんの、そしてこのたびはリリー・フランキーさんのお力を借りて。
 さて、『東京タワー』が売れに売れているとき、わたしはこの本に手をのばさなかった。売れに売れていることに嫉妬したからではなくて、ベストセラーの本はいつも放っておくのだ。そして読まないまま終わってしまうことも少なくない。が、この本はそうならなかった。まず『東京タワー』を映像化したものを、なぜだか3本観たのだった。2時間ドラマ、映画、連続ドラマの順で(あとからリリーさんにそれを告げたら、「舞台にもなったんだよね」とおしえられた)。
 なぜだか観たと書いたけれども、ほんとうは理由はわかっている。小説に登場する(というか、主人公だ)オカンのぬか漬けの話をうわさに聞いたからだった。オカン役の「田中裕子」が、「樹木希林」が、「倍賞美津子」が、どんな風にぬか床に手を入れるか、見たくって(じつは、ここに延延と引っぱらせていただいたくだりの「中略」としたところに、オカンが苦労し手間もかけてぬか漬けと向き合う姿が描かれている)。
 そうこうするうち、小さい講演会でリリー・フランキーさんにお目にかかることが決まり、わたしはあわてて原作を読んだ。読んだ感想は、まさかこれほどのものとは思わなかった、である。ことに自分がオカンになる前にこの本を読めたなら、どんなによかっただろう、という思いが湧いた。「自分が恥をかくのはいいが、他人に恥をかかせてはいけない」という思想は、おそらくこの本におしえられなければ、はっきりと掴(つか)むことができなかったのではあるまいか。
 とにかく。ベストセラーは放っておくという理由で、この本と出会わずじまいということにならずにすんだことは、幸いだった。ギリギリセーフだな、と思った。そして、この本の著者に、生きて動いている「ボク」に会えるなんて……と、胸はときめく。

 実際にお目にかかってみると、このときの感想がまた、まさかこれほどのものとは思わなかった、だった。講演会の2時間半あまり、リリーさんのとなりで、わたしはいわゆる下ネタを聞かされていた。ふふふ、このひとの下ネタはわるくないわ、品格があるし、何より思いやりがある。そう思いながら、そっとその横顔を盗み見ていたのである。わたしときたら、本格的なばあさんのような顔になって、口のなかで云う。
「いい男だねえ」

 この本には、「え?」「お!」「へ!?」と呻(うめ)かずにはいられないような思想が、情景がちりばめられている。                

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いったい何の写真を添えようかしら、と考えていました。

朝、居間に入ったら、朝日が壁にヤカンを映しています。
あ、これだ! 「オカン」と「ヤカン」、とても似ているでしょう?

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2010年2月16日 (火)

決心

 読者の方からのお便りだった。
 白い封筒からひき出してみると、それは便箋ではなく原稿用紙に書かれてあった。
 原稿用紙に向かう相手を想像する。
 お顔は浮かばないのである。相手は初めてお便りをくださるお目にかかったこともない方だ。わたしへの便りということもあるだろうけれど、それより何より、自分の気持ちや考えをたしかめたしかめ書いたものなのだという気がして、それを開くとき神妙な心持ちになる。
 思ったとおりだった。ひと月あまり前に読んだという、わたしのエッセイをきっかけに、ご自分の来し方をふり返る内容だった。

 ところで——。
 ところで書いたものというのは、どうしてこれほど「ひと」をあらわすのだろう。そこから立ちのぼってくる気質や思想が、こちらに伝わってくる、犇犇(ひしひし)と。そうして原稿用紙には、手書きの文字がならんでいる。そのため、もうひとつ犇犇が、増す。実直な文字が、ならぶというより駆けていた。勢いをつけなければ書けないという思いが背中を押していたのだろうか。駆けてはいるが、文字はていねいに書かれている。
 お手紙には、短い返事をしたためて投函した。投函したあとも、胸のなかから去らないものがあった。それは、「いつか自分を信じることができる日まで」という結びのことばだ。

 いつか自分を信じることができる日まで。
 ということは、いまの時点で、この方は自分を信じていないことになる。そこから、ぼんやり考えつづけている。ひとは、自分を信じることができない状態のまま、生きていくことができるものだろうか、と。あるいはまた、自分を信じられずに生きていたとしたらどうなるだろうか、と。
 自分を信じないまま生きていくことほどむずかしいことはないような気がする。それは、自分をもたないまま、投げだしたまま生きることだからだ。

 その前に——。
 その前にまず、自分を信じることは、どうしても必要だ。必要という以上に、ひととして生きていく上での前提だという気がしている。
 信じるためにはどうしたらいいのか。宙に向かって目を凝らし、「信」を探そうとしてもみつかりはしない。そこいらに漂っているものではないからだ。そこで、決心ではないだろうかと思うのだ。自分を信じよう、と決心する。

 たとえば——。
 たとえば罪を犯しても、償(つぐな)いをして、自分を信じようと決心することができれば、そこからまた、ひとはやり直せるものだと、わたしは考えている。

 決心する——。
 そうだ、決心だと、思いあたる。

10215_2
今朝、2人分の弁当をこしらえながら、
こういうことも、自分への「信」を築くなあと、
思ったことです。
ひとつは持って出る弁当で、
2段のは家で食べてもらう弁当。

なかみは――
・雑穀のご飯(梅干し/かくれ海苔弁)。
・ほうれんそうと牛肉のオイスターソース炒め。
・れんこん、にんじん、厚揚げの煮もの。
・だし巻き卵
・ブロッコリ(茹/根元に味噌を塗って)。
・煮りんご。

〈お知らせ〉
1

『片づけたがり』(オレンジページ刊)誕生!

このブログから、また本が生まれました。
ブログのときの原稿に、加筆をいたしました。

ここにいらしてくださる皆さんには、
ことに、どこかで見ていただけましたら……、こんなにうれしいことはありません。
書店にも、今週末か来週ごろにはならびはじめることと思います。
どうぞ、よろしくお願いをいたします。

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2010年2月 9日 (火)

ちくちくの効能

 ちくちくやっている。
 穴のあいた靴下をただ、ちくちく。繕(つくろ)いものをしているだけなのに、こころがはずんでくる。え、どうして?

 今し方、「やらなくちゃね、そろそろ」と思いたち、繕われるのを待っているモノたちを入れておく籠をとり上げたときには、やれやれ、というような気分だったのではなかったか。針箱のふたをとり、目をしょぼしょぼさせながら針の穴に糸を通すうち、わたしというひとの全部が、繕うかまえになっていく。
 そうして、いつも同じようなことを考える。
 こんなふうに、糸と針で靴下の穴を繕い閉じるように、胸にぽっかりあいた穴やら、気力や元気をためておく袋のほつれをふさぐことができたらいいのに、と。どういうはずみか、自分を失いかけている誰かの、その魂を「自分」という正体に縫いつけることができたらいいのに、と。
 誰か、などという話し方をしているけれど、こうしてちくちくやりながら、まっさきに自分をとり戻そうとしている。とり戻せると信じているからこそ、繕いたいのだ。
 モノをできるだけ長く使おうとか、モノに愛着を加えようとか、ちくちくの果てには、そういうめあても見えている。けれども、ちくちくやっている、いまのいまは、手仕事の効能にただただ身を寄せる。

 ある日。
 玄関でしょんぼりしている背中を見た。仕事からもどった長女が、腰をおろしたまま立ち上がろうともせずに、自分の足元を見ている。ややっ、ため息。
 ——ど、どうした?
 ——これ、気に入ってたの。見て、穴あいちゃった。
 ——へ?
 しょんぼりの種、ため息のもとは、ズックにあいた穴なのだった。
 ——繕ってみる? 布なんだし、できると思わない?
 ——できる、よね。やろうやろう。

 結果は——良好である。
 ふたりで、ああでもないこうでもないと云いながら、ときに、針で指をつつきながら、繕ったのだった。なかなかうまく繕えたことも良好のうちだが、長女が繕いに開眼(かいげん)したこと、もしかしたらこのことがいちばんの良好だったかもしれぬ。繕った針目のあるズックは、「以前よりもいい感じになったし、彼女に対する思いが……その、なんというか……」と、長女はことばを探している。
 ——その、なんというか? 彼女(あなたのズックは女性なんだね)への愛着が増したんでしょ?
 ——そう、それ。愛着が……増したの。ありがとうね。云ってもらわなければ、捨てちゃってたところだった。
 ——針仕事も、楽しかったよね。ちくちくって、何かに効くと、思わなかった?
 ——思った、効いたって思ったよ。縫ったり、つくったりばかりがちくちくじゃないんだね。繕うってすごいね。モノをもう一度生まれなおさせるんだから。

Photo
これは、長女の、この型のズックの2代目です。
1代目は、2回繕って履きつぶしました。
中敷きの赤いフェルトのものは、これを履いて旅したとき、
お守りがわりにこっそり貼りつけました。
赤いフェルトに赤いペンで、
片方に「がんばれ」と、もう片方に「交通安全」と書いたんです。
 

〈お知らせ〉
きょうはひとつお知らせを。

★第7回「さぬきの食卓会議」
よみがえる活動弁士付き無声映画!
出し物は喜劇王競演「チャップリン」と「キートン」。
今回は、活動弁士佐々木亜希子さんをお迎えします。活動弁士による映画の上映の約束である生演奏もつきます。(案内人/山本ふみこ)
2010年2月24日(水)
開場:18:30/ 開演:19:00(21:30終了予定)
料金:5000円(ワンプレートディナー+ワンドリンク付き)
会場:高松丸亀町壱番街4階エアリーレストラン ルーチェ
お申しこみ:087-822-2203(ルーチェ)
* お知らせがおそくなって申し訳ありません。
* 定員になり次第締め切らせていただきます。

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2010年2月 2日 (火)

なぬかななぜん

 こつこつとか、ひとつずつというようなのが、好きだ。好き、というより、頼りにしている。そうして、年を重ねるたびに、わたしのなかで「こつこつ」、「ひとつずつ」は、その輝きを増していくようだ。
 わたしの目からは一足飛び、三段跳びのように見える他人(ひと)の上達や進歩も、そのじつ、こつこつとひとつずつの積み重ねなのかもしれず、そうだとすると、こつこつの「こつ」が、ひとつずつの「ひとつ」が、わたしのよりも幅があって大きいだけなのだろう。幅や大きさがどうあっても、移そうとする山は、いつかは移してしまえる。
 そう、山を移すとは、子どものころくり返し読んだ「愚公(ぐこう)山を移す」のものがたり(中国の古典『列子』のなかの「湯問」に収められた寓話)である。

                          *

 むかしむかし、中国河南省(かなんしょう)の北に、太行山(たいこうざん)と王屋山(おうおくざん)という高山がありました。このふたつ山のふもとの村に愚公という90歳に手の届きそうな老人が家族とともに暮らしていました。このふたつの山は、どこへ行くときにも村人たちにまわり道をさせるのでした。
 ある日愚公は、子ども孫たちに向かって「わたしとおまえたちとで山をけずって道をつくろうと思う」と話しました。妻は「小さい丘をくずすことだってできはしませんよ。だいいち、くずした土や石はどこへ運ぶんですか?」と云います。黄河(こうが)のほとりに住む賢人の誉(ほま)れが高い老人も、愚公の計画を無謀だと笑いました。
 しかし愚公は本気でした。たとえ自分に土や石を運べなくなっても、子どもや孫の代までつづければ、きっと山は移せ、地は平らになると云って、毎日箕(み=穀類をあおって殻や塵をとりのぞく、木や竹の皮で編んでつくった農具)で、少しずつ少しずつ土を運びました。
 この様子を見ていた天帝(=天の神さま)が甚(いた)く感心して力持ちの神に命じて、山のひとつを朔東(さくとう)に、もうひとつを雍南(ようなん)に移しました。

                          *

 本に描かれていた、笊(ざる)とも見える素朴なもので土を運ぶ愚公のさし絵は、目に焼きついている。ああ、これならやっていかれるかもしれない、と幼ごころに思ったものだ。
 九九もなかなかおぼえられない。逆上がりもできない。漢字の書き順をすぐ忘れる。絵を描けば彩色に失敗して画用紙を黒ずませる。こんな具合に、何をやってもだめな子どもだったわたしにとって、愚公こそは英雄(ヒーロー)、というわけで、ときどき本をひらいてさし絵を覗いた。

「一日一善」ということばもある。1日にひとつ善い行いをするという意味である。しかし、善悪というのがまたむずかしく、現代においてはますますむずかしく、よかれと思ってしたことがひとを不仕合わせにしたり、ひどい仕打ちがひとを救ったりする。だから「一善」と云われても、わたしにわかりやすいのは、自分にとっての「一善」ということになる。なんだか、手前勝手な話になってしまうけれども。
 くり返しの生活をたのしむためには、毎日ひとつだけでも、たのしみの要素をみつけ、生活向上の手がかりをつかみたいというわけだ。

 そうは云っても一日ひとつはなかなか大変。1日の自分、24時間の暮らしぶりを評価しようとすると、思うに任せぬことばかりが目の前に積まれ、がっかりする。が、わたしたち、がっかりばかりもしていられない。そこで……。

・1週間(7日間)という幅で考えること。
・ ひとりで「一善」を気負わず、ひとつ屋根の下で暮らす者、皆で手分けして善を生む(うちの場合なら、1週間に1.4善ずつ、という計算になる)。

 最近、このふたつを合わせる必要に気がついて、画策している。名づけて「七日七善(なぬかななぜん)」計画。


Photo

以前、自分自身で直しているところを
ご紹介したことがある小物干しです。
麻ひもや、たこ糸を使って直していたら、
不具合が発生しました。
これは、夫の今週の「なぬかななぜん」。


1

食器洗い乾燥機「けんちゃん」の補佐役を
みつけて、設置しました。
「けんちゃん」が働いてくれているときに、
つぎの食器洗いがしたくなったとき(わたしの就寝後など)、
手でちゃっちゃっと洗って、このカゴに置くのです。
このおかげで、朝のシンクの様子が変わりました。
これは、わたしの「なぬかななぜん」。


2

ほら、「けんちゃん」の下に、こんなふうに
納まります。
こうまでうまくいくとは思っていませんでした。
         *
今週の、このほかの「なぬかななぜん」、
長女の「スズキサン(掃除機)」の分解掃除、
夫のベランダ掃除。……いいペースです。

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2010年1月26日 (火)

「庄野潤三」 本のなかの暮らし〈1〉

 この間は宝塚をみせてくれて、どうもありがとうございます。お話が中国の舞台であったこと、水を使った舞台なのでたのしかった。ラストの場面にはおどろきました。
 これから寒くなりますので、お散歩のときは防寒対策をしっかりやって歩いて下さい。                                            文子

 春夫の手紙。

 宝塚みせてくれてありがとうございます。水の中でたたかう場面は、とてもすごかったです。いしょうがきれいでした。                         春夫

 フーチャンも春夫もいい手紙をくれた。

 昔、ロックフェラー財団の留学生として、妻とともにアメリカへ一年留学したとき、留学のお世話をして下さった坂西志保さん(ご冥福を祈る)に、出発前にお目にかかったとき、向うで食事に呼ばれたりしたときは、短くていいから、すぐにサンキューレターを出しなさいといわれ、留学中それを守った。
 帰国してからは坂西さんのこの教えを三人の子供に伝えて、「何かしてもらったらお礼の手紙を出しなさい」といい聞かせて、子供らはそれを守り、自らの子供にも伝えてくれたのである。                 

                  『けい子ちゃんのゆかた』 庄野潤三著(新潮文庫)

                     *

 昨年9月、作家の「庄野潤三」(しょうのじゅんぞう)が亡くなった。
 そのときの思いは、ああ、またひとつ、あの世に親しみが湧く、あの世にあこがれが募る、というものだった。
 さてしかし、この世での夢もある。それは、まとまった時間ができたら、「庄野潤三」を読みに読みたい、というもの。それがたとえ、病に臥(ふ)すという機会であっても、わたしはそのことをともかく受け入れ、この夢にかけられそうな気がする。いまのところ、病を得るほかに読書三昧(ざんまい)の日日のめぐってくることが想像できない、乏しい時間の配分能力が云わせるのではあるけれど。

 もうもう、その本の連なりには、おもしろみ、なつかしみ、そうして切なさが満ち満ちている。自分がおかしくって泣いていたのだったか、せつなくって涙したのだったか、わからなくなるというほどだ。その世界は、あまねく静かである。
 もしも、若いひとたちのなかに、まだ「庄野潤三」とめぐり逢えずにいるひとあらば、という思いがある。それならば、何としてでも伝えなければ、と。そうして、どこか引用を、と思い、迷って迷って、迷った揚げ句、ぽんと出合ったのが掲出(けいしゅつ)のくだりだ。

 庄野先生は、手紙を大事にする方だった。
 その昔、わたしが出版社に勤めていた頃、庄野先生が、編集部に宛てて避暑地からとうもろこしを送ってくださったことがある。「あなた、お礼状を書きなさい」と先輩たちから仰せつかったわたしは、たどたどしくもお礼状をしたためたのだ。ただただ、一所けん命に。
 すると、「庄野潤三」という差し出しの、わたし宛てのおはがきが届いたのだ。
「あなたの大きな文字の、気持ちのいいお手紙、うれしく受けとりました」と。つたなき礼状への、お返事だった。大感激したことは、云うまでもないが、それとともに、手紙というものの値打ちをおしえられた。
 以来、わたしも、先生のお子さん、お孫さん(フーチャンや、春夫さんほかたくさんの)同様、「お礼の手紙をだしなさい」を守ってきた(つもり)。

 日日のことに、おもしろみをみつける感性は、「庄野潤三」ならでは、だと思っている。そしていつしか、そのことは、わたしたちが暮らすこの国の風土に合ったものだと、考えるようにもなっている。




1

冷蔵庫の野菜室に入りきらなかった大根。
夜のあいだ、こうして立っててもらいました。
家の者たちは、それぞれに、
このヒト(?)と語り合ったのではないでしょうか。
こういうのも、手紙みたいなものかもしれません。


2

翌朝、大根を味噌汁の実にしました。
顔のところをこうして削りとって。
なんだか、捨てがたくて……。

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2010年1月19日 (火)

頃合い(タイミング)

 タイミングということばを耳にすると、いまでもかすかにどきっする。
 若いころは、タイミングを合わせる自信がなくて、「タイミング」と、何でもなく云ったり、すらっと書くことが、できなかった。それで、記憶の底のほうから、「時宜(じぎ。しぎとも読むようだ)」ということばを引きあげてきたり——時宜にかなう、とか、時宜を得る、という風につかう——「頃合い」というのをみつけてきて、云い換えていた。

 云い換えたって、そのことはどの道「タイミング」なのだ。
 わたしをどきっとさせるのは、このことばたちが共通してもとめてくる「判断」なのだ。

 はじまりは、子どものころ、母に叱られるような場面でしばしば云われた「タイミングがわるい子ねえ」というフレーズだ。これが、耳にこびりついた。
 しかしだんだん、タイミング——いや頃合いと書かせていただこう——頃合いを見たり、合わせたりするのに、速度とか、咄嗟の動きというものは、たいした働きはしない、と知るようになっていく。
 どうやらわたしは、ちょっと速過ぎるくらいだ。根がおっちょこちょいなものだから、判断といったようななだらかなものが下りてくる前に動いて台無しにする。つまり、見誤った頃合いを、つい追い越してしまっているのである。
 大きな声では云えないけれど、結婚や離婚やそれに類する事ごと——それほどの遍歴があるわけではないが——や仕事、家うつりなど、ありとあらゆる人生の節目を、見誤ったような気がしている。決めたことに後悔はないけれど、決め方が唐突だったり、決めてからそれをするまでの「間」をもとうとしなかったりして。
 いやあ、ほんとうに、頃合いをびゅんびゅん追い越してしまってきた。
 このことに気づいたのは四十代にさしかかったころだ。

 気がはやり、はやったままに動くとずれる。

 これがわかったときは、じつに神妙な心持ちになった。
 また、別のあるとき。
 つかもうとするとだめなんじゃないかと、ふと思った。もし、頃合いというものが降ってくるものだとしたら、わたしは落ちてくるそれを、そっと両の手で受けとめればいいということになる。
 やってきた頃合いの顔を見てから考える、判断するというので、じゅうぶん間に合うことを発見したわたしは、以前の自分から見たら、すこし愚図(ぐず)になったようだ。けれど、愚図になったおかげで、自分が決めるのにちがいないけれど、頃合いを雲の合間から落としてよこしたものに応援されているような、やすらかな心境を得たのである。

2
ことしのはじめ、
しゃもじや木杓子を、あたらしくしました。
こういうのも「頃合い」です。

左から、ご飯のしゃもじ、カレー専用の木杓子
(カレーの黄色に、存分に染まってもらっていいように、
専用です)、その他の木杓子。

古い皆さんへ
どうもありがとうございました。
長いあいだ、ご苦労さまでした。

あたらしい皆さんへ
これから、どうぞよろしくお願いします。 

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2010年1月12日 (火)

急いでは、のんびり

 元旦は、のんびり過した。
 とにかくのんびりしたかった。動作も、わざとゆっくり。
 前の晩、半分まで仕こんでおいた雑煮を火にかける。前の晩というのが、遠く昨年の話だと思えば、ちょっとした感慨におそわれる。

 鍋がひと煮立ちするのを待ちながら、昨年とことしのあいだに淵のようなものがあったとして……と、考える。昨年からことしへの渡りをしくじって、その深く黒黒とした淵に落ちたら、どうなるのか。落ちてしまったら、そこで1年過すのさ、と、話をこしらえる。
 となりにやってきた夫に、その話をする。
 ——渡りをしくじるというより、しくじらされるの。淵に落ちるのは、1年間休む必要のあるひとというわけ。
 ——落ちたいな、淵。
 と、夫は、遠くを見る目になっている。
 ——云うと思った。落ちたひとは1年、淵のそばの集落で暮らすのよ。火をおこし、草を摘み、さかなを獲って生きてくの。そんな暮らしでも、落ちたい?
 ——落ちたい、落ちたい。
 そうだろうなあ、田舎育ちの夫のことだ、いきいきとして楽しんでしまうかもしれない。わたしだって落ちてみたい。この世でのことを1年休んで、いのちをつなぐだけで精一杯という暮らしをしてみたい。
 鍋の鶏のスープのなかでにんじん、大根、ごぼう、里芋が煮えた。夫の家に伝わるのとわたしの家のとの、合体雑煮だ。ここへ、焼いた餅と茹でた小松菜を入れ、椀によそったら切りみつばと、柚子の皮を小さく削いでのせる。

 午前10時、日も高くなってきた。そろそろ、元旦の膳を。
 ——落ちなかったの、あなたも、わたしも。お屠蘇(とそ)運んでくれる?
 そう云って、淵に思いを寄せている夫を、この世の元旦に引きもどす。
 ——そうか。……あけましておめでとう。
 ——渡りを決めるのはね、時をつかさどる妖怪たちなの。年の暮れの「妖怪会議」で決まるのよ。

 元旦ののんびりは家のなかの誰も彼もに行き渡り、食卓が片づいたとき、昼を過ぎていた。恒例の高尾山への初詣には、出発がおそくなったなあ、のんびりが過ぎたかなあ。
 ——1時15分出発。
 と夫が云う。わたしよりのんびりと親しく、のんびりを理解しているひとだ、云うとおりにしよう。
 午後1時15分出発。
 3時半に高尾山の登山口に着き、ここからリフトで上る。下のほうを覗きこんだとき、朝方話した昨年とことしのあいだにある、深い淵を思った。
(昨年からことしには渡れたけれど、山頂に登り、日のあるうちに下りてこられるかしらん)。

 リフトを下りて、てくてく山頂に登ったときには、山頂には、いつもの元旦ほどにはひとがおらず、それより何より、ここで見たこともないものを見た。夕陽だ。富士山の頂きに夕陽が、沈もうとしている。

 眺めながら、ああ、と声が漏れた。

 わたしのことだ。のんびりばかりで日を埋められないだろう。けれど、のんびりした揚げ句、のんびり出かけてみれば、こんなにも思いがけない夕陽である。
 急ぎ過ぎては、はっとしてのんびりを思いだし。

 めあては、急いではのんびりというテンポか。


Photo

初日の入りです。
高尾山山頂(599m)より、富士山をのぞむ。


Photo_2

山頂での、記念撮影。
5人の影です。
山を下りるときは真っ暗。
夜景を楽しみました。
目の前に、大きな、オレンジ色のまんまるお月さんが
見えました。

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2010年1月 5日 (火)

予言者になる隙(ひま)に

 ——◯◯ちゃんのおとうさん、お嬢さんをあんなに溺愛して。○○ちゃんがおうちから独立とか、結婚となったとき、ダイジョウブかしら。そういうところをうまく乗りこえられずに、病気になったりね。

                 *

 世は予言者ばやりである。
 あっちにもこっちにも「〜すれば、〜になる」という予言があふれている。  
 しかし、「〜する」と「〜になる」のあいだを手探りで行くのが人生ではないのか。初めて行く道の上、かすかな灯りをかざし、どきどきしながら。
「〜する」と「〜なる」のあいだは、ほんとうに思いがけないことの連続だ。 
 備えても備えても、備えきれなかったということもあるかと思えば、ちっとも備えていなかったのに咄嗟の判断でなんとか切り抜けたり。思うとおりにならなかったことを、おもしろがっている自分を発見したり。
 つまらないのは、お定まりの「〜すれば、〜になる」を生きようとすることだ。「〜する」と「〜になる」のあいだの思いがけなさを味わう機会を逃すことだ。

 そも、8歳の子どもを溺愛して何がわるいものか。子どもの独立や結婚——まだ当分は訪れない。いったい、どのくらい先の予言をしているのか——の際の気持ちなど、ひとそれぞれ。そこでの経験、味わいは、そのときそこで待っているのだから。それを、病気になることまで予想してみせるなんてさ——まさか、たのしみにしているのでもあるまいが——さもしい話だ。
 そうは云っても。
 きっとわたしにもついているのではないだろうか、予言癖。
 ことしは、わたしは、おかしな予言をする隙に、「〜する」と「〜になる」のあいだを思いきり生きよう。そこに、うんと思いがけないことを、紡ごう。

                 *

新年おめでとうございます。
ことしも、どうかよろしくお願い申し上げます。
2010年のはじまり、はじまり〜。


Photo_3

アルバム整理をしていて、みつけた、
なつかしい写真です。
へんな顔をしている子どもは長女、となりの
あんちゃんみたいなのが、わたしです。

「こんな小さいうちから保育園に預けるなんて、
情緒不安定なひとになるのにちがいない」
と、まわりから予言されていたころの写真です。

もうじき25歳になる長女は、
自分の、生後4か月からの保育園生活に、
誇りをもっている、とのこと。

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2009年12月29日 (火)

それは、どうしたらできるのか。

 机の足もとに、古いアルバムが積んである。
 何かの拍子に足がさわれば、その山をくずすことになるし、だいいち、そんなところに、山は、困るのだ。

 アルバムの整理を考えたのは、ことしの秋のことだ。気がつけば、3か月。12月になって、とうとうしよう、いよいよ取りかかろう、と、机の下に積んだのだった。
 これまでの写真の整理は、こうだ。
 撮ったものも、撮っていただいたものも、夫とわたし、長女、二女、三女の4部門に分けて、どんどん薄型で簡便なアルバムに収めていく。子どもは中学生になったところで、アルバムを自分で管理することにしたから、現在は、2冊分を整理している。
 そういうわけで、写真が、いつ写したかわからない状態で散らばっているということはない。が、散らばっていないだけで、ただ差しこまれているといった感じ。そういう頼りない薄手のアルバムが、膨大な冊数になっている。

 ——アルバムを失った喪失感が、とっても大きかったの。自分の記憶の一部が……、思い出を支えてたものが……、消えたみたいで。
 火事を経験した友人が、ふとつぶやくのを聞いた。しかし彼女ははっとして、
 ——みんな、怪我もなく無事だったのにね、こんな愚痴、罰があたるよね。
 と云った。
 あのときわたしは、友人の喪失感を、アルバムという存在を手がかりに考えはじめたなあ。あのときわたしは、なんでもないと思っていた写真が、決して何でもなくないものなんだと気づかせてもらったなあ。

 さて、アルバム整理の話。
 写真がただ差しこまれているだけの、何冊も何冊もあるアルバムのなかの写真を厳選して——末娘のは、本人に選ばせないといけない——分厚い1冊にまとめようというもの。
 厳選、というのは得意分野なのだし。
 なつかしがりながらの、愉しい作業になると思うのだが。
 それなのになぜ、手がつかないまま、こんなふうに山になってこんなところにあるのだろうか。

 ちょっと「したい」と思っているだけで、「する」と決心していないからだ。たとえ、どんなに忙しくても、自分のなかで、「する」という気持ちが跳ね上がりさえすれば、するもんだ。
 アルバム整理に関して云えば、どこかで、「したいことはしたいけれど、いま、それどころじゃない」と、思いこんでいる。こういう思いこみ、云いわけだけが巧みになれば、わたしはきっとさし迫ったことにぐるぐる巻きにされて、おもしろいことを置いてけぼりにするような、つまらないひとになる。

 アルバム整理、年末年始のどこかで、きっと。

 ほんとうにしたいことには、きっとそれをする時間が生まれる。

Photo
これが、あたらしいアルバムです。
うふふ、うふふ。

     *

アルバム /2段・ケース付き
(ディスクを入れるポケット付き)
L判240枚 ポリプロピレン
無印良品


Photo_2
アルバムと云えばね、こんなのも持っています。
プリクラって、いまでも大人気ですね。
子どもたちも、若い友だちも、
よくプリクラをくれます。
(自分も、たまに写します)。
そういうのを貼りつけておく、小さな小さな
アルバム(10.5×6.7cm)。

               *

 ことしも、ブログ「うふふ日記」におつきあいいただきまして、どうもありがとうございました。
 コメントを寄せてくださった方がたにも、こころから御礼を申し上げます。
 来年も、どうぞよろしく。皆さま、どうぞ佳い年をお迎えください。

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2009年12月22日 (火)

カラッポマン

 朝、いつも通りに机の前に坐り、仕事にとりかかる。
 きょうは原稿3本、挿絵3点だ。ちょっときついけれど、こころもからだも軽かったので、いけそうな気がした。
 ——まかせといて。

 そうして書きはじめると、てんでだめである。こっちのが書きにくいのかと、あっちのを書いてみるがやはりだめ。そっちにいくかと、そっちに手を染めるも、またしても失敗。20行くらい書くには書くが、自分で何を書いているのかわからなくなっている。考えがまとまらないというのともちがう。
 頭が……。
 頭が、からっぽ。と、いう感じ。

 こういうのは困るのだ。
 年末だから、出版社だって新聞社だって1日も早く「入稿」したいと、手ぐすね引いて待っている。こちらにしたって、1日も早く原稿を渡して、久しぶりに年末年始、仕事のことを考えずにのんびりしたいという心づもりだ。
 ——どうした。しっかり。

 あせっている。
 が、このからっぽの状態が久しぶりなことに気づいて、あせりながらもしみじみする。そして、思いめぐらしている。
 ——ヤツが、来たんだな。

 ヤツ、「カラッポマン」。 
「カラッポマン」は、にこにこ顔でしゃしゃり出てきて、「こういうときにゃ、からっぽを楽しむが、得策と思われますわん」と、演説。「カラッポマン」は、ふだん、胸の奥のほうで昼寝をしているが、出番となると、時を逸することなくあらわれてみじかく演説し、わたしを包みこむ。
 ——あーれー。

 じつはわたし、自分のなかのいろんな存在のなかでも、「カラッポマン」をうんと愛している。あーれー、なんてね、困ったような声をだしてみているだけで、ほんとはうれしくってたまらない。
 わたしはとつぜん、からっぽを楽しむかまえだ。
 羽根布団にくるまる。子どもの本棚からとりだしてきたマンガ——『君に届け』(椎名軽穂/集英社)これ、名作だ——を読む。いつしかまどろむ。目覚めたのは午後5時。ゆっくり風呂に入り、おもむろに晩ごはんの仕度にとりかかる。うどんすき。
 8時半、寝床のひとになる。マンガのつづきを読んで、たちまち夢の国へ。

 そして本日、カラッポマン来訪のあくる日だ。土曜日。
 マンガ、昼寝、うどんすき、マンガ、早寝ののちの午前4時。朝風呂に入り、机の前に坐った。からっぽじゃなくなっていた。昨日の分は、おそらく午後も早いうちに、とり戻せるだろう。 
 明け方、「カラッポマン」は、「つづく」とひとことつぶやいて、また胸の奥のほうに戻っていった。その背中に向かって、「行かないで」と声をかけようとして、思いとどまる。
 ——ありがとう。またね。できるだけ、近いうちに。

Photo
カラッポマンといっしょに、
うどんすきを食べていたときのことです。
高松市丸亀町で食べた「かまバター」といううどんの
おいしかったことをふと思いだしたんです。
器にうどんだけをとり、そこにバターをひとかけのせて、
食べました。うまい!
うちのバター入れは、こんなです。
いろんな厚さにただ切って、おさめておきます。
「何g?」と聞かれても、困るけど。

       *

〈お知らせ〉
ことし8月から、毎月1度、高松市丸亀町に通って、
「さぬきの食卓会議」という、不思議なイベントの
案内人をつとめています。
来年1月、新春特別企画として、「琵琶奏者坂田美子(よし こ)ライブ」を
開催します。
高松の地で『平家物語』を聴く貴重な夕べを、ぜひ、ごいっしょに。

2010年1月18日(月)
開場:18:30/ 開演:19:00(21:30終了予定)
料金:5,000円(ワンプレートディナー+ワンドリンク付き)
会場:高松丸亀町壱番街4階エアリーレストラン ルーチェ
お申しこみ:087-822-2203(ルーチェ)
*定員になり次第締め切らせていただきます。

  
 

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2009年12月15日 (火)

終わる

 ことを「はじめる」ときというのは、魅力的だ。わくわくする。
 が、このごろわたしは、「終わる」ことにも、いや、むしろ終わることのほうに、よりときめく。
 なぜだろう。若いころは、終わるなんてこと、とんでもなかった。せつなくて、さびしくて、がっかりだった。好きな「終わり」は、終業式くらいだったな。これが終われば学校は休みだ、夏休みだ、(秋休みはないのか……)、冬休みだ、春休みだ、わーい、とうかれて。
 そうなのだ、そも、一学期が終わらなければ夏休みははじまらず、二学期がおわらなければ冬休みははじまらず、三学期が……。とにかく、終わらなければ、はじまらないのだ。
「終わる」は、新しく生まれかわるため、通らなければならない場所だ。

 ことしも、友人から、彼が勤める会社のカレンダー2つと帖面(DESK DIARY)が届いた。この会社の、動物の親子の写真12枚は、見ていて飽きない。じつにかわいらしく、そうしていのちの力に満ち満ちている。まんなかの子どもと末の子どもは、これをそれぞれの部屋にかけ、1年間眺めて暮らす。
 また、帖面のほうは、毎年、わたしの1年分の仕事の予定、書こうとする原稿の項目や題名、実際に書いたものをつけておく。
 ——おお、きたきた。来年もちゃあんと働きますよ。
 そう声に出して誓いながら帖面を開くと、とびらに何か書いてある。

「今年もおおらかに ほがらかに 笑顔で」

 ——献辞?
 ボールペンの走り書きで、署名の前には笑顔マークまで描いてある。
 うれしかった。この帖面を開くたび、この友人の声援を感じて、わたしはきっと、おおらかさとほがらかをわが胸に置く努力をするだろう。
 この友人というのは、わたしの元の夫で、上ふたりの血を分けた父親である。夫婦別れをしたあと、友だち同士になるのまでには、それなりに時もかかったと思う。が、お互い、一度も恨みごとは云わなかったし、彼のほうは、子どもたちを愉しいひとに育ててくれてありがとう、と、わたしに云いつづけてくれた。
 ——いえいえ、ふたりとも大事なとこ